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  マッハの認識論哲学が相対性理論を建設するときに導きの糸になったことは、アインシュタイン自身が証言しており、多くの科学史家もこれを追認している。しかし、直に文献に当たってみると、マッハの思想は必ずしもアインシュタイン以降の物理学的世界像と合致するものではなく、むしろ、古典的な感覚主義の色彩が濃厚な点にいやでも気づかざるを得ない。いわゆるマッハ原理の実例としての水桶の実験に関しても、後世に解釈されたものとはかなり異なる主張であることがわかる。
 水桶の実験とは、ニュートンが絶対空間の存在を示す根拠として提示したもので、静止した水桶の水面は平坦だが、回転している水の表面は湾曲していることから、慣性系と加速度系が峻別できるとされる。これに対して、マッハは、この実験において検証されたのは、水と他の物体との間の相対運動が遠心力を引き起こすことだけだと批判する。一般的なマッハ理解では、「もし水に対して全宇宙を回転させた場合も水面は湾曲するかもしれないので、水桶の実験は絶対空間の実在を検証したことにはならない」という風に解釈されている。ところが、マッハの書いた原文を読むと、「水桶の質量を増やして、天体ないし銀河系並にして回転させたとき、水に遠心力が働くかどうか明らかでない」となっている。こうした主張は、ニュートンの万有引力とは異なる別種の力が存在する可能性を示唆するものであり、必ずしも、いわゆる“マッハ原理”と同一の内容ではない。実際、この原文から窺えるのは、巨大な質量に引きずられるエーテルのようなものが万有引力や遠心力の担い手だという発想であり、もし水桶の回転とともにエーテルも回り出せば水に遠心力は働かないと推測されることになる。
 さらに、相対性理論の先駆者と言われるにもかかわらず、マッハがローレンツ変換の物理的な意味を理解したようには見受けられない。マッハの著作では、ニュートン流の絶対時空に対するアンチテーゼとしてアインシュタインやミンコウスキの業績が紹介されているが、その場合でも、変換の数学的な形式については触れられておらず、あくまで“相対性”の主張として言及されているだけである。ところが、相対性理論の本質は、物理法則を不変に保つ座標変換が(ガリレイ変換ではなく)まさにローレンツ変換だという点にある。この変換では、メトリックの符号と次元数を別にして、時間と空間が対称的に取り扱われており、“物質を入れる器としての空間”と“変化を促す流れとしての時間”という古典的区別が排除されている。にもかかわらず、マッハは、時間と空間の等質性に関しては口を閉ざしたまま、あくまで絶対性を否定するための論拠として相対性原理の名を上げるにすぎない。この事実から推察するに、おそらくマッハは、時間的発展に生命現象の本質を結びつける発想から逃れられなかったのだろう。
 もう一つ付け加えて言えば、マッハが重視する“感覚”は、まさにアインシュタインが相対性理論を建設する際に、その根拠を問い直したものなのである。アインシュタインの1905年の論文を読むとわかるように、彼にとって“観測者”とは、自分のごく近傍の事象を認知するだけの存在でしかなく、物理現象の相対を記述する枠組みとしては、非人称的な“座標系”という概念が利用される。したがって、相対性理論とは、「相互に運動する観測者にとって世界が異なって見える」という主観的な理論ではなく、互いに慣性運動する座標系の間で物理現象を表す方程式がどのように変換されるかを示す客観的な理論だと断定できる。このことは、個々人によって世界の表象が異なることを主張する“相対主義”を補強するためにアインシュタインの理論を援用できないという(物理学者には自明の)命題を導く。ところが、マッハの著作を読む限り、感覚の主観性を排して(座標のような)客観的道具立てを利用しなければならないとする姿勢は見られない。それどころか、“感覚”の持つ主観的な作用をそのままの形で理論の中に取り込まなければならないと主張しているように感じられる。
