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  高速増殖炉「もんじゅ」のナトリウム漏れ事故は、聞けば聞くほど初歩的なミスによるものだという感を強くする。ウラン238を中性子によってプルトニウムに転換してエネルギー源とする増殖炉は、有限なウラン資源を活用する切り札的な存在と見られてきた。しかし、技術的な困難に加えて、太陽光発電やバイオマス発電といった他の持続可能なエネルギー源が開発されてきたため、アメリカやフランスなど、この分野のフロントランナーだった国が次々と撤退し、今では、ほとんど日本だけがこの巨大プロジェクトに取り組んでいると言って良い。このことは、日本技術陣のチャレンジ精神の発現と言うよりは、むしろ、一度始めたプロジェクトをおいそれと止められない体質に根ざすものである。
 高速増殖炉の難しさは、冷却材として通常用いられる水が使用できない点にある。水ならば、たとえ配管破断で漏れたとしても、ECCSによって補充を行いさえすれば、軽微な放射能漏れで済んで大事には至らない。しかし、ナトリウムの場合、H2Oと爆発的に反応するため、わずかな漏出が重大事故に発展する危険性が大きい。「もんじゅ」の事故では、大気中の水蒸気との反応だけでとどまったが、それでも施設内の各部にナトリウムが飛散し、高熱を発して一時はかなり危うい状態になった。もし、3次冷却材として用いられている水と接触しようものなら、大規模な爆発を起こしてパイプが大きく破断し、冷却材が一気に失われる可能性がある。こうした事故を避けるためにナトリウムの配管は慎重に作られねばならない。にもかかわらず、温度計を挿入する部分が設計ミスによってきわめて脆弱になっていたというのが、今回の事故の原因である。(1月13日)

  茶道とは、ありふれた“茶飯事”に全宇宙を見いだそうとする行為規範である。もともと中国伝来の薬用飲料だった茶が、室町時代に入って実用性から離れた儀礼的道具として扱われるようになる過程はさておき、ここで注目したいのは、なぜ戦国武将が茶に興味を示したかという点である。勇猛な武将たちが一方でたおやかな茶道を嗜むというのは、いかにも奇妙な感じもする。もちろん、心理的にバランスをとろうとする単純なメカニズムの現れと見なせないこともないが、室町初期のバサラ大名に見られる貴族趣味とは、明らかに一線を画する。思うに、明日の命も知れない武将にとって、天下人から足軽に至る直線的なヒエラルキーの中に我が身を位置づけることは、ごく一部の成功者を除けば、基本的に自己を貶めることに他ならない。そうした状況に置かれている人から見ると、“茶を飲む”という些事の中に宇宙の心理を発見することを目指す茶道は、まさに死に向かい合っている卑小な人間にも最大限の価値を認める営為である。
 茶道に一期一会なる教えがあるが、たとえ明日死ぬことになっても、今日のこの出会いが絶対的な価値を持つことになるならば、人生は決して虚しくはない。こうした認識によって、茶道は戦国時代の精神的支柱たり得たのである。茶道の中心的人物であった利休も、入り口を狭くしてそれ自体で閉じた空間としての茶室を演出し、些事の中に宇宙を見いだす方法論を練り上げたのかもしれない。こうした真摯な茶の道が、江戸時代に入って町人文化の中で形骸化していったのは、やむを得ないことかもしれないが、いささか残念である。(2月2日)

