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  芸術とは、我らが隣人の営為である。作品鑑賞の際に、この前提を失念してはならない。
 若い頃は、常人には及びもつかない天賦の才に恵まれた者だけが、芸術作品を制作できると信じていた。それ故、欠点が目に付くと、どうしても批判的にならざるを得なかった。天才なら完璧なものを作れと。しかし、今でははっきりとわかる。芸術作品の大半は、知性も感性も、一般市民とそう大して変わらぬ者たちが苦労して作り上げているのだと。どうしても意に満たぬ所、技巧の及ばぬ点が現れてしまう。これは、人間の営為である以上、必然的な結果であり、責めるわけにはいかない。むしろ、作品を鑑賞する側が、不足する部分を補完するように努力すべきである。すなわち、芸術作品とは、現実には存在しない完璧なものを目指して、芸術家と鑑賞者が共同作業によって作り上げていくものである。くれぐれも、あら探しばかりする愚かしい批評家くずれに成り下がってはならない。(7月19日)

  「日経サイエンス」に“共感覚”についての面白い論文が載っていた。共感覚とは、「ある図形を目にすると特定の音が聞こえる」などのように、刺激されている感覚器官とは異なる種類の知覚が生じる現象である。臨床心理学的には19世紀から知られていたが、これまで、単なるアソシエーションによるものなのか、それとも、視覚刺激が聴覚野に入力されるといった神経系の“混線”なのか、判然としなかった。この論文の著者らは、実に興味深い実験によって解答を出している。被験者は、“5”という数字が赤く見える共感覚の持ち主である。彼が、例えば、幼少時に赤いペンキで描かれた“5”を毎日見ていたので、“5”を見ると赤のセンセーションが生じるのか、そうではないのか、問診だけでは判明しない。そこで、著者らは、コンピュータ画面にびっしりと“2”と“5”を表示し、被験者に見せた。文字としての“2”と“5”は識別しにくく、通常の人間は両者を見分けるのに苦労する。しかし、この被験者には、“5”だけが赤く浮かび上がって見え、それが三角形なら三角形の形をしていることを瞬時に見て取ったという。表示する文字の色を変えることにより、彼にとって“5”が「本当に」赤く見えていることも判明した。この実験は、錯覚の逆を示すものであり、セットアップそのものが面白い。(7月24日)

  北朝鮮が現時点で核兵器を保有しているかどうかは、安全保障を考える上で重要な問題である。米政府高官の中には、既に数発の原爆を保有していると主張する者もいるが、これは真に受けられない。アメリカは、現在、ミサイル防衛構想を推し進めているものの、開発費が膨大な額に膨れ上がっているため、批判も多い。米本土を攻撃する危険性のほとんどない日本に、その費用の一部を肩代わりしてもらいたいというのが本音であり、そのために、北朝鮮に対する危機感を煽っているのだろう。北朝鮮の技術力からすると、独自に濃縮ウランを生産できるとは考えにくく、ロシアかパキスタンからの技術供与を受けて、プルトニウム爆弾の開発を進めていると推測されるが、それも容易ではあるまい。朝鮮日報の記事によると、昨年末に爆縮を利用した起爆装置の実験を開始したと見られることから、そろそろ実物の製造に着手してもおかしくはないというところだが、それもせいぜい固定式のものであり、ミサイルに搭載可能な小型爆弾の開発は技術的に困難だと思われる。(8月6日)

  自分の目にしている世界が夢と同様の虚構ではないかと考えたことのある人は、少なくないだろう。物理的入力なしにイメージを形成する能力が人間に備わっている以上、ありありとした知覚が得られているという程度では、論拠が薄弱だからである。しかし、知覚は、単にイメージを形成する端緒となるばかりでなく、その検証を行う手段でもあることを忘れてはならない。夢の世界を思い返せば明らかなように、虚構に基づくイメージには、恒常性が欠落している。ある瞬間に物体の姿が見えたとしても、ちょっと視線をはずすと、たちまち形状が変化したり、存在そのものが失われたりする。静止している固体が一定の形を保って存在し続けることは、イメージの世界では自明ではない。継続的に知覚が入力されて、初めて確認される経験知なのである。実際、人間の思考は、きわめて断片的で捉えがたいものであり、恒常的な知覚や身体を利用したフィードバックがなければ、バラバラに壊れていき、統一性を保つことができない。思弁的な思考ともなると、内語を用いて口や舌の筋肉の知覚を変化させることが、論理的な発展を可能にする基盤となっている。われわれが得ている外部世界についての描像が信頼できるのは、単に知覚がリアルであるからではなく、継続的な検証を経ているからである。おそらく、この継続性がなければ、人は、意識を保つことすらできないだろう。(8月10日)

