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  インターネットは、新たな都市伝説の苗床となりつつある。
 これまで、都市伝説を媒介する最も有力なメディアは、ラジオだった。映像の加工過程でディレクターのチェックが入るTV番組と異なり、ラジオでは、DJやパーソナリティが、聴取者からの手紙や電話を元に、即興的に話を作り上げることが多い。不特定多数の人々に向かって語られた話が、部分的な変更を加えられて、再びラジオ局にフィードバックされることもある。こうして、元々個人的な体験談ないし作り話だったものが、次第に固有名詞を喪失し、ラジオが持つ擬似的な親しみやすさの影響下で、身元不詳の「知人の知人」が実際に体験した話として都市伝説化されていく。
 ところが、インターネットによる都市伝説は、ラジオのように人間の語りが介在せず、電子メールのカーボンコピー機能によって、ほとんどヴァリエーションが生じないままに数だけが増殖していく。それだけに、ひとたび嘘と断定されたときには、伝説そのものが急速に消滅しやすい。そこから都市伝説の味わい深い語りが生まれそうもないことは、いささか残念な気もするのだが。(1月15日)

  哲学を愚者の学問にしてはならない。哲学者の理想はアリストテレスであり、その時代における学問の全領域をマスターした上で認識論的な基本概念を剔出していくのが、その勤めとなる。このことは、古代ギリシャ以来変わっていないはずである。にもかかわらず、現代においては、個別科学があまりに高度化したため、世界とは何かを問う普遍的な問題意識を持つ者たちは、哲学の理想を貫くことができない。現代の碩学──レヴィ=ストロースやピアジェ、チョムスキーら──は、それぞれ個別科学の一分野を極め、そこで得られた学問的視座から世界を観照することによって、新たな哲学的知見を得ようとしている。この試みは、それ自体きわめて偉大な業績だが、普遍的な世界知を求める者にとっては、いささか物足りなく感じられるようだ。だが、この不満感を解消しようとするあまり、個々の学問の成果を軽んじるようになると、哲学はたちまちにして愚者の学問に堕してしまう。
 私が謂う愚者の学問とは、己の無知を、捉え所のない世界知の茫漠たる有様にすり替え、さも高尚な見識を披瀝するかと見せかけながら、実は中身のないジャルゴンを並べ立てているだけの似非学者の言説である。例えば、ハイデガーは、時間の認識論的な地位と生活実感との間にある微妙なズレを重要な哲学的テーマのように語るが、彼の指示する時間概念は、コンテクストに応じて自由に変形され、物理的な時間とも心理的な時間とも異質なもののように見せかけられている。こうした空疎な議論の根底にあるのが、物理学や心理学に対する彼の無知であるにもかかわらず、哲学のジャルゴンを散りばめた晦渋な語り口故に、あたかも個別科学では捉えきれない時間の本質に肉薄しているかのような錯覚を読者に起こさせてしまう。これをこそ愚者の学問という。最近でも、科学由来の専門用語を随所に配しながら、本来は科学的に明確に定義されていた諸概念──カオス、多世界解釈、因果性、不完全性定理など──が、著者の無知によって拡大解釈され、世界の本質を語るマジックワードに擬せられている。こうした愚者の学問は、専門知識のない読者には面白いものかもしれないが、所詮は学問的価値のない戯言にすぎないのだ。(1月21日)

  名画座最後の砦を謳っていた大井武蔵野館が今月いっぱいで閉館することになった。ここ数年、大塚名画座、飯田橋佳作座、三鷹オスカー、高田馬場パール座、後楽園シネマ、五反田TOEIシネマと名画座の閉館が続き、昨年は、大御所の文芸坐と並木座がクローズした。大井武蔵野館が消えることで、私が愛した名画座が、ほぼ全て消滅することになる。優れた映画を安い料金で提供する名画座は、レンタルビデオの登場によってその役割を終えたとも言われる。しかし、映画文化を維持する上で、名画座は欠かせない役割を果たしていたのだ。何よりも、目利きの支配人がいる名画座が、隠れた名作を発掘してくれたことを忘れてはならない。岡本喜八や鈴木清順は、いまでこそ巨匠と呼ばれているが、実は、名画座での特集上映を通じて、若い観客にその真価が明かされたという経緯がある。特に、大井武蔵野館は、ゲテモノ専門の二流監督と見なされていた石井輝男をフィーチャーしたり、ビデオでも見ることのできない新東宝の珍作・怪作を特集したりして、映画ファンの目から鱗を落とすのに貢献した。さらに、文芸坐や大井武蔵野館のように企画力のある名画座は、監督を招いてトークショーを開催することもある。文芸坐で工藤栄一や山下耕作の話を聞いた若いファンは、必ずや映画芸術の奥深さを心に刻みつけたはずである。もちろん、画質1つとっても、ビデオとスクリーンでは比べものにならない。名画座が消えた代わりに登場したシネマ・コンプレックスは、結局のところ、観客の好みに迎合し、金になる作品を優先的に上映する単なる“映画館”に過ぎない。名画座の復活を心から願うのは、私だけではないはずだ。(1月29日)

