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  「群盲象を撫でる」という言い回しがあるが、そこには本来の意味よりも深い含蓄を見いだすことができる。元々の説話は、偏った見方しかできない人たちが大勢集まっても、物事の本質を見抜けずに不毛な議論に終始するという否定的なものである。6人の盲人の一人は、足を触って「象は柱のようだ」と言い、別の盲人は腹を触って「壁のようだ」と言い、またある者は尻尾を触って…と、象の全体を視覚的に捉えることのできない盲人たちは、特定の部分のみに触れて全体を推し量ろうとしてしまう。だが、逆に言えば、彼らは、少なくとも特定部分に関しては的を射た理解を持っていたのである。欠けていたのは、彼らの話を全部聞いた上で、「象とは柱のような部分と壁のような部分と……のような部分から成るシステムである」と結論を下せる第7の賢者の存在なのだ。ただし、おそらくは、他人の話に耳を傾ける習慣を持たない愚かな盲人たちは、このような賢者の意見を愚劣な折衷主義として嘲笑することだろう。さらに言えば、賢い盲人も、部分の構成の仕方を誤って、頭の先に尻尾がついているような象の姿を想定するかもしれない。多少は知恵のある盲人が、その点を指摘して賢者の主張を反駁したと言い張る場面もあるだろう。そして最後には、哲学者然とした真の盲が「人間の知性をもってしては象の本質については語ることはできず、語り得ぬことには沈黙しなければならない」と宣って、最高の知性として絶賛されるのだ。(7月25日)

  笙という楽器の底知れぬ魅力は、どこから来るのだろう。私が初めて笙の音を直に耳にしたのは、現代音楽ばかり集めたオーボエのリサイタルで武満徹の『ディスタンス』が演奏されたときである。この曲では、旋律を奏でるオーボエから距離をとるように舞台の後方に笙の奏者が立ち、オーボエを包み込む音のカーテンを作り上げるといった趣向が凝らされているのだが、客席で聴いていると、むしろ笙が発する音の洪水の中でオーボエがもがいているといった印象を受ける。それほど笙の力は圧倒的である。
 もともと笙は雅楽の三管の1つであり、主として楽想を紡ぐためのバックグラウンドを作る役割を受け持つ。西欧の石造建築内部で行われる宗教音楽の場合、こうした背景音は、ホール内で長く残響音を響かせる長波長音によって構成されている。パイプオルガンによる通奏低音は、その典型である。これに対し、開放的な空間で演奏されるアジアの音楽では、比較的減衰しにくい高音が背景を形作ることが多い。私はこれを通奏高音と呼んでいるが、多くの倍音が複雑に絡み合った笙の音色は、単独で聴いても充分に魅力的である。
 笙の不思議な点は、ほとんど音に切れ目がなく演奏されるところだ。ハーモニカと同じくリートを振動させて音を発する楽器なので、息を吹いても吸っても演奏できるためだが、同時に多数の音色を響かせていることと相まって、とても一人の人間が演奏しているとは思えない。結婚式などで雅楽のテープ演奏を聴いたことがある人でも、実音を耳にすると、ほとんどショックに近い感動を覚えるはずである。(9月1日)

  またまたパソコンゲームにはまってしまった。タイトルは、『プリンセスメーカー2』(ガイナックス)。このソフトは、すでに数年前にベストセラーになったもので、遅まきながら購入したのだが、確かに人気が出るだけの要素に満ちている。何よりも、父親になりかわって少女を教育するという発想が楽しい。現実に娘を育てるのは労多くして益少ない行為だが、この電脳少女は、実にかわいらしい。教育に失敗しても、その脱線ぶりがまた愉快である。頭の固い教育批評家からは非難の声が上がるかもしれないが、人生自体、それほどしゃかりきに立ち向かわねばならないものでもないのだから、かまわないのではないか。それに、虚構現実の中で生きる少女も、風俗店でアルバイトをすればすぐにグレるし、非行に走れば家の金を持ち出して買い食いしたりする。何やら現実そのもののようでもあり、妙に共感を覚える。もちろん、城外でモンスターを殺しすぎてカルマが高まるといった超現実の設定もあるが、それはそれで理に叶った趣向である。ちなみに、私がこれまで育てた4人の娘たちはと言えば……最初の娘は、能力が乏しくてさすらいの占い師に身を落とし、2番目と3番目はそれぞれ戦士と魔法使いとして活躍するが、いずれも色気ゼロのカタブツである。そこで、少々モラルは低くても色気溢れる戦士に育てようと頑張ってみたら、あちら立てればこちら立たず、悪魔と付き合った挙げ句、とうとう札付きの悪党に転落してしまった。情けない。(9月10日)

