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  小渕首相が脳梗塞で倒れ、緊急入院した。生命も危ぶまれる容態だという。この問題に関しては、政府の危機管理体制、要人の健康状態のチェックなど、さまざまな視点から議論が可能だが、ここでは、医学的情報の公表のしかたとその受け取り方について考えてみたい。
 首相が入院したという情報は、すぐには公にされず、入院後十数時間経ってから、「意識ははっきりしている」「病名は不明」と断片的な内容がマスコミに伝えられた。重篤な脳梗塞だということが明らかにされたのは、丸一日が経過してからである。首相の急病という重大な情報が即座に公開されなかった点は、昔ながらの密室政治のやり方であり、民主国家には相応しくない。入院した段階では軽い脳の不調と思われたせいもあるが、昏睡状態に陥ってからほぼ半日にわたって国民がつんぼ桟敷に置かれていたわけで、この間にクーデターや周辺有事が勃発した場合、適切な対応ができなかったと思われる。
 ただし、国民が首相の病状に全く気がつかなかったかというと、そうではあるまい。医学的知識がある者は、手術の予定がないにもかかわらずICUに搬送されたという一報を聞いて、心臓か脳の重い発作だと見当をつけただろう。この方面に疎い人でも、深夜に緊急記者会見が開かれながら、肝心の病状についてほとんど何も語られないことから、事態の重大さに思い至ったに相違あるまい。病気はプライバシーに属することとは言うものの、首相のような要人の容態が病院関係者からいっさい発表されなかったというのも奇妙なことだが、その理由も想像がつく。応対した医師団は小渕首相の病状がきわめて深刻で、たとえ助かったとしても職務復帰までにはかなり時間が掛かることを認識していたはずだ。しかし、そのことを公表すると、一時的にせよ政局が著しく混乱する。そこで、おそらく幹事長や官房長官らが鳩首相談し、後任が内定するまでは病状を伏せるべきだとの結論に達したのだろう。医師が記者の前に現れると、ついつい本当のことを口にしてしまうので、会見は、面の皮の厚い政治家が担当することになったと推察される。これも密室政治の遣り口だが、底が割れているだけに、罪は軽いのかもしれない。(4月3日)

  ソニーのプレステ2に対抗する戦略的商品としてマイクロソフトが開発を進めているX−BOXに注目が集まっている。次世代情報機器の中核として携帯電話とともに重要な地位を占めると予想されるのが、ネットワーク機能を備えた家庭用ゲーム機であり、その中でも、異様なまでのハイスペックを誇るプレイステーション2が一人勝ちするとの見方が強い。このままでは居間をソニーに占拠されてしまうと危機感を募らせたビル・ゲーツが、檄を飛ばして開発を押し進めているのがX−BOXである。リキが入っていない訳がない。しかし、ゲーム機の分野はパソコンOSとビジネス形態が基本的に異なっており、マイクロソフトのこれまでの方法論は通用しない。そもそも、ハードウェアは赤字を出しながらも安く販売し、ゲームソフトを提供するソフト会社からのライセンス料で儲けるというシステムが、他のソフト会社の恨みを一身に集めているマイクロソフトに可能かが問題だ。当面は、技術を持った既存企業の資産を取り込もうとしているが、スクウェアの買収、ナムコとの合弁会社の設立、セガや任天堂との提携など、いずれもうまく進んでいない。ほころびの見え始めたウィンドウズ帝国の修復と併せて、マイクロソフトにとっては、これからが正念場だろう。(4月22日)

