【「徒然日記」目次に戻る】



  目覚めとともに夢を忘れるのは、もしかしたら自己を守るための防衛メカニズムの結果かもしれない。それほどまでに、夢は人を惑溺させる力を持っている。実際、夢の中でわれわれは、現実におけるいかなる瞬間よりも身軽になることができる。単に空を飛ぶというだけではなく、肉体の動きに必然的につきまとう重量感が霧散してしまうのだ。時には、日常の生活で忘れていたような激しい感情が襲ってくる。何が悲しいかよくわからないまま、夢の中で泣きじゃくった経験は誰にもあるだろう。日中に覚醒している状態では、さまざまな感覚入力が大脳に送られてくるため、意識の統一は間断なく妨げられる。認識が収斂する際の様態が感情だとすれば、目を覚ましている間に純粋な感情を体験するのがほとんど困難になるのも、故なきことではない。どんなに歓喜の情が溢れてくるときも、一方でそうした己を見つめる冷めた自分を意識せざるを得ない。これに対して、夢の中では、余分な要素を排して、きわめて単純化された認識の様態が実現されることになる。夢を具現化した映画は間違いなくヒットすると言われるが、これは、夢に見られる形式的な純粋性への憧れがなせるわざである。夢の世界では、その内容が認識の形式を支配することは稀であり、むしろ収斂すべき最終状態だけが剥き出しになって現れてくる。こうした「純粋感情」を再現することは、人間にとって、生の真髄を直接に実感することに他ならない。逆に言えば、こうした性質があるだけに、夢の世界は人を惑溺させる力を持っており、夢の忘却は、現実を生きるために是非とも必要になるのだ。(10月8日)

  一説によると、日本はスパイ天国だという。アメリカやソ連と違って本格的な諜報組織のない日本では、国際スパイがいともやすやすと政治的な重要案件に関する極秘情報を入手しているらしい。そもそも、多くの民族が林立して国家体制を確立しようとしたヨーロッパに比べると、日本は、江戸時代に安定した長期政権を保持できたため、スパイの必要性があまり切実なものとならなかったのだろう。こうした状況について、米CIAはかなり批判的な態度をとっている。
 しかし、私見を言わせていただくと、スパイを“悪玉”と考えるよりも、その暗躍を容認するのが健全な発想ではないだろうか。確かに、産業スパイのように長い間の労力を横取りしていくような連中は、厳しく糾弾されねばなるまい。だが、政治においては、乏しい情報は疑心暗鬼を生み、敵対的な行動に走らせる要因ともなる。経済案件に関して自国の利益を守るために情報を隠そうとする気持ちはわかるが、国際的な緊張緩和をもたらすためには、相手国に充分な情報を渡しておく方が好ましい。スパイ活動とは、そうした国家間の意志疎通を図るために必要な道具なのである。
 例えば、米ソが相手のICBMの配置を知るために活用しているスパイ衛星のことを考えてみると良い。スパイ衛星は、飽くことなき軍拡競争の一翼を担っているように思われるかもしれないが、実は、無意味な軍備を抑制する機能を持っている。実際、もし敵国のICBMの実態がわからなければ、相互確証破壊を実行するために必要な装備として、敵国が装備する可能性のある最大値に対抗できる分量のミサイルを用意しなければならない。こうした状況は、必然的に限りない軍拡競争を招くばかりか、相手に先を越されるのではないかという懸念が増大するため、いつか戦争に突入していくことは必定である。スパイ衛星による相互監視は、こうした破滅を回避する役割を果たしている。現に、キューバ危機の折りには、比較的初期の段階でソ連によるミサイル配備をアメリカ側がキャッチしたため、ケネディ大統領が毅然たる態度で撤去を要求できたのである。もし情報不足のままキューバに巨大なミサイル基地が建造されたという噂だけが先行していたら、第3次世界大戦は不可避だったかもしれない。あるいは、第2次世界大戦の末期に、連合国側の提案した降伏勧告を蹴ったときに相手がどう反応するかについて、日本側が情報を得ていなかったため、1945年8月の破局を迎えたという事実もある。こうしたことを考えると、政治スパイは、突発的な危機を回避するための安定剤として、重要かつ不可欠であると考えられる。(10月16日)

