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  素敵なTV番組を見た。
 昭和28年、当時19歳だった女性が、京都の露店で1冊の日記帳を手にする。まだ紙が乏しかった当時、和紙を手で綴じた冊子に、几帳面な毛筆書きの記録がつづられている。文面を見ると、筆者はあまり売れない画家らしく、完成した作品の記録がつけられているほか、食事や掃除などの日常的些事についても事細かに記載されている。一目で心惹かれた女性は、直ちに小遣いをはたいてこの日記を購入した。以来40年、憧れの対象となった画家の姿を求めて女性は人に尋ね回るが、肝心の画家の名前すらわからないまま時が過ぎ、いつしか決して相見えることの叶わぬ相手と思い始めた頃、視聴者からの無理難題を解決するTV番組があることを知る。
 半信半疑で番組に申し込んでから、スタッフと協同での探検が始まった。まず着手したのが、画家が個展を開いたと記されている画廊の捜索。日記に書かれた地番にもはや画廊はなかったが、偶然、近所に移転先を知る人がいた。当の画廊を訪ね、件の日記を見せると、店主は画家の名前を思い出す──錦義一郎。絵画が目の飛び出る高値で売買されることのなかった当時、画家は皆貧しく、しかし理想に燃えていた。そうした高踏的な画家の一人である。
 残念ながら、画廊に本人の作品は残っていなかったが、画家とつき合っていた人を紹介してくれた。その人物の息子は、今もなお広大な屋敷に住んでいる。そこで女性は初めて画家・錦義一郎の写真と作品を見る。ブラウン管を通しても、その目にうっすらと涙が浮かんでいるのがわかる。隣家に下宿していた画家と家族的なつき合いをしていたという息子は、大柄で豪放な錦氏が、かくも几帳面な日記を残していたことに驚きの表情を隠せなかった。ただし、画家の作品を希望する女性に対し、大切な思い出だから譲ることはできないと言う。そのかわり、錦氏の作品を所蔵するコーヒー店の所長の名を挙げた。女性と番組スタッフが訪ねると、こちらも代替わりしており、今の社長は美術品に興味がないらしい。会社の物置に先代が収集した絵が無造作に積み重ねられており、中には東郷青児の作品も混じっていたが、錦義一郎のものはない。諦め掛けたスタッフが会社の事務室にかかっている絵を漠然と眺めていると、そこに Giichiro Nishiki の署名が… バラを描いたこの作品は、社長の好意で40年間慕い続けてきた女性に譲られることになった。これをこそ夢の実現という。(『探偵ナイトスクープ』を見て)(7月4日)

  人間の行動がどこまで遺伝子に支配されているかという問いに対しては、これほど分子生物学が発展した現代においても、信頼に足る解答は出されていない。そもそも、問題の意味すら明確でない。遺伝子欠損によって視覚を奪われた人は、健常者と異なる行動パターンを示すが、これは、遺伝子の行動支配の例とは見なされない。理論的には、遺伝子による中枢神経系の構造決定が、行動のような高次の現象にどれだけ関与しているかを問題とすべきだのだが、それでも、自律神経系の不調による低血圧体質が消極性の原因となっているケースのように、論点が曖昧になってしまう場合が多々ある。さらに、遺伝子と性格との関係ともなると、(評判の悪い)疫学調査に頼らざるを得なくなり、信憑性は著しく低下する。実際、双生児を用いた大規模な性格調査が実行され、遺伝子はほぼ50%の決定能を持つと結論されているが、どうしても眉に唾をつけざるを得ない。同じ調査によれば、兄弟の準位が性格に及ぼす効果は小さいとされており、われわれの実感に反する点も気にかかる。
 人間の行動と遺伝子の関係を論じるには、行動の構成要素となる個々のパターンを明らかにすることが必要だろう。これは、還元主義的な主張と思われるかもしれないが、方法論的にはやむを得ぬ措置だと解釈できる。構成要素への還元を忌避した場合には、最近物議を醸した同性愛の起源に関する主張──男性同性愛は、X染色体の特定領域の変異によって生じる──のように、一歩誤れば優生思想の復活につながりかねないことを自覚する必要がある。具体的には、文字認識能力における遺伝子の役割や空間把握のキューとなる形態分析の先天的規定性などに関して、少数の遺伝子座位をターゲットとした相関分析を行う研究手法が有効だと思われる。(7月19日)

