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  TVや雑誌などで非常識ぶりや慎みのなさが揶揄され、しばしば軽薄な人種の代表と見なされるのが女子大学生だが、実は、その大半は、きわめてまじめで勤勉である。大学で教鞭を執ったことのある者は誰しも経験するように、平均的な女子学生は、多くの男子学生よりはるかに熱心に聴講し、せっせとノートを取っている。さらに、ゼミの指導に当たった教官の弁によれば、卒業研究においても、ユニークな発想に基づいて積極的に資料を収集し、読み応えのあるレポートをものするそうだ。文科系の大学院では、数の上でも質の上でも、女子が男子を圧倒する勢いである。ところが、こうした実態を全く理解していないのが、いまだに数十年前の風習を引きずっている企業サイドである。特に、今年のように不況になると、真っ先に切り捨てられるのが女子の採用枠だそうで、おかげで女子学生に関しては、有効求人倍率がとうとう1を割り込んだという。女子学生にとっては、自分よりは数段成績も悪く、独創性にもヴァイタリティにも欠ける人間が、ただ男性だというだけの理由で優先的に採用されるのを見るはめになる。これが、女性が社会における性差別の壁をはっきりと意識する最初のステージとなる。(10月4日)

  東海大学医学部付属病院で起きた安楽死事件は、実に後味の悪い出来事である。
 事件は、多発性骨髄腫に苦しむ末期患者を安楽にするため、家族の懇願に応じて、助手が塩化カリウムを注射して死に至らしめたというもの。警察は、あえて実行者である助手のみを殺人犯として送検し、家族の罪状は問うていない。すでに第1回後半が開かれているが、状況から考えて無罪になる可能性は小さく、情状を認めて執行猶予付きの有罪判決になるのではないかと思われる。
 今回のケースで腑に落ちないのは、医学的な知識が充分にあるはずの助手が、直接的な殺人という最も安直な方法を採るに至った理由である。報道されたところによれば、この助手は、老人病棟から配属されたばかりで、末期患者を多く扱う仕事に相当の精神的ストレスを感じていたとされる。事件当日は、直前に一人の患者を看取ったばかりで、疲れもピークに達していたようだ。しかも、多発性骨髄腫は、ガンの中でも最も強い苦痛を与えるものであり、患者は、末期の苦しみの中で、身体をけいれんさせたり緊張させたりしていたという。そうした中で、「できるだけ早く父を家に連れて帰りたい」と訴える息子らの願いにフラフラと従ってしまったとも考えられる。
 事件を報道するマスコミは、“殺人行為”は基本的に許されないとしながらも、“犯人”である助手に対して同情的な態度を示している。実際、臨死状態にある患者に対して回復効果のない延命措置は取らないという医師は多く、最期の段階は、家族とのあ・うんの呼吸の中で、見苦しくない死を迎えさせているというのが現状である。ただし、そうした場合でも、心臓に負担のかかるモルヒネを投与して、“苦痛を取り除く”というケアを通じて結果的に死期を早めるようにするのが一般的で、今回のごとく、直接塩化カリウムを静注するという乱暴な手法が選ばれることはまずない。そう考えると、直接的な行為に及んだ助手は、やはり選択を誤ったと言わざるを得ない。(10月6日)

  女優の太地喜和子さんが事故死した。公演後、親しい仲間と夜の海を見に行った際、車ごと海中に転落し、他の3人は助かったが、太地さんだけ車に閉じこめられて水死したという。痛ましい限りである。太地さんの演技を観たのは、NHKで放映された『ハムレット』でのオフィーリア役が初めてだった。このときタイトルロールを演じていたのは、確か江守徹だったと思うが、独白を独り言のようにぶつぶつ呟いたかと思うと急に活発に動き出す分裂症気味のハムレットをなぞるように、陽性の狂気を示す太地・オフィーリアは、シェークスピア戯曲の持つ新たな側面を見せてくれた。日本の新劇女優は、杉村春子や山田五十鈴に続く中堅どころがやや弱いだけに、彼女の存在は貴重だった。あまりに早い死に、瞑することもできない。(10月12日)

