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  小中学校の学習内容を約3割も削減するという新しい指導要領は、日本の教育を崩壊させる元凶になりかねない代物である。授業に付いていけない生徒が過半を占める現状を打開するために、必ず教えなければならない必須項目を縮小するという趣旨自体は悪くない。問題は、それを実現するために、教科書の記述そのものを“最低ライン”まで削減することである。分厚い教科書の中で関心が持てる項目を選んで勉強していくのなら、充分にゆとりも生まれよう。しかし、要点だけをまとめた短文の羅列を見せられて、何かがわかるとも思えない。特に自然科学の分野では、学問の出発点となるべき帰納的思考が疎かにされる畏れがある。観察・実験を積み重ねていくことによって、世界には厳然たる法則性があることを見いだす──それが、初等教育では、最も重要な作業である。この段階をクリアして、初めて公式などを暗記することの意義が体得されるのだ。新指導要領が実施される2002年度は、日本の科学教育にとって暗黒時代の始まりになるかもしれない。(4月4日)

  これまで生物学の花形といえば、遺伝子やタンパク質を扱う分野だったが、最近、糖を対象とする生物学(glycobiology)への関心が高まってきた。これは、糖鎖を変化させることによって医薬品の効き方をコントロールできるため、製薬業界が多くの予算を割いて研究開発に当たるようになったせいでもある。主役から脇役へというこうした眼差しの変化は、歴史学に見られた方法論の変化を思い起こさせる。かつて歴史学の根幹をなしていたのは、歴代王朝など支配者に関する記述だった。実際、王侯貴族と農民を比較した場合、1国の動静に与える影響力は、前者の方が遥かに大きい。しかし、農民の生活にかかわるさまざまなファクター──例えば、農業における労働生産性、産品の流通・販売の経路、住民の移動や文化的交流の多寡など──は、支配階級の行動異常に、社会の発展消長を左右する。支配の構造が重要なことに変わりはないが、学問的記述の中で農民(およびその他の一般市民)の占める割合が大きくなってくるのは、必然的な成り行きである。(4月10日)

  医療事故が後を絶たない。投薬量の誤りから患者の取り違えまで、さまざまなミスが報告されている。ただし、医療現場が無謬であり得ないことは、関係者の間では良く知られており、これまで闇に葬られてきたケースが表沙汰になっただけだという冷めた見方もある。実際、インフォームド・コンセントの考えが輸入され、病状や予後について患者・家族に説明することが一般化したため、何も知らない素人に「最善を尽くしたのですが…」と強弁できなくなったことは確かである。また、舌足らずの説明を受けた患者は、治る見込みがあったにもかかわらず病状が悪化した場合、たとえ予想範囲内の帰結だったとしても、医者側にミスがあったのではと疑ってしまうだろう。もともと命にかかわる作業を日々繰り返しており、ある確率で致命的なミスが生じることは避けがたい仕事であるだけに、情報公開が進むほど、医療事故として非難されるケースが増えてくるのは当然である。こうした傾向は、ディスカバリの動きが本格化し始めた中での過渡期的現象であり、市民の不信感も過度に煽られているきらいがある。将来的には、ミスの程度を判定する専門機関を設置し、そこが算出した賠償額を病院が加入している保険から拠出できるようにシステムを整備していくことが望ましい。(4月22日)

  人型ロボットの開発において、日本は他国を寄せ付けない水準にある。2足歩行する“ヒューマノイド”を製作することは、人間にできない作業を担当する補助的機械としてロボットを位置づけるアメリカ流の発想からすると、工学的に無意味な冒険と一蹴されかねない。しかし、鉄腕アトムなどの人型ロボットが活躍するマンガやアニメに馴染んできた50歳以下の日本人技術者にとって、その製作は、子供時代からの夢の実現であり、たとえ実利が乏しくてもチャレンジする価値のあるプロジェクトである。実際、本田技研で人型ロボットASIMOの開発を担当した技術者は、上司から「鉄腕アトムを作ってくれ」と言われて任に就いたそうだ。ASIMOは、歩行能力に関しては、類人猿を凌駕し人間の幼児に匹敵する。指の動きが未熟なこともあって、老人・障害者の介護といった高度な業務を遂行するのはまだ無理だが、イベントなどで人気を集めるのは確実である。ペイバックが難しいために欧米のメーカーが開発に二の足を踏んでいる中、こうした夢のある技術を日本企業が手がけることは、実に誇らしい。(4月24日)

