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  最近しばしば思うことだが、どうも脳幹はトカゲ並の知能を持つらしい。もともと脳幹こそが最も重要な情報処理装置で、自律神経の調節などを一手に引き受けてきた。大脳新皮質は、視覚情報などを脳幹に入力しやすい形に前処理するための補助機関にすぎなかったはずである。ところが、新皮質で処理する情報量が飛躍的に増大し、それに伴って意識が派生するようになると、随意筋による運動は全て大脳がコントロールするようになり、脳幹の方が、逆に、身体各部にバランス良く栄養を補給したり内分泌を制御したりするための補助的装置におとしめられることになった。もっとも、対外的には脳幹は大脳新皮質の配下としてサポート役に徹しているが、脳幹に対する大脳の支配は必ずしも直接的なものではない。怖い思いをしたときに顔が青ざめる(末梢血管が収縮する)とか、初恋の相手に出会って心臓が高鳴る(拍動が速くなる)といった形で、大脳からの情報は脳幹に流入しその機能を引き出しているが、意識的に末梢血管や心臓を制御することはできない。それどころが、理由もなく言い知れぬ恐怖に囚われる、あるいは、腹の底から怒りがこみ上げてくるとき、われわれは、脳幹によって行動方針が設定されるという体験をするのだ。
 脳幹にとって最大の目的は保身であり、内臓が安らかな状態に置かれることである。したがって、栄養のあるものを食べて後は寝ているといった生活が、最も好ましいと感じられる。そこで、・彼・は考える。どうすれば、この安逸な生活を手に入れられるだろうか。勤務のある日は休めない(無理に休むと後で大脳新皮質がいっそう無理な行動を取ろうとする)が、そうでないときは、血圧を下げてしまえば、大脳新皮質が何を企んでいようと横になって休んでくれる。かくして私は、頭の真ん中にあるトカゲの脳のせいで、休日ごとに自律神経失調症になって伏せるはめになるのである。(4月3日)

  多くの日本人は桜好きという点で共通しているが、いつを見頃と感じるかには、若干の個人差があるようだ。まだ三分咲きほどの楚々として味わいが好きだという人もいるし、今を盛りの満開桜を好む人も多い。夜桜もまた良し、いや何よりも宴会が最大の楽しみだという声もあるだろう。私は、満開をすぎ強風の中で花が吹雪と舞う光景が好きだ。花の嵐の中に佇んで婉然と微笑む──というのは、いかにも芝居がかっているが、実は、1度だけそれに近い場面を体験したことがある。あれはいつのことか、不思議なことに記憶がはっきりせず、数年前に多摩近辺でとしか言いようがないが、小川が流れる傍らの桜並木を散策したことがある。なぜか誰もいない中、絶頂期をやや越えた桜は、薄紅の花びらを惜しげもなく散らせている。その中に歩み行ったとき、突然強い風が私を取り囲むように渦を巻き起こし、数秒の間、花びらが回り灯籠のように周回する光景を現前した。それは、二度と再び目にすることのできない花の幻だったかもしれない。(4月7日)

  【笈田忍のリーベシオン報告】あたしたちが仕事をしている建物は、ケメルマン建築士が設計したの。彼が何よりも重視したのが、スペースの節約だって。とにかく廊下みたいに使用頻度の低い部分はなくすんだって張り切って、室内面積を最大にしながら廊下面積を減らそうと考えたらしいの。それで思いついたのが、シャボン玉の例。廊下を円にしちゃえば内側の面積が最大になるとか言って、同心円上に通路を配し、その間に2列の部屋を設けたってワケ。もっとも、それだけじゃ内側の部屋に入れなくなるんで(当たり前か)、1ヶ所だけ切れ目を入れたの。円周の反対側にいる人たちは不満たらたらだけど、まあ良い線いってるんじゃない。そうそう、この設計に文句を付けたもう1つのグループは、現場の建築労働やるおじさんたち。何しろ丸い部屋でしょ、壁のタイル貼り一つとってもめちゃくちゃ大変だって。で、1番内側の円形部屋とその外の2列を作ったところで、設計変更してヘクサゴナルの部屋に変えたの。これでどれだけ廊下の面積が増えたかというと…バカみたいでしょ?ところで、ケメルマンさんは、今度は新館の設計をやってるんだって。この間、その設計図を見せてもらったんだけど、なんと究極の省スペースビル、つまり廊下が全くないってシロモノ。どうしたかっていうと、各部屋ごとに折り畳み式のハシゴが備えられていて、そのまま屋上に出ちゃうんだって。屋上では自由に動けるから、部屋から部屋に移動するのも最短距離ですむし、理想の建物だって本人は息巻いてるの。でも、これって平屋だからできるんでしょって聞いたら、だまっちゃって。どうも、その点はあまり考えてなかったみたい。で、あたしが代わりにアイデアを出してあげたの。各フロアの間にゴロゴロ転がっていける中間層を入れれば良いって。(4月17日)