  似て非なるものに、愛書家と読書家がある。
 愛書家は、書物を慈しんで扱い、書き込みや折り皺を作ることを極端に嫌う。買ってきた本には汚れがつかないように丹念にカバーを掛け、ページをめくる際にも、指紋を残さないようにページの端に指をかけるだけ、読みさしで席を立つときも、本をうつ伏せにすることはなく、必ず栞を用いる。書棚は内容よりは装丁に基づいて整理し、間違っても上下逆さまにしておくことはない。これが病コウモウの域になると、特定の書籍に惑溺し、桐箱に納めたりする。
 これに対して、読書家にとっては「読むこと」が主目的であるから、本の体裁などにこだわらず、ハードカバーよりもペーパーバックを好む。手に持つ際に表紙を巻き込んだり、読みかけのページに折り目をつけたり、中には、表紙を破り取る者あり、いくつかの部分に分解する者ありで、読みやすさのために本を破壊することもいとわない。書棚には、読みかけの本が乱雑に積み上げられ、お役御免になったものから捨てられていく。
 ところで、私はと言えば、奇妙なことに、相容れないはずの愛書家と読書家の中間に位置している。読み始める前は、期待を高めるように書物をいとおしみ、カバーを掛けることもしばしばである。読んでいる最中も、折り皺や書き込みは厳禁であり、できる限り買った当初の状態を保つように心がける。だが、それも読書を心地よいものにするための準備作業であり、ひとたび詰まらない本であることがわかったら、後は容赦しない。ちなみに、書棚は背の高さや装丁で整理しているため、エカアンの『神経心理学』とオクタビオ・パスの『弓と竪琴』、チョムスキーの『文法の構造』と谷川俊太郎訳『マザーグースのうた』、バースの『やぎ少年ジャイルズ』と吉田秋生の『櫻の園』が並んでいたりする。(10月16日)