  日本にミュージカルはないと主張する評論家もいるが、決してそんなことはない。確かに、ハリウッドで製作されたミュージカル映画やブロードウェイでの舞台は、ボードビルに根ざすアメリカ独自の文化資産だし、ヨーロッパ製ミュージカルは、オペレッタの伝統の上に築かれたものである。また、フレッド・アステアは社交ダンスに、ジーン・ケリーはモダンバレーに、それぞれ基礎を置いており、欧米の文化的な流れの中に確固たる足場を持っている。これに対して、日本では、能や歌舞伎のように踊りや楽音を取り入れた舞台芸術は昔からあるが、明治維新以降は、欧米のモノマネが主流となって独自性に乏しい。特に、西欧的なダンサーの育成が不十分だった踊り主体の舞台は、取り立てて傑作がないと言っても良いかもしれない。しかし、実は、いかにも日本的な音楽映画は数多く作られており、これらを日本版ミュージカルと呼んでもおかしくないことを指摘しておかねばならない。こうした日本版ミュージカルは、スペクタキュラーなダンスシーンには欠けるが、ストーリーの合間に歌を挿入して雰囲気を盛り上げる巧みな演出が取り入れられている。私が日本ミュージカル映画史上の3大傑作として評価するのは、ディック・ミネどころかあの志村喬まで歌い踊る『鴛鴦歌合戦』(マキノ正博監督)、能の謡を通じてストーリーを語る奇想天外な『ああ爆弾』(岡本喜八監督)、そして、高峰秀子演じる頭の足りないストリッパーの能天気さがなぜか悲しい『カルメン故郷に帰る』(木下恵介監督)である。このほか、TV文化史上に名を残す──残念ながらフィルムは残っていない──名作『ひょっこりひょうたん島』も忘れてはならない。こうした日本版ミュージカルの正当な評価は、最近になってやっと始まったばかりである。(2月14日)

  最も優れた芸術作品は、すべからく模倣を礎としている。現代芸術家の中には、他人と違ったことをしなければならないというオブセッションが強すぎて、創作の幅を狭めてしまう人も少なくない。彼らが学ばなければならないのは、過去の芸術家がいかにして模倣を極めていったかという創作の方法論である。シェークスピアは、ストーリーをホリンシェッドの年代記をはじめとする文献から借り、表現様式についてはマーロウのブランク・ヴァースを手本にした。さらに、民衆の嗜好がボーモント&フレッチャー流のロマンス劇に移ると、直ちにこれを真似た作風に転換してみせた。モーツァルトは、ハイドンの模倣から出発し、宮廷オペラや大衆向け音楽劇などの要素を次々に取り込みながら、雑然とした表現の中に彼本来の心の歌を紡ぐことができた。フェルメールも、17世紀風俗画家の様式を忠実に採用しており、部分的に見ると同時代のほかの画家と交換可能である。にもかかわらず、その作品には、間違いなくオリジナリティ溢れる作家の刻印が押されているのだ。(2月21日)

  今では往年の面影を失っているが、かつて日本映画は世界中の映画人を驚嘆させる爆発的なパワーを持っていた。その全盛期の作品群を含む特集上映が池袋の文芸坐で行われているが、珍しい作品と接する機会を得られたたこともさりながら、当時メガホンを取っていた監督たちの生の声を聞けるのが何よりも嬉しい。例えば、『関の彌太っぺ』を監督した山下耕作の話。処女作・第2作と興行的に失敗し、1年ほど干されて助監督に戻されていた山下“ショーグン”に、中村錦之助の主演作の企画が突如舞い込んでくる。理由は定かではないが、まだ社員だった山下監督を起用した方がギャラが安くて済んだためでは──とは本人の推測である。、元来が舞台劇だったために原作にはやたらに台詞が多い。脚本家と旅館に籠もろうとしたとき、たまたま『宮本武蔵』の脚本執筆中だった内田吐夢と出くわし、その場で(木村功が演じることになる)小物ヤクザが重要だと言われたそうだ。クランク・インしてからも、この人物をただの小悪党にしないように演出を心掛けたというが、実際、ラスト近くでの錦之助と木村功との対立が全編の要となっており、内田吐夢の進言が見事に生かされている。このほか、垣根の花(原作ではアジサイ)に迷った挙げ句、ムクゲを使って、まっとうな世界とヤクザの世界の境界を表現したこと、工藤栄一監督とともに大乱闘に巻き込まれて二人して留置場に入れられ、翌朝の新聞で「映画を地でいく暴力監督」と書き立てられたこと、錦之助と脇役の演技に温度差があり、脇役がベストの状態になるまでテイクを繰り返すうちに錦之助が疲れてしまって、「不本意な演技のときにOKになる」とこぼされたことなどを、面白く語ってくれた。(2月24日)