  いま、世界中の天文学者の間で、冥王星は惑星か否かという論争が湧き起こっている。国際天文学連合のメンバーは、Eメールによるアンケートを集計して、この論争に決着を付けようとしているが、惑星の発見・命名に関しては文化的な背景もあるため、そう簡単にケリがつくとは思われない。
 そもそも冥王星は、天王星の運動に予想外の変位があることから、ローウェルらによってその存在が推測され、1930年になって、ほぼ計算通りの位置に発見されたものである。その後、海王星に対する摂動などから質量が推定されたが、誤差がきわめて大きく、正確な値が判明したのは近年になってからである。その結果、木星型惑星とは異なって高密度の岩石天体ではあるが、大きさは地球の月よりも小さく、軌道も黄道面から17°傾いている上、離心率が異常に大きく軌道の一部が海王星の内側に入り込んでいる。こうした特徴は、惑星と言うよりもカイパーベルトに属する小天体にこそ相応しいものである。このため、冥王星は第9惑星ではなく、間もなく達成される小天体第10000番に割り当てようという動きが広まってきた。
 もちろん、これに対して反論もある。惑星と小天体の区別はたぶんに便宜的であり、物理法則によって截然と分かたれる訳ではない。とすれば、文化的・歴史的な事情が優先されてしかるべきだというものだ。冥王星は、発見日時こそ20世紀に入ってからではあるものの、天王星(Uranus,1781年発見)、海王星(Neptune,1846年発見)に続く世紀に1回の大発見として耳目を驚かし、通例に従って、ギリシャ・ローマ神話から命名されている。こうした歴史を顧みると、科学者が軽々しくその地位を変更すべきでないという主張も頷ける。(2月5日)

  ここ数日の新聞・TVは、日本初という脳死移植の話題一色である。くも膜下出血で脳死状態に陥った女性が臓器提供の意志を表したドナーカードを持っていたため、直ちに法的に脳死診断が行われ、その後、心臓・肝臓・腎臓の移植が実施されたという。脳死移植そのものは、欧米で一般化している医療なので、改めて議論する必要は感じないが、日本で初めて行われたということで、いろいろと混乱も生じたようである。ここでは、この点を論じてみたい。
 最大の問題は、ドナーとレシピエントのプライバシーが守られなかった点だろう。最初にドナー側の情報が漏れたのは、脳死判定を行った病院が患者の年齢・性別・病名を発表したためである。実は、脳死移植法制定の際に厚生省が当初提示したガイドラインでは、これらのデータを発表することになっていた。その後、医療関係者から患者のプライバシーを守るべきだという意見が出されて、発表しなくても良いことになったはずなのだが、初めてで慣れなことだったためか、病院側が古いガイドラインに沿ってデータを口外してしまったのである。ただし、プライバシー侵害の最大の加害者は、マスコミである。ドナーの本名を割り出し、心ない取材を敢行したことは許し難い暴挙である。今回は、物珍しさが先に立ってこのような報道合戦がなされたと考えられ、2回目以降の移植手術でこのような事態は起こらないだろう。しかし、神戸の小学生殺人事件や広島の毒入りカレー事件など、マスコミの傍若無人ぶりが目に余るケースがあまりにも多いのは遺憾である。
 このほかにも、初めての経験であるが故のミスや不適切な行為が、いくつか指摘できる。まず、臨床的な脳死判定を行う際に無呼吸テストを試みたこと。無呼吸テストは、人工生命維持装置を一時的にはずして自発呼吸の有無を調べるもので、脳や内臓にダメージを与えるため、脳は測定など非侵襲性のテストを繰り返した後、初めて実行することになっている。今回のケースでは、法的な脳死判定を他の医者に依頼するのに先立ち、患者の死亡を自ら確認しておきたいとの思いから先走ってしまったと考えられるが、やや迂闊だとの誹りを免れないだろう。また、移植コーディネータがうっかりして、優先順位が2番目の待機患者に1番と伝えてしまったことも、避けてほしかったミスの1つである。これは、是非もないケアレスミスだが、ぬか喜びに終わった患者には気の毒なことでである。さらに、ドナーの遺族に最終的確認を取る前に、移植を前提とした脳死判定を行うように指示していたとも伝えられ、いろいろと勇み足もあったようだ。しかし、全体としては、プライバシーの問題を除いて、脳死判定から移植手術まで順調にいったと評価しても良いだろう。(3月3日)