  オウム真理教への適用が問題となっている破壊活動防止法について調べてみた。第1条では、「団体の活動として暴力主義的破壊活動を行った団体に対する必要な規制措置を定める」と法律の目的が述べられており、一見きわめて広範な適用範囲を持つように思われる。しかし、これでは、左翼・右翼の過激派のみならず、暴力団や暴走族の取り締まりにまで利用されかねない。立法者自身、そのことを弁えており、第2条で「公共の安全の確保のために必要な最小限度においてのみ適用すべきであって、いやしくもこれを拡張して解釈することがあってはならない」と明言している。さらに、ダメを押すように、第3条で「いやしくも権限を逸脱して…国民の自由と権利を不当に制限するようなことがあってはならない」と、いささか法律の体裁を崩してまで繰り返し述べている。
 この法律が、これほどまでの弁明を必要としたのは、それなりの訳がある。もともと破防法が成立した背景には、アメリカに始まる反共産主義運動の高まりがあった。マッカーシー上院議員による反共キャンペーンが異常なほどの盛り上がりを見せた結果、共産主義者は、暴力革命による国家転覆を目的とし、そのためには社会不安を助長するテロ活動も已むなしと考える暴力主義者だと見なされるようになる。しかも、共産主義の教義はマルクスらの著作を通じて広く普及しており、中央執行委員などの幹部を捕まえても、下部組織が地下に潜伏してゲリラ化する畏れが指摘された。こうした中で、日本でも、全ての過激な共産主義者を一網打尽にする法律が望まれるに至った。ただし、思想・信条の自由を認めるという憲法の条文があるので、共産主義者と名指しすることはできない。一般的な暴力主義者の取り締まりという大義を掲げて人々の批判をかわしつつ、具体的な適用段階で共産主義者をターゲットとするような法律を作らなければならなかった。こうしてできたのが破防法であり、暴力団の取り締まりなどに適用できないように、さまざまな足枷がはめられることになる。この足枷によって、破防法は、対共産主義者用に特化された異例の法律となり、必然的にオウム真理教に適用できないものになったのである。
 最も重要なポイントとなるが、第4条における「暴力的破壊活動」の定義である。こうした行為は、2種類に分類されている。第1に掲げられているのが、内乱およびその陰謀・幇助・教唆・煽動である。この項では、後半で内乱実行の正当性を主張する文書の頒布まで含めており、拡大解釈される危険があるが、少なくとも、内乱罪/内乱準備罪の適用が見送られたオウム真理教には当てはまらない。
 条文では、さらに、第2の類型に該当するものとして、「政治上の主義もしくは施策を推進し、支持し、またはこれに反対する目的を持って」騒擾・放火・爆破・殺人等々を行うことが挙げられている。ここで「政治上の主義・施策」という文言があることに注目されたい。左翼運動が活発だった当時、この規定は、取り締まるべき対象を定める自明の前提であり、暴力団や暴走族にこの法律が適用できない法理論上の根拠にもなった。法律を文言通り解釈するならば、たとえ暴力的行為を日常的に行っていようとも、それが政治的なものでない限り、破防法の対象とはならない。それでは、オウム真理教のような宗教団体の場合はどうか。見方によっては、既存の社会組織に従属することを潔しとせず、非生産的な集団生活を営もうとする発想自体、資本主義経済体制に則った現行の政治を否定するものとして政治思想と見なされるかもしれない。だが、こうした解釈は、「政治」という概念をあまりに一般化しており、第2条で戒められた「拡張した解釈」に相当する。オウム真理教に破防法の適用が検討される契機となった犯罪は松本と東京のサリン事件をはじめとする一連のテロ活動だが、これらは、反オウム論者の抹殺や捜査の攪乱を目的とするもので、政治的意図は薄いと考えられる。こうした点を考慮すると、オウム真理教への破防法の適用は、法理論の上から無理だと言わざるを得ない。(10月2日)

