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  ここ暫く、新聞は証券界のスキャンダルを連日のように報道している。ここで問題になっている事件は、大きく分けて2つある。第1に、昨年来続いている株安のために多くの株主が損害を被った中で、証券会社が、大口顧客に対してだけ損失を補填していたというもの。第2に、大手の証券会社が、相手を暴力団関係の企業と知りながら積極的に融資を行ったというもの。2つとも自由主義経済の原則にもとる行為であり、厳しく糾弾されなければならないが、経済活動の促進剤としての証券市場の役割を考えると、いささか矛盾した思いを禁じ得ない。
 大口顧客に対する損失補填は、日本経済が厳密な意味での自由主義に則っておらず、古典的な重商主義の延長線上にあると考えれば、納得できないこともない。日本では、体制的な“糞詰まり”現象を避けるために、物流や金融の要所に、零細資本を吸い上げて流通システムに押し出す役割を持った組織が用意されている。具体的には、商社や銀行などがこれに当たるが、証券会社もその一翼を担っている。純粋な資本主義の場合、景気が後退局面にあるときには、小資本家が財産の保全を画策するため、金融の流れが停滞して景気後退をいっそう助長する結果を招く。これに対して、日本的な経済システムでは、銀行や証券会社が資本の運用を担当しているので、景気が急激に悪化する危険は少ない。ただし、こうしたシステムでは、大資本家が手厚く保護されるのに比べて、小資本は、むしろ統合して運用すべき有象無象として取り扱われがちである。今回のように株価が急落して大株主に損失が及びそうになったとき、証券会社が個人資本家の資金を利用して損失を出さないように工夫するのは、ある意味で日本経済体制の常道でもある。こうした行為は、自由主義経済の観点からすれば、体制の根幹にかかわる犯罪である。多くの識者が、厳しい処分を要求しているのも当然だろう。しかし、そもそも当事者にとってみれば、重商主義の基本的発想に則った行為であるため、おそらく罪悪感はほとんどないだろう。証券マンの目標は、言葉巧みに個人客から資金を巻き上げ、これを大資本にまとめて経済の回転効率を高めることにある。株価が低迷している状況では、たとえ甘言を弄して値上がりが期待できない株を個人資本家に押しつけるという手段に訴えてでも、大口顧客向けの資金を確保しなければならない。それが、日本経済において証券会社に課せられたノルマなのである。
 これに対して、暴力団関係者に対する融資は、日本の実状に鑑みても、いささか理解に苦しむ行為である。暴力団は、非合法な手段に訴えてでも資金を調達し勢力を拡大しようとする組織である。したがって、株を購入する場合でも、常に利得を上げることが最優先され、株価が下落したときには、脅迫的な方法で損失補填させるはずである。しかも、こうして吸い上げた資金は、経済の潤滑油として機能することはまずなく、むしろ、組織の整備に費やされるケースが大半である。となれば、証券会社が暴力団を優遇する積極的な理由はない。はじめに契約を結ぶ段階で身元調査を行い、暴力団関係と判明すれば融資を断るのが企業利益に叶う。にもかかわらず、融資を行ったのはなぜか。単純に考えれば、事前の身元調査が不十分で、暴力団と知らないまま契約関係を結んだという可能性が真っ先に思い浮かぶ。最近の暴力団は、選任の弁護士や会計士を雇い、一見ビジネスマン風の物腰で金融の話を持ち込んでくるといわれる。こうした風体に欺かれて小口の契約を結んでいるうちに、大口の契約を申し込まれた場合、これまでの実績からOKを出すことも考えられる。そして、ひとたび密な関係が成立すると、暴力団側が本性を現し、暴力団とのつきあいというマイナス・イメージをもたらす事実をネタに脅しにかかったのではないか。こう考えると、証券会社に同情できる点がないわけでもない。
 しかし、いくら何でも野村証券のような大企業が、暴力団関係の会社をいつまでもそれと見抜けないとは考えにくい。今回の事件は、バブル期に暴力団が資金調達部門を独立させて合法的なビジネスとして運用していたという状況を反映していると推測した方が合理的である。バブル経済の下では、危険の多い非合法な手段に訴えなくても、合法的に莫大な金を手にすることができる。したがって、暴力団も、きわめて紳士的に証券会社と接して利益を得ていたのではなかろうか。もしそうだとすると、これは、経済の歪みが実に驚くべき形で表面化したケースになる。(7月14日)

