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  オウム真理教の事件以来、日本社会における“画一性”の強さを改めて実感させられることが多い。現在、マスコミの論調は、オウムが反社会性を持った狂信的な集団だという点で一致している。しかし、そう主張する人々が、どれほどオウムの教義について調べているのだろうか。私の見る限り、オウムが道を踏み誤ったのは、現代日本において不可避的に孤立せざるを得ない彼らのアイデンティティを維持するために、社会に対して強硬手段を執ることが許されると考えた点にある。仮に、オウムが“新しき村”のような理想郷を志向していたならば、事態がさして深刻化することはなかったろう。しかし、彼らは、その強烈な画一性ゆえに必然的に憎しみを露わにする社会に対して、自分たちの正当性を明確に示し続けなければ、教団としてのまとまりを保てない状況に置かれていたのである。こうして、オウムは自らが望まないにもかかわらず、反社会的な集団へと変質していくことになる。(1月2日)

  奈良県の黒塚古墳で32枚もの三角縁神獣鏡が発見され、邪馬台国論争に新たな火種が加わった。魏志倭人伝の中で卑弥呼に贈られたとされる鏡と同一物ではないかという有力な説があるためだ。もし奈良近辺に邪馬台国があったとすると、そのまま大和朝廷へと連続的に発展していった可能性が強い。出土品などから3世紀には北九州と近畿に有力なクニがあったことが判明しているが、魏と国交を持つに至る有力なクニが近畿を拠点にしていたとすると、北九州文明圏は実質的にその配下に置かれていたと見なすのが妥当であり、邪馬台国は、近畿以西を版図とする巨大国家だったことになる。
 ただし、私には、この見解はどうにも受け入れがたい。魏志倭人伝に見られる邪馬台国の風習──顔中に入れ墨を施したり呪術を司る女性を支配者とすることなど──が、きわめて原日本的(縄文的、アイヌ的)であり、朝鮮からの渡来人を中心にして築かれた大陸的な大和朝廷の文化とは、あまりにも異質だからである。私の考えでは、3世紀の時点では、早期に大陸から移住して原日本文化に染まった人々を中心とするクニが北九州を地盤として栄えていた一方、これと対立する渡来人が、日本海側から琵琶湖の水運を利用して近畿に新興国家を築きつつあった。中国の支配的国家(後漢、魏)と交流を持っていたのは、北九州文明圏のクニであり、近畿文明圏は、朝鮮半島の一部とは関係を持っていたものの、中国との結びつきは薄かったと思われる。世界最高の文化国家であった中国と正式の国交を開けないまま、大和朝廷の技術者が懸命に作り上げたのが三角縁神獣鏡であり、邪馬台国に取って代わる支配国家としての正当性を主張するための政治的道具であったと想像される。
 3世紀後半から邪馬台国は衰退し、中国との国交も、晋に遣いを派遣したのを最後に100年以上途絶える。この間、近畿の大和朝廷は急速に勢力を拡大し、古墳文化を全国に広めていく。5世紀には、東は関東地方から西は朝鮮半島(任那)に及ぶ巨大国家が完成、偉大な存在を表す上代日本語のヤマという語を冠してヤマトと称する。邪馬台国人を含む原日本的文化の継承者は、南九州のクマソと東北地方のエミシに分断され、次第に姿を消していくことになる。(1月12日)

  数年前まで、その奇跡的成長が驚きの的だったアジア経済が、現在、危機的な状況を迎えている。深刻な金融不況に陥って回復の影さえ見えない日本と韓国を筆頭に、為替レートが暴落してデフレが進行しつつあるタイやマレーシア、第一次産業の沈滞が多くの失業者を生んで社会不安をもたらしているインドネシアなど、早急な対策を講じなければ国家財政が破綻しかねない国が目白押しである。空前の好景気を謳歌している合衆国では、対アジア経済支援にあまり積極的ではないが、一歩誤ればアジア発の経済恐慌へと発展する危惧も拭えない。もっとも、日本と韓国を除く国々は、経済体制そのものの欠陥が露呈したと言うよりは、80年代の過剰な設備投資が景気の悪循環を招いたと考えられるので、マクロ経済の観点から対策を立てることは必ずしも難しくない。重症なのは、大資本中心の財閥資本主義から脱しきれない日本と韓国であり、経済活動に対する態度を根本から正さねば、回復は望めない。特に日本は、経済不況が深刻化した90年から8年間も経つのにいまだに有効な対策を打ち出せずにおり、もはや経済大国に返り咲くことは不可能とも思える。経済アナリストの見方も厳しく、80年代の「日本脅威論」が雲散霧消したばかりか、欧米に牛耳られ下請け国家に堕していくことへの懸念を表明する者もいる。唯一の救いは、日本が反面教師として、アジア経済の進むべき道を示す役割を果たしていることだろう。(1月26日)