  青年団の舞台では、何も起こらない。何かが起きるのは常にステージの外であり、登場人物はそれを話題にするだけだ。にもかかわらず、異様なまでの緊張感が漂い、一瞬たりとも目を離せなくなるのは、なぜだろう。作者兼演出家の平田オリザがこだわり続けた日常的な発声法が、大きな役割を果たしていることは間違いない。だが、それ以上の何かがある。それを掴みたいと思うのだが。(青年団公演『東京ノート』(アゴラ劇場)を見て)(5月21日)

  人間の言語を他の高等動物が用いるシグナルから峻別する重要な要素とされるのが、機能語──なかんずく否定詞“ない”の存在である。こうした機能語は、文の意味を、語の意味の集積以上のものにする役割を果たす。例えば、サルにとってトラは恐ろしい捕食者であり、トラを表すシグナルは、怖れの感情を持って発せられる。しかし、同じシグナルに否定詞を結びつけて「トラがいない」という文を構成すれば、これはむしろ安堵感をもたらすはずだ。意味を持つ語を統語論的に構成する機能語の存在は、人間が行う高次のコミュニケーションを成り立たせる上で本質的である。
 それでは、人間以外の動物、例えばチンパンジーは否定詞を扱えるのか。この問いに解答するのは、意外に難しい。実際、キーボードや絵文字を使ってチンパンジーなどの類人猿とコミュニケーションを取ろうとするケースで、サルが選ぶ語の選択肢の中に単に否定詞を混ぜておくだけでは、事態は明らかにならない。仮に、“ほしい”“バナナ”“チョコレート”といった語が記されているボードがあったとしよう。被験ザルが、“ほしい”−“バナナ”および“ほしい”−“ない”−“チョコレート”と指示し、彼の前に出されたバナナとチョコレートのうちバナナだけを食べれば、否定詞の機能を理解したと思われるかもしれない。だが、“ほしい”−“ない”という連鎖が“嫌いだ”あるいは“ほしくない気分だ”といった心理状態を表現する複合シンボルとして認知された可能性も否定できないのである。日本語でも、「如才がない」という言い回しがあるが、これは如才の存在を否定しているのではなく、“如才のなさ”についての肯定表現なのである。同様に、サルにとって“ない”を含む表現も、複合的な1つの肯定になり得るだろう。
 こうした曖昧さをなくすためには、いくつかの文型に対して“ない”が一般的に適用されることをチェックする必要がある。例えば、“叩く”と“叩く−ない”、“吠える”と“吠える−ない”など、意味論的な類似性が乏しい語に“ない”を付したときの反応が常に否定的なものであれば、サルも否定詞の機能を理解していると考えて差し支えない。残念ながら、これまで報告されている類人猿のボキャブラリーはそれほど豊富でないため、確実な実験データが揃っているとは言えないが、今後の研究課題であることは確かだ。(5月29日)

  日本商事が開発した皮膚病薬ソリブジンの死亡事故を巡る経緯は、医薬品業界の暗部を象徴しているようで暗うつたる気分にさせられる。そもそも、帯状疱疹の治療薬であるソリブジンが、フルオロウラシル系抗ガン剤の薬効を異常に昂進して、結果的に正常な白血球まで破壊するに至る危険な副作用を持つことは、治験の段階ですでに判明していた。ところが、俗に10年100億と言われる膨大な開発費用を効率的に回収するためには、危険情報を表立てない方が良いと考えたのか、日本商事は、この事実を添付文書に記すに当たって、「フルオロウラシル系抗ガン剤との併用を避けること」ときわめて簡潔な表示を下位の項目に盛り込むにとどめた。このため、死に至る危険があるとまで考えない、あるいは(通常の消費者と同様に)取り扱い文書を隅々まで読むことをしない医者が、同一の患者にこの2つの薬を処方するケースが相次いだのである。中には、ガンの告知をされていなかったため、皮膚科の医者が、抗ガン剤を服用していることを知らないままソリブジンを処方した例もあった。こうした危機管理の不備によって、発売後わずか1ヶ月で15人もの多量の死者を出すという近年では異例の薬害が起きてしまった。
 もっとも、これだけなら、まだ多くの薬害の1つとしてファイルに付け加えられるだけだったろう。この事件がおぞましいのは、副作用による死亡例が厚生省に通知される以前に、このことを知った日本商事の社員が、当然予想される株の下落を前に、保有していた自社株を売り抜けてしまった点である。何とかして損を免れようとする社員の気持ちも分からなくはないが、その時点でソリブジンの副作用情報を知らずに投与を受け、間もなく死に至った患者がいることを考えると、やりきれない思いである。(6月29日)

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©Nobuo YOSHIDA