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  学問とは、きわめて特殊な情報処理行為である。このことについての自覚なしに、学者を自称するのはおこがましい。
 学問の要諦は、その(比較的多数の成員を含む集団内での)普遍性にある。ここで言う“普遍性”とは、抽象化された手法が異なる個物に対しても適用可能であることを意味し、単なる一般的な命題は排除される。例えば、「人は必ず死ぬ」という命題は、ソクラテスなる個人に適用して「ソクラテスは必ず死ぬ」と展開されるように見えるが、ここで取られた手続きは、当初の命題に含意されていた「人」の定義をそのままなぞっただけで、新しい情報を生み出したわけではなく、学問的主張とは言い難い。ある主張が学問的だとされるには、天体運動へのニュートン力学の適用に見られるように、あらかじめ理論の定義に含まれていなかった領域へ応用する可能性がなければならないのである。この種の“普遍性”は、提唱者が提示した文脈から理論を切り離し、機能的なモデルとして構築することによって初めて獲得される。従って、ある主張の“学問度”を測る一つの目安は、それがいかにモデル化されているかにある。(1月3日)

  古典的な科学哲学者の多くは、論理学にきわめて高い地位を与えている。「自然科学エンサイクロペディア」が完成した暁には、その第1章が論理学の記述に当てられるはずだと考える人もあった。しかし、現在では、こうした幻想は完全にうち砕かれた。いまや、論理学は、マイクロプロセッサの動作を点検するための基礎理論として用いられるのが関の山であり、その上に自然科学を構築するだけの有効性を発揮する力を持っていない。その理由は簡単である。論理学は、もともと人間の思考の方略を抽象化したものだが、その際に、現実に即応するための柔軟性を喪失し、脳というハードウェアに依存する諸々の限界を引きずってきてしまったからである。
 論理学の基礎にある基本的な発想は、指示内容を持つ記号を設定できるというものである。具体的には、特定の個物を指示する "x" を使って、ある命題 P(x) を記述できるとされる。ところが、こうした記号の用い方は、現実の世界に見られる個物の振舞いとは、根本的に異なっている。実際、世界における個物は、時間とともに刻々とその性質を変える上に、よほどソフィスティケイトされた概念規定を行わない限り、一意的に性質を付与することはできないはずである(「雪は冷たい」と言われるが、タイタンの住人にとって地球の雪はこの上なく暖かいに違いない)。にもかかわらず、時間とともに変化せず、本のどのページに現れようと同一の役割を果たす "x" とは何物なのか。実は、その背後にあるのは、人間がしこう活動を遂行するときに利用する“観念”であると考えられる。“観念”は、中枢神経系において反響回路として実現されるアトラクタに対応すると考えられる。こうした反響回路は、特定のトリガによって持続的な興奮状態となり、連想によってある種の“観念”が想起される過程との相同性を示す。反響回路を“観念”に比定することのメリットは、哲学的な議論によって明らかにしにくい認識論的諸性質を記述する上で、有効な基盤を与えてくれる点である。例えば、“観念”はしばしば普遍的なものと見なされる一方、個人誌においては通時的展開を示すが、こうした2面性は、シナプス結合の安定性と可塑性になぞらえることができる。また、“観念”は常に何物かに関するものだと言われながら、抽象的形式のみの議論も可能であるが、これも、反響回路を現実の神経系の状態と見るか、抽象的なアトラクタと見るかの差であるとすれば、理解しやすい。
 このように、“観念”が特定の生理的機構に立脚している以上、その運用手順を抽象化した記号論理学も、このハードウェア(=脳)に制約されているはずである。指示内容から切り離して取り扱うことが可能な記号を用いるという手法も、有効な知的情報処理の方式として唯一のものではなく、単に人間にとって考えやすいために採用されているにすぎない。実際、レムの『ソラリスの陽の下に』に登場するソラリスのような生物には、連続的変形によってある状態から他の状態へと変化していくアナログ思考の方が馴染み深いだろう。こう考えると、科学哲学における記号論理学の地位は、人間が万物の霊長でないのと同様に、かなり低めに見なければなるまい。(1月9日)