  思考実験が科学的論考に占める地位は、必ずしも確定したものではない。思考実験のセットアップは、理論に特殊な境界条件を設定することに相当する。通常の論理学的な発想に従えば、これは、特殊命題を導出するための手続きであり、一般的命題の否定には使えるが、命題を主張するための論拠にはならないはずである。ところが、科学史の事例を見ると、思考実験の結果を敷衍して一般的な結論を引き出すという論法が随所に見られる。これでは、科学的議論として妥当なものかという疑問が生じるのは、当然だろう。
 ここで注意しなければならないのは、思考実験と呼ばれるものの多様性である。理論が数学的に完全に定式化されている場合、これは、いくつかの対称性や境界条件の付加を意味する。例えば、流体力学で、無限遠で一様になるような完全流体に球状の物体を置いたとき、どのような力が作用するかを考えることは、具体性はあるものの、実質的には数学の演習問題にすぎない。このとき、付加した条件がどこまで一般性を損なうかによって、導かれる結論の一般的妥当性が左右される(「練習問題を2題解いて成り立つことは、一般に成り立つことだ」という“ファインマンの定理”は、まさに名言である)。
 理論の定式化が不完全で、その適用の仕方に任意性が残されている場合、思考実験は対立仮説の優劣を決する手段となり得る。ガリレオが「重い物体ほど早く落ちる」というアリストテレスの主張を反駁するのに用いた思考実験(異なる質量の物体を紐で結びつけて落とす)は、まさにそのようなものである。ボーアとアインシュタインの論争に援用された光子箱のケースはいささか微妙であるが、このカテゴリーに入れてもかまわないだろう。当時、位置と運動量の不確定性関係については演繹的な議論がなされていたが、時間とエネルギーの関係には曖昧さが残されていた。ボーアは、スリットと光子を用いた装置で不確定性の由来を説明しようとしたが、アインシュタインは、光子発生器とスリットを一体にした孤立系を考えることによって、ボーアの論法の誤りを的確に示したのである。これは、量子力学そのものに対する批判にはならないが、その安易な一般化を戒める主張として有意義なものである。(4月28日)

  小渕前首相が脳梗塞で緊急入院してから1ヶ月以上経つが、いまだに病状が正式に発表されていない。ニュースソースのはっきりしない“噂”によると、容態はかなり悪く、回復は絶望的なようだが、あまりに情報が乏しく、何もコメントできないのが現状である。一般に、病気の情報は個人のプライバシーに関わることなので、公表すべきではない。しかし、事が一国の総理の話となると別である。これを機に、政府要人の健康情報は医師が医学的知見に基づいて発表するという体制を整備してほしい。
 今回のケースが悪しき前例になりかねないというのは、次のような事態が想定されるからである。日本でクーデターが勃発、首相ら政府要人が拉致されて消息不明になった場合、通常は緊急事態として残された大臣らが対応することも可能である。ところが、クーデターの張本人が、一部政治家と結託して「小渕首相の前例に倣い、役員で話し合って私が首相代行を務めることになった」と発表すれば、合法的に政権を奪取できてしまう。ナチスや日本軍部の例からもわかるように、たとえファシスト政権であっても、合法的な手続きが重んじられたことを思い出していただきたい。彼らに手段を与えることは、平時であっても危惧すべきである。(5月12日)
(【追記】小渕前首相は、5月14日に死去した)

  人生の喜びは、どんな瞬間に訪れるのだろうか。対人関係の中に喜びを見いだす人が多いのだろうが、私にとっては、芸術作品がその契機となる。あるロジックに則って展開しているように思えた作品が、突如その相貌を変じ、予想を遥かに超える世界の奥深さを開示するとき、驚きとともに“人生の喜び”という表現が最適な感情が心を揺り動かす。例えば、フォークナーの『響きと怒り』を読み始め、取りとめのない表面的な描写が続く中で、あたかも啓示のように、それが「白痴の語る物語」であること、そして、マクベスの台詞を介して「響きと怒り(sound and fury)」というタイトルと結びついていることに思い当たった瞬間、悲しみにも似た喜悦が溢れてくる。あるいは、フェリーニの『81/2』のラスト。思うに任せぬ人生に苛立ち、甘い生活に埋もれるしかないのかと諦めかけたまさにそのとき、ほとんど理由もなしに人生は祝祭の場へと一変する。理屈を越えたこの眼差しの転換が、生きることの喜びを実感させる。
 全身が震えるような深い喜びを与えてくれる芸術作品は、あまりに少ない。しかし、常に希望を持って探求を怠らずにいると、思いも掛けない形で珠玉の作品に巡り会うことができる。新宿梁山泊の『人魚伝説』のラストで、水から現れた人々がまた水に還っていくとき、あるいは、大林宣彦の『さびしんぼう』で富田靖子が見送りを拒否して一人立ち去っていくとき、哀切さに胸を掻きむしられると同時に、予想もしない世界の拡がりを見せられたことへの喜びを抑えることができない。私は、これだけの喜びを与えてくれたこの人生に、満足している。(5月24日)