  新宿梁山泊は、現在、日本で最も“熱い”劇団である。1960年代末から続いた小劇場ブームが過ぎ去り、後に残ったのは夢の遊民社や第三舞台などのように、言葉と戯れながら満たされぬ夢を吐露する蒼白い都会人たちの舞台遊技であった。そうした中で、新宿梁山泊は、忘れられつつある濃厚なロマンを軸に、いまを生きる人間たちの思いを舞台に叩きつけるように描き出す。新作の『ジャップ・ドール』においても、社会の中で見捨てられたように生きる“弱者”を登場させながら、逆に彼らを「地底人」として積極的に位置づけ、不滅のバイタリティを付与している。このキャラクタは、日本的な法人資本主義のシステムに組み込まれていない肉体労働者──特に外国人労働者を彷彿とするが、開巻いきなり歌と踊りで観客を圧倒し、生半可な同情を拒絶する。さらに、「ジャパゆきさん」をイメージさせる女性たちが現れ、その一人と地底人が恋に落ちるものの、組織体としての「やくざ」に夢を絶たれる。だが、この悲恋も決してお涙頂戴に終わらせない。激しい怒りが龍になって天に昇り、また地に下って文明(の象徴たる自動車)を破壊する。そこには、弱者への救いを求める賢しらなヒューマニズムはない。人間として生きようとする熱い思いがあるばかりだ。(新宿梁山泊公演『ジャップ・ドール』(新宿駅前特設テント)を観て)(10月17日)

  人生は100メートル走に似ている。スタートラインに立つと、彼方にゴールが見える。あそこまでなら──そう思って息を止めて全速力で駆け抜ける。ところが、ゴール寸前、目の前に見えていたテープがふっと消え、そこはスタートラインであることがわかる。力を落としている暇はない。新たなレースを始めなければならないのだ。再び100メートル先にゴールがあるのが見える。また、全速力で駆ける。今度こそと思う間もなく、テープは姿をかき消し、新たなスタートラインが現れる。いつまでもいつまでも、今度こそという願いも空しく新しいレースが始まる。そのたびに息を止めて全速力で走らなければならない。次第に胸が苦しくなり、のどに引っかかるような呼吸を始め、足がフラフラになる。それでも、誰も助けてくれない。何だあいつは、100メートル走で息が上がっているのか──そう嘲笑う声が聞こえるようだ。こんなことではいけないと、必死で足を動かす。今度こそ、今度こそ本当のゴールだ。だが、すがるように伸ばした手の先で、ゴールのテープは消えていく。また走らなければならない。そう思ったなり、どうっと倒れ、そのまま息絶える。100メートルの短いトラックで倒れた選手など、誰も気にかけない。
 人生とは、そういうものだ。(10月22日)