  テレビ東京で放映されているアニメ『新世紀エヴァンゲリオン』の無類の面白さはどこから来るのだろうか。まだ7話を視聴しただけだが、すでに水曜日の6時半を心待ちにするようになっている。作品の設定には、これまでにないある種の“ひねり”が加えられているが、かと言ってきわめて斬新という訳でもない。2015年、人類は定期的に“使徒”と呼ばれる生物型ロボットの攻撃に曝される。これを撃退すべく開発されたのが、人型兵器エヴァンゲリオン、その設計に当たったのが碇司令官という謎の人物だ。物語は、碇の息子シンジがエヴァンゲリオン初号機のパイロットとして呼び出されるところから始まる…とこう書けば、『機動戦士ガンダム』などに代表される巨大メカ・アニメの傍系であることは、直ちに見て取れよう。人類の命運を担うパイロットたちが、なぜか少年少女だという状況設定も『ガンダム』と同じである。にもかかわらず、『エヴァンゲリオン』には、従前の作品にない張りつめた悲しさがある。『ガンダム』の亜流に陥ることを怖れた多くのアニメータがさまざまな工夫を凝らす中で、細部に拘泥するだけの自己満足に終わらず、芸術的に高い成果をかち得たのは、この作品以外には、伊藤和典・押井守の『機動警察パトレイバー』くらいだろう。なぜか。思うに、他のアニメ作品では、子供(ないし子供っぽい青年)が巨大メカを操ることに対して、作家が何とか言い訳を考えようとしたことがマイナスに作用したのではないか。いかにシナリオをいじったとしても、子供と兵器の取り合わせはあまりに不自然であり、それを言い繕おうとするためにストーリーに無理が生じてしまう。ところが、『エヴァンゲリオン』では、そうした無理を何ら説明なしに作品の前提とし、話を先へ先へと進めていく。その結果、訳も分からず巨大な兵器を操縦させられる主人公の少年の苦悩が、かえってストレートに表現されることになったのだ。また、いきなり不条理の世界に陥るという設定は、カフカの『変身』などと同じく、普遍的な類型として感情移入しやすいという面もある。しかも、主人公のシンジは、戦闘のないときはふつうの高校に通い授業を受けている。こうした日常生活の描写が、その背後にポッカリと穴をあけて待っている不条理を際だたせるのに役立っている。(11月13日)

  『Ghost in the Shell 攻殻機動隊』は、映像芸術の1つの到達点である。脚本の伊藤和典と演出の押井守という日本アニメ史上最強のコンビに、士郎正宗の原作と川井憲次の音楽が加わって、考え得る限り最高の作品に仕上がっている。
 押井守は、初期の『うる星やつら』の頃から、全てを合理的に把握する近代科学主義に異を唱えてきた。その1つの成果が、彼が初めて鷹の爪を見せた『ビューティフル・ドリーマー』だが、そのあまりに入り組んだ迷宮的世界は、理解不能な知性の戯れと感じられなくもなかった。その後、劇場用アニメ『天使のたまご』やOVA『迷宮物件』では、非合理的な超常現象への傾斜を見せ、ファンを心配させた。しかし、脚本家の伊藤和典とTV時代以来のコンビを復活させたOVA『機動警察パトレイバー』シリーズでは、良い意味での大衆性を取り戻し、爽快感をもたらすアクションと、陰湿な肉体の存在を忘れさせるチャイルディッシュなキャラクターの設定によって、ともすれば閉塞状況に陥りがちだったアニメの限界をあっさりと打破する。さらに、劇場用『パトレイバー』では、究極的なテクノロジーがもはや人間の理解能力を超えるという意味で超常的なものに近づいていくことを示し、現代世界が底知れぬ神秘の縁に立っていることを感じさせた。この時点で、伊藤・押井コンビは日本最強タッグとなったわけだが、続く『パトレイバー2』では、前作を凌ぐショックを見る者に与えた。この作品では、現在の東京が驚くべきリアリティをもってアニメの世界に写し取られ、その上に、近未来に起きるかもしれないクーデターが実況中継でも見ているかのような迫力で描き出されたのである。山形国際ドキュメンタリー映画祭では、この作品がドキュメンタリーの1本として上映されたが、作品選考委員の慧眼を評価したい。そして、ここまで来ると充電にあと数年はかかるだろうという私の予測は見事にはずれ、このたびの『Ghost in the Shell』の登場となった。
 この作品の魅力をどのように語ればよいのか、私はいまだに言葉を見いだせない。いや、そもそも言葉にすること自体、作品の本質から遠ざかっていく営みである。これは、正に映像として完璧に構成された一つの世界であり、分析的なアプローチは相応しくない。強いて言うならば、テクノロジーは既に人智を越えていることを実感させる世界なのだ。(11月23日)

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©Nobuo YOSHIDA