  小泉新総理による組閣が行われ、従来の自民党政権とは異色の内閣が誕生した。いくつかの観点から、内閣を採点してみよう。
  1. 派閥政治は打破できたか……90点。これまで入閣と言えば、当選を重ねたことへの論功行賞的な色彩が濃く、当選回数7回以上の議員を派閥の長がリストアップして内閣に送り込むのが一般的だった。このため、大臣に指名されながら、「私はこの分野に疎いので事務次官にお任せします」と発言して失笑を買ったケースもある。これに対し、今回の閣僚は、ほとんど小泉氏本人が一本釣りで決定したもので、盟友であるはずの山崎派トップですら、決定した閣僚名簿を見て呆然としていたという。ましてや、総裁選で恩を売って重要なポストを占めようと画策した亀井派からは、わずか一人しか入閣させておらず、派閥政治を打破しようとする小泉首相の意気込みが伺える。
  2. 女性・民間人の登用はあったか……80点。女性5人、民間人3人の入閣は、これまでの最多であり、一応、公約は果たした形になった。女性進出が著しいと言われるアメリカでも、重要ポストに占める女性の割合は30%程度であり、数字の上だけなら先進国に並んだと言える。ただし、女性の新大臣には官僚出身者が多く、比較的扱いやすい人材をピックアップしたという気がしないでもない。
  3. 適材適所となったか……65点。一本釣りで選んだ割には、首を傾げたくなる人選もある。最も重要な財務大臣に調整役としての能力しか期待できない長老の塩川氏、外務大臣に口だけは達者だが政治のビジョンに欠ける田中氏を選んだのは、いかがなものか。ただし、竹中慶大教授の入閣は、一応は期待できる。
  4. 人心刷新はなったか……70点。再任者が多いものの、前内閣でそこそこの業績を上げた人(柳沢氏・川口氏など)が中心なので、問題は少ない。ただし、改革を訴えた若手議員からは石原氏一人しか選ばれず、平均年齢も60歳を越えて目新しさに欠ける。40歳代の閣僚をせめて5人は選んでほしかった。
(4月28日)

  日本経済の衰退が著しい。国際競争力は20位台の後半、ITの普及度も統計では20位前後となる。もしかしたら、世界第2位の経済大国と思えたのは一瞬の幻で、間もなく“定位置”に戻るのかもしれない。
 そもそも日本が発展したのは、維新と敗戦という外圧に由来する構造改革が奏功し、無能で権力欲の強いヘッドをリストラすることができたからである。いずれのケースでも、30代の若手が発展の原動力となったが、それは彼らがきわめて有能だったからではなく、むしろ、ヘッドが飛ばされ結果的に前面に押し出されるという状況下で、アジア人的な生真面目さを発揮したからに他ならない。実際、明治期には西欧列強に追いつこうとし、敗戦後は経済の建て直しを図ろうとして、日本人は、異様なほど懸命に働いた。その結果、日本は欧米と匹敵するほど強大になったが、それまで数十年にわたって馬車馬のように働き続けた世代が組織のヘッドに就くと、今度は、やはりアジア的な封建性と権力欲をあらわにし、老害として社会をダメにしていく。近代日本の2度の浮沈は、アジア的メンタリティに外部からの介入が絡み合って起きた歴史的エピソードと解釈すべきである。したがって、3度目の浮上を実現するためには、組織のヘッドに居座っている老人たちを一掃しなければならない。バブル崩壊とインターネットの普及が一種の外圧として作用すれば、それも強ち不可能とは言えないだろう。しかし、現実には、リストラを進めていると口にする企業の多くは、責任を取るべき経営陣を入れ替えずに、優良資産であるはずの社員(特に技術者)を解雇するという無茶が平然と行われている。これでは、2度あることは3度──となりそうにない。(5月13日)

  国内初の代理出産が行われたという。子宮切除手術を受けて出産が困難になった女性に代わり妹が子宮を提供、夫婦による体外受精卵を移植して誕生にこぎ着けた。治療を行った諏訪マタニティクリニック院長の話によると、夫婦と妻の妹の3人が強く代理出産を希望したため、医療に携わる者の当然の行為として手がけたという。すでに同様の試みを5例で行ったが、3例では着床せず、1例は流産し、今回が初の成功例となった。
 代理母出産に関しては、アメリカで数多く実施されているものの、日本産婦人科学会が基本的に反対の方針を示しており、国内では事実上解禁されていない。大きな問題として、安全性に対する危惧が指摘されている。妊娠は、排卵から受精・着床に到るまで、微妙なホルモン調節の下で行われている。ホルモン分泌のバランスを無視して代理母の子宮に移植したとき、母胎が正常に応答するか、その際のストレスが受精卵に悪影響を与えないか、免疫反応の不都合はないか──などの点で疑問が残る。さらに、倫理的な問題や法整備の遅れも指摘しなければならない。代理母が妊娠中にアルコールを多飲して障害児が産まれた場合、あるいは、“自分の腹を痛めた”子供に愛着が湧いて依頼者への引き渡しを拒んだ場合、どのように対処すべきなのか。想定されるトラブルについて、あらかじめ充分に考察しておく必要がある。将来的には、妊娠による肉体的負担を嫌がる女性が、貧困層の女性の子宮を金で借りるといった事態が起こることも予想されるので、どこまでが許されるのか、貸し腹の料金はいくらに設定すべきかについても、議論を煮詰めておかねばならない。(5月20日)