 以上の点を総括すると、マッハは必ずしも20世紀初頭の科学革命を予言した先駆者ではなく、より保守的な科学者/哲学者だったと結論することができる。アインシュタインがマッハを高く評価したのは、その哲学的思索に共鳴したというよりも、いかにも曖昧な記述の奥に自己の鏡像を見たからだと考えるのが妥当だろう。(4月1日)

  宮田まゆみの笙リサイタルは感動的な3時間だった。石造の建物内部で低音部を共鳴させることを前提とした西欧音楽とは異なり、アジア・アフリカの民族音楽は、屋外で音を伝達させるためにきわめて高い音を鳴らせる楽器を利用する。雅楽で用いられる笙も、こうした楽器の1つであり、古典的な楽曲では、琵琶や横笛などの旋律楽器をサポートする“通奏高音”の役割を果たしているが、その驚異的な音の拡がりを愛した多くの現代作曲家が、ソロないし室内楽用の作品を発表している。宮田まゆみは、おそらく世界でただ一人、笙でリサイタルを開けるソリストであり、笙が加わる現代音楽の大半が、彼女のために、または彼女が演奏することを念頭に置いて作曲されている。今回のリサイタルで演奏された作品は、冒頭の1曲を除いて、いずれも現在第一線で活躍する作曲家の手になるものだが、彼女の卓抜なテクニックがあって初めて表現可能になったと言えよう。細川俊夫の3作品は、通奏楽器としての笙の特性を利用して流麗な音空間を創造しており、特に『鳥の断章II』の打楽器との対比にははっとさせられる。世界初演となった一柳慧の『風光る』は、この作者の最近の円熟ぶりを感じさせる好篇で、古典的な開始部から前衛風の中間部を経た後のゆったりした終結部が印象的である。しかし、当夜最大の聞き物は、最後に演奏されたジョン・ケージの『ONE9-TWO3』であり、断片的な音の合間に緊張感を孕んだ“間(ま)”が流れ、聞く者に異様なまでの精神の高揚を感じさせた。(「宮田まゆみ笙リサイタル」(カザルスホール)を聞いて)(4月3日)

  「…彼が37歳で早世する直前に完成したこの作品は、現実的な社会の慣習に従って交響曲第5番と名付けられているが、いつからともなく人の口の端に上るようになったとおり『希望』と呼称されるにふさわしい内容を持っている。形式的には、彼が大きな影響を受けたブルックナーの第8交響曲の最終楽章を範としており、3つの主題の提示とその変奏として捉えることが可能である。しかし、ここに盛り込まれている祈りにも似た思いは、相反するテーゼがいつか融合することを求めた真摯な希望であったと解釈すべきではなかろうか。実際、数学的計算によって厳密に構築されている前半の前衛性をいったん否定し、あえて古典的なフーガの技法によって壮大な結末を作り上げていく背景には、音楽を自己の信念に従わせようとする強靱な意志の力が感じられる。
 作品全体の構成原理となっている3つの主題は、それぞれ、旋律・リズム・和音を軸に作られている。長い序奏部の後で提示される第1主題は、憧れとも祈りともとれる美しい上昇音階をを形作っているが、子細に検討すると、その中身は、5度の跳躍を頻繁に行う管楽器と、行きつ戻りつしながら次第に高みに向かう弦楽器群に分かれており、さらに、弦楽器の中には、常に旋律線を下降させようとする特徴的な音階が何度も現れてくる。すなわち、第1主題とは、3つのサブテーマから構成される主題群であり、ブルックナー形式を二重に踏襲している──主題“群”の採用と3元構造の重視という意味で──ことがわかる。第2、第3主題も同様に3つのサブテーマを持っており、この壮大なシンフォニーは、合計で9個の主題を複雑に絡み合わせたものになっている。ただし、第2主題には旋律性はほとんどなく、次第に加速されるリズムを中心としており、その中に、3連符を多用したブルックナー・リズムを聞き分けることも可能である。