  ウンベルト・エーコの『フーコーの振り子』は、『薔薇の名前』に感動した人々の期待を裏切らない傑作であり、悲劇的な前作に対して見事なコメディとなっている。多くの枝葉を伴っているために作品の全体像を展望するのは容易ではないが、メインになるのが、テンプル騎士団の“計画”を巡る騒動である。とある中小出版社が、オカルト人気を当て込んで素人研究者によるいかがわしい叢書を企画する最中、ヨーロッパ中世に活躍した異端の騎士団の末裔が残したとおぼしき秘密文書を入手する。主人公を含む3人は、この文書を元に、テンプル騎士団には600年に及ぶ壮大な“計画”があったとの仮説を立て、これに史実を当てはめていくのだが…
 この小説で最も面白いのが、歴史と虚構の綱渡り的な結合である。“計画”についてさまざまな憶測を積み重ねていく3人は、もちろんこれが完全なでっち上げであることを知っているのだが、まじめな出版物にまとめる意図もあるため、正当な文献との間に何らかの関連性をつけようとする。かくして、シェークスピアのゴーストライターであるベーコンが薔薇十字にまつわる秘密を作中に暗号化して残しているといった抱腹絶倒の大ボラ話が延々と紡がれていく。膨大な学識がある著者にしてはじめて可能な虚構の構築を大まじめに続けていくうちに、いつしか現実と虚構の境界が定かでなくなり、そもそもでっち上げだったはずの“計画”に関与する結社が現実のものとして登場するや、読者は、チェスタトンの名作『木曜の男』を彷彿とする逆説の洪水に飲み込まれてしまう。実は、エーコは、小説の末尾に合理的な説明を与えているのだが、これは蛇足というもの。むしろ、作中に現れるワープロを使った言葉遊びや暗号の解読(アルセーヌ・ルパンまで登場する!)の愉快さと併せて、ミュウヒハウゼンの昔語りを宇宙誌的に拡張した作品として味わうべきだろう。(7月28日)

  ク・ナウカの『フェードル』は、宮城聡の方法論を実現したステージとして、なかなかの成功を収めてはいる。特に、イポリットの死を従者が報告するシーンは、打楽器の演奏と演技者の舞踏風の動きが相俟って、ラシーヌの原作ではいささか大仰な台詞の羅列としか思えないくだりが、心を揺さぶる感動的な場面となっている。ただし、ク・ナウカの先行作品である『サロメ』や『チッタ・ヴィオレッタ』に較べて、著しい進展はない。それどころか、中段での語り役と演技役の交代やポピュラー音楽の使用など、演出意図が計りがたい部分もある。パーフォーマも、美加理以外は必ずしも充分な実力があるようには見えない。宮城聡がきわめて才能豊かな演出家であるだけに、一考していただきたい。(ク・ナウカ公演『フェードル』(クエストホール)を見て)(8月5日)

  時間軸が円環状になったとき何が起きるかという問題が、近年、現実的なものとして語られるようになった。古典論の範囲では、ゲーデルが示した一般相対論の特殊解などをもとに、こうした円環状時間の可能性が検討されることもあったが、新しく提出された理論では、量子効果の取り扱いが重要な役割を果たしている。
 円環状の時間を考えるとき、“流れる今”をイメージしていたのでは、因果律がどのように実現される(あるいは破綻する)かという問いに答えることはできない。あくまで、物理学的に問題を定式化する必要がある。当然のことながら、初期条件を設定し、運動方程式に従って系の時間発展を考えるという古典論の手法は、円環状の時間に対しては修正を余儀なくされる。小手先の修正としては、系の状態を時間の多価関数にしてしまうものだが、これは、円環時間を "rewind" して1価関数に直せるので、問題の解決にはなっていない。また、円環時間上において初期条件と運動方程式を同時に満たす解だけが現実的なものだというきわめて強い制約を課すことも考えられる、ほとんどの場合に解が存在しないために有効性に乏しい。むしろ、局所的に作用積分が最小になるように変化が進行するという古典論の発想を否定し、円環構造を時間の大局的なトポロジーとして前提し、その上で世界の全作用積分が極小になるような状態が量子論的に実現されると考えるべきだろう。こうした手法の変更を認めるならば、円環状の時間は現実的な理論対象となる。(8月10日)