  『レイテ戦記』は、古今東西の戦争文学の中でも、最も優れたものの1つである。われわれは、フィリピンでの蛮行を恥じる一方で、この偉大な作品を持ち得たことを誇りとしなければならない。大岡昇平は、『野火』などフィリピンでの体験に基づく自伝的小説を発表しているが、それらは戦場に置かれた1個の人間の眼を通して未曾有の惨禍を語ろうとするあまり、方法論的な限界を露呈する箇所を含んでいた。そうした経験を踏まえて、『レイテ戦記』においては、山をも木をも見つめる複合的な視点を採用し、戦争という巨大な事件の全体像を描き出すことに成功している。戦争とは、1つの巨大な意志に後押しされた個人が行う営為である──そのことを何よりも如実に示しているのが、この作品である。(1月12日)

  自分の長男に「悪魔」と命名しようとして市役所に拒否された夫婦が不服申し立てを行ったというニュースは、不謹慎とわかっていながら、つい笑ってしまう困った話である。この親の言い分によれば、インパクトのある名前を付けることによって新しい出会いが生まれるとのことだが、それにしても、いささかインパクトが強すぎはしまいか。かつて『悪魔くん』なるマンガが人気を集めたために、このネーミングに対してさほど反感を覚えない人もいるかもしれないが、キリスト教で悪魔と言えば最大の憎しみの対象であり、それこそ蛇蝎のように忌み嫌われている。2項対立的な発想の乏しい日本では、これに匹敵するような観念はなく、強いて言えば、“疫病神”とか“人非人”のように嫌悪感のみをもたらす存在を思い浮かべれば良いだろう。実際、英語で "devil" と言えば、ほとんど否定的な意味しかなく、これを人に当てはめた場合には、「血も涙もない」「卑劣で悪辣な」という最大級の侮蔑語となる。せいぜい "a poor devil!" と小馬鹿にするのが最良の用い方だろう。反社会的でありながら、底知れぬエネルギーを身内に秘め、ときに羨望の対象ともなる "demon" とは対照的である。これほどイメージの悪い語を子供の名前にするのは、やはり考え物だろう。「殺人鬼」や「冷血漢」が名前として相応しくないのと同様である。せめて「魔神」か「帝王」にした方が良いのではないか?
 もっとも、親の命名権を制限する法律はなく、人名漢字の中にあるなら原則的にいかなる名前を付けても良いとされる。「悪魔」と呼ばれることが著しく当人の人権を損ねると認められなければ、このまま戸籍に記載されることになろう。私は、取りあえずそれで良いと思う。これほど異様な名前ならば、将来の改名も容易であり、一種の幼名と考えれば容認することもできる。(1月15日)

  西ヨーロッパを中心に、動物の権利を主張する動きが目立ってきている。ロンドンでは、毛皮店の経営者に爆弾が送りつけられて負傷者を出したほか、過激派によると見られるテロが、未遂も含めて昨年秋以来30件を数えるという。こうした運動の矛先は、家畜の飼育・運送業者や動物実験を行う製薬会社の研究者など、動物の利用が業務上不可欠な人々にまで向けられており、その生活権を脅かしかねない状況である。こうした "animal rights activist" の中には、単に過激な行動を楽しんでいるだけの愉快犯も紛れ込んでいるが、多くのメンバーが本気で動物のためを思って真摯に働いているだけに、従来の常識に基づく“正論”だけでは対応しきれない。ヨーロッパでは、家畜の運送にさまざまな条件を課した新法が提出されるなど、すでに活動家よりの政治的動きも見られる。こうした活動に対する立場を固めておく必要がある。
 偏見かもしれないが、私は、動物権擁護運動の背後に、人間の優位を認める思想を感じてならない。むろん、関係者は否定するだろう。だが、人間と動物を、同一の資源を争うライバルとしてではなく、前者が後者の面倒を見なければならない上下関係において捉えていることは、否みがたい。動物の棲息域を人間が画定し、両者の相互作用が生じる界面では人間の倫理観に基づく配慮がされなければならないとする見解は、ともすれば人間のモラルを動物に押しつけることになりかねない。以前、北極海で氷に閉じこめられたクジラをアメリカの善意溢れる人々が必死になって救出したという“美談”が伝えられた。だが、自ら危地に入り込む愚かなクジラは淘汰されるのが自然の摂理ではないか。肉食獣がエサを殺すとき、安楽になるように心がけることもあるまい。自然界の動物は、人間が想像するよりも遥かに残酷で、そして逞しい。
 古代の人は、生きるために狩猟を行ったが、同時に、その行為の罪深さをも感じ取っていた。それ故、彼らは、動物が人と同じ心を持ち、言葉を交わし、法の正しさを信じるという神話的世界のイメージを構築したのである。野生の動物は、小集団で充足している社会的動物たる人間より密接に神(あるいは法)と交流している。それを殺す人間は、神に背く大罪を犯しているようにも思えよう。だが、古代人は、ここで驚くべき発想の飛躍を行う。すなわち、神の使者とも言える動物たちは、神の意志に基づいて自らを犠牲にしているのだと。人間は、これに応えて、動物を屠りながら神に祈らなければならない。
 古代人のこうした宗教心とは裏腹に、現代の動物権擁護論者たちは、動物を神の使いの地位から引きずりおろし、精神的な意味で家畜化してしまう。家畜の主人は常に人間であり、神が関与する余地はない。従って、健康管理や屠殺方法についても、人間が頭を悩まさねばならず、動物権なる概念も派生することになる。だが、そもそも動物の生きる力は人智を越えたものであり、石油や原子力をバックにした文明人は、生命のあるべき姿を忘れてこれをねじ曲げているのではないか。結局のところ、人間も動物の一種であり、本来はその生態系に組み込まれてしかるべきものなのに。
 いささか乱暴に思われるかもしれないが、私は、動物の擁護を声高に叫ぶ人とは正反対に、もっと野生動物を食べるべきだと考えている。もちろん、多くの野生動物は絶滅の危機に瀕しているので、これを捉えるのは論外である。しかし、中には他の生物種を脅かすほど大量に繁殖して、人間が少々捕食しても充分に存続できる種もある。こうした動物を食べることが、食物連鎖の中に置かれた人間の地位を再認識させる良い契機となるのではないか。同時に、現在進行中の環境汚染や病める畜産業の実態に目を向けさせる効果も期待できる。実際、日本人が、ロシア人やアメリカ人以上に海洋の化学汚染や核物質の投棄に対して敏感なのは、海産物という自然の恵みを直接口にしているからであり、環境破壊の脅威を食卓という日常的場面で感じ取れるからだろう。何よりも、野生動物を食べることは、他の生き物を殺さねば生きていけない人間の原罪をわれわれに思い出させてくれるはずである。(1月30日)

