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  雨宮慶太監督の『ゼイラム2』は面白い!映画を賞賛するのにさまざまな修辞が用いられるが、この作品には余計な形容はいらない。純粋に面白いのだ。『ゼイラム2』の魅力の核になっているのは、ヒロインたるイリアのキャラクターである。“滅法強い女性の戦士”という設定は、『腰抜け二挺拳銃』をはじめ意外と多くの作品で見られるが、イリアほど徹底してクールな性格の持ち主は稀である。なまじの脚本家は、サスペンスを増やそうとして女戦士の女性らしい弱みを描いたり、花を添えようとロマンティックなエピソードを挿入したりしがちである。しかし、さすがにTVの演出を通じて面白さのエッセンスを抽出する技術を会得している雨宮監督は、そうした不純な要素を持ち込んで映画のペースを乱すことはしない。イリアは最後まで弱音ひとつ吐かず、圧倒的な強さで戦い続ける。彼女が危地に陥るのは、ドジな男二人を救おうとするためであり、彼女自身が戦いで負かされる訳ではない。しかも、男女が共に戦いながら、そこに恋愛が生まれる余地はない。男たちは、かたや結婚式の前日、かたや別れた妻とよりを戻そうという立場にある。こうして、人間的な弱さのない純粋なキャラクターが描出されるのである。(10月2日)

  事実とは何か。日常生活に見られる錯綜した状況を言語的表現で置き換えようとするとき、否応なくこの問題に悩まされるのに対して、自然科学の領域では、(動物行動学など特殊な領域を除いて)混乱が生じる余地はない──そう考える人も多いかもしれない。だが、事態はそれほど単純ではない。実際、物理的な事実は、ある物理量が特定の値を持つことだと思われがちだが、必ずしもそうではない。例えば、波動現象における周波数は、明確に定義された物理量に見えるが、「ある時刻の周波数」というときには避けがたい曖昧さが派生する。周波数を決定するためには数周期にわたって変位を測定する必要があり、時刻が特定できなくなるからだ。数学的には、ウィグナー変換によって時刻と周波数を共に決定することも可能だが、複数ある変換手法の中からこれを選び出す根拠は明確ではない。同様に、温度の定義も必ずしも一意的でない。こうした事態を勘案すると、物理的な事実の特定は、決して容易でないことが明らかになる。(10月20日)

  精神分裂病は、脳神経科学者の躓きの石となる。基本的には、ドーパミンを伝達物質とするニューロン系の過活動と見なされるのだが、症状がきわめて多様で統一的な疾病像が描きにくい。20世紀初頭、ブロイラーは早発性痴呆という形でこの病を定義したが、進行性の知能障害は、必ずしも精神分裂病の主症状ではない。幻覚も、多くの患者で観察されるもののこれを欠くケースもあり、症状だけを見ていると、はたして「分裂病」として分類される単一の病気があるかどうかすら怪しくなる。何人かの学者は、特定の症状と障害部位を結びつけようとしており、記憶力減退のケースでは側頭葉、抽象的思考が困難になるケースでは前頭葉、感情が激変するときには脳幹が、それぞれ侵されていると主張する。その一方で、症状と病変の単純な対応関係は認められないとする学者も多い。学界でのこうした混乱は、疾病像を確立する上で有効なデータが欠落していることに由来する。分裂病は、おそらくシナプス周辺の病変に起因するものであり、死後解剖でも病巣が特定できない場合が多い。最近では、MRIによって生きている患者の脳活動を測定できるようになり、分裂病患者で視床の活動が低下しているとの報告もある。今後の研究に期待したい。(10月28日)