  ミロラド・パヴィチの『ハザール事典』は、小説家の夢を実現したと言ってもよい奇抜なアイデアに満ちた秀作である。実際、「創元」に掲載されたこの著作の紹介記事を読んだとき、私はてっきりレムの『完全な真空』のごとき架空の作品の書評だと思ったほどである。伝説の国ハザールの歴史と関連人物についての事典の体裁を採りながら、自由に想像の翼を拡げていくという構想は、ナボコフの『青白い炎』を連想させるが、ナボコフの作品が明確なストーリーラインを持つのに対して、パヴィチの物語は、きわめて多層的で、びっくり箱の中に膨大な学識が詰め込まれたかのような趣である。
 『事典』で語られる時代は、大きく3つに分けられる。 (1)史実と思われるハザール論争が行われた9世紀頃、 (2)事典第1版が編集された17世紀頃、 (3)忘れられたハザールの伝統を探索する20世紀。大学教授でもあるパヴィチの学問的こだわりが発揮されるのが、おそらく作品を発想する礎になったと推測される(1)に関する記述で、専門的な参考文献を引く傍ら、アラビアンナイトばりの空想譚を展開してみせる。一方、まとまった短編小説としても読むことができるのが、(2)に現れる3人の編集者のエピソードで、互いに微妙に関わり合う奇想天外な生涯が描かれる。しかし、文学として最も面白いのが、(3)の現代編であり、ここに全ての時代の出来事が収斂してくるのだ。
 夢の狩人の庇護者であった王女アテーは、悪魔イブン・ハラドシュに言葉と性を奪われ、愛人ムッカダ・アル・サフィルとも引き離されるが、永遠の生を得て、17世紀には事典編集者の一人マスーディと会い、さらに現代にウェイトレスとなって現れ、イサイロ・スック博士の口に鍵を送り込む。このスック博士は編集者アブラム・ブランコヴィチの生まれ代わりで、キリスト教支配が300年以上続くと誤って予言したため、悪魔ヤビル・イブンアクシャニに殺される。また、17世紀に愛を誓った編集者サムエル・コーエンと魔女エフロシニアは、20世紀になって互いに性を交換し、ドロタ・シュルツ博士とヴァン・デル・スパークの3歳の息子となって甦るが、もはや愛が復活することはない。
 総じて言えば、現代は夢の狩人が活躍の場を失い、宗教が支配力をなくした混沌たる世界である。9世紀や17世紀も残酷な事件に満ちているが、それを物語るパヴィチの筆遣いは優しさに溢れている。しかし、20世紀にはいると、人々は過去の遺物にすがりながら、(ちょうど失われたハザール語のように)その意味を理解できず、互いに夢で求めあうことすらない。パヴィチの意図がどこにあるかは、明らかである。(8月18日)

  八王子で野生のサルが田畑を荒らして困るというニュースが報じられた。今年の猛暑で山に食料がなくなったのかと思いきや、10年前から毎夏被害が発生しているとのことで、サルたちが“おいしいエサ場”を見つけたというのが真相らしい。こうした事態に対して、地元では猟友会に頼んで射殺しようという動きもあるが、現時点では、拡声器で大きな音を流したり、トウガラシを詰めた爆弾を仕掛けたりして、サルを威嚇するのが精一杯だという。専門家の話によれば、サルが農地にまで現れるようになったのは、農村人口が減り、人里から遠ざけてきた脅威がなくなったからだそうである。なるほど、怖いものがなく美味しいエサがあるとすれば、サルが訪れない訳はない。殺生なしにサル害を防ぐには、彼らにここが人間のテリトリーであることを銘記させるのが最良である。そのためには、なまじ主体の見えない仕掛けをするよりも、人間が姿を見せて石を投げつけたりマーキングするなどして、ここは自分らの縄張りだと主張すべきだろう。(9月3日)

