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  おおたか静流の「有機的声浴体験」(CLUB QUATRO)は、心が洗われるような清々しいステージだった。彼女の声質は、独自の頭蓋発声によるものか、突き抜けるような高音が無抵抗な心に入り込んでくる。それでいて、邪魔な感じはなく、むしろ快く心の内面を通り過ぎていく。以前アイドル歌手のバックコーラスを務めていただけあって、音程も確かで安心感を持って聞けるせいもあるが、それ以上に、彼女の衒いのない姿勢が直截的な感動を呼ぶのだろう。何よりも、音楽を「音の楽しみ」として心底享受する態度が一貫していて好ましい。しょう油の空き瓶にBB弾を入れてマラカスよろしく演奏することは、一種の演出としてアイドルが行ってもおかしくないパフォーマンスだが、おおたか静流の手に掛かると、まるで嫌みがなく、子供が身の回りの品を使って音を鳴らしているような爽快感がある。さらに、「蘇州夜曲」を初めとする懐かしの歌謡曲から「アロハオエ」に至る各国の民謡まで、およそ脈絡がなさそうな選曲でありながら、すべてを自家薬籠中のものにとしてしまう手際の見事さ。これも自分が本心から楽しめる歌を集めたからこその必然であり、意図的な演出によって実現できるものではない。見ている方も一緒になって口ずさみたくなるような愉悦のひとときであった。(7月2日)

  先日の科学基礎論学会の懇親会で分子進化学を巡ってお喋りをしていたところ、若手研究者の間では、木村資生の中立説に対して意外と批判が多いという実状が浮かび上がってきた。確かに、分子進化の中立説は、ダーウィン以来の適者生存の主張とは大幅に異なるパラダイムを採用しており、いかにも画期的な新説との印象を与えるが、その内容を検討してみると、“中立”という用語の曖昧さが気になってくる。木村のそもそものアイデアは、タンパク多型の出伝がランダムウォーク的なリアライゼーションによっているとするものだが、実際には、個々のタンパク質の3次構造が発現率を大きく左右しており、中立と呼び得る状況はごく限られたものでしかない。しかも、インフルエンザ・ウィルスの変化のように、明らかに非中立的な分子進化の実例も発見されており、分子レベルでも適者生存の原則が成り立つようにも思われる。(7月11日)

  スピルバーグの新作『ジュラシック・パーク』は、抜群に面白い。既に公開されていたアメリカでの批評が今ひとつだっただけに、実物を目にするまでは若干の不安もあったが、やはり批評とは当てにならないものである。なるほど、開巻30分ほどは、いかにも技術のある監督が手堅く演出したという感じで、やや退屈な場面も目に付くものの、パークのセキュリティが破壊された辺りから緊迫シーンの連打となり、最後まで息をつかせる暇がない。スピルバーグのこれまでの作品は、ヒッチコックを手本にして意図的なコメディ・リリーフを随所に挿入していたが、今回はそれがない。特に、メタレベルの笑いがなく、登場人物が場を和まそうとおどけて見せても観客はかえって胸苦しさを増すだけである。『ジュラシック・パーク』において、観客は、画面の外からインディアナ・ジョーンズの活躍を見ていたときとは異なって、登場人物と恐怖を共有することになるのだ。この点で、初期の『激突!』に近い。特筆すべきは、子役二人のうまさで、原作では口やかましいだけのレックスを、弟思いの愛すべき少女に変更したのが奏功した。調理場でヴェロキラプトルと対決するシーンでは、子供に感情移入できるだけに、緊張もピークに達する。
 とにかく、この作品がもたらす恐怖感は尋常ではなく、爬虫類に対する本能的嫌悪感を極限まであおり立てる。しかも、恐竜たちの描写がきめ細かく、ヴェロキラプトルが鼻息でガラスを曇らせるシーンなど、異様なリアリティを醸し出す。こうした恐怖感をもたらすためには、恐竜がちゃちなぬいぐるみに見えてはならないので、その造形に関しては最大限の注意が払われており、最新のコンピュータ・グラフィクスを使った映像は、これまで最高のモンスター映画だった『ドラゴン・スレイヤー』を遥かに凌駕する。中でも重要なのが、クライマックスで華々しく登場するティラノサウルスである。飽きもせずに人間を追いかけた挙げ句に麻酔銃で仕留められるという愚鈍な獣として描かれる原作の役回りとは一変して、人間の操作を受け付けない自然界の圧倒的なパワーを誇示するかのようだ。(7月17日)