  夫婦が離婚したとき財産分与はどのようにあるべきか。家父長制の残滓が払拭されていない現代の日本では、財産の大半を男性が取得し、女性にはわずかな慰謝料しか与えられないケースが少なくない。しかし、このやり方は、いかにも旧弊である。単純に男女平等と唱えるならば、所有財産をかっきり二分することも考えられるが、それでは、資産家と短期間の婚姻を行っただけで莫大な財産を手にすることが可能になり、必ずしも公平ではない。最良の策は、結婚時に両性の所有する財産を確定しておき、その後、婚姻期間中に増えた財産は等分配するというものであろう。しかし、この方法には、バラ色のハネムーンに財産計算をしなければならないという難がある。次善の方策としては、夫婦の共有名義および名義が確定していない財産を等しく分け、それ以外は、名義人の所有とすることが考えられる。これは、不動産などの主要財産を事務的に夫名義にしてしまう風潮が残っていることから、必ずしも女性の権利を保全することにはならないが、権利意識を高める効果を期待することもできる。(2月4日)

  【笈田忍のリーベシオン報告】覚えてるー?今日は久しぶりに、あたしが勤めるリーベシオン研究所の近況報告を。今、研究所で一番の話題になっているのが、ムネシオラ博士の美容理論。もともとエステティックの会社に勤めていて、女性を美しくすることにかけては天下一品といわれた人だけど、われらがリーベシオンで本格的に研究を始めたの。何と言っても、美しくなることは女性の永遠の願いでしょ。初めのうちは、バイオテクノロジーを駆使して女を美しく改良しようと躍起になっていたってワケ。やれ肌をきれいにするには何とかエステラーゼの分泌を活性化させればいいとか、胸を大きくするにはイソプロピル何たらが役に立つとか、そんなことばかり言ってたの。でも、ある時、はたと気づいたのよね。女性の美ってものは、男の目に映って初めて顕れるってことを。男はどういう条件がそろったときに女を美しいと感じるか、そういう研究に傾いていったんだって。で、何が分かったかというと、大脳辺縁系の一部に頭頂葉と海馬から長周期パルスの混合波が入力されると、間脳を刺激して……どうたらこうたらで、男は女を美しいと感じるんだって。そこでムネシオラ博士は、発想の大転換。全ての女性の肉体を変えていたのでは、手間がかかりすぎてしょうがない。むしろ、男の脳の方を変えて、全ての女性を美しいと感じるようにすればいいんじゃないかって。でもって、まずは自分の脳で実験してみたの。そうしたら、これが大成功。ムネシオラ博士、毎日、研究所に出勤するたびに、女性職員や受付嬢や、果ては清掃のおばさんにまで、「あなたは私が今まで出会った中で最も美しい女性だ」なんて声をかけてくれるの。それも本心から。あたしの所にまで、もう3日に1度は花束を持って来ては、「君は最高の美女だ」と耳元でささやいていくんだから。ま、これは本当のことだからいいけれど。ところで、ムネシオラ博士は、男の脳を変える薬を、全世界の女性を一瞬にして最高の美女に変身させる魔法の秘薬として売り出そうとしてるんだけど、みんな、絶対に売れないって反対してるのよね。本人は、人生が楽しくて仕方がない、この幸福を全ての男に分けてあげたい、なんて言ってるんだけど。(2月16日)

  マイクロソフトを巡る法的争いが再燃しそうである。現在、パソコンのソフト業界でマイクロソフトは一人勝ちの状態であり、パソコンOSで90%ほどのシェアを占めるほか、表計算・ワープロ・データベースなどのビジネスソフトの分野でも、ロータスなどかつてのライバルを蹴落として、トップを独走中である。さらにk以前は弱点といわれたワークステーションやインターネットの分野でも、WindowsNT とインターネットエクスプローラによって、それぞれ UNIX とネットスケープが死守してきたトップの座を脅かしている。
 こうした中で、マイクロソフトの販売方法が独占禁止法に抵触するのではないかという問題が持ち上がってきた。マイクロソフトは Windows によってパソコンのOSを独占しているため、ソフト間のデータの受け渡しに関する仕様を自社で決めることができる。この特権的な地位を利用して、Windows に適合して安定的に動作するアプリケーションを開発してきた。こうした手法が最もパワーを発揮するのは、Windows のバージョンアップの際である。マイクロソフトは、Windows のバージョンアップとほぼ同時に、それに完全対応したアプリを発表できるが、他社は、マイクロソフトが公開した(内容的に不十分な)スペック表に従って手探り状態でプログラミングしなければならず、著しく不利な立場に置かれる。実際、日本語ワープロの分野でかつては圧倒的なシェアを誇っていたジャストシステムが凋落するきっかけになったのが Windows95 の登場であり、このOSのニューバージョンに合わせて一太郎シリーズをバージョンアップできなかったことが、その後の販売戦略に大きな影を落としている。ソフト業界の今後を考えると、マイクロソフトをOSとアプリケーションを担当する会社に分割することが望ましいのだが、OSに最適化されたアプリが入手しにくくなるというユーザ側の懸念もあって、にわかには実行できない。
 もう1つの問題が、インターネットブラウザを巡る争いである。インターネットは、電話や放送に匹敵する新しいメディアで、テキストのみならず、画像や音声、あるいは、これらを組み合わせた動画を提供することが期待されている。放送並のコンテンツと電話並の双方向性を実現するためにブラウザには多くの機能が要求されており、高度な技術力を持つ会社でなければ開発は難しい。95年頃まではネットスケープが圧倒的なシェアを保っていたが、マイクロソフトが投入したインターネットエクスプローラが次第に普及、今ではシェアはほぼ互角となり、ネットスケープ社が赤字に転落するに至っている。米司法省は、インターネットエクスプローラ急伸の背景に、独占企業の立場を利用したOSとブラウザの抱き合わせ販売があるのではないかと見ているようだ。これに対して、マイクロソフトは、インターネットエクスプローラが Windows を購入したユーザに無料で提供されていることを楯に、その批判をかわそうとしている。しかし、喩えて言えば、このやり方は、アパートの市場を独占している不動産会社が、全てのアパートを家具付きで売り出し、「家具は無料のおまけですから、嫌なら捨ててネットスケープ家具店から購入してください」と主張するようなもので、法律的には難しい問題があるものの、商人の道義にもとる。今後のネットスケープ社の巻き返しとともに、司法での争いに注目したい。(3月2日)