  本格ミステリが書きたい──しばらく前から、そんな気持ちが募ってきている。
 日本のミステリは、江戸川乱歩に代表されるように、怪奇趣味をベースとし、それにロジックの味付けを加えるという形で発展してきた。中でも、夢野久作や小栗虫太郎は、一見不可解な現象に一層不可解な説明を与えて読者を幻惑するという手法を好んで用いており、これはこれで優れたミステリではあるのだが、厳密な論理性によって謎を解明するという本格派の醍醐味を味わうのは難しい。戦後になると、松本清張や水上勉のような社会派が主流になり、本格の面白さからますます遠ざかってしまった。社会派の小説もミステリに分類されるが、実は倒叙形式の風俗小説に他ならない。男女の愛憎のもつれがあり、さまざまな曲折を経て遂に感情が爆発し殺人に至る。この過程をそのまま描くと単なる風俗小説になるが、これを逆転して、殺人から物語が始まり探偵役の人物がその原因を明らかにしていく段取りを書いていけば、一見推理小説風の作品となる。しかし、これでは、たとえ冒頭に謎が提出されたとしても、そうした状況を生んだ情念に重きが置かれることになって、謎解きとしては面白みがない。日本では、この手の作品があまりに多く量産され、ミステリ・ファンを辟易させていたのである。もちろん、アガサ・クリスティやエラリー・クイーンに繋がる本格ミステリが日本で皆無だったわけではない。高木彬光や横溝正史らは、決して英米の秀作に引けを取らない諸作をものにしており、特に高木の『人形はなぜ殺される』は、ディクスン・カーのどの作品と比べても一歩進んでいると思われる。しかし、こうした優れた作品は、ごく一部の才能ある作家によってのみ生み出されてきたものであり、その後も後継者が育っているとは見えない。わずかに、島田荘司や綾辻行人などの若手が古典時代を思わせる壮大なトリックを駆使したミステリを発表しているが、文章のつたなさが鼻につくといった欠点があり、必ずしも満足のいくできばえではない。そうした中で、私自身が楽しめるような本格的なミステリを執筆してみたいという気持ちが生まれたのである。
 本格ミステリの骨格は、奇怪な謎と論理的な解決にある。この対応関係をがっちりと固めることが、ミステリ執筆の第1要件である。しばしばミステリの基本はトリックにあると言われるが、これは必ずしも正鵠を射た見解ではない。トリックは、あくまで解決を見通しにくい謎を設定するための副次的な要素であり、いかに突飛なトリックであっても、論理性が欠如していたのではミステリとして失格である。例えば、『Yの悲劇』において「犯人はなぜマンドリンを使ったか」という謎は、必ずしも物理的なトリックによって成立しているのではないが、その解決はきわめて論理的であり、読んでいて胸がすく思いである。場合によっては、謎が謎として意識されずに、何か奇妙な印象を残すという程度のものであっても良い。『予告殺人』では、犯人はすぐに指摘できるものの、その行動にどことなく腑に落ちない点があって心に引っかかる。その理由はラストで明らかになるが、思わず前のページを繰って記述を確認せざるを得ないほど鮮やかなどんでん返しであり、ミステリの真骨頂を示している。逆に、謎があまりに派手で解決が腰砕けになるミステリほど詰まらないものはない。
 私が書きたいミステリは、クリスティの諸作に倣って読者の先入見をラストで打ち砕くようなものである。日常生活で肩書きや職種によって個人にレッテルを貼ってしまうのと同様に、小説を読む際に、読者は人間関係の構図を思い描きながら、その中に登場人物を配置していく。一般小説においても、作家の意図を的確に把握するためにこうした作業が必要になるが、人物描写よりも事実叙述が優先されるミステリでは、読者に、より積極的に作品世界を構造化しようと意識が働く。ところが、この意識が裏目に出て、実際に書かれていないことまで関係の構造化を図ってしまうことがある。例えば、女性が心移りした男を殺したとき、単純に、愛欲に裏打ちされた嫉妬のなせる業と解釈するように。ミステリの場合、こうした“早とちり”を逆手にとってどんでん返しを実現することが可能である。クリスティはこの手法を愛用しており、『杉の柩』や『白昼の悪魔』ですばらしい効果を上げていた。ミステリを執筆するときには、これを模範としたい。(11月3日)

  先日の新聞記事によると、アメリカでは、馬刺用に日本に馬肉を輸出することに対して、一部の動物愛護団体が厳しい批判を唱えているという。アメリカン・スピリットの象徴である馬が、日本で刺身として喰われるとは何事だ──という訳である。日本人からしてみれば、牛肉の対日輸出を強硬に働きかけてくる中で、何を今更と反感を禁じ得ないが、真珠湾攻撃50周年と重なったこともあって、反日運動のネタを次々と見つけだしてくるのはどうしようもないらしい。
 今回の批判が良識ある人の神経を逆撫でする原因は、他民族の食文化を理解しようとしない不遜な態度にある。風土に適合した生活を営む民族は、それぞれ独自の食文化を発展させ、必要な栄養素を摂取する方法論を確立してきた。その中には、他の民族からみると、奇妙に思われる風習も少なくない。例えば、ヨーロッパでは、土地がやせているので、タンパク質含有量の乏しい小麦によってカロリーを補給しなければならない。このため、生存に必要なアミノ酸を確保するのに数の限られる家畜に頼らざるを得なくなり、結果的に牛あるいは豚を徹底的に利用し尽くす料理法を案出することになった。単に筋肉の部分を食べるだけでなく、内臓から皮に至るまで、さまざまな方法で食卓に載せてしまう。その徹底ぶりは、まさに肉食文化と呼ぶに相応しく、とうてい日本人の美意識に叶うものではない。一方、中国をはじめとして世界各地には犬を常食する文化圏があり、日本人を驚かせる。もはや番犬や猟犬はおろか、野良犬すら見かけることもなく、犬と言えば愛玩用のものしか見かけなくなった日本にあっては、これを食べることなど野蛮と思えるかもしれない。だが、犬を日常的に食している民族からすると、何ら奇妙な点はないのである。
 このように、食文化という代物は、各民族に固有の特色を備えており、いかに他の民族から見て奇妙であろうとも、批判すべきたぐいのものではない。先に挙げた馬刺の例にしても、アメリカ人からすると野蛮に見えるのだろうが、日本の一部地域では古くから行われてきた食習慣であり、他国者に非難される筋合いのものではない。しかも、馬を食べる風習は、ヨーロッパや中央アジアなど多くの地域で見られ、決して“奇習”ではないのである。
 確かに、アメリカ国民が馬の輸出に反感を覚える理由はわからないでもない。日本人にしたところで、仮に香港あたりの富豪が珍しい料理を作るために柴犬を輸入したとなると、忘れていたナショナリズムが疼くだろう。自国で愛玩している動物が“食べられる”ことは、単に文化的な差異として済ませられるものではなく、文化自体が蔑まれたような感情をもたらすのだろう。文化的な摩擦を避けるためには、相手国で食用とされていない動物は輸入しないように心がけるのが良いのかもしれない。しかし、世界には多くの文化が併存しており、文化的異質性の理解が相手国の立場を認める第一歩になるという考え方もあり、単に相手の主張にへつらい従うような情けない態度は取るべきではない。(11月17日)