  "Science" の最新号に面白い論文が掲載されている。遺伝子操作により、熱産生を行う褐色脂肪を先天的に持たないマウスの系統を作成したところ、全体的な肥満傾向に加えて、一部に過食症の症状が現れたというのだ。褐色脂肪のないマウスは、カロリー消費が少ないので、その分、摂取した栄養が体脂肪として取り込まれやすくなり、肥満傾向をもたらすことは理解しやすい。人間の場合でも、痩せている人は平均的に体温が高いことが知られており、熱産生組織の多寡が皮下脂肪の蓄積と密接な関係があることは明らかである。問題は、熱産生が抑制され、体が必要とするエネルギーが減少しているにもかかわらず、過食症が発症する点である。想像するに、相当量の食餌を摂っているにもかかわらず、予期された発熱が生じないため、フィードバック・メカニズムが発動し、もっと餌を食べるようにと空腹中枢が機能したのだろう。その結果として、加速度的に肥満が進むことは当然である。人間の過食症は、無理なダイエットをした女性にしばしば見られる疾病で、精神的な飢餓感によると説明されることもあるが、むしろ、食べても食べても充分な栄養が補給されないために生じたフィードバック効果と捉えるのが妥当だろう。(2月6日)

  俗流心理学の文献には、しばしば、さして根拠のない命題をさも意味ありげに語っているものがある。学問的素養があれば、そのいかがわしさが理解できるが、いかんせん、一般人はころりと騙されてしまう。それどころか、あたかも学者のお墨付きを得た学説であるかのごとく、得々と触れ回ることさえ稀ではない。例えば、狭い密室的空間にもぐり込みたがる人間の性向を指して、“胎内回帰願望”と宣う向きがあるが、いかがなものか。胎児期は確かに快いものかもしれないが、この時期には、明確な空間的認知を行うだけの感覚入力が欠落しており、自分が狭い空間に閉じこめられていることを認識しているとは考えにくい。母胎のごとく昏く閉塞した空間を好むのは、むしろ、身体像を定位する高次の情報処理が大脳にとって過負荷になるためではないか。例えば、飛行機に搭乗しているとき、自分の足下に広大な空間が拡がっていることに思い至ると、人は名状しがたい不安に陥る。自己の身体像を目印となる周辺の安定物体と関連づけることによって安寧を得るのは、広範な行動半径を持つ人間にとってごく自然な性質である。しかし、建築物が入れ子状の迷宮を形作っている現代文明社会では、こうした作業は相当な重労働になる。これから逃れたいという思いが、擬似的な“胎内回帰願望”となるのだろう。(2月11日)