  いまや、ゴジラは正月映画の顔になった感がある。
 5年前に公開された復活第1作の『ゴジラ』は、脚本・演出ともあまりに稚拙で、現在の日本映画界の低迷ぶりを象徴するような作品だった。わざわざストーリーを公募しておきながら、水準に達していないとか、実現性に欠ける──中には、『スペースゴジラ』のようにタイトルだけで興味をそそられるものや、30匹ものゴジラが一斉にソ連に侵入するという物騒なものまであったそうだ──などの理由で全てボツにしてしまった上での作品というから、実に情けない。こうしたわけで、どじら作品のシリーズ化にはあまり関心がなかったのだが、第2作の『ゴジラvsビオランテ』から俄然面白くなってきたのだから、この業界はわからない。
 この作品が成功した理由の1つは、吉川晃司や斎藤由貴をフィーチャーするという押しつけ企画の枠内でそこそこに楽しめるプログラム・ピクチャーを作り上げる才覚を持った大森一樹を監督に起用した点である。怪獣映画の場合、最大の見所は怪獣による破壊シーンだが、やたらに金が掛かるため、それほど長い時間を確保することができない。このため、人間の登場する場つなぎのシーンが必要になるが、これが深刻すぎてもはしゃぎすぎても作品のバランスを欠いてしまう。大森監督は、これらの釣り合いをとるバランス感覚に優れているため、作品全体に安定感をもたらすことに成功した。
 しかし、新ゴジラ・シリーズを成功させた最大の功労者は、特技監督の川北紘一だろう。怪獣同士が対決する場面は、初期の『ゴジラの逆襲』におけるゴジラとアンギラスの死闘から見ることができるが、この作品自体、全作の大成功に味をしめて2匹目のドジョウを狙った粗製濫造の結果なので、特撮がいかにも安物にすぎ、大人は楽しめない。その次の対決シーンは『キングコング対ゴジラ』まで待たなければならないが、この時期には、怪獣映画はすでに子供を対象とするお子様ランチに変貌しており、それなりに他の締めはするものの迫力には欠けている。ところが、『ゴジラvsビオランテ』では、2匹の怪獣が命を懸けて闘うシーンが実にリアルに描かれており、見ていて息を飲む。対決場面は2度あるが、その都度にらみ合いの後の一瞬の勝負となって、『椿三十郎』以来の決闘シーンの伝統を踏まえている。
 こうした対決シーンの演出にいっそうの磨きが加わるのは、復活第3作となった『ゴジラvsキングギドラ』である。「あいつにだけは負けたくない」というキャッチコピーに表現されているように、ゴジラとキングギドラは、怪獣ファンの認める永遠のライバルである。と言うよりは、キングギドラこそ東宝映画史上、最大・最強・最高の怪獣であり、ゴジラには歯が立たない相手だった。『史上最大の決戦』で登場したとき、その圧倒的な強さで強さで破壊の限りを尽くし、ゴジラ・ラドン・モスラが力を合わせることによって漸く撃退できた強敵である。このキングギドラと、水爆の放射能によってより巨大化・凶暴化したゴジラが、子供向けのプロレスごっこではなく、命がけの死闘を繰り広げるのだから、ファンには堪えられない。
 そもそもキングギドラは、八岐大蛇(やまたのおろち)をモデルにした純日本的な怪獣で、造形的に見ても空想動物の傑作と言える。八岐大蛇は日本画の題材としてもしばしば取り上げられたが、いずれも首から上だけの表現であり、8本の首が合体する胴体部分のデザインはきわめて難物であった。東宝のデザイン・チームは、この問題を解決するため、首の数を3本に減らし、胴体に圧倒的な量感を与えた。ただし、それだけではバランスが崩れるので、コウモリ状の巨大な翼と二股に分かれた尻尾を付けて安定感を増し、さらに全身を黄金の鱗で覆うことで、スマートな躍動感を表現した。こうして、古典的な細部を現代的に統一したキングギドラは、滑るように空を舞い、口から怪光線を吐いて町並みを破壊する巨大なネメシスとして、他に類のない迫力を持つに至った。しかも、地上に舞い降りて敵に相対するときは、爬虫類のように体を前傾させるため、ほぼ直立姿勢を保つゴジラとは好一対をなす。それだけに、この2大怪獣が対峙する光景は、スクリーンに異様な緊迫感を醸し出す。いざ決戦が始まると、私のような数十年来の怪獣ファンは画面に釘付けになってしまう。
 今年は、対決シリーズ第3弾として『モスラvsゴジラ』が製作されるが、善玉怪獣として最後に勝利することを宿命づけられたモスラを使ってどのような死闘シーンが演出されるのか、興味津々である。(10月25日)

  弦楽四重奏という形式は、モーツァルトによって創始された後、ベートーヴェンが魂の告白の場としたために一気に音楽の極北に達してしまった。これ以降は、わずかにシューベルトが傑作の名に値する作品をものしただけで、多くの作曲家がこのジャンルを敬遠するようになる。ところが、20世紀に入り、アドルノが弦楽四重奏をブルジョワジーの音楽として弾劾した後になって、バルトークとショスタコーヴィチという2人の天才が、この形式の中で魂を揺さぶる真に偉大な作品を発表する。特にショスタコーヴィチの晩年の四重奏曲は、新しい奏法や十二音的な響きを随所に示しながら、その一方で、古典的な端正さと作曲者の深刻な苦悩をも表出する稀有の作品である。今回、ショスタコーヴィチ弦楽四重奏団が初来日して全15曲を連続演奏したが、ライブで聴いていると、通俗的な言い方だが、ショスタコーヴィチの心の叫びが聞こえてくるようである。(ショスタコーヴィチ弦楽四重奏団演奏会(王子ホール))(11月2日)

