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  動物の利他的な行動が進化の過程でいかにして獲得されたかは、生物学において解決されるべき重大な課題となっている。しばしば持ち出されるのが、「利己的な遺伝子」の仮説である。例えば、子供が外敵に襲われたときに、親が身代わりとばかりに捕食者の前に身を投げ出すという行動パターンは、いかにもヒューマニスティックな愛他的行為に見えるが、遺伝子レベルで見ると、子供に受け継がれている遺伝子を残そうという利己的な戦略になっているという。個体の生存確率を低下させたとしても、同じ遺伝子の生存確率を全体として高めるならば、その行動パターンがダーウィン的な選択を通じて獲得されることになる。
 しかし、こうした考え方に対して、批判も提出されている。Science vol.284 に掲載された論文によると、ミーアキャットの見張り行動は、「利己的な遺伝子がもたらした利他的行為」というわけではないようだ。人間の場合、前線に出る見張り役は、常に多大な危険に晒される。見張りは個人レベルでは死亡確率が高くなる不利な行動だが、部隊をより安全な状況に導くという大脳新皮質の判断に従って、敢えて、こうした犠牲的行為が実行されるのである。ミーアキャットの中に背を伸ばして辺りを窺い、捕食者を発見すると鳴き声を上げて仲間に危険を知らせる見張り役がいるのも、これと同様の利他的行動と見なされてきた。こうした行動が獲得されたのは、血縁グループ内部でいずれかの個体を見張りに立てることにより、そこで受け継がれている遺伝子が助かる確率を高めようとした結果だと考えられた。
 ところが、イギリスの研究グループが実地調査をしたところ、この解釈を疑わせるデータが集まってきた。見張り役は必ずしも血縁グループから選ばれているのではなく、各個体がほとんどランダムに立ち上がって見張りを行っているらしい。見張り役がいないときは、いずれかの個体が見張りを始める率が高まるが、通常は餌の状態に応じた行動パターンを示しており、充分に食事をした者から自発的に見張りを行う傾向が見られる。明確な社会的規制はないようで、見張り役のローテーションは見られず、同じ個体が見張りと食事を繰り返したかと思うと、ずっと食事ばかり続けることもある。何よりも、見張り役は決して危険に晒されているわけではない。むしろ、最初に敵を発見するや他に先駆けて巣穴に逃げ込んでいるという。こうした観察データによれば、ミーアキャットの見張り行動は、遺伝子保存のために獲得された利他的行動ではなく、単に食事と見張りの重要性を秤に掛けた結果として生じる利己的行動パターンだと考えられる。
 もっともらしい説明が、必ずしも真実ではないのだ。(7月1日)

  日本の市民文化は、ここ30年間で今が一番輝いているのではないか。不況のせいで日本人は自信喪失状態に陥っているとも言われるが、これは、経済指標を過大評価するマスコミのひが目だろう。80年代後半のいわゆるバブルの時期には、日本文化は軽佻浮薄に流れ、ひどく薄汚れて見えた。しかし、90年代に入ると、旧弊な社会の枠組みが壊れ、市民文化がさまざまなジャンルで活性化してきて、今まさに絶頂期にあるように思われる。
 ここで謂う市民文化とは、教養に武装された知性よりも生活に密着した感性に強く訴えるアート全般を指し、お高くとまった知識人には受けがよくないが、一般市民に圧倒的に評価されるという特徴がある。90年代を代表する日本の市民文化と言えば、まず、アニメ・ゲーム・マンガである。アニメは、欧米でジャパニメーションという(やや蔑称気味の)呼び名の下にオタクたち(OTAKUもANIMEも今や英語として通用する)に支持され、その後、高い芸術性が多くの文化人に評価されるようになった。特に、大友克洋や押井守らは、ほとんど神格化されている。日本発のTVゲームの完成度の高さは、今更説明するまでもないだろうし、マンガも(70年代の少女漫画ブームの頃のような爆発的な“破壊力”は衰えたかもしれないが)表現技法を拡大しながら進化し続けている(岩明均や諸星大二郎のグロテスク芸術の美しさ!)。文学の分野でも、ミステリ(京極夏彦!)、SF、ファンタジーの秀作が次々に発表され、夢野久作や小栗虫太郎が活躍した昭和初期以来の第2の黄金期を迎えていると言っても過言ではない。ヴィジュアル系のバンドや女性ロッカーが活躍しているポピュラー音楽も、欧米に引けを取らない水準にある。
 市民文化は「格が低い」という偏見を持つ評論家がいるかもしれないが、それを言い出すと、シェークスピアやモーツァルトをも貶めることになる。エリザベス朝演劇とは、所詮は、酒場でビールを飲む代わりに芝居でも観るかとやってくる(酒代と入場料がほぼ同じだった)人々を対象とした大衆芝居だし、モーツァルトの音楽も、映画『アマデウス』で描かれたように、猥雑な大衆を相手にするという一面があった(『魔笛』などと訳さないで『魔法の笛』とした方がもともとの雰囲気に合っている)。
 ニュースを見ていると、今の日本は暗い面ばかりが目立つが、逆に、「今こそ日本は輝いている」と胸を張ってみるのも、また違った面が見えて良いのではないだろうか。(8月1日)

