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  現代哲学の観点に立てば、量と質は対立概念でないのみならず、対(つい)概念ですらない。量的表現の端緒は、少数の個体の数え上げであり、たかだか数十までの自然数が実感を伴って認知される。一方、質に関しては、テクスチャや類似性のように、にわかには数で表せないような直感的な表象が想起される。こうした素朴な認識に基づけば、量と質は相容れぬ対立項を形成するかのように思われよう。だが、量的表現は、方法論的に拡張可能であることを忘れてはならない。有限の自然数を正負の無限整数へ、さらには実数へと拡張することにより、明−暗や大−小のような1次元的評価が可能な性質について表現する道が拓かれる。これだけではない。テクスチャに関しても、マンデルブロ集合のアノマラス次元のような量を使えば、かなりの程度まで直感に忠実な表現を指示できる。あるいは、相関関数を用いて類似性を評価することも可能である。このように、現代においては、量は質を包含する概念になりつつある。(1月4日)

  街行く人々を観察することは、それ自体、なかなか楽しい行為だ。若い人は、まだ個性に乏しいのでさして面白くない。一目でサラリーマンとわかる場合も、観察によって得られるものは少ない。興味深いのは、職業があまりはっきりしない中年から初老の男性で、この人はいったい何をしているのか、いろいろと考えを巡らせてみたりする。いかにも知的な外貌をした人が、昼のさなかに地下鉄で吊革に掴まって、見るともなしに窓外を眺めている。教師か研究者か。公務員かもしれないし、意外に自営業ということもあり得る。こちらの男性は、疲れた面持ちで、物憂げに新聞をめくっている。そう言えば、新聞の読み方も人それぞれで、大きな音を立てて激しくページを繰る人もいれば、静かに紳士然と読み耽る人もいる。仕事に関係するとおぼしき記事を熱心に読んでいるかと思うと、スポーツや芸能記事を流し読みしたりする。では、私自身はどう見られているのか。まさか高等遊民とは思われまいが、サラリーマンでもなし、自営業にも見えないと、訝しがられているのかもしれない。(1月8日)

  最近のテレビCMには、ペンギンがやたらに目立つ。ビデオデッキのCMでは着ぐるみのペンギンが踊りまくっているし、整髪料をたっぷりつけてヘアスタイルをきめるCGのペンギンもいる。もちろん、この愛すべき鳥を宣伝キャラクターとして利用したケースは、以前から相当数に上っていた。松田聖子がCMソングを歌ったペンギンズ・バーなどが、代表的な例だろう。確かに、姿形のかわいさ、地上で見せるヨチヨチ歩きと水中での敏捷さの好対照、孵化するまで卵を両足で抱えて過ごす母性愛といった、人々にアピールする要素は多々ある。それにしても、ここ1年ほどのペンギン熱の高まりは、何に由来するのだろうか。CMフィルムを観察すると、かつてのセルアニメはほとんど姿を消し、南極での実景描写も少ない。かわって多くなったのがリアルなCGであり、次いで、カリカチュアライズされたCGと着ぐるみが目に付く。また、訓練されたペンギンによる擬人的な演技も見られる。明らかに、時代はペンギンを志向している。(1月12日)

  現代日本社会に適合している人にとって当然と思われている“社会常識”も、実は、この場この時にのみ有効な慣習にすぎない──という話を始めると、どこか別の社会での常識を持ちだして日本のものと比較するのが常だが、私の場合は、自身が社会から逸脱した非常識者なので、自分の経験を語るだけで“常識の局所性”を示す事例とすることができる。例えば、歩行者を妨害する駐車車両があったとき、そのボンネットの上を歩いて向こう側に行くことは許されるか。私は当然かまわないと思ってしばしば実行してきたが、どうやら世間ではそうは考えられていないらしい。あるいは、夫婦は機能集団の単位だから、必要に応じて構成すべきものであり、状況によっては3〜4人で夫々婦々を作るのも良いと思うのだが…。衣服はボロボロになるまで着続けてから捨てるとか、夏の冷房は昼間切って夜間だけ使用するとか、私が当たり前にしているライフスタイルが、世間の目からは奇妙に見えるらしい。(1月29日)