  コミケの人気は相変わらず物凄いらしい。中高校生を中心に、マンガを愛する人々が自作を自費で出版し、それを別のファンが買っていく。創作的活動を発表する舞台として、また、同行の士との交流の場として、応援したい。
 こうした場で販売される作品には、純粋にオリジナルなものも少なくないが、大きな割合を占めるのが、既存のコミックやアニメのパロディである。堅いことを言えば、この種の模倣は著作権を侵害するものだが、プロのマンガ家たちは、金儲けに走らない限り大目に見ているようだ。実際、職業マンガ家たちも、アマチュアのときには、名の知られた大家の作品を模写しながら腕を磨いていったはずである。厳しく取り締まって次世代のマンガ文化の担い手を潰してしまうようなマネはしたくないのだろう。もっとも、いささか滑稽なのは、コミックやアニメ(特に後者)のパロディの中に、少々エッチな(というよりはかなりどぎつい)性表現を試みているものが多数存するという点である。高校生前後の性に対して興味が高まっている青少年が、自分の心情を過剰に表現していると思えば微笑ましいかもしれない。TVアニメの中には、相当に思わせぶりな場面を設定しているものが少なくないので、そこから妄想を広げて独自の表現技法でマンガ化するというのは、きわめて自然な流れである。しかし、これとは明らかに異質の職業マンガ家による成人向け同人誌の存在も無視できない。市販の雑誌には規制が多く、思うように描きたいものを描けないマンガ家のうっぷん晴らしとも見えなくないが、同人誌の名を借りた営利活動としての側面があるのも間違いない。(4月1日)

  佐藤史生の『ワン・ゼロ』を読み返して驚いた。初めて読んだ時には、最先端のコンピュータ・テクノロジーと古代の呪術的世界観を結びつけた発想の斬新さばかりに注意を奪われたが、昨年のオウム真理教事件を通過した地点から眺めると、むしろ、新興宗教の描写に瞠目させられる。作品中、密教系の仏教を基礎とする新興宗教が登場するが、これを世界的な大企業がバックアップし、宣伝メディアとして利用する。しかも大衆の関心を惹起する仕掛けとして、単なる超能力ではなく、テクノロジーを駆使して増幅された幻視体験を挙げている辺り、大衆心理についての並々ならぬ洞察力を感じさせる。人々が求めるのは、剥き出しの超常現象ではなく、客観的なお墨付きを与えられた驚嘆すべき奇蹟なのである。そして、奇蹟によってひとたび心を掴んでしまえば、いともたやすく常軌を逸した行為に駆り立てられるという。これほどの先見性を持った作品が、1980年代に発表されていたとは、正に驚異である。(4月15日)