  古典的な論理学は、しばしば2値論理という形式をとる。だが、なぜ2値なのか。論理の背後に集合論的な発想を仮定すれば、ある集合とその補集合という2分法との対応を与えることができる。しかし、論理学は、あくまで思考法則の原理に基づくものであり、抽象的集合概念は、思考の所産として論理に従属すべきものである。実際、「ミカンの集合」と「ミカン以外のものの集合」を並置することは、数学的にはともかく論理的思考としての有用性に欠ける。むしろ、2値論理を与える契機になっているのは、肯定と否定というシンタクティカルな操作と考えるべきであろう。とすれば、当然のことながら、否定は肯定に対して提出されるものである以上、両者は対等であり得ない。実験心理学が明らかにしているように、否定文を理解するとき、人はまず肯定命題の意味論的な内容を引き出した上で、これを否定する操作を行う。このため、否定の否定は、しばしば元の意味に戻らない。このように考えると、各命題に真偽値に相当する2値を割り振るのは、論理学の出発点として基本的な誤りだと言わざるを得ない。(2月27日)

  『シンドラーのリスト』は、“娯楽映画の大家”スピルバーグの底力を示す秀作である。基本的なプロットは、ナチのユダヤ人迫害に震撼したシンドラーが私財をなげうって1000人ものユダヤ人を救出したというもので、1歩誤れば感傷主義に堕してしまう題材である。この危険性に対し、スピルバーグは、モノクロ画面を使ったドキュメンタリータッチを採用、銃殺シーンでギリギリのリアリズムを貫くことによって、“事実”の重みをもってセンチメンタリズムをうち砕くことに成功した。実際、頭部をピストルで撃つ場面は(弾着の衝撃を俳優が嫌がることもあって)映像化がきわめて難しく、これまで積極的に描写されなかった。こうした残虐シーンの迫力は圧倒的であり、ちょうど今村昇平の『黒い雨』が原爆の惨状そのものを通して作品世界の強化を成し遂げたのと同様の効果を上げている。(3月1日)

  近頃、DHAなる物質がにわかに注目を浴びている。脳の神経ネットワークの成長を促す“健脳食品”の主成分として喧伝されているのだが、さてその効能のほどはどのようなものか。脳は血液脳関門によって体の他の部分から隔離されている臓器なので、in vitro で神経成長やシナプスの増加などの効果をもたらす物質でも、食事から摂取したものが直接脳に作用する訳ではない。血栓を防ぐことができるならば老人性痴呆症の予防薬としての効能が期待できるが、IQが向上するのではと幼少者に与えてみても、さしたる結果は得られないだろう。もっとも、DHAを多量に含有しているのはサバやイワシなどの大衆魚なので、日本人が忘れかけている魚喰いの習慣を復活させる契機にでもなればありがたい。特に、イワシは、DHAのみならず各種不飽和脂肪酸が含まれているほか、タンパク質の種類も豊富な上、外洋を泳ぎ回って無駄な皮下脂肪をそぎ落としているため、健康食の代表選手であり、これを食卓に呼び戻すことは好ましい方向である──と思っていたら、DHAを主成分とする錠剤が販売されるようであり、清涼飲料や健康食品での便乗商法も登場したという。情けない。(3月11日)

  退職後は海外旅行などをして妻と二人で優雅に暮らそうと思いながら、それを口に出さずガムシャラに働き続けた男性がいた。ところが、50歳の若さで妻はガンのためにあっけなく逝ってしまう。生前、妻を思いやれなかった悔恨から、男は悩み苦しみ、うつ状態になって会社にも行かなくなってしまった。現代医学は、彼に何をなすべきか。抗うつ剤を処方して明るく出社できるようにするか。それとも、妻を偲ぶあまり社会から落ちこぼれていくにまかせるべきか。私には、後者も1つの“良い人生”に思えるのだが。(3月15日)