  人間の常識は、主にアソシエーションと呼ばれる心理操作に由来している。われわれが当然と考えることの多くは、単に、頻繁に経験される過程であるにすぎない。例えば、人は感動した出来事をありありと覚えているものだが、なぜかと問われると、「当たり前だ」と答えるに違いない。深く心を揺り動かされたならば、その経験を深く記銘するのは当然だという訳だ。しかし、これは本当に当たり前のことだろうか。感動とは、脳幹からの刺激に基づいて生起する一連の心理的過程の総称であり、記憶と直接に結びつくものではない。感動的な体験と明瞭な記憶が日常生活の中でアソシエートされて現れることが多いので、両者の間に因果関係があると錯覚しているだけなのかもしれない。実際、最近出された報告によると、情動反応が記憶の促進をもたらすのは、βアドレナリン系の神経活動の結果であり、その機能をブロックする薬剤を投与すると、記憶力が通常レベルに戻るという。常識の基盤を考え直すことが、科学的思考の出発点となる。(10月30日)

  ダイヤルQ2の支払いを巡る訴訟に関して、最近では、「無断使用なら免除」という判決が定着しているという。ダイヤルQ2とは、電話による情報サービスの提供者に代わって、NTTが利用者から情報量を(電話料とともに)徴収するというシステムである。NTTは、回収代行料として、情報量の約1割を受け取っており、その収益は、1991年には1400億円にも上った(その後は大幅に減少している)。適切な情報が提供されれば、利用者にとってもメリットが大きく、有用なサービスであることは間違いない。ただし、この種のサービスに伴う宿命的な欠点として、風俗関係の情報が流され、場合によっては公序良俗に反するケースも生じることは否めない。もちろん、成人が自分の意志の下にこの種のサービスを利用することは、法的に許されるべきである。問題は、電話加入者に無断で第三者がダイヤルQ2を利用したとき、加入者が債務を負うかどうかである。特に利用者が未成年の場合、民法による契約の取り消し権の適用が検討されなければならない。
 私の見解では、ダイヤルQ2は加入者の了解を取らないまま一方的に始められたサービスであり、加入者が意図的に利用したのでなければ、支払い義務は生じない──というものである。NTTは、電話料の請求書(または領収書)とともに新サービス開始の通知を送付しているが、そこには、他社が行うサービスに対して代金回収を行うという重要項目が含まれていながら、加入者の注意を喚起する形で記載されていない。このため、多くの加入者が、ほとんど目を通さないまま通知書を捨ててしまったと推測される。加入者からしてみれば、電話取り付け時に取り交わした契約が大幅に変更されているのに、そのことを充分に知らされないまま使い続けていたわけである。こうした状況下で、加入者に無断でダイヤルQ2サービスが利用されたとき、その料金を支払う義務がないことは当然だろう。(11月17日)

  科学者が、理論の対象となる自然現象についてのイメージをどのように作り上げていくかは、研究経験のない人には、かなりわかりにくいものである。イアン・ハッキングは、『表現と介入』の中で、実験室科学という概念を提出し、対象から独立した装置を使ってある現象に介入し、その応答を観察する過程で、自然についての描像を獲得するという見解を表明している。これは、日常的な状況下で客観的存在についてイメージを形成する局面と基本的に同一のプロセスを経て科学的客体が構成されることを含意する。われわれは、眼前のコップについて、手に取り持ち上げることによってその存在に介入し、そこからの触覚的・視覚的応答を通じて、コップなるイメージを作り上げる。科学の場合も同様に、高エネルギー散乱実験をもとに素粒子描像を練り上げるという主張である。
 この議論は、一見明快だが、科学理論におけるモデルの役割を過小評価するものであり、現実的ではない。実際の科学者たちは、実験・観察のセットアップやデータにそれほど精通している訳ではなく、むしろ、理論的なモデルの方がイメージを作り上げるのに本質的な寄与をしていると思われる。20世紀初頭までは、一人の科学者が実験と理論の双方を担当していることが多かったので、実験現場からの細かなフィードバックによるイメージの練り上げが行われていた。だが、1920年代頃から実験・観察を行わない純粋な理論家が登場し、彼らが独自の手法で、必ずしも自然ではないにもかかわらず、ある種の具体性を帯びたモデルを作り上げるようになる。具体的には、ボーアの液滴模型やノイマンのオートマトン理論を考えればよい。現在では、生物学は社会学においてもモデルが先行し、実際の観察を通じてこれを修正していくというトップダウン式の理論構成が主流になっている。(12月7日)

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©Nobuo YOSHIDA