  スタンリー・キューブリック監督の遺作となった『アイズ・ワイド・シャット』は、謎に満ちた傑作である。実質的なデビュー作『現金に体を張れ』以来、1作ごとに作風を変え、それぞれのジャンルで頂点を極めてきた監督の作品らしく、『ラスト・タンゴ・イン・パリ』や『愛のコリーダ』などの官能映画の系譜に連なる“遅れてやってきた真打ち”という感がある。それにしても、感想を求められたとき、「さすがキューブリック」としか言いようのない得体の知れなさは何だろうか。タルコフスキーやアンゲロプロスのように特徴的なショットやカメラ回しがある作家の場合には、それを手がかりに作品内部に入り込むことができる。しかし、キューブリックに限っては、その方法が通用しない。カメラワークの流麗さは相変わらずだが、極端な長回しもこれ見よがしのモンタージュもなく、全てが手練(てだれ)の技である。冒頭近くのダンスシーンのように、いかにも煌びやかな映像もあるが、そこで語られる台詞があまりに重いため、画面に見とれる暇もない。この「得体の知れなさ」は、奇怪な館での儀式が描かれるシーンになると、一層際だってくる。単調な音楽は、何か重大なことが行われていると示唆するのだが、それが何であるかは全くわからない。わからないままに、キューブリックに襟首を掴まれて、迷宮を引きずり回されることになる。日常生活の傍らに、死とセックスが支配する反理性の深淵が口を開けている──ような気がするが、それはもしかすると、ごくありきたりな社会の一面なのかもしれない。貞淑な妻が淫らな行為に憧れ、深夜に店の奥で性交に耽るのは、日常なのかもしれない。主人公が見た儀式も、ハイソサイエティの単なる乱交パーティで、彼を助けようとした女性が急死したのは、全くの偶然の出来事かもしれない。しかし、そうでないかもしれない……。こうした謎が全く解き明かされないまま、映画は唐突に終わる。そして、キューブリック自身、永遠の謎を置きみやげに人間世界から立ち去ってしまった。(8月4日)

  先日の全日空ハイジャック犯の氏名は、第1報では多くの新聞に掲載されていたものの、翌日の朝刊からは姿を消していた。犯行中および逮捕後の言動が異常で、精神科への通院歴もあったことから、責任能力の欠如が疑われたからである。
 犯人が精神障害者の場合、なぜ実名報道がされないのか。理由は2つ考えられる。第1に、病状が重く心神喪失で責任能力がないと認められると、刑法の定めによって罪に問われない。無罪の人間を有罪であるかのごとく報道したとなれば、名誉毀損罪が成立する可能性が大きい。第2に、個人の疾病はプライバシーに属するものであり、精神病であると公表された犯人を実名報道することは、結果的にそのプライバシーを侵害することになる。こうした観点から、多くの報道機関は実名を出さないようにするのである。
 しかし、過去の判例を見るとわかるように、精神疾患を理由に無罪の判決が出されるケースは必ずしも多くない。特に、今回のハイジャック事件のように計画的な犯罪の場合、無罪(あるいは不起訴)になることは、常識的に考えられない。また、社会的に重大な結果を引き起こした場合はプライバシー権が制限されることも、社会的に容認されている。精神科への通院歴があればすぐに実名報道を止めるというのは、いささか安直なやり方である。(8月8日)

  神奈川県玄倉川で起きたキャンプ客18人の遭難事故は、安易なアウトドア活動に警鐘を鳴らすものである。河川敷や中州にテントを張るべきでないことは、キャンパーなら常識中の常識であるにもかかわらず、事故にあった18人は、岸から離れた中州という最悪の地点に設営している。さらに、神奈川県に発令されていた大雨洪水警報や、放流を告げる上流ダムのサイレン音を無視し、あまつさえ、避難勧告に訪れたダム管理者や警察官に対しても、けんもほろろの対応だったという。こうしたことを考えると、自業自得と言えなくもないが、私は、少人数グループにおける意思決定の落とし穴にはまり込んだような気がしてならない。18人のグループは、同じ会社に勤める男性社員を中心に、その妻や恋人、兄弟、子供から成り立っている。6人の子供は完全な犠牲者だが、問題は、12人の大人のうち誰が避難勧告を無視するような意思決定を行ったかである。小さな子供を育てている若い女性が、河川の増水に不安を感じなかったはずもなく、おそらく大人の過半数は、心の中で避難した方が良いのではと思っていただろう。だが、女性たちは、同じ職場で働く男性たちの結束に背きにくい立場にあり、結果的に、その意見に従うことになったのだろう。特に、同僚へのお披露目という形で連れてこられた婚約者は、気の毒である。一方、男性たちも、警告に訪れた人を、緊密な仲間グループに対する邪魔者として捉え、さしたる根拠なしに反発したと推測される。十数人程度のグループでは、数人が声高に何かを主張すると、概してその意見が通るものだが、その結果が悲惨な死であったとは、主体性がないと非難するのも空しいほどである。(8月20日)

