【「徒然日記」目次に戻る】



  地下鉄サリン事件は、単に日本の安全神話が覆されたのみならず、現代都市文明の根幹にかかわる重大な問題が提起されているという点で、今後長く論じられなければならない。NHKがレポートしていたように、当日地下鉄に乗り合わせた乗客は、毒ガスが揮発し始めた段階で、セキや悪心などの症状を感じながら、自分だけのことと思って我慢していたという。これが、顔見知りばかりが乗っている田舎の乗り合いバスならば、互いに声を掛け合って、早期の手当が可能になったと推定される。現代的な大都市とは、多数の人間が匿名性を保ちながら大量輸送機関を使って行き来している世界であり、その利便性と安全性の保証が都市機能に不可欠である。ここに毒ガスをまき散らすという犯罪が、単なる複数殺人と質的に異なることは明らかだ。そもそも毒ガス兵器自体、第1次世界大戦でドイツが用いて以降、きわめて非人道的な性格のものとされる。第2次大戦の末期、アメリカが硫黄島に立てこもる日本軍に対して使用しようと勘案しながら、戦後の国際的非難を恐れて断念したことも知られる。一般市民を大量かつ無差別に殺戮する兵器としては、原爆以上に嫌悪感を呼び覚ます。こうした兵器を大都市の公共交通機関で用いることは、都市秩序そのものの否定に通じる。しかも、満員の地下鉄のように逃げ道がない密室は、アウシュビッツときわめて似た状況を現出する。現時点で、犯人は特定の宗教団体の信徒ではないかとの推測が流れているが、おそらく事件のは以後には、よりリアリズム指向のイデオロギーがあると思われる。(4月9日)

  東京都知事選挙で青島幸男が当選した。大阪府知事となる横山ノックと併せて、東西タレント知事の誕生である。こうなった上は、市民がしっかりしなければならない──とジョークを言っても仕方ないが、期待3割・不安7割の船出である。
 青島氏の当選は、見えないところで政策を決めていく官僚政治の在り方に対して、都民が不満を持った結果だろう。現都知事の鈴木氏も官僚出身であり、都財政の建て直しという点では手腕を発揮したものの、市民生活に直結する分野では失政の連続だった。バブル時代には必要な地価対策を講じなかったために、商店街が地上げで崩壊するケースが相次ぎ、都心部を人の住めない街にしてしまった。ゴミ問題についても、せいぜいゴミ袋を半透明化するという小手先の対策を実施した程度で、リサイクルやデポジット制など抜本的な施策にはほとんど手を着けずじまい。臨海部に大規模な埋め立て地を用意したものの、オフィスビル需要が低迷する中で、テナント募集の垂れ幕ばかりが目立つ空きビルを量産しただけである。1970年の大阪万博よもう1度と企画した都市博も、出展企業が集まらず、四苦八苦して開催に漕ぎ着けたが、人気はいま3つ4つ。都民の血税を搾り取って造った壮大な都庁舎が、いたずらに天を摩すばかりである。
 これほど失政を重ねたにもかかわらず、鈴木知事に対して、都議会や中央政党はほとんど批判の矢を向けないばかりか、直々に後継者に指名した官僚出身の石原信雄氏を、一緒になって担ぎ出す有様である。本来なら自民党に対抗する勢力であるはずの新進党も、(当初は独自候補として鳩山邦夫氏を擁立する予定だったらしいが)結局は自民・社会の推す石原氏を追認し、勝ち馬に乗ろうと目論む始末。こうした状況に、都民が怒りをぶつけたのが、今回の選挙結果なのだろう。
 ただし、新知事となる青島氏がどこまで都政を改善できるか、疑問に感じざるを得ない。そもそも同じ無党派候補であった大前研一氏や岩國哲人氏と異なり、青島氏は政策らしい政策を打ち出していない。選挙期間中も演説を行わず、選挙費用を20万円に抑えてしまったほどである。これはこれで美談ではあるが、知事の椅子について何をするか予測しにくい。一応、公約として、都市博の中止や破綻した信組への資金提供の見送りを掲げてはいるが、信組問題はともかく、すでに一部で着工が始まっている都市博を中止してしまうのはかなり難しそうだ。都の役人も、青島氏に何とか思いとどまるようにレクチャーしているようであり、最終的にいかなる決着を見るか判然としない。私としては、個々の政策よりも、都行政の実態を明らかにする努力をしてほしい。陳情はどのように行われるのか、都職員はいかなる進言をして知事をコントロールするのか、都庁舎内部は充分に機能的に組織されているか、こういったことをTVカメラや文筆活動を通じて白日の下に曝すことが望まれる。それが、都政改革の第一歩である。(4月10日)