  女性同士の純粋な愛情を描いた『風たちの午後』以来、10年ぶりの新作となった矢崎仁司監督の『三月のライオン』は、心の最も柔らかい部分に触れる佳作となった。兄妹間の禁断の愛情を取り上げているというと、何か隠微な世界が連想されるが、矢崎の手になる映像は、セックスシーンすらひたすら悲しいほどにイノセントであり、同時に非肉体的なエロスに満ちている。それは、主としてヒロインを演じる由良宣子の、現実から浮遊しているかのような掴み所のなさに由来している。彼女の売春行為すらイノセンスの表出にしか見えないのだが、それを描くに当たって、生身の人間には許されぬ軽やかさを映像に仕掛けたことが監督の功績だろう。彼女がアパートにいるとき、外からかすかに聞こえてくる叱責の声を耳にすると、あたかも現実と非現実の狭間に落ち込むような不思議な感興を禁じ得ない。(11月4日)

  アメリカの新しい大統領がクリントンに決定した。湾岸戦争勝利直後には、実に90%に達する驚異的な支持率を得て再選確実と言われた現職のブッシュ大統領が、わずか1年ほどの間に人気を急激に落として、外交手腕などが未知数の地方政治家に敗れたわけであり、現在のアメリカが置かれている状況の厳しさが伺い知れる。現在アメリカは、オイルショック以降最悪の不況に見舞われている。企業業績は悪化の一途を辿り、エリート社員といえども失業を免れ得ない。こうした状況は、アメリカ国民のメンタリティに大きな影響を与えた。先のロサンゼルス暴動も、単に人種差別に対する反動だけでなく、出口のない不況の中で経済弱者である黒人が真っ先に犠牲にされていくことへの絶望感が背景にある。しばしば指摘されるように、アメリカでは一般市民の預金率が低く、クレジット・カードを利用して、借金をしてでも生活のステイタスを維持しようとする傾向が強い。ひとたび失業すると、翌日から生活そのものが困難になってしまうため、不況は、そのまま行き場のない閉塞感に繋がることになる。新しく選出されたクリントンがどのような政策を打ち出すかはまだ明らかでないが、彼が、この四半世紀で最も困難な時代に直面していることに間違いはない。(11月5日)