  NHK教育テレビについて。教育テレビは、国民の知的水準の向上を目指して設立されたもので、視聴率を気にせず質の高い番組を創作する場として大きな役割を果たしている。以前は、いかにも教科書的な内容のものが少なくなかったが、ここ十年ほどは、専門家が見ても興味をそそられるほど優秀な番組が数多く作られるようになった。ここでは、特に印象に残っているものを列挙していこう。
 近年の教育テレビを代表する好番組が、夜8時台の『ETV特集』である。タイトルは、『ETV8』『現代ジャーナル』と変遷してきたが、知的興奮を呼び覚ます質の高さは一貫している。総合テレビで大金をかけた騒々しい科学番組を制作したとき、おこぼれ的にその映像を流用した解説番組が作られることがあるが、専門家の談話を中心に構成したこちらの方が、むしろ本編より優れていることが少なくない。また、芸術家や芸術運動に目を向け、象徴的な画面に私的なナレーションをかぶせる芸術的ドキュメンタリーも多く、中でも戦時下の前衛詩人を特集した回は感動的だった。
 この枠では、一定のフォーマットに基づくシリーズ作品が制作されることもしばしばある。『シリーズ・授業』は、各界の著名人が母校の小学生を相手に1時間の授業をするという設定でシリーズ化されたもので、どの講師も汗だくになりながら懸命に話をするさまが忘れられない。そしてもう一つ、『シリーズ・庶民が生きた昭和史』は、おそらく日本のテレビ史上の最高峰とも言えるものだ。内容的には、文字通り昭和の歴史を生き抜いた庶民の話を聞くだけのものだが、他の類似番組が史料映像を活用して時代状況を再現したり、特に悲痛な部分だけを編集して雰囲気を盛り上げる音楽をコラージュしたりするのに対して、このシリーズは、個人の語る姿を、ほとんど固定カメラの長回しだけで撮り続けるところに特徴がある。この手法によって、過去の出来事を、単なるエピソードの枠に押し込めることなく、生身を持った人間の実体験として表現することに成功した。それにしても、過去を語る人々の表情の何と豊かなことだろう。痛ましくつらいはずの体験を口にするときも、激情にとらわれず、しかし紛れもない己れの一部として淡々と語っていく。その光景は、高貴とも言える輝きを帯びている。
 『ETV特集』とともに教育テレビの看板といえるのが、『趣味講座』の副題で総括されるさまざまな番組群である。古典的な囲碁・将棋からビリヤード・カヌー・コントラクトブリッジ・パラグライダーに至るまで、屋内・屋外を問わず、あらゆる“遊び”を追求していく。そのラインアップを見ていると、まさに“現代ホモルーデンス百科”とでも言うべき壮大さである。これほど多くの遊びを生み出し、そこに全力を傾けることのできる人間は、間違いなく、生き抜くに値する人生を過ごしている。この系列で出色なのが『少女コミックを描く』だろう。何よりも、講師に迎えられた里中満智子が人間的魅力に満ちている。入門者向けに話のレベルを落とすことなく、カラーパターンをどのように手で押さえるか、消しゴムはどう使えば画面を汚さないかなど、徹底して実践的な内容を語りかけることによって、コミック制作に命を懸けるプロフェッショナルの心意気をまざまざと見せてくれた。
 自動・生徒向けの教育番組の中には、いささか型どおりすぎて面白くないものもあるが、幼児向け番組には、総合テレビの『おかあさんといっしょ』とともに秀作が多い。また、成人向けに知識・教養を提供するものも、単なる実用面のみならず、工夫を凝らして楽しませてくれる。最近の目玉といえるのが、乳児を育てる両親向けの『すくすく赤ちゃん』であり、特に男親の役割を強調している点が興味深い。月毎のゲストが体験に基づく育児論を展開するもの聞き物だが、それとともに、こわもての産婦人科医が顔をほころばせて赤ちゃんについて語る姿を見るだけでも楽しめる。
 福祉関係の番組では、『あすの福祉』が充実している。こうした通常番組で日頃足が地に着いた取材をしているので、「障害者の日」などでのスペシャル番組に豊富な事例に基づいた堅実な内容を盛り込めるのだろう(悲しい場面を見せて女性タレントを泣かせるだけの民放のチャリティ番組は見習ってほしい)。
 見るべきものの多い教育テレビだが、堅苦しさを脱皮しようとした『天才テレビくん』や『ソリトン』はあまり成功しているとは言い難く、まだまだ改善の余地は残されている。(9月18日)

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©Nobuo YOSHIDA