  連日マスコミを賑わせているオウム事件の報道ぶりを見ると、日本人は集団ヒステリーに罹ったのではないかと思えてくる。確かに、毒ガスを用いた無差別テロという世界でも類例のない事件に直面して、都市生活の基盤が揺らいだのは事実である。しかし、だからと言って、その犯人を抱えていると目される宗教団体に対し、刑事訴訟法に違反する別件捜査を行ったり、宗教活動の異常さをことさらにあげつらうことが許されようか。前者に関しては、駐車違反や旅館の宿帳に偽名を記したなどの軽微な犯罪を口実に逮捕し、取調室で本命の事件について自供させるという戦前の特高を彷彿とする空恐ろしい手法が採られている。無論、こうして得られた調書は裁判では証拠能力がないが、これを使って物証を探し当てようという下心が見え隠れする。オウム本部の強制捜査も、あくまで殺人予備罪の名目で行われ、肝心の地下鉄サリン事件との接点を明らかにしていない。70年代のマスコミならば、ここぞとばかりに警察の横暴を書き立てたはずだが、今のところ黙認する構えを取っているのはいかにも寂しい。
 こうした状況が生み出されたのは、1つには、サリン事件があまりに反社会的で、これを取り締まるためには少々の脱法行為も許されるはずだとする心情があるが、それに加えて、異端の宗教に対する偏見に満ちた眼差しを看過する訳にはいかない。日本人は宗教意識が希薄だと言われるが、それは、全く信仰心がないからではなく、祖先礼拝や現世利益への渇仰という形で日常的思考法の中に信仰が取り込まれてしまっているからである。このため、宗教的な感情の基盤をなすはずの崇高感が体得されることが稀で、キリスト教やイスラム教の信徒が神に対して覚える畏怖の念を、オカルト的な超常現象に向けてしまっている。こうした発想法になじんでいる多くの日本人は、教祖の非日常的主張に盲目的に追随するカルト宗教に対して、過度な嫌悪感を抱きがちである。よく考えれば、日本人の国民的宗教とされる仏教も、人が死ぬやいなやスキンヘッドの男たちがやってきて、訳の分からぬ呪文を唱えるだけで何十万円もふんだくっていくという異常な宗教だが、これも日常生活に組み込まれた儀礼として解釈されているから、クレージーとは感じられない。ところが、教祖の命令で日常から離れ、家族とは散り散りになり、世俗財産を教団に寄進してしまうような宗教は、日本人の信仰心とは決定的に異なるため、単なる不気味さ以上の反社会性を感じるのだろう。
 これと似たケースとして、「イエスの方舟事件」が思い起こされる。これも、若い女性が社会や家族から離れて宗教家の元に走るという非日常的信仰に対し、多くの日本人が激しい嫌悪感を抱くという構図を示すものであった。もちろん、イエスの方舟事件とは異なり、オウム真理教の場合は重大な刑事事件と深く結びついている。しかし、現時点では、教団幹部が組織ぐるみで犯行に及んだかははっきりしておらず、宗教的嫌悪感をもとに違法捜査を容認するのは好ましくない。(4月17日)

  日本人の食文化に関して、洋風化により野菜の摂取量が減ったことがしばしば問題とされるが、野菜そのものの栄養価が激減していることも見落としてはならない。ほうれん草は、かつて野菜の王様と言われ、ビタミンや鉄分の豊富さを誇っていたが、今では、ビタミンAやCなどの含有量が戦前の数分の一に落ち込んでいる。理由はいくつか考えられるが、最大のものは品種の相違だろう。20数年前まで食されていたのは、主に日本原産のものであり、根の近くが赤く、味は苦みが強い。シュウ酸も多く含有するので、結石を防ぐためには湯がいてアクを除かなければならない。これに対して、現在では西洋ほうれん草が多く流通しており、アクが少ないために生食も可能だが、ビタミン類・鉄分ともに劣る。消費者は、エグみがなく調理に手間の掛からない品種を好むため、自然と西洋種が日本種を駆逐する形になったようだが、同時に栄養までも失われたとなると、問題は深刻だ。ニンジンについても、同様のことが言える。かつてのニンジンは、青臭く色も濃くて、小学生が最も嫌う野菜だった。ところが、近年のものは、甘みが強く、色も鮮やかな橙色になったため、子供の嫌う野菜のトップテンから脱落したほどである。これは、主として品種改良の結果だが、栄養面から見ると改悪になっている。トマトやキュウリ、ダイコンなど、消費者の嗜好に迎合して栄養を犠牲にした例は数多い。近年、子供の成人病が問題になっているが、ビタミンやミネラルが少なく、糖分の多い野菜ばかり食べていることも、その要因の1つになっているかもしれない。(4月26日)

  オウム真理教に入信する若者はいかなるメンタリティの持ち主なのか。マスコミなどは、主体性に乏しく、権威に弱い性格類型を想定しているようだが、私が思うに、世界について真剣に考えようとした人々ではないだろうか。アンケートなどによると、現代青年の過半数が超能力やUFOのような超常的事象の存在を信じているという。しかし、彼らは、こうしたテーマを友人との会話やTV鑑賞などの非生産的な場面に限定して扱っており、教室や職場で持ち出すことはしない。良く言えばTPOを心得ているのだろうが、むしろ、状況に応じて場当たり的に生きているようにも見える。超常現象だけではなく、例えば、心良く思っていない人の結婚式に出席しても、適当なお祝いのスピーチを行って相場通りの祝儀をはずむ。それが社会人の常識と言えばそれまでだが、世界全体を統一的に眺め、人生において確固たる視座を得ようとしている人間にとっては、かくも日和見主義的な生き方は耐えられないだろう。厳格な道徳主義的立場に立つと、もし超常現象が実在するならば、社会の道徳は、実在しない場合とは全く異なったものになるべきである。現行の社会常識が超能力の存在を前提としていない以上、新しい道徳を自ら樹立しなければならない。特に、輪廻転生を現実の過程と見なすならば、人は“死”について全く異なった態度を取ることを迫られる。こうした立場から世界を真剣に見つめた人々が、オウム真理教に走ったのではなかろうか。惜しむらくは、彼らが現代科学の持つ奥深さまで知る機会を得られなかったことだろう。この社会を成立させている基盤的知識について無知なまま真摯に生きようとすると、必然的に反社会的な行動を招来してしまう。(6月12日)

【「徒然日記」目次に戻る】



©Nobuo YOSHIDA