  「切なさ」とはどういう感情だろう。決して怒りや喜びのような激しい情動ではないにもかかわらず、人間らしい感情生活を支える最も重要な心の動きに思えてくる。笑ったり泣いたりする瞬間は激情が心を支配しているが、こうした感情は時間とともに急速に色あせてしまう。おそらく、肉体を借りて発現される情動は、純粋な大脳皮質の活動ではないため、記憶の中でその高まりを維持するのが困難なためだろう。これに対して「切なさ」は、胸を詰まらせる身体感覚は伴っているものの、必ずしも肉体の助けを必要としない感情であり、その意味で、喜びや悲しみよりも純粋なのである。それだけに、涙や笑いが失われた後も、心の中で長く尾を引き、時折記憶の底から沸き上がってきては、以前と比べて遜色のない新鮮さでわれわれを突き動かすのである。
 ただし、「切なさ」が純粋な感情だとしても、その具体的な様態を分析するのはかなり難しい。例えば、『ローマの休日』でオードリ・ヘップバーンがアパートの一室でグレゴリー・ペックに夕食を作ろうとするが、それが叶わぬとわかったとき、われわれがヘップバーンと共有する切なさは、いったい何だろう。あるいは、『さびしんぼう』で尾美としのりが富田靖子に「送って行ってはいけない?」と尋ねて一言「いけない」と言われたときの胸をかきむしられるような気持ちは。もちろん、強いて説明することは不可能ではない。いずれの場合も、恋心を満たすために好ましい手段が手近なところにある。にもかかわらず、外的な事情によってそれを実行することができない。しかも、この機会を逃すと、もはや恋は二度と成就できぬ所へ去ってしまうことが明らかである。こうしたもどかしさを伴った喪失感が、「切なさ」の根底にある。手に入れようとして手を伸ばしても、僅かなところで届かない。しかも、恋い焦がれる対象は、それなしには生きられないほどの必須のものではないし、圧倒的なパワーを持つ理想でもない。もっと身近で心を落ち着かせてくれるもの。それなのに手を触れることが叶わぬものが「切なさ」を惹き起こすのだ…。だが、こう説明したところで、純粋な感情としての「切なさ」を捉えたことにはならないだろう。
 もしかしたら、「切なさ」は、単なる感情である以上に神話的な理念なのかもしれない。永続的なものは移ろい行くものの中にのみ姿を現す。恋するものに触れることが叶わぬときに繰り返し沸き上がる純粋な「切なさ」は、取りも直さず、憧れの普遍性の証なのである(11月21日)。