  人間、特に若い女性は、恐怖にとらわれたときに、しばしば悲鳴を上げるが、これは何故なのか。人間以外の哺乳類や鳥類でも、危険に瀕した際に、悲鳴に相当するシグナルと発するケースがあることから、何らかの生物学的な機能を想定すべきだろう。考えられる機能の1つは、仲間に危険を知らせるというもので、群棲する草食動物に見られる。シマウマなどは、実際に捕食者に襲われた際に悲鳴を上げるが、チンパンジーのような高度の知能を持つ動物になると、迫りくる危険を察知した段階でシグナルを発して群に適切な行動をとらせることがある。これは、人間的な表現を使えば、一種の利他的な行動である。一方、利己的行為に相当する悲鳴もある。例えば、幼獣が襲われたときに発するシグナルは、親を呼び寄せる効果があり、自分が助かる確率を高くする。こうした援助要請のシグナルは、一般に成獣には見られないが、人間のように幼生の状態で進化してきたとも言える動物の悲鳴は、こちらに分類されるかもしれない。子供や女性の方がより効果的に悲鳴を上げることも、この考えの傍証となろう。(2月13日)

  最近、“たまごっち”なる玩具が流行している。数年前からパソコンやファミコン愛好家の間で人気を呼んでいた「育成ゲーム」を、携帯型の液晶ゲーム機に移植したものだが、従来品が細かな設定を要求していたのに対して、扱い方も絵柄もシンプルなのが、却って人気を呼ぶ原因となったらしい。液晶の中で育つ仮想生物は、数十ドットで描かれており、ヒヨコにも架空の生き物にも見える。パソコンで育てていたのが、王女様や競馬馬や熱帯魚であり、現実に近づけようとしながら現実との格差を如実に表していたのと較べ、あらかじめ現実とは距離を置いている分、自由にイメージを拡げられる。とは言っても、所詮は数十パターンしかない単純なおもちゃであって、1万円を超すプレミアが付くのは異常としか言いようがない。ティラミスやボージョレヌーヴォーと同じく、流行の中に身を置く楽しさを味わいたいという日本人若年層に見られがちなメンタリティの現れと捉えることもできる。ブームの行き着く先は見えているが、この状況をどう解釈したら良いか、いろいろ思索のネタにはなる。(2月18日)

  昨今のTVのワイドショーがつまらない大きな理由は、その内容の大半をVTR取材に依拠しているためである。学識を持った有能なスタッフを現場に派遣すれば、そこで多くの情報を入手することが可能なはずだ。しかし、成田闘争以来、トラブルを好まない安直な発想に染まった民放各局は、当たり障りのないお座なりの取材で済ませることが多く、場合によっては、下請け会社にVTR撮影をまかせてしまうこともある。こうして得られた皮相的なVTRを、担当ディレクターが番組内容に即して編集し、さらに放送の時点でキャスターやコメンテーターと呼ばれる人たちが適当な説明を付け加える。これでは、何が事実かという基本的なことすら判然としない。凶悪犯罪を犯した犯人が、不適な笑みを浮かべていたとしても、その直前まで苦渋に満ちた表情をしていたのに、周りから笑いを誘うような野次が飛んだという可能性は否定できない。薬害AIDS事件で悪者扱いされた安倍氏が取材カメラマンに暴行を働くシーンが映し出され、視聴者に“開き直っている”との印象を与えたが、もしかしたら取材側から挑発された結果なのかもしれない。このようなことを考えながら見ていると、ワイドショーで映し出される映像は、いかにも信憑性が乏しく思われる。もちろん、番組それ自体が充分に信用できるものならば、そこまで懐疑的になる必要はあるまい。だが、個々の事件の扱い方がごく短く、短評形式でまとめているだけの番組に、さして信を置くことはできない。映像が真実を映し出すのは、真実を求める取材陣が撮影した未編集テープだけであることを、局側は自覚すべきである。(2月26日)

  出産時の出血等が原因となって妊婦が休止するケースは、年間数百件に上る。その中には、もともと母体の側に支障があったケースも少なくないが、医師が適切な処置を怠ったために、あたら若い命を散らす結果になった例も相当の割合で含まれる。医療行為が不適切だったとされるもので、しばしばマスコミで取り上げられるのが、陣痛促進剤の過剰使用である。陣痛促進剤は、出産の時刻をコントロールする薬として多くの産院で使われており、際だった危険性があるわけではないものの、出産という女性の肉体にとってきわめて大きな負担となる行為に、外部から手を加えるのだから、母体が常に安全を保てるとは限らない。平滑筋を急激に収縮させようとしたために、子宮破裂を引き起こすことも稀にある。陣痛促進剤は、体に自然なリズムを狂わせるものであるため、使用を忌避する人も少なくない。
 そこで問題になるのが、薬を用いた場合と相でない場合のリスクの多寡である。一般に、陣痛促進剤を用いる理由は、出産に備えての体制づくりにあると言われる。小さな産院では、経験のある医師や看護婦・助産婦は数人しかおらず、当直の者しかいない深夜などに産気づかれた場合、適切な処置が執れないこともある。こうした事態を避けるために、陣痛促進剤によって万全な体制を整えた状況で出産できるようにコントロールしているのだ。このように、陣痛促進剤の使用は、確実にあるタイプのリスクを低減させるが、その一方で、肉体を無理に操作することによるリスクの増大をもたらす。この2つのリスクはトレードオフの関係にあり、最終的な選択は医師と患者の決断に委ねなければならない。患者には不当と思える治療を拒否する権利があるとされるが、特定の治療法を医師に強要する権利はない。陣痛促進剤の使用は、その後の出産への対応とセットになっているので、投薬だけを止めろと主張するのは難しい。たが、投薬量を少なくできないかを医師と相談したり、薬を用いない方法を採用している産院に転院することは可能である。出産を目前に控えた女性は、こうしたことも念頭に置いて対策をとるようにしていただきたい。(3月23日)