  戒名の値段が高いのは当然だという話をしたい。
 そもそも戒名とは、仏教の教義をマスターした証として授戒の儀式の際にもらうものである。宗派によって若干の違いはあるが、基本的には、僧が名乗る法名と同じである。しかし、仏教の教義はきわめて難解であり、教育の行き届いていない前近代社会においては、一部の特権階級だけしか教典を入手し勉学することができない。これは、実に不平等な事態であり、全ての人が仏法の恩恵に与れるという大乗の精神に反する。そこで、学問的な素養のない人にも仏の教えをマスターしたと認証される機会を与えるべきだとの考えが生まれた。実際、無自覚的に仏法に則った功徳を積むことができるならば、その人は、教典の知識がなくても仏教を修めたと見なしても良いのではないか。これは、妥当な主張のように思えるが、問題は、何を以て功徳とするかである。日常的な行為で判定すると、不定要素が多くなりすぎる。そこで考案されたのが、寺へ寄進した額で功徳の多寡を判定するという“わかりやすい”基準である。これなら、寺側にとっても好都合だし、この金額ならこの程度の功徳に値すると示されると、金を払う方も出しやすい。もちろん、少額の寄進が大きな功徳になるとすると、大悪党でも簡単に入門できてしまうので、金額は、相当に高額でなければならない。かくして、「居士ウン十万円」という戒名の相場が生まれたのである。(8月17日)

  通り魔的な傷害事件の被害者は、単に肉体的に損害を被るだけでなく、損害賠償を受け取れないことが多い。この種の事件の犯人は、社会に対する不満を募らせているのが一般的だが、その要因として、経済的な貧困状態に置かれていることが少なくないからである。そこで提案だが、犯罪被害者救済のための公的な社会保険を導入したらどうだろうか。保険料を原資として、裁判所が認定した賠償金の全額ないし一部(90%以上か)を保険金として支払う。その上で、保険金を支払わされたことに対する求償訴訟を犯人に対して行う。財産の差し押さえなど、さまざまな強制手段を使えるだけに、個人が行う訴訟よりも徴収率は向上するはずである。(9月2日)

  日本は平和な民族に囲まれた国である。われわれは、このことを心の底から感謝しなければならない。かつて琉球王朝として栄えた沖縄は、武器をほとんど有していなかったにもかかわらず、東アジア交易の拠点としての地歩を固めていた。隣の台湾も、本土で革命が起きて漢民族が大量に流入する以前は、武力紛争を起こしたことのない平和な地域だった。朝鮮半島は、外敵に侵入されることが多く、そのたびに戦場となったが、朝鮮民族同士の内乱は、李朝統一以降はあまりない(朝鮮戦争は、中国とアメリカの代理戦争である)。北方のアイヌやクーリルも、もっぱら交易に専念して武力にものを言わせることはなかった。日本と中国(および北方の遊牧民族)が東アジアに血の歴史を生み出したと言っても、過言ではないだろう。(9月21日)