  「痛み」とは現象であり、物理的記述で代替できるものではない。しかし、痛みが生理学的な事象と密接な関連を持つこともまた明らかであり、これを無視して痛みについての記述を試みることは無謀である。実際、痛みは当人のみが感じ得る現象であるにしても、その生理的実態を明確にするのは専門医の役割に帰せられる。心筋梗塞の場合、患者当人は痛みの部位を特定できないばかりか、誤って肩や胃が痛いと訴えることもある。これは、A線維やC線維によって伝達される痛みのシグナルが、必ずしも日常的な肉体感覚と平行していないことに起因する。皮膚上に散在する痛点からのシグナルは、アイソモルフィックに脳に伝達され、身体上で隣り合っている部位からの痛みは、脳においても隣り合った部位の興奮を誘発する。しかし、内臓に関しては、こうしたアイソモルフィーが存在しないため、痛んでいる箇所を同定することが困難になる。しかも、日常的には、痛みとは身体の一部で感じるものだという常識があるため、内臓の痛みという非日常的な出来事に際しても、無理に体のどこかに帰属させてしまうのである。このようなケースを考えれば、痛みについて論じる際に、神経生理学を素通りすることが許されないのは明らかだろう。
 神経生理学の知見を援用することによって明確な記述が可能になる現象の一つに、痛みの共通性がある。われわれは、決して他人の痛みを感じることができないにもかかわらず、指先を針で刺してしまった人の痛みがどのようなものかを想像できる。その根拠は、痛覚の認知システムが、遺伝的に相当程度まで規定されており、異なる個体に対する同一の刺激が類似した反応を引き起こすからである。例えば、切り傷を受けた後に続くずきずきした痛みは、生理的修復が進む過程で引き起こされる筋肉の収縮が発痛物質の分泌を促進するからだが、こうした機構は、ほとんどの人間(および高等動物)に共通したものである。さらに、神経回路においても、類似した刺激は同一の神経興奮のパターンを惹起するという特性が存在する。物理学の用語を使えば、特定の知覚は、神経回路系の活動を表現する位相空間のアトラクタに対応しているのである(現在までのところ、知覚とアトラクタの関係付けは推測の域を出ないが、臭いの知覚に関するコンピュータ・シミュレーションは、この仮説を支持する結果を与えている)。こうしたアトラクタの形成は、刺激に対する身体反応の効果を“教師”としてシナプスを強化した結果なので、同一の環境で育てられた個体が似通ったアトラクタを備えていても不思議はない。こうした生理的基盤が、痛みの知覚を共感可能なものにしているのである。(7月23日)

  長かった梅雨も終わり、夏バテの季節がやってきた。もともと熱帯地方に棲息していた人類がなぜ夏に弱いのか、理解に苦しむ点もあるが、いくつかの原因を指摘することができる。
 人間は発汗によって体温を調節するが、このメカニズムは、他の動物にはほとんど見られないもので、体毛が減少した後に発達した機能だと推測される。それだけに、必ずしもナチュラルな生理的機構ではなく、貴重な微量元素の喪失を伴う点で、肉体にかなりの負担をかけることになる。当然のことながら、その分を食餌で補給しなければならない。だが、夏場には体温を高く保つためのカロリーが少なくて済むので、食欲が減退し、充分な栄養が摂取できなくなる。特に、日本人は、夏になるとあっさりした料理を好む傾向があり、冷や麦のような栄養価の乏しいものを食べて栄養不足に陥りがちである。暑い時期には、むしろカロリーを抑えて、タンパク質やビタミン、ミネラル類の豊富な食事が望ましい。(7月28日)

  柳美里は、現代の作家には珍しく、詩的な文体の中で現実の社会問題をストレートに表現する。その点で、燐光群の坂手洋二と並べても良いが、後者が問題を現象面から把握するのに対して、前者は、一度抽象的なレベルに還元してから再構成しようとする。それだけに、具体的な情念が作者の抽象的な問題意識にしっくり馴染んで、密度の高いステージを産み出すことが多い。ところが、今回の『魚の祭』では、あえて社会性を希薄にし、その周辺を彷徨うといった求心性の乏しい戯曲を試みたようだ。さらに、笑いが空回りするような松本修の演出がこの希薄さに拍車をかけている。これを柳美里の新しい挑戦と考えるべきかどうか、しばらく解答を留保したい。(『魚の祭』(青山円形劇場)を見て)(8月5日)