  日本の証券市場の不健全さが、海外から問題視されている。すでに、特定顧客に損失補填を行ったといういわゆる証券不祥事で、国内外から批判の矢玉を浴び、内部改革の必要性が繰り返し唱えられていた。ところが、数日前、野村証券が、関連企業である総会屋に、証券取引法で禁止されている手法で不当に利益を供与していたことが明らかになり、改革がいっこうに進んでいないことが露呈された。今回明らかになった手口は、顧客が銘柄を指定しないですべて野村に任せてしまうという一任勘定や、顧客が売買したかのように契約書を偽造し、代わって野村が利益を上げる取引を行う花買いと呼ばれるもので、きわめて古典的な違法行為である。特に悪質と考えられるのは、意図的な株価操作と見なせるケースが存在したことである。実際、野村のような大手証券会社の場合、特定銘柄に率先して買い注文を出せば、他社もそれにつられるようにして買いを入れて、自然と株価が上昇するため、そこで売り抜ければ、何の苦もなく利益を手にすることができる。もちろん、通常はそうしたやり口は自らの首を絞めることになるので、決して実行しないはずだが、株価が低迷している時期に何とかVIP顧客を満足させようとして、こうしたいかにも卑劣な手段に訴えたようだ。
 ビッグバンと呼ばれる金融・証券業界の改革は、いまや時代の急務である。個人投資家が力を持っているアメリカにおいては、証券市場は、フリーかつフェアで、しかもグローバルであるべきだとされる。ところが、日本では、まさに正反対の状態にある。その背景には、明治期に株式制度を導入した過程での問題が見え隠れする。自由市場においては、個人投資家が将来性があると思われる企業に投資し、予測が当たれば高配当を得ることになる。このシステムがうまく作動すれば、資本を持たない小企業が、技術力やソフト資産を武器に急成長することも可能となる。アメリカでは、アップルやマイクロソフトのようなベンチャー企業が、こうしたシステムを巧みに利用して発展し、その結果として、産業界全体のイノベーションが引き起こされて、国力が高められることになった。ところが、国内に充分な個人投資家が育っていない戦前の日本では、株式市場を流動化させても優良企業が資本を集めるという機能は実現されるべくもない。そもそも、当時の企業は、独自の技術やソフト資産を所有しておらず、足並みを揃えて欧米先進国に立ち向かわざるを得ない立場にあった。うかうかと自由市場で株券を売買していると、外国資本に席巻される危険もある。こうした中で採用された日本的な株式システムが、旧財閥系を中心とする企業グループを形成し、互いに株券を持ちあうという互助会方式である。グループ内部で持ち合われている株券は、通常は売買されることなく、配当が期待されているわけでもない。万一、ある企業が経営危機に陥ったときに、この株券を利用して急場を凌ぐためのものである。当然のことながら、市場で流通する株式は割合的に少ないため、株価の変動幅が大きくなる。個人株主も、配当よりは株価変動に伴う差益を期待している。このような非自由主義的システムは、産業が外国に比べて未発達の国では必要なものかもしれないが、経済的に成熟し、国際的にも大きな力を持つに至った暁には、フリーでフェアなシステムに移行しなければならない。ところが、日本の場合は、この互助会方式に安住し、証券市場の実態をよく知らない一般株主から金を吸い上げて、互助会に属する企業に利益を分配するという仕組みを温存し続けたのである。
 今回の野村証券の不祥事は、総会屋という暴力団の外郭団体に利益を供与するという反社会的な行為を伴っているだけに、罪が大きい。本来なら免許取消に値するものだが、おそらく社会的な影響を考慮して、若干期間の営業停止に落ち着くと思われる。できればこれを機に、証券業界の一大改革を実現してほしいものだ。(3月28日)

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©Nobuo YOSHIDA