  オウム真理教絡みの問題で紛糾していたTBSが、一連のゴタゴタの真相を明らかにすべく、3時間半の特別番組「証言」を制作した。視聴者の中には、事実が完全に究明されていないことに不満を覚える者もあるようだが、私の見る限り、他のオウム報道とは一線を画する力作であり、“報道のTBS”の実力を示す一篇として、今後の里程標となるべきものである。
 この番組を見て痛感するのは、「事実」の重みであり、さらには、それを伝える上で未編集テープの持つ力である。通常の番組では、VTRはディレクターの意図に沿って編集されている。極端な話、失礼な言辞を繰り返し投げつけておいて、相手が怒りを露わにしたその瞬間だけを抜き出して放映すれば、視聴者に傍若無人な悪党という印象を植え付けることができる。ところが、TBSの「証言」では、あくまで事実は何だったかを問う姿勢が貫かれており、通常は放映されない部分まで見せてくれた。このため、あらかじめディレクターが想定したシナリオに沿って編集された場合と異なり、視聴者の側が、あたかも推理小説を読むときのように、自分の頭で真相を探っていくことが可能になった。
 特番によって明らかになった事実は、驚くべきものである。何よりも、ワイドショーがいかにお手軽に作られていたかが白日の下に晒された。
 当時、サンデー毎日などの記事によって注目を集めつつあったオウム真理教に、いくつかのマスコミが取材を申し込んでいたが、TBSのワイド番組「3時に会いましょう」でも水中クンバカ実験を取り上げることにし、本部に撮影隊を送り込む一方、反対派にもインタビューを依頼した。しかし、本部で行われた実験が世界記録も出せずに不発に終わると、担当プロデューサーは放映意欲を無くしたようで、実験後の麻原教祖へのインタビューにおいても、石丸レポーターがお布施の件を追求する発言をして場が騒然となると、レポーターの発言を遮るようにプロデューサーが割り込んで教団側を宥めてしまい、議論は尻切れトンボで終わってしまう(この状況は、未編集テープの放映を通じて初めて明らかにされた)。また、放映前にVTRを見せろという要求にも、熟考することなくその場であっさりと同意する(これは、石丸レポーターの証言による)。
 一方、坂本弁護士らに対する取材も、ファックス一通で当人を呼びつけ、ほとんど打ち合わせのないままカメラを10分ほど回しっぱなしにして談話を収録したものである。放映の際には、適当に字幕を付けて、あたかも受け答えがあったかのように見せる訳だが、実際には、インタビューイの表現能力に全面的に依存した手抜き作業でしかない。しかも、当日の夜遅くオウム幹部がTBSを訪れると、プロデューサーは気軽に面会し、ディレクターに命じて坂本弁護士のインタビュービデオを閲覧させている。本人たちは、端からこの件を重大なことと考えなかったようで、繰り返し「全く記憶にない」という証言には信憑性がある。
 結局のところ、プロデューサーやディレクターが責任感を欠いたまま面白そうな題材でお手軽に番組作りをしているうちに、気がつかないまま虎の尾を踏んづけて大事に至ったというのが真相のようだ。どのような経緯で坂本弁護士の殺害が計画されたかはいまだ闇の中だが、今回の特番で、少なくともTBSが果たした役割だけは明らかになったと言えよう。(5月2日)

  先日NHKで放映されたジュニアドラマシリーズ『クラインの壺』は、往年の少年ドラマシリーズを彷彿とする力作だった。ジュニア向けドラマの基軸である「まだ見ぬ世界への憧れ」を現代社会特有の現実喪失感と結びつけ、陰鬱だが決して絶望的ではないファンタジーの世界を構成している。無論、少年ドラマシリーズに見られた未来への信頼は著しく減殺されており、ラストシーンも大団円とはなっていない。にもかかわらず、生きることへの情動まで否定されないのは、人間同士の紐帯がきっちりと(良い意味で類型的に)描かれているからだろう。一歩誤れば通俗的になりすぎる“年上の女性への思慕”も、節度を保って語られる。しかも、20才以上の“大人の女性”と3歳年長の“お姉さん的女性”を登場させ、前者とは言葉を交わす以上の関係には進ませず、後者とは際どいが決していやらしくない場面を設定するところなど、確信犯と言っても良い巧みな脚本作りが為されている。NHKは、この種のドラマシリーズを単発的に制作していく予定らしいが、今後も目が離せない。(5月6日)