  毎年琵琶湖で開催される鳥人間コンテストは、飛行機が実用化された現在なお、人力で飛ぶという行為に多くの人が魅せられていることを証する。イカルスの神話やレオナルドの手記を引くまでもなく、飛翔への願望には根深いものがある。20世紀に入って漸く動力飛行機が開発され、人類の悲願が達成されたかに見えたが、これでは、重量ある機体を浮かせる揚力を得るのに大きな前進速度を出さねばならず、相対的に鉛直方向の速度が小さくなるため、よほどアクロバティックな飛行をしない限り、肉体的な浮遊感を覚えるには至らない。大型旅客機ともなると、機体が安定して、身体感覚の上では地上にいるときと何ら変わりないほどである。こうした状況に物足りなさを感じる“鳥人間”たちが、軽い機体でフワリと浮く飛行機に憧れるのだろう。
 コンテストが始まった当初は、100メートルも飛べばビッグフライトと呼ばれたが、昨年には20kmという大記録が生まれており、技術の進歩を目の当たりにさせてくれることも嬉しい。(8月28日)

  乖離性人格障害──いわゆる多重人格は、精神障害の症状として教科書にも掲載されるポピュラーなものである。ただし、多重人格としか言いようのない症例が存在することは、臨床上の事実ではあるものの、これを症状の類型として分類することに、私は反対である。多重人格といえども、学習に基づく多様な知的能力が各人格で共有されており、特定の気質性疾患に由来する症状とは考えられない。また、健常者も、TPOに応じて異なる立居振舞をするのはごく自然であり、人格の切り替え自体は、それほど驚くべき現象ではない。この症状が精神科医を驚かせたのは、最も重篤な多重人格の場合、事実記憶に連続性がなく、ある人格が行ったことを別の人格が覚えていないという症状が見られたことである。すなわち、健常者では、人格の切り替えを行うメタペルソナが意識上にあり、これが各人格の発現をコントロールすることによって人格の一貫性が保たれている。これに対して、病的な多重人格では、メタペルソナが完全に抑圧されてしまう。この結果、全く独立した人格が1つの身体に宿るように見えることになる。ただし、こうした“典型的な”多重人格症は稀であり、全米でも数十例しか報告されていない。むしろ多くのケースでは、メタペルソナが意識されているものの、コントロールする力が弱まって、不適切な人格の切り替えを行ってしまう──例えば、重大な会議の場で宴席のように振舞う──という症状が現れる。そこから考えるに、いわゆる多重人格とは、メタペルソナの力が弱まる精神疾患の極限的なケースであり、さまざまな偶然が重なって各人格間の情報交換が遮断される(ように見せかけた)特殊症例と考えるべきである。(9月8日)

  永沢光雄の『AV女優』(ビレッジセンター)は、ソーゼツな作品である。漢字で“壮絶”と表すよりもカタカナで書いた方がしっくりくるような、現代日本の出来事とは思われないエピソードが次々に登場する。もともとは「ビデオ・ザ・ワールド」という所謂“エロ雑誌”に掲載された記事で、マスターベーションのための裸体写真が並ぶ間に挟まれたコーナーだったのだが、ポスト大学紛争世代の恍惚感である著者は、読者に迎合したワイセツな表現も、ジャーナリストぶって一人高みに立つような生硬な言い回しも用いず、生身のAV女優たちをいとおしみながら、思いの丈をせつせつと語っていく。それにしても、ここに描かれる女性たちの人生は、何と奥深いことか。AV女優という危うい職種──企業のOLのように“真っ当”とは見られないが、売春業ほど身を落とすことにはならない──の中に、実にさまざまな人生が交錯している。母親が家出し、中学生のときに、できるだけ大人びた服を着て弟の父兄参観に出席した女性。義父に毎日のように犯され、食事も納豆ばかりという生活に耐えながら中学でトップクラスの成績を取り続け、家庭訪問に来た担任に「失礼ですが、こんな家庭でよくあんなに明るい娘さんに育ちましたね」と不思議がられた女性。日本に嫌気がさしてカナダに働きに行ったものの、お金を使い果たして教会で各国から来た20人ほどのホームレスと雑魚寝する生活となり、それでもウェイトレスのバイトで残り物をもらうと、「みんな、今日はごちそうだよ」と仲間と分け合った女性。共にオペラ歌手になろうと誓い合ったハーフの美少年が19歳で事故死してから人生が狂ったことを、他人事にように笑いながら語る女性。……彼女らのソーゼツな人生模様は、どんな賢者の言葉よりも深い。(9月14日)

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©Nobuo YOSHIDA