  暑くなると夏バテに悩まされる人が多い。私の場合、30℃程度までなら何とかしのげるが、32℃を越えると活動能力が著しく減退し、最高気温が34℃に達する日は、ほとんど寝たり起きたりの生活を余儀なくされる。人間は本来熱帯地方に棲息していた生き物なので、これほど暑さに弱いのは奇妙にも感じられるが、日本の夏は湿度が高いのに加えて、社会儀礼として暑苦しい衣服を着用せざるを得ないこと、および、都市部にみられるヒートアイランド現象が肉体に悪影響を与えることが、夏バテの要因になっていると思われる。
 渡した特に強調したいのは、ヒートアイランド現象の問題である。田舎では、気温が33〜34℃に上昇しても、意外にしのぎやすいものである。その理由は、日本の土壌が多くの水分を含有していることにあると思われる。土を手に取ると、しっとりと濡れているのがわかるが、この水分が、土壌の温度上昇を妨げる作用を持っており、気温が高くても足下付近では涼しさを感じることができる。木陰に入ったときには、さらに葉からの蒸散による気温低下があるため、いっそう涼しさを実感できる。ところが、都市部では、アスファルトが太陽光線を吸収し、長波長の輻射熱として放出しているため、むしろ足下から(人間石焼きイモを作るようにして)皮下に直接作用する熱が伝わってくる。単に気温が高いだけならば、発汗作用によって体温を調節することも可能だろう。しかし、輻射によって全身が熱気に晒された場合、この熱を効果的に体外に放出するのは困難である。さらに困ったことに、現代社会はエアコンディションの整った密閉空間が多く、通勤など移動の途上でたびたび冷気を浴びるため、僅かに残された発汗作用さえも充分に機能しない傾向がある。こうした事情が重なって、都市部では、熱が体内にこもる熱中症が増えているのではないか。
 それでは、こうした夏バテを防止するには、どのような手段を講じれば良いのだろうか。基本的には、栄養の補給と安眠の確保という2つが肝要である。順に説明しよう。
 夏場は、栄養障害が生じやすいといわれるが、その理由は2つある。第1に、料理を準備するハウスキーパーが、夏向きのメニューを組み立てていない点を指摘しなければならない。夏になると食欲が減退するが、これはきわめて当然の生理現象である。なぜなら、人間が食事を摂取する大きな目的は体温を維持することにあり、気温の高い夏場は少量の食事で体温が保たれるので、その分だけカロリーの摂取欲が低下するのである。ところが、生理機能を維持するのに必要なタンパク質やビタミン類は、冬季と同程度に摂らなければならない。呼吸量や発汗量の増大を考えれば、暑くなるほど多量に摂取すべきかもしれない。にもかかわらず、多くの人は、夏場の食欲減退に直面して、カロリーだけを減らすというダイエットを実行せず、食事量全体を減らしてしまう。それどころか、「暑いから冷や麦でも食べようか」というように、タンパク質やビタミン類に乏しい“あっさりした”食品を好みがちである。これでは、充分な栄養素が補給できない。
 夏場の栄養障害をもたらす第2の理由として、いわゆる“清涼飲料”の過剰摂取を上げることができる。暑い時期には、汗によって失われる水分を補給するために、のどの渇きが激しくなる。こうした渇きの感覚は、基本的には体液の浸透圧が高まった結果として感じられるものだが、水を飲んでもそれが吸収されるのは腸に到達してからなので、浸透圧が低くなるまで渇きが癒えないというのでは、適正な水分摂取が行えない。このため、人間をはじめとする多くの動物には、のどを流動体が通過すると渇きを感じなくなるという生理的メカニズムが備わっている。これを逆手に取ると、のどに対する刺激が強い飲料を摂取すると、急激に渇きを癒やすことができる。冷たい飲み物や炭酸飲料が夏場に好まれるのは、こうした理由による。ところが、このような清涼飲料は、必ずしも体に良いものではない。何よりも、冷たい飲み物は胃を冷やすために食欲を減退させる。さらに、市販のジュースやコーラ類は、多量の砂糖を含んでいるため、カロリーのみが高く、タンパク質やビタミン類が不足してしまう。これが栄養障害をもたらすことは理解しやすい。