また、第3主題は、重層的な和音を繰り広げるもので、長調−短調の繰り返しのようでありながら、徐々に長調の成分が支配的になってくる。こうした異質な要素で構成された主題群が、はじめはそれぞれ個別に登場した後、旋律とリズム、リズムと和音、和音と旋律というように絡まりもつれ合っていく過程が、交響曲の前半部を作り上げている。ここで興味深いことは、作者が各主題群の中に、音楽をカオスへと導く何らかの動機を潜ませており、単に音楽の論理に則った展開にとどまらず、より浪漫的なコスモスとカオスの対立を描いている点である。この意味で、形式的にはブルックナーの交響曲に範を求めながら、内容的には、マーラーの諸作品──なかんづく、第6交響曲の終楽章に近しいものが感じられるのである。
 こうした特質が如実になるのは、後半に入ってからである。3主題群の組み合わせにより、いったんは音楽的な三位一体が実現されるかに思えた流れは、わずかに残されていた不協和音の加速されるリズムによって、次第に崩壊していく。それは、マーラーのシンフォニーにおいて、勇壮な行進曲風のテーマが、ハンマーの打撃によって打ち砕かれるのとは異なり、むしろ、それ自身の矛盾によって内側から崩れていくような感じを与える。音階の流れを支えようとする3連符に乗った上昇旋律の努力もむなしく、曲は徐々に空疎なものとなり、時折トランペットが高音部に騒々しく現れるだけで、前進する力を失っていく。そして遂には、長い長い休止の合間に断片的な和音が鳴らされるだけになる。1秒の音と10秒の静寂──そんな、今にも消えてしまいそうな流れが延々と続く中で、いつしか断片的な和音が、前半に登場した3つの主題群を重ね合わせたものになってくる。聴衆がそのことに漸く気づく頃、低音弦にトレモロが現れ、はっと思う間もなく、その上に3主題群を合体した荘重なコラール風の音型が奏でられる。こうして音楽は、ついに三位一体を実現し、感動的なクライマックスが訪れるかに見える。
 しかし、作者は、この段階で作品を結ぶことを潔しとしなかった。3つの相異なる要素の調和は、あたかも幻のごとくほんの1分ほどで過ぎ去り、音楽は再び静寂へと向かう。ただし、今回は、自己矛盾による内部崩壊といった形ではなく、円熟のまま静かに息を引き取る様を思わせる。絡み合ってクライマックスを作り上げた3主題9要素が次第にほどけていき、音楽はおもむろにその骨格をあらわにする。それも、いつしか風の中に舞い散っていくかのように消えてしまい、最後にはビオラの長い保続音のみとなる。そして、これで音楽が終わると思われた瞬間、ビオラのソロが得も言われぬ民謡風の美しいテーマをそうし始める。それが第1主題の発展であることを判示させながら、全曲は静かに結ばれるのである…」(4月12日)

  人間とはおかしなもので、自分の不幸を他人に吹聴せずにはいられないらしい。持病のある人が、尋ねられもしないのに病状のことを細かく語るのも、そうした性分の現れだろう。もっとも、病気や家庭内のいざこざなどは、聞かされる側にとって迷惑なだけであり、適当に聞き流しながら時折相づちを打つしかない。下手に耳傾けたりすると、そのまま引き込まれて陰々滅々となってしまう。だが、貧乏自慢となると、語る方も聞く方も結構楽しめる。売れっ子の芸人が、まだ人気が出る前の耐乏生活について、まるで愉快な思いで話をするように語ったりする。1杯の砂糖水をすすりながら1日飢えをしのいだ──などという話はいささか気が重くなるが、小さなアンパンを押しつぶし、大皿ほどの大きさに引き伸ばしてゆっくり味わいつつ食べたと聞くと、不思議に心が弾むものである。