  イラク戦争でアメリカ軍が劣化ウラン弾を使用したことに対して、非難の声が挙がっている。劣化ウランは、核分裂性のウラン235を分離した残りのウランで、ウラン238が主成分となる。密度が大きく、砲弾として用いたときに強大な破壊力を発揮するため、通常の戦闘で使用されることも少なくない。着弾の際に細かな粉塵となって飛散するため、環境汚染を引き起こすとの見方が有力である。ただし、その危険性の程度は、必ずしも明らかではない。
 劣化ウラン弾の危険性を指弾するジャーナリストは、湾岸戦争およびイラク戦争後のイラク周辺で数多くの健康被害が発生していることを指摘する。確かに、小児白血病など、何らかの発ガン物質が関与していることを伺わせるケースがあることは間違いない。しかし、こうした健康被害の原因が劣化ウランの放射能であるとする根拠は、驚くほど乏しい。劣化ウラン自体の放射能レベルは低く、何らかの濃縮作用が働いていると仮定しなければ、放射線障害の発症を説明できないからだ。戦場には、劣化ウランだけではなく、爆発・炎上した建物からの放出物、レーザー誘導弾防止用の煙幕を張るために燃やした原油による燃焼生成物、環境基準などない戦車や戦闘機の排ガスなど、有害物質源が数多くある。アスベストやダイオキシンなど発ガン性を持つ物質の他、重金属など免疫能力を低下させる物質にも疑いの目を向けなければならない。また、医薬品が兵士に対して優先的に使用され、一般市民の受ける医療水準が低下したことも、戦後に表面化した健康被害の要因となり得る。現時点では、調査・研究を進めていく必要がある。(10月1日)

  白血病に罹った夫の精子を凍結保存しておき、死後に人工授精によって妊娠・出産した女性が、夫の子供として認知するように求めた裁判で、「夫の死後300日以上を経て産まれた子は夫のものと認めない」とする現行規定に基づき、請求を棄却する判決が出された。凍結精子による人工授精は、既に50年以上前から行われている一般的な医療だが、日本では、法的な夫婦間でしか実施が認められていない。夫の死後に授精した今回のケースは、このルールを破るものであり、法的な保護は認められないというわけである。生物学的には死んだ夫の子であることが確実であるにもかかわらず、法的に認知できないとは、奇妙な事態とも感じられるが、認知とは、生物学ではなく社会的合意に立脚すべきだとの主張は、それなりに合理的であり、裁判所の決定に賛同できる。この見解は、男性に無断で精子を採取して妊娠した場合にも適用されるだろう。(11月12日)

  コンビニやディスカウントストアで医薬品を販売できるようにするべきか、議論が続いている。重大な副作用があり誤用によるリスクが大きい医薬品に関しては、薬局・薬店でしか購入できないようにするのが好ましい。しかし、消化剤や解熱剤など、使用法に関して国民の理解が進んでいるものは、医薬部外品と同様に、一般店舗で扱ってもかまわないとの見解も根強い。確かに、深夜のコンビニで風邪気味のドライバーが抗ヒスタミン剤を含有する感冒薬を購入するような場合、事故の引き金になると心配する人もいるだろう。しかし、だからといって、突然の発熱に苦しむ患者に対して、朝まで待つべきだと強弁するのもおかしいような気がする。薬ごとにランク付けを行い、必要な注意書きを──塩素系洗剤の「混ぜるな危険」のように──誰もが気がつくように明記するといった方法を採用するのが適当だろう。(12月1日)

  日本の宇宙開発が危機に瀕している。気象観測衛星の故障、H2Aロケット打ち上げ失敗、火星探査機の制御不能と、技術力のなさを示す事例が相次ぎ、莫大な投資があえなく消えていった。70〜80年代、“made in Japan”製品は、品質の高さと価格の安さで世界マーケットを席巻したが、ここにきて、従業員のモラル低下が進行し、技術分野でかつての輝きが失われたという見方もある。宇宙開発の失敗は、その顕著な現れなのかもしれない。
 ただし、私は、そもそも宇宙開発自体が、日本人の国民性に適していないのではないかと考える。工業製品における品質の高さは、自社内の生産ラインで少しずつ改善を積み重ねることによって実現された。抜きん出た才能の持ち主がいなくても、従業員の1人ひとりが品質向上に真剣に努力し続けた結果である。QC運動の効果も大きい。これに対して、ロケットや人工衛星は、数多くのメーカーが製作した部品を組み立てていかねばならず、全体を見渡した緻密な設計と、最もリスキーな部分にリソースを集約する効率的なプロジェクト・マネジメントが必要となる。こうした作業を実行できるのは、きわめて限られた逸材だけであり、この種の人的資源こそ、以前から日本で最も不足しているものである。(12月8日)

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©Nobuo YOSHIDA