  天皇制は現代日本に定着していると言われるが、はたしてどれだけの人が皇室のことを正しく理解しているのか、いささか心許ない。例えば、皇室の重要な行事である歌会始で、天皇や皇后がどんな歌を詠んだのかをきちんと把握しているだろうか。皇后が、新古今流のたおやかでやや技巧的な歌を詠むのに対して、天皇は、実にまっすぐで何の衒いもない作品をものする。こうした点に、今の天皇の信条が窺われて興味深いのだが、天皇家を讃える保守派の人々が感心を持っているようには思えない。また、現在の皇居は江戸城の跡を利用しており、石垣と堀がいかにも無骨で天皇には気の毒な住まいである。明治新政府が徳川時代の終焉を強く印象づけるために、敢えて断行した城跡の利用が公家である天皇家に全く相応しくないことを、どれだけの日本人が実感を持って憂慮しているのか。それどころか、ごく基本的なことすら知らずにいる人が少なくないだろう。
 ここで突然、皇室クイズ。数年前まで天皇は仮住まいである吹上御所に居ましたが、現在は改修された新しい建物に住んでいます。この建物を何と謂うでしょう。──正解は「御所」。天皇が居る場所は唯一無二なので、わざわざ××御所と呼んで区別する必要はないのである。(3月13日)

  子供同士による差別の問題が深刻化している。この問題を論じるに当たって失念してならないのは、子供が自分とは違う者を差別するのはきわめて当然だという発想である。
 人間は、群れなければ生きられないかよわい動物である。シマウマの子供が、同じ4つ足だからと言ってライオンにすり寄っていったのでは、食い殺されてしまう。同様に人間も、外敵を直ちに識別することができなければ、防御もかなわない。こうして、自分と少しでも相違点のある個体を仲間でないと見なして排除することが、自己防衛本能の1つの現れとなる。現代人といえども、認知の基本的メカニズムは、10万年前の原人と大差ない。人は皆平等だという反自然的な教育を受けない限り、どこか変わった所のある子供を仲間はずれにするのは、本能に則った当たり前の行為なのである。従って、差別を止めさせるためには、大人が行為と言葉を以て明確に子供を教導しなければならない。親や教師が「差別が悪い」のは常識だと思って意識的な教育を怠ると、子供の世界で差別がなくなることはないだろう。(3月21日)

  近年、夫婦が別々の住居を持つ別居婚が増えているという。20代の独身OLを対象とする意識調査では、結婚しても夫と同居したくないと回答した人の割合が28%にも上る。こうした別居婚については、20年ほど前にアメリカでの事例が雑誌に掲載されたものを呼んだ記憶がある。当時は、60年代ヒッピー文化で見られた「特定ペアを作らないコミュニティ」が現実問題として維持できない(どうしても親しい2人がカップルを作ってしまう)ことが認識されるようになり、新たな家族のあり方が模索されていた。そうした中で、別居婚は1つの可能性として人々の興味を呼んだらしい。このときはまだ、アメリカでも珍しいケースだったが、その後、共働き夫婦が積極的に仕事をするためのモデルと見なされるようになってくる。
 保守的な人の中には、こうした結婚形態に眉をひそめる向きもあるかもしれない。しかし、夫が外に働きに出て、妻が家で家事を担当するという役割分担は、近代産業が勃興したここ100年ほどの新しい風習でしかない。平安時代の貴族の間では、夫が別の場所で暮らしている妻の元を定期的に訪れるという通い婚が一般的だった。戦国大名も、政略的理由で多くの妻を持っていたため、これと似たような夫婦生活を送っている。もちろん、貴族や武士を除く大部分の庶民は、農作業やその他の家業を夫婦協同で行っており、妻を家に残して夫が働きに出るようなことは一般にはなかった。工業生産性が増大し、夫一人の労働で家族が生活するのに充分な所得が得られるようになってから、「夫は外、妻は内」という夫婦形態が広まったのだが、私の見方では、夫婦のあり方としてかなり不自然である。この形態が世紀を越えて維持されるとは思われない。別居婚のような新しい婚姻形態は、今後ますます増加していくだろう。(3月26日)

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©Nobuo YOSHIDA