  昨年の大凶作のあおりで国産米が不足し、外国米の輸入を余儀なくされている状況だが、その中で、タイ米の評判がすこぶる悪い。倉庫に山積みにされたタイ産の米袋から、釘や王冠、はてはネズミの死骸まで見つかったという。この手の報道が過剰になされたせいもあって、売れ行きは惨憺たるものだ。ただし、消費者からそっぽを向かれた根本的な理由は、米の種類が異なる点にある。日本で食されているジャポニカ米は、含有される炭水化物の成分のために、熱を加えると独特のモチモチした触感になり、塩気の強い副食と合わせて食べるのに好都合である。これに対して、タイをはじめ多くの国で栽培されているのがインディカ米と呼ばれる長粒種で、日本人から見るとパサパサして香りが強すぎる。諸外国では、これに汁物を加えて混ぜ合わせるのが一般的で、こうした料理法を採用すると実に美味しいのだが、日本風に炊いて食べるには不向きである。何よりも、箸でうまくつかめない。現在不足しているのは主食用の米なので、いかにカレーやピラフにマッチするといっても、そうそう買うわけにはいかないのである。
 もっとも、タイ米に対する好き嫌いは民族によって大幅に異なっており、日本人の嗜好は少数派に属している。地元のタイでは当然のことながらインディカ米が好まれており、「長粒でパサパサして香りが強く、収穫から時間をおいてやや黄みがかった米」が高級とされる。日本からの駐在員が取り寄せたジャポニカ米を料理に使うと、「日本人はそんな安物を食べているのか」と言われてプライドが傷つくそうだ。ネパールやオーストラリアでもインディカ米の方が高価なので、わざわざジャポニカ米を注文すると「日本人は金持ちのはずなのに」と不思議がられる。考えてみれば、日本人の味覚は、“世界標準”から随分とはずれていることが多い。以前は、カナダなどでマグロが水揚げされたとき、大トロの部分は肥料にもならないと捨てられており、日本人が同じ重さの銀よりも高値をつけると聞いてようやく輸出されるようになったという。ウニも網を破る邪魔者扱いだったのに、日本人が買ってくれるのでロシアなどの漁師が顔をしかめながら獲っているらしい。また、冷蔵庫登場以前には世界中で高値で売買されていた香辛料が日本ではほとんど用いられず、代わりに中国人も食べないワサビがなぜか好まれる。かくもゲテモノ食いの日本人の好みに合わせなければならないのだから、米の輸入業者も苦労が多いはずである。(3月19日)

  『東京BABYLON』のラストは衝撃的だった。双子の姉弟・皇北都と昴流、それに桜塚星史郎の3人が繰り広げるオカルト的な物語は、いささか教訓臭が鼻につき必ずしも楽しめたわけではない。だが、表面的には優しくいつも昴流が好きだと言いながら、底知れぬ恐ろしさを垣間見せる星史郎と、これほど危険な人物と知りながら彼を昴流に近づける北都の謎が一気に解き明かされるラストに至って、それまで読者が思い描いていた作品世界が音を立てて崩れ去ってしまう。最終章で、大人に成長した昴流が(夢が叶わず)陰陽師を続けている光景は、異様に索漠として、悲しい。(CLAMP作『東京BABYLON』(全7巻)を読み終えて)(3月21日)

  【笈田忍のリーベシオン報告】あたしは笈田忍。先月、アメリカにあるリーベシオン総合研究所に招かれてきたばかりなのに、もうコンサルタントの仕事で忙しいったらありゃしない。仮にも、世界の知の中心と言われるところがこれだもの。もっとも、やっている研究はなかなかのものよ。建物もヘクサゴナル構造でなかなか合理的だし、慣れれば楽しいかな。これから、折に触れてここの研究を報告するわね。
 マクリフ博士が開発しているのは、立体テレビ。と言っても、偏光メガネなんか掛けて見る野暮なものじゃなくて、空中に映像を結ぶ装置なの。四方八方からというのは難しいけど、前後左右ぐるりと廻ってみても立体になるような映像を作るのは決して不可能じゃないと頑張って、ついに作り上げたのがレーザー結像装置なの。原理は簡単。地面にお椀型の装置を据え付けて、その内側から数万のビームを投射するっていうもの。1本1本のビームは細くて見えないけれど、数本が交わると、その点が明るく見えるってワケ。本当はコヒーレント光にして干渉縞を利用したかったそうだけど、どうやって同調させればいいかわからなかったって。それなら少数の光源をお椀の中央に持ってきて、カー効果か何かで位相をコントロールすればと思うんだけど、やっぱり技術屋ね。brute force に頼るんだから。立体画素の数を300×300×1000にするんだというんで、もう大変。だいたい0.3mm間隔になるんで、3×10-4/3×108=10-12秒程度のタイムスケールで強度を制御する必要があるの。この幅の中に充分な強さの波束を入れようとしたんで、振動数が1015ヘルツの電磁波を使ったんだって。それも、ピコ秒パルスでふつうのテレビと同じくらいの明るさにするために、思いっきり強い光を使うようにしたんだとか。3日前にようやく装置が完成したと言うんで、研究所の職員を集めて試運転をやろうってことになったのね。あたしも呼ばれたんで後ろの方で見てたんだけど、メカを知ってたから先が読めちゃって。スイッチを入れても、案の定、ウィーンという音がするだけで、映像は全く現れない。かわいそうなマクリフ博士。うろたえて右往左往してたけれど、とうとう機械の中を覗こうと身を乗り出したの。途端にギャッと叫んで悶絶しちゃった。当たり前よねえ、ばっかみたい。(3月23日)