  21世紀半ばまでに予想される中国の超大国化を考えるとき、台湾問題が不吉な影を落としていることは否めない。中国政府は、今なお台湾を独立国家とは認めておらず、台湾と国交を開こうとする国に対して厳しい態度で臨んでいる。さりとて、軍事的侵攻が近いことを示す徴候はなく、力をもって従属させる意図は(今のところ)ないようだ。歴史的に見ても、漢民族が海で隔てられる地域へ版図を拡大しようとしたケースは稀であり、台湾を巡って戦端が開かれる蓋然性は小さい。現在、台湾はマザーボードなどのハイテク製品の分野で独自のニッチを獲得しているが、どちらかと言えば、優秀な人材を活用する知的な商業国であり、マンパワー以外の資源は乏しい。軍事的侵略は鉱物や水などの資源を求めて行われることが多く、強権的支配の下で人材は単なる重荷になりやすい。したがって、中国にとって台湾は食指を動かされる対象とは考えにくく、現在の強硬な態度は、中国共産党のメンツを潰されまいとする配慮からだと推測される。(5月29日)

  東京地裁で、標語の著作権に関する新しい判例が示された。
 訴えていたのは、都内在住の男性で、全国交通安全キャンペーンで優秀賞を受賞した「ボク安心、ママの膝よりチャイルドシート」という自作の標語が、損保協会によって盗用されたとして、5000万円の損害賠償を請求していた。裁判長は、電通が作成し損保協会が採用した「ママの胸よりチャイルドシート」という標語について、男性のものと実質的に同一でないとして請求を斥けたが、「男性の標語はありふれていて著作物とは言えない」という損保協会の主張に対して、「ボク−ママの語がほのぼのとした情景を描いている」として著作権を認めた。
 この判決は、おおむね妥当なものと考えられる。ジョークやキャッチフレーズのような短い文言に著作権があるか一概に言えないが、凡庸でない創作性が認められる場合には、著作物と見なして法律で保護すべきだろう。これは、短いといっても、俳句や川柳に著作権があるのと同様である。ただし、短い文言であるため、元の作品にアクセスしなくても、偶然に類似作品が出来てしまうことがある。したがって、著作権侵害が認定されるためには、創作的な部分に関して相当の類似性がなければならない。今回のケースでは、「母親が抱いているよりもチャイルドシートの方が安全だ」というデータは前提としてあらかじめ与えられており、その内容をアピールするフレーズの作成にどこまで創意工夫を凝らしたかが論点となる。男性の標語では、幼児を膝に乗せている情景が想定され、そこから「ボク−ママ」という家庭的な対句を引き出しているが、電通のものは、母親に抱かれる乳児の姿を描いており、基本的なイメージが異なっている。それゆえ、創作的な部分で類似性がないとした裁判官の判断は適切であり、著作権問題を議論する際のポイントを明示した判決となった。(5月31日)

  絵画が美術作品としてでなく投機の対象とされたとき、市場価格は異常な乱高下を示し、さまざまな悲喜劇が生まれる。1980年代から90年代における日本の絵画投資家が見せた派手な活躍/愚行の数々は、美術マーケット史における教訓的エピソードとして長く語られるだろう。以下、瀬木慎一氏の著書(『西洋名画の値段』(新潮選書))から例を挙げていきたい。
 1987年、ミナミ無線電機の経営者が220万ドルで購入したダリの「テトゥアンの戦い」は、94年に200万ドルで転売された。同じ作者による「ビーナスの夢」は、大阪市立美術館が6億7800万円で購入したものの、美術館自体、いまだ開館の目処すら立たない。クレーの「フィオルディリージに扮した歌姫L」は、1987年に379万ドルで日本人に購入されたが、10年後には240万ドルでニューヨークのセールに掛けられた。モンドリアンの「隅に赤のある四角形の構成」を1986年に460万ドルで買ったギャラリー・アーバンは、1991年に倒産する。ピカソの傑作「ピエレットの婚礼」は、1989年に当時オークション最高価格の71億6100万円で日本オートポリスの所有となったが、同社が倒産した後、現在は海外に流出してクリスティーズの管理下に置かれている。同じ作者の「鏡」は1989年に2400万ドルで絵画投資家に落札され、1995年に1860万ドルで海外に売られた。シャガールの「町の上に」は、1990年に900万ドル超で日本人に買われたが、今ではヨーロッパの収集家の手に落ちている。日本人が特に好む印象派の場合、事態はほとんどファースである。大昭和製紙の斉藤了英氏が史上最高値の7500万ドルで購入した「医師ガシェの肖像」は、現在所有者不明である上、ナチスの略奪美術品だったことが判明して揉めている。同氏が7100万ドルで買った「ムーラン・ド・ラ・ギャレット」は、1997年に50億円近く値下がりして海外に売られた。(6月10日)