  日本新党の細川氏が首相に指名され、内閣を組織した。55年体制と言われる自民党独裁政治が終焉を迎えたという点では期待が持てるが、旧田中派の新生党がイニシアティブを取っている以上、旧来の政官癒着の政治風土が刷新されるとは思えない。特に、今回の政変劇で情けないのが、社会党の態度である。
 社会党は、本来野党第1党として、与党の政策を批判し、より妥当な方針を打ち出す任を与えられている。また、自民党が過半数割れしたとき、社会党が他の野党のまとめ役を果たせば、ともすれば官僚主義に陥りがちな政治の流れを制御することが可能になる。ところが、この度は、総選挙が実施される前から、山花委員長が、政策論争を棚上げにして新生党と連立を試みると公言してしまった。新生党を事実上牛耳っている小沢幹事長の狙いは、小選挙区制を実現して革新政党を追い落とし、保守2大政党の対立時代を実現した上で、かつての派閥争いを、よりスケールアップしていくことにある。その意味で、社会党にとっては天敵そのもののはずである。にもかかわらず、自民党の独裁政治が揺らいでいるという1点のみに心を奪われて、刺客同然の新生党と同盟を結ぶ意向を示したのだ。このことは、社会党が特定の政策を推し進める“政党(political party)”ではなく、政権争いにうつつを抜かす政治屋の集まりにすぎないことを暴露する。
 実際、国民はこうした社会党の変節を指弾し、総選挙では、結党以来の惨敗に追い込んだ。それも、なまじの負け方ではない。当選した候補も大半が最下位に滑り込んだという体たらくであり、前回トップ当選を果たしたマドンナ候補が法定得票数すら獲得できなかったというケースもある。こうして、連立政権内で他の党の2倍以上の議員を擁する圧倒的第1党になってイニシアティブを握るという目論見があっさりと崩れ、数の上では勝っているものの、実質的には新生党・日本新党にリードされる存在に成り下がってしまった。細川政権の下では、最も多い6つの閣僚ポストを手に入れたものの、枢要な役職は新生党に取られ、日陰の存在になりつつある。おそらく、今後は政治改革の名の下に小選挙区制がごり押しで導入され、次回選挙では連立与党の候補が絞られる中で社会党が切り捨てられていくだろう。次の総選挙で議事提出権を維持できるかどうかも危ぶまれる。(8月9日)

  戦後日本が世界の文化に対してなし得た最大の貢献は、劇画と舞踏という2つの新しい芸術ジャンルの創造だろう。もちろん、現代芸術はきわめて多様化しており、インスタレーションやビデオアートなど、細かく分類していけば、その多くがアメリカを発信基地としていることは容易に見て取れる。ただし、これらのニューアートは、新しい素材の開拓のよって形作られるのが一般的であり、純粋に創造的な意匠に基づいて成立しているものではない。これに対し、劇画や舞踏は、古くから日本に存在する技芸に立脚しながら、戦後になって、それまでとは比べものにならない爆発的なパワーを獲得していったという点で、より豊潤な創造性を感じさせる。さらに、こうした創造性が、手塚治虫や土方巽のような独学によって己の道を切り開いた天才に由来していることも、芸術の純度を高める上で重要な役割を果たしている。戦後の日本は、経済発展を追い求めるあまり文化を置き去りにしたというイメージがあるが、決してそうでないことは、声を大にして主張しなければなるまい。(8月16日)