 かくいう私も、節約に節約を重ねた経験は、楽しい思い出となる。月末に食費が足りなくなることは日常茶飯事だが、インスタント・ラーメンのような安物を買うようでは、筋金入りの貧乏人とは言えない。おいしくて栄養充分でありながら、なお安い材料を仕入れるのが腕の見せ所である。コツは、スーパーが放出する“お買い得品”だけを組み合わせてご馳走をこしらえること。イワシとほうれん草とタマネギを買ったまま途方に暮れてしまうのは未熟者で、炒めたタマネギの上にイワシを乗せて火を通し、茹でたほうれん草を切って盛りつけてしまうことなど朝飯──もとい、夕飯前である。
 それ自体うきうきするのが、いかに安く遊ぶかについてのプランニングである。映画の場合、情報誌やポスターを頼りに無料上映会を丹念に探す。東京では、意外に多くの無料上映会があり、特に図書館では、しばしば名作が取り上げられる。小石川図書館の名画鑑賞会や、水道端図書館のアジア映画上映会は、解説者もついて堪能できる。もちろん、試写会の申し込み葉書をせっせと書くことも忘れてはならないが、こちらは新作であるだけに、批評を読む機会のないまま、とんでもない駄作とつき合わされることもあるので要注意である。500円以下の低額で映画が見られる所には、フィルムセンターや映像カルチャーホールがあるが、面白そうな作品は必ずしも多くない。貧しい映画愛好家の友となっているのは、多い武蔵野館や文芸座などの名画座である。これらは、本来営利事業としてやっているはずなのに、さまざまな特典を設けて、映画好きには1本当たり300〜400円で見られるようにしてある。昨今、名画座の閉館が相次いでいるだけに、残された僅かの名画座の奮闘を祈る気持ちである。
 とまあ映画に関しては平均単価350円程度で済ませられるが、実は、東京に住んでいる者にとって最も安上がりな芸術鑑賞の方法は、都内の至る所にある無料の画廊巡りである。画廊には、金持ちに美術品を高額で売りつけるための陳列場としての役割もあるため、基本的には、誰でも自由に入れるオープンな作りになっている。こうした場で、若手の有能な作家が世に出るために会場を借りて自作を展観する機会も多いので、美術界の最新の動向──それも、派閥の桎梏に歪められない元気どころの実態を見せてくれる。特に、アートスペース美蕾樹やインフォミューズには掘り出し物が多い。デパートや美術館で催される展覧会には、入場料が千円を超し宣伝も派手めになっていながら内容の乏しいものが多い。それだけに、只で労作を見られる画廊の活動は、貧乏人には貴重である。(4月19日)

  先日、肥満を防ぐ切り札とも思える新薬コレステノンの開発が進められていることが発表された。いまだネズミによる動物実験の段階だが、発ガン性などの副作用もなく、安全に体重のコントロールができるという。コレステノンの機能は、皮下脂肪の原因となるコレステロールの吸収を妨げるものと予想され、トロや霜降り肉などの高コレステロール食に食品添加物として加えれば、肥満の心配に心乱されることなく、こってりした味わいに舌鼓を打てることになる──と、一見良いことずくめのようだが、これは、いかにも甘い期待にすぎない。何よりも、コレステノンの効果がコレステロールの吸収阻害という特定の過程に限られており、肥満を引き起こす様々な要因の一つ一つに対応しているわけではない点に注意しなければならない。実際、肥満の原因には、インシュリンの分泌異常による血中脂肪酸の増大や、ある種の栄養素の代謝不全、さらには、満腹中枢の欠陥に起因する無自覚な多食から心理的ストレスに根ざす過食まで、きわめて多くの種類がある。コレステロールの吸収を阻害しても、それ以外に肥満を引き起こす原因──例えば運動不足──が解消されないならば、身体のどこかに必ず何らかの異常が引き起こされるはずである。西洋医学は、単一の原因に由来する疾病に対しては、抗生物質によって病原菌を駆除したり、不足する栄養素を補給したりするなどの治療法によって、著しい効果を上げている。ところが、高血圧や肥満のように、多数の要因が絡んで発症する病気の場合、副作用なしに治療することは、現実問題として困難である。コレステノン療法は、いかにも西洋医学的な発想で肥満をねじ伏せようとするものであり、期待したほどの効果が得られないことは十分に予想される。(4月24日)