  大学生の学力低下が叫ばれて久しい。国立大学に入学しながら分数の足し算もできないような学生の存在が報告されており、高校レベルの“補習”をしなければ本格的な授業を始められないという。ただし、こうした悲観的なレポート全てを真に受けるべきではない。特に、「ここ数年の間に急激に学力が低下した」などという話は、かなり割り引いて聞く必要がある。
 最近は(昔からか?)、授業に関して学生間で情報交換が盛んに行われており、学習意欲の乏しい生徒は、単位を取りやすい講義に流れる傾向がある。したがって、新しい科目が開講された最初の年度は、単位だけを求める学生が情報不足を理由に敬遠し、新鮮な知識を求めるチャレンジ精神を持った学生が集まってくるため、一般に受講者の質が高くなる。ところが、ここで学生たちの期待に応えるだけの授業を展開できず、毎年変わりばえのない話を繰り返していると、熱心な学生が姿を消し、居眠りしていても単位が取れそうだと虫の良いことを考える学生の割合が増えてくる。自覚のない教官にとって、この現象は、年々学生の質が低下しているように感じられるだろう。しかし、実際には、単に優秀な学生がくだらない授業を敬遠するようになっただけなのである。
 学生の表現力が落ちているという主張も、あまり当てにならない。確かに、レポートを書かせると、起承転結のない誤字だらけのものが目に付く。だが、内容に関して言えば、レポートが詰まらなくなるのは、詰まらない課題を与えた結果であることが多い。以前は、日常生活で得る情報量が少なかったため、ウェーバーやヴィトゲンシュタインの文言を引用して学生を幻惑することもできたが、TVやインターネットが膨大な情報を提供している現在、言葉ばかりが先行して具体的な応用の見えない授業など、学生にとって面白かろうはずもない。興味のない分野のレポートを書かせられると、どうしても気合いが乗らず、内容は希薄で誤字脱字も多くなる。教師は、学生を自分の鏡と思うべきだろう。(6月7日)

  パソコン市では、アパート販売をマイクロソフト不動産がほぼ独占している。古くから営業しているアップル総合開発には、往年の勢いがない。家具の販売は、ネットスケープ寝具店やIBM電気商会が行ってきたが、最近は、マイクロソフト不動産がこの分野に力を入れるようになってきた。「我が社のアパートには、全てベッドが造り付けになっていて、ボタン1つで壁に収納できます」──それは抱き合わせ販売ではないかという批判に対しては、「このベッドはサービスとして無料でお付けしているのです。もしお嫌なら、どうぞ粗大ゴミとして捨てて、ネットスケープ寝具店から新たに買ってください」とのたまう。アパート代金に元々ベッド料金が上乗せされているのではないかと問われると、無料であることの証拠に、以前にマイクロソフト不動産から(ベッドなしの)アパートを購入した顧客には、タダでベッドを差し上げるという。ただし、ベッドの取り付けは素人には簡単にできないため、多くの客は、ベッドの他にサイドテーブルなどが付属したベッドズ98を結構な値段で購入することになるのだが。快適な生活を送るのに欠かせない家電製品についても、マイクロソフト不動産は、壁の隙間にピッタリはまって使い勝手の良いものを別売で提供している。テレビは、これまでジャストシステムTV専門店のものが人気だったが、アパートに取り付けられている壁面テレビ用ターンテーブルにうまく載らないので人気ががた落ちになった。このため、新しくアパートを買う客は、店員に一言頼むだけで配線まで完全に済ませてくれるマイクロソフト不動産製家電セットを購入するのが一般的だ。マイクロソフト不動産は、自社製の大型家具や家電製品の収まりが良くなるように、近々内装を全面的に変更すると言っているが、新発売となるアパートは、かなり値段が高くなるらしい……(6月15日)

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©Nobuo YOSHIDA