【「徒然日記」目次に戻る】



  西暦2000年が、第2ミレニアム最後の年か、第3ミレニアム最初の年かという議論があるようだ。アメリカ政府は、当初、“最後の年”としてイベントを企画していたが、国民の間に新ミレニアムを祝おうという気運が高まり、その動きに同調せざるを得なくなったらしい。一方、ヨーロッパでは、ドイツをはじめいくつかの国が今年を第3ミレニアムの始まりと見なしているものの、地方によって扱いが異なるようだ。
 本来、ミレニアム(千年紀)という呼び方の背後には、キリスト教の千年王国の思想がある。キリスト生誕後1000年間は“人間”の時代であり、その後、キリストが再降臨して“神”の時代になるというものだ。もっとも、文明間の衝突が激しかった第2ミレニアムは、以前にも増して人間的な時代だったので、1000年刻みで支配者が代わるという宗教的主張は、すでに根拠を失っている。それでも、ミレニアムという名称には宗教的な意味合いがあるのだから、やはりバチカンの言い分に耳を傾けるべきであり、ローマ教皇が今年を新たな千年紀の幕開けと認めた以上は、それに従うのが妥当だろう。
 ただし、第3ミレニアムが西暦2000年に始まるのならば、西暦0年がないので第1ミレニアムは999年しかなかったことになる。生誕1000年を期して最後の審判を行おうとしていたイエス・キリストは、千年王国が1年足りずに終わってしまったために再降臨する機会を逸してしまい、その結果、The Doom's Day が消えてしまった……ということもあるまいが。(1月3日)

   科学とは宗教に啓示を与えるものである。最も有能な科学者は、同時に優れた宗教家となり得る。この点が心底納得できなければ、現代科学の真髄を理解したとは言えない。
 科学的知見がわれわれに教えてくれるのは、この宇宙の途轍もない巨大さと、その圧倒的な虚無性である。古代ギリシャでは、太陽ですらその大きさが人々の想像力を越えるものであり、アリスタルコスが推定した恒星までの距離は、荒唐無稽な妄想と笑われた。しかし、18世紀には、太陽は銀河系の辺縁に位置するちっぽけで平凡な天体にすぎないことが明らかにされた。1920年代には、その銀河系も、大宇宙の1つの構成単位であることが知られるようになる。今では、観測可能な半径150億光年の領域に10億以上の銀河が存在し、宇宙の地平線の彼方には、いくつあるか想像もつかないという状況である。しかし、こうした膨大な数の天体に生命が存在できるのは、ビッグバン直後のほんの一瞬にすぎない。ビッグバンから熱死に至るまでを宇宙の一生とすると、その99.9999…と9が数十個並ぶパーセンテージの期間は、エントロピーが高くなりすぎて生命の存在に不適な状態にある。圧倒的な虚無が支配するこの宇宙に法が満ちていることを信じられるかどうかが、宗教の出発点となる。(1月30日)

  現実に基づいてストーリが構成されている小説や映画などの作品には、しばしば、生きている人間をそのまま素材として利用したかのようなリアルなキャラクタが登場する。こうしたキャラクタは、その性格付けの複雑さが予断を許さぬ展開を可能にするという点で、芸術性を高める重要な役割を果たす。だが、ここに誤解が生じることがある。現実に見られるような複雑さ──と言うよりは、むしろとりとめのなさ──を確保しなければ、高度な芸術にはならないという考えである。この誤解は、「性格描写が薄っぺらだ」「人間が描けていない」といった評言として現れる。しかし、実際には、キャラクタの類型化こそが、作品を高度なものにする鍵となることが少なくないのだ。作家は、さまざまなシチュエーションを設定し、そこに明確に造形されたキャラクタを投げ込むことによって、作品世界が展開していく契機を作り出す。ここでキャラクタが類型化されていなければ、鑑賞者は、作家が仕掛けたプロットの本質を理解することはできない。芸術性を高めるのに必要な複雑さとは、プロットを即座に予見させない程度のものであり、それ以上になると、かえって作品干渉の妨げとなる。(2月4日)