  私は、哲学関係の論文を執筆する際に、同時代の学者の業績を引用しないという方針を守っている。こうした方針が、学界できわめて異例のものであることは充分に承知している。実際、大概の哲学者は、同じテーマについて発言している諸々の著書から頻繁に引用し、それらと対比させることによって自己の主張を明確なものにしようと心砕いている。にもかかわらず、私が敢えて引用を峻拒しているのは、次のような理由がある。
 現在、哲学という学問は、無名性を獲得していない。すなわち、著者の名を冠さずに、一般的な思考の枠組みとして論じることが不可能なほど、学術研究に個人的な発想が重要な役割を果たしている。ある学説の内容を説明するのに、その説の主唱者の名前を省略することは困難であり、学派内に生まれているさまざまな見解の相違に対しても、論者名をレッテルとして貼り付けていかなければならない。ところが、私の考えによれば、本来学問は、個人の名を離れて成立すべきものである。そもそも、人間が一人ひとりの叡智に頼らず知識を体系化しようと試みるのは、1個の脳のポテンシャルを越えた思索を可能にしようとするからである。自然科学はその最良の例であり、科学的な理論は提唱者の手を離れて万人に共有されるものになる。たとえ「シュレディンガーの波動関数」のように人名が残ることがあっても、それはあくまで便宜的なノメンクラチャに過ぎず、命名の元になっている科学者のアイデアとはかけ離れたところで使われていることも稀ではない。こうした無名性があるからこそ、科学者たちは、さまざまな理論を、おもちゃのブロックのように組み合わせて、より有効性の高い体系を構築できるのである。
 このような「学問のあるべき姿」に対して、哲学は、学問以前の体制を今にとどめている。特定の哲学用語──例えば、「志向性」や「自意識」のような──を援用して学説を展開しようとしても、単純な組み立てブロックとしての機能を示さず、そこにまとわりつく多くの個人的見解を引きずってきてしまう。ましてや、「パラダイム」のように提唱者の名前と密接に結びついている用語を、コンテクストから切り離して用いることは許されていない。こうした状況でうっかり他人の学説を引用したりすると、途端に用語法の不適切さ、コンテクストに対する無知を指弾されかねない。それが有益な批判ならまだしも、ある個人の思想を全面的に理解していないことを詰るだけの場合は、当の人物が使用した語句をその筋の専門家が適切だと思うような形で用いること自体が困難であるため、学問的な反論のしようがなくなる。こうした不毛な状況に陥ることを避けるため、私は他人の学説を引用しないようにしているのだ。(5月1日)

  関東鉄道の取手駅で、ブレーキの故障した列車が満員の乗客を乗せたまま暴走、車止めを乗り越えて駅ビルに衝突するという事故が起きた。何と先頭車両の前部15メートルほどが駅ビルにめり込む形となり、衝撃のすさまじさを物語っている。1人が死亡し160人以上が重軽傷を負ったが、運が悪ければさらに多くの死者を出してもおかしくない状況だった。事故原因は、取りあえずブレーキ故障とされているが、3系統あるブレーキの全てが同時にいかれるとは考えにくく、運転士の人為ミスが絡んでいるとの見方もある。この車両は、手前の駅で補助ブレーキが掛かったままはずれなくなったため運転士が手動で解除したという経緯があり、この作業中に何らかのミスが生じた可能性もある。ただし、このときは満員の車内から早期の発車を求める声が上がっていたようで、運転士だけを責めるのは酷だろう。