  「ぬかか」=「ヌカカ科の蚊の総称」(「たほいや」より)
 フジテレビ深夜の「たほいや」が面白い。フジは、これまでにも、「やっぱり猫が好き」や「世にも怪奇な物語」、「カルトQ」など、実験精神に富んだ秀作を放映してきたが、「たほいや」も、これらに並ぶヒットと言って良いだろう。願わくば、先行作品のようにゴールデン枠に移行して堕落していかないように。
 さて、番組の内容は、何ということはない言葉遊びを中心とするゲームである。5人の出演者のうち、クジで選ばれた親が「広辞苑 第4版」──辞書を限定する演出が心憎い──から、聞いたこともないような単語を1つ選んで提示する。他の4人は、もっともらしそうな意味を考えて親に提出、親は広辞苑に記された正解を含む都合5つの語義説明を読み上げ、4人の解答者は改めてこれぞと思うものを選び出す。最も支持を集めた「虚偽の」説明を考えた人が勝ちという訳だ。多くの人が、これと似たゲームを中学が高校の時に楽しんだ経験があるだろう。実際、この時期に遊んだゲームには、大人になってからも結構楽しめるものがあり、照れ臭ささえなければ、もう一度やってみたいと思えるはずである。「たほいや」は、その願望を具現した番組だが、単に童心に帰るのではなく、人生の達人を出演者として集めることによって、子供のゲームを高度に洗練された知的遊戯に昇華している。特に、山田五郎や三谷幸喜のようなくせ者は、親になっても解答者になっても抜群の教養を示してくれるので、何度見ても見飽きない。例えば、「おめいこう」なる語が出題されたとき、正解は「日蓮の忌日に営む法会」だが、「江戸時代の儒学者・神林おめいの著作」というひっかけには見事に欺かれた。このほかにも、「からておどり」(ギリシャの数学者)「もてけつ」(無くする)など、よくぞまあと言いたくなる言葉が選び出され、それぞれに、いかにもという意味が捻出されている(単語の選択では、三谷の「はむさんど」が最もケッサクだ)。
 しばらくは目の離せない番組になりそうだ。(8月18日)

  世の中には食通気取りの輩が結構多く、どこの店の何という料理がうまいとか、この季節にはあんなエスニック料理が相応しいとか、やたらと講釈をたれて閉口させられることがある。こういう手合いには、大根の料理法を尋ねるのが良い。いい加減な答えしかできないようでは、似非グルメのメッキが剥げるというものである。
 そもそも大根は、日本の風土に最も適した作物で、古来、日本人に最も愛されてきた野菜と言ってもよいだろう。原産地は中国とも近東とも言われるが、奈良時代に輸入されるや、オオネあるいはスズシロと呼ばれ、瞬く間に全国に普及した。特に驚くべきは異なった風土への適応力であり、巨大なサクラジマダイコンから細長いモリグチダイコンまで、その形態は千差万別──明治時代に来日したヨーロッパの植物学者が喝破したように「奇跡の野菜」と呼んでしかるべきである。これに加えて、日本人は、それぞれの品種に適した調理法を案出してきた。生でおろして食べたり鍋に入れて魚などと煮たり、さらには漬け物にもなる。辛味大根のように薬味として使われるケースもあり、その利用法はほとんど無際限である。
 ところが、こうした華々しい大根文化に近年かげりが見えてきたことは憂慮すべき事態である。多くのヴァリエーションを誇ってきた大根の品種が、アオクビダイコン1種に統一されつつあり、他の大根を八百屋の店先で見かけることが稀になってきた。理由は明らかだ。アオクビダイコンは円筒形に近いため、収穫の際には引き抜きやすく、また流通過程での箱詰めにも無駄が生じにくい。こうした業者側の都合によって、アオクビが大根のシェアの90%以上を占めるに至ったわけだが、消費者側から見ると、これは食文化の破壊に他ならない。アオクビダイコンは甘みが勝っており、煮付けには向くが大根おろしにすると水っぽくておいしくない。鍋に入れてもそれ自体の風味は乏しく、より強い味の素材と組み合わせて初めてうま味を発揮する。このように、食材としては用途が限られており、ネリマダイコンやミウラダイコンに取って代われるものではない。にもかかわらず、現代の消費者は、これを唯一の大根として購入するしかないのである。
 こうした状況は、実はダイコンだけではない。ほうれん草は、かつての日本産のものがアクが強いなどの理由で敬遠され、生食も可能な西洋ほうれん草に押されつつある。トマトやニンジンも、30代以上の人が幼少期に食べた強烈な風味を発するものではなく、子供にも食べやすい品種に置き換えられた。こうした新参の野菜に共通するのは、全体に甘みが加わり水っぽく香りに欠け、栄養価が乏しいという点である。特にビタミン類は、かつての野菜の数分の一に激減しており、従来の食生活を続けていたのでは健康を維持するのが難しいほどである。こうした自体に盲目な消費者が食通を気取っている姿は、滑稽でも悲惨でもある。(8月31日)