  12月9日は「障害者の日」に制定されている。と言っても、大きな記念行事が行われるわけでもなく、TVや新聞もほとんど黙殺したままである。そうした中で、NHKは土曜日に3時間を超える特集番組を放送したほか、平日朝の「くらしのジャーナル」でも、連日この話題を取り上げている。こうした努力には敬意を表したい。
 今回の特集番組で特に心を打たれたのは、5人の子供を育てている脳性まひの女性の話である。彼女は、中学生の頃から勉強にもスポーツにも打ち込む頑張り屋で、脳性マヒが発症して左手が不自由になっても、それに負けまいとして努力を積み重ねていく。弱視のため安定した職に就くことのできない男性と結婚し、周囲の反対を押し切って5人の子供を産むのも、もしかしたら、彼女が己に課した努力目標ではないかと思えるほどである。しかし、さすがにマヒした体にむち打っての家事と育児はあまりに負担が大きかったのだろう、5人目を出産した直後から病状が悪化し、首がすわらなくなって満足に歩行することもできなくなってしまった。それまで健常者に負けまいと頑張ってきただけに、この事態は彼女にとって大きなショックであり、外出用の電動車椅子を贈られても、利用するでもなく家に閉じこもっていたという。しかし、あるときふと、こんなに頑張る必要はない、むしろ現状を素直に受け入れれば良いのだと納得するに至る。何が彼女を変えたのか、詳しい事情はわからないし、敢えて知る必要はないだろう。とにかく、それまで後片づけも料理も全て自分でやろうとしていたのを改め、できることは子供たちに手伝ってもらうようにした。もちろん、幼い年頃であり思うようにはいかない。だが、少々雑ではあっても、母親が一人で奮闘していたときの悲壮感は、家庭から一掃された。今、この女性は5人の子供を連れて車椅子を乗り回している。一時は途絶えがちだった買い物も、周囲の人の助けを借りながら実行している。子供たちも、その姿を見てたくましく育っている。長男が小学校を卒業するとき、身障者の自分が出席して良いものか、彼女自身しばらく悩んだそうだ。ところが、長男に尋ねたところ、むしろ、是非出席してほしいという。他人から変な目で見られようとかまわない、車椅子の上で胸を張ってもらいたいと。
 この女性の姿を見て、身障者に対する固定観念を揺さぶられた人も多いのではなかろうか。私たちは、ともすれば障害者を不幸な境遇にある人だと考えては、何とか助けてやろうと試みる。そのために、障害者と相対したときには、こちらの視線が相手を傷つけないか、どうすれば最も喜ばれるかを気にして、かえって緊張関係を生み出してしまう。障害を持つ人の間には、この緊張感を嫌って健常者の“助け”を拒否しようとする傾向が少なくない。先の女性も、こうした気持ちから逆に無理を重ねてしまったようだ。障害者を受け入れる社会とは、もっと自然なものではないか──彼女の現在の姿を見ていると、そうした結論が自然に引き出されてくる。障害者には、できないことがいろいろある。周囲の人は、それに気がついたときにごく当たり前に手助けすれば良い。それ以上でもそれ以下でも、障害者にはむしろつらい結果になるのだ。(12月9日)

  平田オリザという演出家が独自の方法論を用いてきわめて優れた舞台を作り上げているという評価は以前から耳にしていたが、今回初めて実演に接する機会を得た。率直な感想を言わせていただければ、「心の底から感動した」。これまで多くの舞台を見てきたが、頭は秀作という評価を与えても、心が附いてこないケースが少なからずあった。しかし、青年団の演ずる『S高原から』では、台詞の一言一言がまるで心にしみ込んでくるように真摯な響きを持って伝わる。サナトリウムの1室で登場人物がさりげない会話を交わしているだけの日常の1コマにすぎないはずの情景が、なぜか生と死の相克を感じさせる厳しい緊張感に満ちてくる。日常性が極限まで純粋化されていく中で、虚構の物語では語り得ない人生の真実相があらわになるのだ。これは、非日常の場に立脚点を求めている演劇という芸術表現において、ほとんど希有の出来事と言わざるを得ない。(青年団公演『S高原から』(アゴラ劇場)を観て)(12月13日)

  哲学は果たして学問として成立し得るのか。最近、こんな問題にずっと悩まされ続けている。“学問”が必要になる根元的な理由は、素朴に言ってしまえば、個人の思考能力には限界があり、共同作業によらなければ有効な議論を実現できないという点にある。それ故に、学問は、常に個人的な体験によって大きく歪められない普遍性を根底に蔵していなければならない。もちろん、こうした“普遍的基盤”それ自体の根拠は、アプリオリに確固たるものだとは限らない。数学基礎論が明らかにしているように、数学のように論理的に見える学問ですら、絶対確実な基盤の上に構築されているわけではなく、連続仮説の採用如何といった任意性を残している。数学の不変性は、むしろ数を数えることや長さを測るといった具体的な作業で共通性が確保されるように誂えられていると考えるべきである。とすれば、学問の根拠を考察することを主たる目標とする哲学は、それ自体の根拠をどこに求めることができるだろうか。常識的には、実用的な諸学の有効性が保証されることをもって、哲学の基盤を定立しなければならないはずである。ところが、多くの哲学者は、この基本的な作業を嫌忌している。これでは、学問として哲学を作り上げることを断念せざるを得ないのだが。(12月15日)

【「徒然日記」目次に戻る】



©Nobuo YOSHIDA