  「日本は本当に豊かなのか」という問いをしばしば耳にする。疑問形で提出される以上は、ネガティブな回答を期待しての設問だろうが、私ははっきりと「いくつかの領域では、本当に豊かだ」と答えたい。「精神的な面での真の豊かさに欠けるのではないか」と追い打ちをかけるならば、「精神的なものが物質的なものより本質的とは言えない」と切り返そう。「衣食足りて礼節を知る」と言われるように、生活の物質的なインフラストラクチャこそが、心の豊かさを支える土台なのである。この意味で、日本は、戦後半世紀足らずの間に確実に豊かになった。ただし、特定のジャンルに偏った形でではあるが。
 日本が、欧米先進国を含む他国よりも抜きんでて豊かなのは、その食生活においてである。平均的な日本の家庭では、毎晩夕食のメニューを変更するのが当然で、同じおかずが2晩続くと家族から文句がでるが、これは世界的に見て珍しい光景である。例えば、ドイツでは具沢山のスープにパン、茹でジャガイモにハムかソーセージというのがディナーのスタンダードで、これにキャベツの酢漬けやプディングが加わったり、ミートパイが出たりするというのがせいぜいである。米国では、所謂TVディナーやフライドチキンが度々食卓に上る。それに比べると、日本の夕食は、今日はトンカツ、明日はカレー、明後日は焼き魚と、和洋中の料理を(日本風にアレンジした上で)集めている。これほど豊かな食生活を享受している国民は、他にはないだろう。
 日本の豊かさを代表するもう一つの分野が、衣服(および装飾品)である。渋谷や原宿に行くと、若者が実に新しい服を身に付けており、古ぼけた服やつぎの当たったズボンを履いている輩は(ファッションとしてのジーンズを別にすれば)見あたらない。ヨーロッパでは、親譲りのスーツを平気で着たり、仕上げの良いコートを20年以上も着続けている人がざらにいるというのに。
 “衣”“食”に比べると“住”の貧弱さは多くの人に指摘されているとおりだが、来日するアジア人の多くは、日本人の住居を見て感嘆するという。狭いながらも小ぎれいに整頓された中に、大型カラーTVやVTR、CDプレーヤー、はてはパソコンからFAXに至るまで、あらゆるタイプの家電製品が並んでいるためだ。しかも、こうした製品の大半が、購入後5〜6年以内の新品ときては、中国や東南アジアの労働者が驚嘆するのも無理からぬことだろう。また、食器などの身の回りの品やエアコンのように快適さを保つための機器に関しても、日本は他国を圧倒している。
 このように見てくると、日本が豊かな国であることに間違いはない。問題は、その豊かさが大衆消費財に振り向けられ、住宅や上下水道などのインフラや福祉・文化施設の充実が図られていないという点だろう。以前、NHKで紹介されたイタリアのサラリーマンは、年収400万円足らずの小市民だが、通勤時間20分程度のところに広大なリビングルームを備えたアパートを持っているばかりか、親戚との共同名義で立派な別荘を所有して長期のバカンスを楽しんでいる。さらに、週末には1500円程度で本場のイタリア・オペラを堪能するという。日本とイタリアのどちらが豊かを比較するのは無意味だが、国民性の違いははっきりとしている。(11月15日)

  何が高級かという基準は時代によって大きく異なっている。特に、食品の分野では、変化の周期が短いだけに、僅か1世代の間で、日常食が庶民の口に入らぬ高級品に、あるいはその逆にといった変化が起きている。変化をもたらす最大の要因は、無論、供給状況の変動にある。
 カズノコは、ニシンが大量に水揚げされていた当時は庶民の食べ物だったが、幻の魚という呼称が口にされるようになると、いつしか正月用の高級品に変貌してしまった。かつて、時代劇の一場面で、一膳飯屋の品書きに、「いもの煮転がし」や「湯豆腐」と並んで「数の子」の名が見えたときにはいささか驚いたものの、そう言えば父も「子供の頃に嫌というほど食べた」と語っていたし、これを正月に食するのは、「田作り」「昆布巻き」と同じく保存性が良いからであって高級だからではない。安価で容易に手に入ったカズノコが「黄色いダイヤ」と呼ばれるまでになったとは、皮肉な話である。
 これと正反対のケースが、バナナの凋落である。かつては(50年代生まれの人間には切実であったように)バナナこそが果物の王様だった。「バナナの叩き売り」とは逆説的な表現で、あくまでたまさかにしか口にできない高級品として、子供たちの垂涎の的になっていたのである。その美味は、すでに19世紀から上流階級の間で話題になっており、J.ヴェルヌの『80日間世界一周』では「クリームのように美味しい」という伝聞を確認するシーンが描かれている。ところが、20年ほど前からフィリピン産の安価なバナナが大量に輸入されるようになって、一房が200円程度で本当に叩き売りされるようになってしまった。こうなると現金なもので、「毎日バナナが腹一杯食べられたら」という子供の頃の夢はどこへやら、あまり見向きもされないデザートの一つに落ちぶれるていたらくである。味そのものは変わっていないだけに、人心の移ろいやすさは悲しくも滑稽である。(11月23日)