  TVアニメ『新世紀エヴァンゲリオン』が終了して既に1ヶ月半が経過しているのに、いまだにその強烈な印象をまとめきれないでいる。これまでにも、『うる星やつら』や『不思議の海のナディア』など、熱中させられたTVアニメはいくつもあったが、『エヴァ』のように思いがいつまでも尾を引くことはない。あくまで、名場面を反芻するだけである。ところが、『エヴァ』は、心が勝手にシーンを膨らませ、キャラクターを差し替えたり、別バージョンをこしらえたりしてしまう。それは、決してTVに描かれた情景に不満があるという訳ではない。そこで語られている事件が、あまりに普遍的であり、範型として強い情動を呼び醒ますので、思いが画面の枠に収まりきれず、さまざまな形を取って吹き出してくるのだ。
 例えば、綾波レイ。彼女は、ダミーシステムの実体として作られた数十のクローン体で、コアによって人間的存在たり得ているが、心を持つのはわずか数体である。自分でない自分がいる、あるいは、自分でない自分は自分よりも人間的かもしれないし、全く心を持たないただの木偶の坊かもしれない。そんな中で、どうして心を育てることができるだろうか。にもかかわらず、レイは、時に笑い時に涙する。心の不思議を込めて。
 また、アスカ・ラングレイという少女。彼女の母親は夫に捨てられ、引き裂かれた心を娘のアスカに固着させる。娘を道連れにした自殺を試み、狂った心の中ではそれに成功するが、現実においてアスカは生き続けた。親に殺されながら、なお生きている少女。彼女の望みは、全ての人から尊敬され得る自分を作り上げることだったが、あまりに激烈な使徒との戦いの中で願いは完全に粉砕される。そのどうしようもない悲しみ。こうした全てが一つになって『エヴァ』の世界は構成されている。(5月11日)

  釣り人のマナーとして、いまだ成長しきっていない幼魚が掛かった場合、これを再び海に放すのは、ごく当然のことである。ところが、近年の環境保護ブームの中で、釣った魚全てを海に返してしまう人々が現れてきた。捕った魚を食べてしまうのは、残酷であるばかりか環境破壊にも通じ、純粋にスポーツとしての釣りだけを楽しむためには、こうしたやり方が好ましいという発想らしいが、私には、どうにも承服しかねる。
 うっかり釣ってしまった幼魚を放すのは、自己の失敗を認める行為であって、環境への配慮という訳ではない。本格的に資源保護を考えるならば、釣り針の大きさなどを調整すべきであって、いちいち釣果を放すのはいかにも無駄である。そもそも、釣りとは、人間が自然に介入し、その一部を取り上げる営為であり、それによって自然が改変されることも自分の責任として引き受けなければならない。「そんなことが人間に許されるのか」と問う者もあろう。確かに、単なる遊びでは許されない。釣りの成果を自身の糧として、初めて許されることである。これは、誇張した表現ではあるが、節操のない放言だとは思わない。職業的な漁師でない人が釣った魚を食べるのは、残酷な遊びにすぎない──そう考える方が、食べるという行為の持つ重みを忘れている。人間の体は、どのような食物であれ、味覚だけを喜ばせるという皮相的な悦楽を可能にするほど単純ではない。肉の一片を口に入れることにより、その化学組成を分子レベルで分析し、豊富な餌にありつけたか、水質の良いテリトリーを確保できていたかも突き止めてしまう。摂食行為を通じて、われわれは、自然の巨大な連鎖を自己の身体と結びつけられるのである。もちろん、その情報を認識に高めるには訓練が必要であるが、だからと言って、一般人に食事の意義がわからないはずがない。自分が生き物を殺して食らっていると自覚するだけで、食事を味覚の悦楽と考える堕落した発想を矯正するすばらしい契機となるだろう。
 人類は、食事をしばしば宗教的な儀式にまで昇華してきた。観念的な倫理観を持つキリスト教によって止められてしまった人肉食の風習も、もちろん食欲を満たすためのものではなく、強者や智者の能力を分けてもらうことを目的とした儀式である。巨大で雄々しい鯨を捉えて食べ、その上でこれを神として祀る行為の正当性は、自然を崇敬する宗教的立場に身を置かねば理解できないだろう。それに較べて、釣った魚を逃がしてやるという行為のいかに安っぽいことか。動物愛護だと言い訳する人もいるが、魚の顎に針を引っかけて大きな傷を作り、もともとのテリトリーから引き離して捕食者がうようよといる中に放り投げておきながら、愛護を口にするとは片腹痛い。釣りとは、やはり魚を食べてこそ許される営みなのだ。(5月30日)

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©Nobuo YOSHIDA