  日本映画の妻たちが、静かに発狂している。ハリウッド映画の場合、狂気は反社会的な行為に結びつくものとして排斥的に描かれることが多く、残忍な連続殺人も犯人が精神異常者だったということでケリをつけてしまいがちである。アメリカ社会そのものは精神異常に対して寛大であるのだが、それだけに、社会の内なる狂気というイメージは、生々しすぎて作品化しにくいのだろう。これに対して、日本ではまだ精神異常者への偏見が根強く、こうした異質の存在が(最も親密な場であるはずの)家庭を内部からジワジワと浸食していく過程に、生理的な恐怖感を催させらる。それだけに、作品を成立させる契機となるのだろう。
 妻が精神を病んでいく過程を最も直截的に描いたのは、篠崎監督の『おかえり』である。夫が帰宅すると真っ暗な部屋の中で妻が一人ポツネンとしている、あるいは、やたらに豪華な夕食を作るといったほんの僅かなズレから始まって、次第に日常が崩壊していく──そんな静かな恐怖を囁くように描いた佳作である。是枝監督の『幻の光』でも、再婚した若い妻が、寒々とした日本海の光景をバックに、少しずつ自殺した前夫への思いに心を乱されていく。黒沢監督のモダンホラー『CURE』では、主人公の妻が精神科に通院している。彼女の狂気も日常的な静謐さを保っており、何も入っていない洗濯機をいつまでも動かすといったささやかな異常が描かれる。狂気の淵に生活感が滲む光景が恐ろしい。北野監督の『HANA−BI』に登場する妻は、末期ガンであって精神病ではないものの、傍らで夫が人を殺しても平然としており、やはりどこか常軌を逸している。写真家アラーキーをモデルにした『東京日和』(竹中監督)の妻ヨーコは、常識からのずれを楽しんでいるかのようにも見える。
 静かに狂う妻たちが日本映画に登場するようになったのは、家族の社会性に関する認識が変化したためかもしれない。狂気は、映画作家のみならず、あらゆるストーリーテラーにとって格好の題材であり、時にはおどろおどろしく時には哀切に描かれてきたが、それでも、作品の骨格となる狂気は、『赤線地帯』や『生きものの記録』に見られるように、あくまで明確な社会性を帯びているべきだとのコンセンサスがあった。反社会性の象徴としての狂気は、社会への異議申し立てを内包しているというものである。ところが、現在の日本では、家族が家庭的であること自体がもはや自明ではなく、家庭における日常性の社会的意義が、意識的に検証されねばならない状況になっている。映画の中で妻たちが示す静かな狂気の背景には、こうした語られぬストーリーが潜んでいるのだろう。(3月9日)

  NHKに知的ゲームの戦術を紹介する番組が増えている。例えば、サッカーの特集番組。従来の特集では、シュートの前後をピックアップするばかりで、どのような戦術に基づいてボールがパスされているかがあまり伝えられていなかった。いきおい、サッカーの力業の側面、すなわち、足の速さやキック力が強調され、知的戦術が看過されやすい憾みがあった。この弊を改めたのが『クローズアップ現代』などのNHK番組である。実写画面だけではわかりにくい戦術面を明確にするために、ディレクタは3DCGやストップモーションなどを多用し、選手たちがどのように動いていたかを視聴者にわかりやすく提示した。こうして、マークをはずすためにFWがおとりになったり、MFが大きく左右に動いてスペースを作り、そこに後方から駆け上がってボールを受け取るといった戦術が、試合展開においてきわめて重要な役割を果たしていることが、如実に示されたのである。最近では、将棋に関しても同様の番組づくりを行い、その知的魅力をアピールすることに成功している。 (3月25日)

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©Nobuo YOSHIDA