  「嘘には3種類ある。大きな嘘、小さな嘘、そして統計」──というマーク・トウェインの言葉を引用するまでもなく、統計的なデータが人を惑わす要因になることはよく知られている。
 数値データを扱う際の最も初歩的な誤りは、誤差を正しく評価しないというものである。「調査した政治家16人のうち12人の血液型がA型だったので、A型の人は政治家向きだ」という素朴な主張がこれに当たる。仮に血液型がガウス分布するならば、概算だけで、この命題の信頼度がきわめて小さいことが導かれる。さらに、血液型と地域分布などの相関を調べていくことにより、この種の擬似科学的な主張の多くを反駁することは容易だろう。
 ただし、こうした素朴な誤りを犯すはずのない専門科学者が、しばしば統計データを誤って解釈することも、また見逃せない事実である。重要なのは、科学的命題を検証しようとするとき、ガウスの検定法を適用する条件として、あらかじめ検証すべき命題を確定しておかなければならないという点である。このことは、統計学の教科書には当然の前提とされているが、実際の研究においては、しばしば失念されてしまう。例えば、「血液型と疾患の間に相関がないか」という発想の下にデータを解析し、「B型の人に胃ガンが多い」ように見える数値が得られたとしよう(これは、実際に報告されたものである)。具体的には、血液型ごとに胃ガンの発症率をまとめると、ガウスの検定法の下で有意にB型の発症率が高くなっていたとする。統計数学に慣れていない人は、このデータによって「B型は胃ガンになりやすい」という命題が検証されたと思うかもしれない。しかし、実は、こうしたデータ解析は、先に掲げた統計数学の基本前提を無視したもので、ここから「B型=胃ガン多発」説を導くことはできない。なぜなら、研究に着手する前の段階では、「A型=脳卒中多発」説や「O型=糖尿病多発」説など数多くの仮説が潜在的に乱立しており、与えられたデータの解析はこれらすべてに対する検証を行ったことに相当するため、個々の仮説ごとの検証の信頼度は、著しく減殺されてしまうからである。たとえガウス検定法によって「B型=胃ガン多発説」が90%の信頼度で検証されたとしても、この仮説自体の信頼度は、この値にさらに、さまざまな「血液型対疾病」行列の要素の1つが偶然に相関を示すことがない確率を乗じなければならず、最終的には信用できない程度のものになってしまう。
 科学者は、こうした誤謬を避けるために、いくつかの経験的な規範を用いて命題の妥当性を判定している。ランダムな現象については95%以上という高い信頼度を要求したり、周期性を確認するのに3つ以上のピークを確認するというものである。もちろん、こうした規範自体には理論的な根拠がなく、科学者同士の論争の種にもなっているのだが、いささか厳しすぎると思えるほどの規範を設けなければ、科学的な正当性は確保できないのである。(12月12日)

  豊かな社会とは何だろうか。国民の平均的な生活水準が高く、能力のある人は物質的にも精神的にも恵まれた生活を享受できる社会──というのも1つの解答だろう。だが、私はそれよりもむしろ、弱者が尊厳を持って生きていける社会だと考える。社会的な弱者──労働力とはなり得ない老人や心身障害者、回復の見込みのない重病人など──は、経済力が衰えていくとき、真っ先に切り捨てられる対象である。単に、目に見える福祉施設だけを問題としたいのではない。弱者をサポートしよう、あるいは、より積極的に、ハンデキャップのある人々との共存によって何かを得ようとする精神的なゆとりを言いたいのだ。
 例えば、NHKで放映された『あなたの声が聞きたい』という番組では、植物状態になった脳障害患者の意識回復の試みが語られていた。一人の患者に膨大な労力を投入しても、精神活動の影を瞬間的に見せるほどにしか回復させられないことが多い。そんな医療に何の意味があるかという疑問が頭をかすめるが、患者を激励する看護婦たちの真剣な姿を見ると、われわれは、生きることの尊厳を確実に感じ取ることができるのである。こうした活動を可能にしてくれるのが、真に“豊かな”社会なのだ。(12月15日)

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©Nobuo YOSHIDA