  ピンチョンの『重力の虹』のようなメガフィクションを前にして、われわれはどのような批評の言葉を語り得よう。通常の文学作品は、一定のプロットに基づいて組み立てられている。誰と誰が出会い、愛しまたは憎み、事件を起こす──そうした基本的な骨格をもとに場面設定がなされ、人物が描写される。従って、読者は、ある人物が示す振舞いを、プロットと対照しながら解釈し、時には先回りして予測することができる。ところが、『重力の虹』の場合、そうした骨格となるプロットは存在しない。ピンチョンが目指しているのは、巨大な世界の再創造である。読者は、膨大な情報の中から、ピンチョンがどのような内的世界を想定しているかを懸命に推測していかなければならない。現実問題として、それは、ほとんど不可能な試みとなる。それほどピンチョン的世界は巨大であり、また雑駁である。強いて言えば、いくつかの対立要素(工学的成果であるロケットと超能力や魔術、抑圧的な管理機構とポルノグラフィなど)や並行過程(映画と現実、愛情と追跡など)を指摘して、作品の構成原理を語ることができるかもしれない。だが、そうした理に落ちた行為自体を、ピンチョンは笑い飛ばすだろう。まさに極北の文学であり、同時に行き詰まりの小説でもある。(3月27日)

  【笈田忍のリーベシオン報告】この研究所でいちばん夢のある試みといったら、やっぱりフィリッピーノ博士のタイムマシン計画かな。H.G.ウェルズの小説は、あたしも中学時代に繰り返し読んで、モーロックなんか怖くてたまらなかったけど、あんなアドベンチャーできるものなら是非体験してみたいって思ってた。だから、この計画の話を聞いたら、ワクワクしちゃって。どんな原理を使ってるか、一生懸命考えたの。ちょっと前にワームホールを利用すればタイムマシンが出来るって論文が出たでしょ。あれの応用かな、なんてね。でもワームホールを宇宙から探し出すのは、いくらリーベシオンの探査技術をもってしても無理だし、だいいち、あの論文には基本的なマチガイがあるのね。だって、ワームホールの両端で時計をどうやって同期させるのよ。もの凄いポテンシャル勾配があるから、絶対できっこないじゃない。それなのに、ワームホールの一方の端を加速したって、時間を遅らせることなんか不可能よ。そうでしょ。ホーキングがあのあとトンチンカンな論文書いてたけど、結構バカよね。でも、トポロジカルな性質を使わないんなら、どうやるのかなって悩んじゃって。で、フィリッピーノ研に行ってみたら、なんと未来に行くだけのタイムマシンだって。ちょっとがっかり。これって、ウラシマ効果だから、宇宙旅行でも実現できるんだもの。でも、フィリッピーノ博士の凄いところは、このマシンを研究所の1室に作っちゃう点。まあ、外観は宇宙飛行士の訓練用に遠心力使って強いGを作り出す装置、あれよね。単純にグルグル振り回して高速にするっての。もともとウラシマ効果の起源は高速運動よりも加速度にあるんだから、直線運動よりは効率的なはずなんだって。で、はじめは実験用のサルを使って試運転したんだけど、Gをかけすぎて結果はヒサンそのもの。サルがノシイカになっちゃったの。それで計画を練り直して、ずっと大型化した機械に、今度は博士の家族みんなで入ったんだって。掛けるGは人間に耐えられるギリギリの限界にして、その中で生活すると、だいたい1万分の1の割合で時間が遅れていくから、ほんのわずかだけ未来に進めることになるの。詰まらないタイムマシンだけど、これが技術の限界ってやつかなあ。もっとも、フィリッピーノ博士の野心はもっと壮大で、最終的には、天王星の外側の軌道を高速で周回する太陽系内タイムマシンを作るのが夢だとか。これだと、家族でどんどん子孫を作って500年も経つと、地球じゃ600年経過するから、なかなか優れものだって言ってたけど…(3月31日)

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©Nobuo YOSHIDA