 今回の事故報道で最も印象的だったのは、衝突直前に、車内放送で「この列車はブレーキが利きません。後ろの方に移動してください」とアナウンスされた点である。事故に遭遇した人の話では、この放送があった瞬間、車内から悲鳴が上がり、後ろに行こうとする人で騒然としたそうである。しかし、こうしたパニックを誘発したものの、先頭車両の前半分から乗客がいなくなったため、死者を最小限に抑えられたことは評価しなければならない。アナウンスをしたのは、ブレーキが利かなくなっていることを確認した運転士であり、自身も衝突直前にホームに飛び降りて一命を取り留めている。ブレーキに関しては操作ミスの疑いがあるが、とっさの判断で車内放送に踏み切った判断力は正確だったと言えよう。
 それにしても、この放送を耳にした直後の乗客の心境はどのようなものだったか、想像にあまりある。いつもと変わりない日常生活──満員電車に揺られてさしも面白くないルーティンをこなしていると思っているところに、突如非日常の裂け目が生じる。しかも、生と死にかかわる問題として。その瞬間に、心は凍りつく。変哲のないはずの電車は、たちまちにして轟音をたてて暴走する金属の檻に変貌する。何をしたらよいのか、正当な判断を下すのは不可能に近い。数秒を経て我に返ると、今度は猛然と何かに向かって駆り立てられる。または、へなへなとその場にくずおれる。そして、生と死を分ける時がやってくる…(6月1日)

  本格ミステリーの魅力は、合理的な解釈が不可能と思われる数々の謎が、ラストで一気に解決されたときの爽快感にある。例えば、エラリー・クイーンの『Yの悲劇』。マンドリンを凶器としたことや周到さと稚拙さが入り交じった行動など、何かはっきりしない違和感が充満した中で犯罪が進行していく。そして、解決篇で全ての謎が単純な事実に還元されたとき、読者は息をのまざるを得ない。しかも、この作品の場合、謎を生み出した事実が、きわめて悲劇的な動機に根ざしているだけに、人間の心の暗部が表面上の謎と照応する構図が明確になってくる。もちろん、これほど見事な構造を持ったミステリーは稀であり、多くの作品は、謎を華々しく飾り立てすぎて、解決がこけおどしに堕しがちである。ヒッチコックが『マリーセレスト号事件』の映画化を断念した理由として、冒頭の謎が強烈すぎると、その後のストーリーが理に落ちて観客の興味を喚起し続けられない点を上げているが、同様のことが本格ミステリーにも当てはまる。むしろ、クリスティの中期以降の作品のように、解決の段階で初めて謎の全貌が明らかになるといった展開の方が、作品のおもしろさを高めることになろう。(6月9日)

  近頃の若者は、ジュースの空き缶などを道端に投げ捨てて平気でいられるようだ。マナーの悪さを嘆く向きもあるが、私は少々別の観点から論じてみたい。
 0〜1歳までの幼児は、物質量保存の観念がなく、しばらく遊んでいたおもちゃでも、視界からはずれると途端にその存在を失念してしまう。しばらくして同じおもちゃを見つけても、同一物としてではなく、同じ形式を持った新たな存在として取り扱うのがふつうである。保存の概念が発生するのは2歳児の頃であり、自分の“宝物”をどこかに隠す振舞いを示すことから、発育の段階を窺い知ることができる。この観念を拡張すると、「自分がその中に含まれる広い世界が厳然として存在し、視線の届かない領域にも揺るぎない定常性が保たれている」という“大人の”パースペクティブが得られる。健全な発育を遂げた大人は、このパースペクティブを元に、捨てられた空き缶がいつまでも残って街の美観を損ねることが容易に推測できる。ところが、空き缶を投げ捨てる若者は、自分には見えない所に存在する世界についての明確なビジョンが獲得されていないようである。それだからこそ、見えない所に空き缶を置くだけで、いつまでも世界を汚し続けるゴミのイメージを消去してしまえるのだろう。
 もっとも、この点を捉えて、彼らを2歳児並の知能と蔑んでばかりもいられない。考えてみれば、現代の青少年は、TVやパソコンなどの電子機器に囲まれており、そこに映し出される映像はスイッチ一つで跡形もなく消去されてしまう。また、電話の存在は、日常的に遠く離れた人物とのコミュニケーションを可能にしており、ユークリッド的な距離感を伴ったパースペクティブの成立を困難にしている。こうした状況の中で、自分の手の届く範囲だけに受肉された世界を感じる人間が育っているのである。(6月12日)