  日本のTVアニメは、世界各国に輸出され多くの愛好家を獲得しているにもかかわらず、国内では充分な評価を受けていない。ビデオの保存がきちんとなされているかどうかも不安なありさまだ。私にとってTVアニメ史上最高の作品は、何と言っても『うる星やつら』だが、押井守がはじめて鷹の爪を見せたこの歴史的名作に関しても、各回のタイトルを調べるためのデータベースが見あたらない。文学作品ならばジャンルごとに年譜が早い段階で出版されており、文学史的な調査も比較的容易である。しかし、TV作品となると、大学の研究室でもデータ収集は困難だろう。一部の熱心なマニアが自主的に資料を集め、ひっそりと記録にとどめているだけである。さらに、動画制作が(必ずしも日本だけではない)下請けに回されたり、才能ある若者がノークレジットで働いている(宮崎駿にすらそうした経歴がある)という現状を考えると、断片的な資料だけでどこまで歴史的正確さが保てるか、何ともおぼつかない。現時点では、まだアニメ創生期のスタッフも多く生存しているので、コネクションのある人が力を合わせれば、資料を集めることも可能になるかもしれない。(2月6日)

  京都の小学生殺人事件は、被疑者の自殺という衝撃的な形で幕を閉じることになった。警察は、かなり早い段階から、犯人に擬せられた21歳の男に注目していたようで、決定的な証拠が見つけられないでいるうちにマスコミに嗅ぎ付けられ、やや拙速の形で任意同行を求めたところ、事情聴取の途中で逃走されてしまったらしい。新聞やTVなどでは「最悪の結末」と評し、警察の失態をなじる論調が目に付くが、私としては、あまり警察を批判する気にはなれない。そもそも、解決が困難とされる通り魔的事件において、現場に残された物証を丹念に洗い、自転車を購入する際に住所を流用されたレンタルビデオ店の会員の中から容疑者を割り出した地道な捜査は、称賛に値するものである。最後の詰めの段階で、容疑者を公園に連れ出して聴取するというまずいやり方をしたことは、責められても仕方ないものの、そこに至る過程での失点はあまりない。評論家の中には、犯人の自殺によって動機が不明になったことを糾弾する者もいるが、精神的に行き詰まった青年が弱者に暴力を振るうのは、それほど珍しくもなく、犯行以前の状況から動機を予測することは充分に可能である。ここは、警察の労をねぎらうべきであろう。(2月8日)

  石油化学コンビナートは、石油を原材料とする製品の工場を一ヶ所に集め、さまざまな加工段階にある素材を工場間でやり取りすることによって、多様な最終製品を生み出せるようにしたシステムである。形式的にこれと類似したシステムとして、今後発展していくと予想されるのが、「情報コンビナート」である。今は、インターネットには、膨大な情報が垂れ流しにされており、ユーザがアクセスしても、その情報が信頼できるものか、内容に誤りがないかが判断できない。そこで必要になるのが、ナマの情報を収集・選別・加工する組織である。現在でも、一部の企業や大学が情報の収集・整理を行っているが、ごく限られた分野を扱うのが精一杯で、これから予想される情報の爆発的な増大に対応すべくもない。新たな部署を設立したとしても、単独で全ての情報を扱うのは困難である。そこで、特定の情報の加工に特化した数多くの組織が、互いに“製品”を供給しあいながら、エンドユーザがアクセスする最終形態にまで練り上げていくようにするのが、合理的だろう。この場合、利用窓口をインターネット上にオープンすると、重要度の低い仕事まで依頼されてしまう危険があるため、信用できる組織同士が密に連絡を取り合って、あたかも縦横に張り巡らされたパイプラインに石油製品が流れていくように、部分的に加工された情報が専用のネット上で送られることになる。こうした状況は、まさに「情報コンビナート」と呼ぶに相応しい。例えば、消費動向に関する生データを収集する組織、統計的分析を行う組織、可視化する組織、金融活動との相関を調べる組織などが協力しあうことにより、きわめて高度な情報が提供できるようになるだろう。(2月13日)

  元小結の板井が外国特派員相手に八百長告発をしたことで、角界が大きく揺れている。日本大相撲協会は、事実無根を主張し訴訟も辞さない構えだが、一部週刊誌が板井を応援していることもあって、事態は相当に紛糾している。大相撲で八百長が行われているのではないかという疑惑は、以前から囁かれていたが、所謂相撲通の人たちは、きっぱり否定する。これは、相撲の世界が昔ながらのタテ社会で、番付一枚違うだけで給料のみならず待遇そのものが大きく変わることを考えれば、当然の見方である。単純にファイトマネーだけを受け取って試合をするプロの格闘選手ならば、高額の現金を提示されれば八百長に応じるかもしれない。しかし、相撲の場合、自分の番付を下げてまでワザと負けてやろうと決心するには、生半可な金額では足りないはずだ。しかも、15日間の日替わりマッチなので、(一番一番に賭が張られていない限り)有効な八百長を行うには数人以上の相手と交渉しなければならない。そうなると、どうしても噂が外部に漏れやすくなり、稽古場でも尊敬を集めなくなる。こうした障害を承知で、なお八百長を常習的に行う力士がいるとは考えにくい。
 ただし、各力士にはタニマチがいるので、自分が贔屓にしている関取の調子が悪いときに、対戦相手に力を抜くようにと頼む人も現れるかもしれない。中には、小遣い程度の金に目が眩んで、無気力相撲を演じる力士も現れるだろう(板井本人も、この流れで八百長をしたらしい)。だが、こうしたケースは、あるとしてもきわめて例外的で、相撲好きの人が見れば、やけに気の抜けた奇妙な一番に思えるはずだ。海外場所や花相撲での演技が分かるほどの愛好家ならば、そうそう騙されることもないだろう。(2月20日)