  ロフトアンドシアター公演『ヒロインは彼女の笑顔を消耗する』(シアターモリエール)を見て──セクシーアイドルの寺尾友美が、なぜあんなに厚着なんだ!(9月2日)

  日本が経済大国になるにつれて、ちまたに外国人の顔を見かける機会が増してきた。かつて国際化という言葉でイメージしたのは、金髪碧眼のエリートビジネスマンが大手町辺りをアタッシュケース片手に闊歩する光景であったが、現実は、中国やイランからの不法就労者が公園にたむろする状況を生みだしたわけである。これに伴ってさまざまなトラブルも表面化してきている。特に、日本にはアジア人蔑視の風潮が根強いので、事態は深刻になりやすい。
 しばしば報告されるのが、住宅の問題である。不法就労者の多くは、日本語もままならず身元保証人もいないため、通常のルートではアパートを借りられない。やむを得ず日本語の得意な一人が部屋を借り、そこに何人もの同郷人が詰めかけるということになりがちだが、大家の側から見ると、得体の知れない外国人が不法に部屋を占拠しているとしか思えない。時には、文化の違いから(頻繁に油料理を作るなどして)部屋を汚してしまうこともあるので、事態はますますこじれてしまう。そもそも外国人を日本に招いたのは、バブル時代の過剰投資による労働力不足なので、彼らの面倒を見る責任が日本にあるとも言えるだろう。
 一部に誤解があるが、外国人労働者に支払う給与が現地の物価水準からすると高額だからといって、彼らの祖国に富をもたらしているわけではない。確かに、日本の1万円は中国では100倍の購買力を持つかもしれない。しかし、外国から信用貨幣を持ち込んだだけでは、中国国内の財そのものが増えることはないので、それだけでは中国経済にとってプラスにならない。むしろ、外国に出稼ぎに行った労働者に富が集中して不均衡が生じるため、社会不安を招来しかねない。日本から持ち込んだ円は、最終的には外貨として日本からの製品を購入するのに利用できるが、このときには、1万円は1万円分の購買力しかないのである。結果的に、安い賃金で労働させた分だけ中国の富を収奪することになる。
 それでは、外国人労働者を雇って、日本と出身国双方にメリットがあるのはどのような場合か。それは、労働力を得た対価として、日本の進んだ品質管理法や製造技術を伝授するケースである。日本で研鑽を経た労働者は、帰国後、国内の財の増大に寄与するのみならず、その後の日本との交流の際に架け橋の役割を果たすと期待される。現状のままでは、労働力を安売りして対日感情を悪化させるばかりである。(9月16日)

  一部のワイドショーで五味彬撮影の写真集『YELLOWS』が話題になっている。この写真集は、数年前に刊行が企画されたが、あまりに過激であるとの理由から発売が見送られ、印刷された数百部も破断処分されていたもので、これまで幻の作品と言われてきた。五味彬は、ヌード写真にきわめて独自の視座から挑戦して優れた業績を上げてきており、今回も角界に多大な衝撃を与えると予想される。作品の特徴を一言で表せば、裸体の持つ異常さとは何かを自覚的に問いかけている点である。従来のヌード写真は、人体──特に女性の滑らかな肉体──の持つ美的特質を強調するか、または、裸の身体が発散するエロティシズムを捉えることに汲々としてきた。その際、裸になることは、作品の前提条件であり、裸体の非日常性は、敢えて問題とされなかった。ところが、五味彬は、裸の女性が日常生活ではまず見られない異質の存在であることに着目し、その異常さを視るものに突きつけてくる。そこでは、余計な想念が生じないように、モデル達は肉体の美しさを目立たせるポーズや挑発的な体位をとらず、まっすぐ直立するという存在感の滲む態度を示している。
 『YELLOWS』というきわめて優れた芸術作品が登場したことに、ヌード写真が新しい地平を切り開いたことを実感せずにはいられない。(9月26日)

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©Nobuo YOSHIDA