  超能力がブームになって久しい。初めのうちは、超能力者を自称する人が、年端もいかぬタレントの前で奇術を演じて驚かせるだけのたわいもないTV番組が制作されていた程度だったが、次第に内容が手の込んだものになり、似非科学的な解説まで付け加えられるようになった。こうなると、子供相手の娯楽と笑って見過ごすわけにはいかず、ブームをもたらす社会心理を再考する必要がある。特に指摘しなければならないのは、超能力に惹かれる人々が、ごくありきたりな日常性の神秘にさして関心を示さない点である。例えば、皮膚を傷つけたとき人は痛みを感じるが、これはきわめて不可解な現象である。単に「ある神経が刺激されたから」というだけでは、痛みが一定期間(“ずきずき”あるいは“じんじん”と)持続する理由が説明できない。神経生理学的には、癒合の過程で神経線維に力学的な張力が加わり、これが持続的な神経パルスを惹起すると言われているが、傷の種類に特有な痛みのパターンがどのようにして生じるのかは、こんにちなお判然としない。単純な痛みですらこの程度にしか解明できないのだから、大脳皮質による高次の認識など科学にとっては全く未知の領域であり、無数の謎に満ちあふれている。にもかかわらず、この種の謎に対して多くの人は無関心のように思われる。傷の痛みなどは、生理的システムにおける原因・結果の因果関係として納得しているらしい。日常的な神秘に対するこうした“不感症”が、逆に非日常的現象への過大な興味をもたらすのではないか。「バラの木にバラの花咲く」ことの不思議に感じ入った詩人の感性を持つならば、おそらく、こけおどしの超能力ショーに惑わされることはないだろう。(6月24日)

  幼い頃より、私にとって最大の恐怖は発狂することだった。死よりもなお狂気は恐ろしい──と同時に、狂気には胸を掻きむしられるような切なさが伴っている。どういうわけか、自分が発狂する様を思い描くとき、食べ物に対する異様な態度が頭に浮かぶ。例えば、魚屋の前を通ったとき、やにわに店頭の生魚をわし掴みにして頭から丸かじりする自分の姿を、ふとイメージしてしまう。そして、そうしようもなく切なくなる。おそらく、他人には滑稽であるに相違ないこうした姿が、なぜ私にとってこれほど悲しいのだろう。考えるに、私は理性に最高の価値を認めており、人生の他の要素は全てこれに追従すべきだと見なしている。理性に裏打ちされた行為こそ、人生を生き抜くに値するものにしていると信じたい。しかるに、気が狂いながらなお、自分がこの世に生き続ける可能性を否定できないのだ。しかも、食欲という理性から最も遠く離れたところにある肉体的欲望を通じて、狂気を体現することすらあり得る。このことを思うと、自分が抱いている価値観が崩壊していくような空しさ、切なさを禁じ得ないのだろう。
 こうした思いがあるだけに、小説や映画に描かれる狂気は、私にとってほとんど遊び事にしか見えない。虚構の世界で語られる狂気は、実存の恐怖とはなり得ないということか。オフィーリアやムイシュキンの狂気は、複雑な人間関係を無理矢理に精算した結果の姿であって、悲しくはあるが切なくはない。エイハブにしても、人間の意志を極限にまで突き詰めた姿が狂気として現れたのであって、むしろヒロイズムが先行しているように感じられる。私が恐怖する狂気に最も近いところにあるのは、ヴィスコンティの『ベニスに死す』に登場するアッシェンバッハだろうか。少年への愛に盲目になり、口紅までつけた己の姿に嬉しそうに微笑む姿は、限りなく切ない。(6月27日)

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©Nobuo YOSHIDA