  橋本聖子議員の妊娠に伴い、国会議員にも産休を認めるべきだという意見が出されている。マスコミの論調は概ね好意的なようだが、私は賛同できない。確かに、女性の社会進出を促進するために、産休や子育て休暇などの制度を充実させる必要があることは、論を待たない。ただし、それはあくまで、職業として恒常的に従事する仕事についてである。国会議員は、任期が数年間に区切られた国民の代表であり、定職として働いているのではない。国連代表などと同様に、任期期間中は身を粉にして務めを果たすというのが、代表たる者の使命である。数年間子供作りをガマンしろというのは、それほど酷な要求ではあるまい。逆に、個人的な理由で、国民が選挙を通じて付託した義務を果たさないのは、あまりに自分勝手ではないだろうか。(3月19日)

  東京には、素敵な町名が少なくない。霞ヶ関、三軒茶屋、高田馬場、門前仲町などは、江戸時代の光景を彷彿とする。都心には、こうした由緒正しい地名がまだかなり残っているが、地区割り行政を簡単に済ませたいという無粋な役所のせいで、歴史を感じさせる名前が数多く消失してしまったことは、実に嘆かわしい。原宿は、古くからの町名だったが、若者の人気を集める以前に(原っぱの宿屋ではダサイということか)あっさりと神宮前に変えられ、いまでは駅名によすがを偲ぶばかりである。歴史ある地名には難読のものがあり、狸穴町、等々力、小日向など、地方からの旅行者を惑わせてきたが、逆に、この難しさが町の風情になると考えてほしい。箪笥町や麻布十番のように、町名改革の荒波をかいくぐってきた街は、何と生き生きとしていることか。千代田区には、三番町、四番町の次が六番町だったり、2つの紺屋町の間に北乗町物が挟まれていたりと判じ物のような所があって、これがまた粋なのである。(3月26日)

  オルダス・ハクスリーの『すばらしい新世界』は、クローン、バーチャルリアリティ、精神安定剤など、テクノロジーの発展がもたらす倫理的な危機を、驚くべき先見性をもって予言したディストピア小説の傑作だが、その中で、「これは本当に“すばらしい”のではないか」と思えてしまうのが、不老の技術である。小説に描かれる未来社会には、よぼよぼの老人は存在しない。栄養剤と美顔術の力を借りて、人はいつまでも若々しく活動的であり続け、技術が追いつかないほど加齢現象が進むと、枯れ枝が折れるように急逝する。老いによる衰えを畏れ、ポックリ死ぬことを願う現代人から見ると、まさに“すばらしい新世界”である。しかし、ハクスリーは、こうした社会こそ恐ろしいと主張するのである。なぜか。それは、「尊敬されるべき弱者」がいなくなるからである。老人は、肉体的にさまざまな障害を抱え、社会が庇護しなければ豊かな生活を送ることができない。それ故、愚かな若者は、しばしば彼らを厄介者扱いする。心優しい人の中にも、老人を「助けてあげねばならない可哀想な人たち」と感じる者がいる。だが、老人は憐れむべき存在ではない。彼らは、弱者ではあるものの、社会への貢献者として尊敬されなければならないのだ。老人は、社会から介護される権利がある。この権利を認めなければ、社会に貢献しようという意欲は失われ、秩序が失われるのは必定である。もし、技術の力によって尊敬されるべき弱者たる老人がいなくなると、人々は、外見に惑わされずに理性的に判断することが要求され、根元的な社会正義を幼児からの日常体験を通じて学習する機会を喪失する。これが精神の頽落を招くことをハクスリーは喝破したのだ。(3月30日)

【「徒然日記」目次に戻る】



©Nobuo YOSHIDA