  大阪で包丁を持った男が小学校に乱入し、生徒8人を刺殺、20人近くに重軽傷を負わせるという凶悪事件が起きた。当初、犯人が精神分裂病で入院した病歴があったことから、心神喪失状態での犯行ではないかと推測され、報道に際して氏名を伏せるテレビ局もあった。しかし、その後の捜査を通じて、これが周到に準備された計画的犯行であることが明らかになる。
 実は、事件直後の時点で、精神病による発作的犯行ではないことを窺わせる状況証拠が少なからずあった。例えば、犯人は、現場の小学校まで車を運転してきているが、これは相当の判断力を要する行為であり、心神喪失状態の分裂病患者には困難である。あらかじめ包丁を購入し、その空き箱を自動車に残していったことも、ロジカルな計画性を示す。逮捕後の犯人の映像にも、妄想に駆り立てられた人間にありがちな怯えた様子は見られなかった。
 そもそも分裂病の特徴は、ロジックの崩壊にある。日常生活は──飢えてもいないのに、なぜ食事をするかといった点で──明確なロジックに裏打ちされており、無意識に行う日常的行動は、きわめて論理的である。その背後には、当然のことながら、膨大な知的活動が存在する。分裂病は、こうして知的に構成されたロジックを崩壊させる。通常は顧慮する必要がないとして直ちに捨てられる一瞬の想念も、ロジックを失った分裂病の頭では、排除する根拠が見つけられずに保持され、妄想として行動を支配する。分裂病患者に責任能力がないと見なされるのは、ロジックに基づいて自己の行動を律することができないからである。ところが、今回の犯人は、事前に立てた計画に基づいて行動しており、たとえ異常なほど凶悪ではあっても、ロジックは失われていない。こうした点からして、この犯行を「精神病に起因する逸脱行動」と見なすことはできない。(6月13日)

  富山大学に続いて山形大や金沢大でも入試の合否ミスが見つかり、ちょっとした騒ぎになっている。現在、多くの大学で合否判定にコンピュータを利用しており、センター試験を含めたさまざまなテストの得点に適当な重みをつけて集計、上位から一定人数を合格としている。当然のことながら、この重み付けのプログラムにミスがあると、ボーダーライン上の受験生で合否判定が狂うことになる。金沢大の場合、従来は物理学科と化学科で集計方法が異なっていたのを改め、97年度から物理・化学加点方式に統合することになっていた。ところが、化学科で誤って旧方式(物理・化学のうち高得点の方を2倍する)で採点するプログラムを使用してしまったという。単純ミスである上、合否判定の方法として各学科の裁量に任しても良い範囲なので、それほど重大な問題とは言えないが、これで不合格になった人にとっては、人生を左右される出来事である。
 なぜ大学がこうしたヘマをするかは、容易に想像できる。大学教官にとって、自身の出世に直接かかわる業績となるのは、何よりも学術研究の成果であり、次いで教育活動となる。入学試験は、問題作成にしても採点にしても、とても引き合わない僅かな手当だけで押しつけられる“詰まらない”仕事でしかない。「優秀な学生を選抜するという目標があるではないか」と思われるかもしれないが、卒業後に助手として研究を手伝わせるにせよ、有力者となった暁に便宜を図ってもらうにせよ、大学にとってありがたい存在となるのは、学生全体の1割程度にすぎない。こうした逸材は、選抜方法に腐心するまでもなく、まともな入試問題を用意するだけで楽々と合格してくる。学生の質を確保する上で有効なのは、大学の評価を高めて受験生の質を向上させることと、合格したのに他大学に逃げる割合を減らすことであり、ボーダーライン上をさまよう人を苦労して選り分ける必要などないのである。かくして、大学入試には、常にある種の杜撰さがつきまとう結果となる。(6月22日)

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©Nobuo YOSHIDA