 このような栄養障害を防ぐためには、夏場こそ充分な食事を摂らなければならない。ただし、土用のウナギのようにいたずらに高カロリー食を摂ることは、必ずしも好結果を生まない。現在人はカロリーを過剰に摂取しているので、低カロリー・高タンパク・高ビタミン食を心がけ、緑黄色野菜や大豆加工食、脂身を除いた豚肉や白身魚などを中心に食事を組み立てるのが望ましい。また、ミネラル類も汗とともに失われやすいので、海藻や小魚も積極的に食すべきである。さらに、水分を摂取するときには、糖分が少ない飲み物──トマト・ジュースや牛乳を人肌程度に温めて飲むのが良いだろう。
 栄養障害とともに夏場に体力を消耗するもう一つの要因は、暑さのために健全な睡眠が確保できないことである。都市部では、ヒートアイランド現象によって夜になっても気温が低下せず、熱帯夜になりやすい。田園地帯では、昼間いかに暑くとも、夕闇が訪れる頃にはしのぎやすくなるのが一般的だが、これは、土壌に含まれる水分の効果によるもので、表土がほとんど失われている市街では、昼に吸収された熱気がそのまま夜に持ち越される。それに加えて、都市建築は密閉性が高く、風の通り道を設けていないため、暑さが閉じこめられてしまう。こうして夜間の屋内温度は異常なほど高くなり、安眠を妨害する。しかも、眠っている間は体温調節のメカニズムが充分に機能せず、浅い眠りに就いては体温が高くなって目を覚ますことの繰り返しとなる。これでは体力を消耗して夏バテ状態に陥ってしまう。この事態に対処するためには、対症療法ではあるが、一晩中冷房をかけるしかないだろう。しばしば睡眠中の冷房は体に悪いといわれるが、これは、敏感なサーモスタットを装備していなかった時代の話で、現在のマイコン内蔵のエアコンならば、就寝中にオンにしても健康に対するダメージはさほどない。もちろん、冷気を直接浴びると健康を害するので、風向きを調節してほとんど空気の流れが感じられない程度に設定しておくべきではあるが。昼間とは異なって夜は電力需要も少なく、また外気との温度差も小さいため、エネルギー的にそれほど無駄ではないので、もっと積極的に冷房を活用しても良いと思われる。ただし、これはあくまで次善の策であり、本来は、都市部のヒートアイランド現象を回避するための植樹等の措置を施すべきであることは、言うまでもない。(7月23日)

  意外に思われるかもしれないが、東京は散策に向いた土地である。新都心など高層ビルが建ち並ぶ区域は、確かに味気ない灰色の都市に見えるかもしれないが、ものの1キロと歩かないうちに、下町の風情を保った市街に行き当たるはずである。しかも、東京は起伏の多い地形であり、坂の上がり下がりを通じて、街の見え方が急激に変貌するという体験を得ることもできる。例えば渋谷は、大規模な店舗が建ち並んでいるために見えにくくはなっているが、JRの駅がある付近がすり鉢の底のようになっており、その周りの市街地は、上り坂の中途に築かれている。このことは、地下鉄の銀座線や井の頭線に乗ると良くわかる。いずれも高架で渋谷駅を出発するが、間もなくトンネルに入り、銀座線はそのまま地下に潜ってしまう。この付近は、狭い坂道を辿る興趣が味わえ、都市の裏側を垣間見せてくれる散策の好適地である(もっとも、地形的に最も複雑な地域がラブホテル街なのはいささか興ざめだが)。大資本もこのような地形の面白さに目を付け、パルコの裏手の小道をスペイン坂と名付けてブティック街らしくしつらえているが、これはいかにも俄造りの俗っぽさがが鼻について、大人の興味をそそるものではない。
 このほか、東京で散策しがいのある坂の町は、赤坂、高田馬場、そして本郷の周辺である。赤坂など、高級な料亭の集まった社用族の街と思われているが、1本裏道にはいるだけで、表通りとは全く異なった風貌を見せてくれるところが実に味わい深い。高田馬場や本郷は、あまり裕福でない学生が集まる街でもあるので、いまだに下町風の趣が残っており、タウンウォッチングが楽しめる。
 忙しい現代人こそ、馬鹿げた暇つぶしでしかない仕事を止めて、人生の目的を見つめながら散策の楽しみを味わってほしいものだ。(7月28日)

  少年王者館の舞台は、恰もこの世界全体を仏壇に押し込めたように見える。蜷川幸雄がマクベスの世界を仏壇に見立てたとき、それは、1個人の運命の小ささを示唆するように思えた。しかし、この若い劇団にとっての仏壇は、より身体的な恐怖に満ちた底知れぬ深淵を感じさせる。それだけに見終わった後も、何か永遠に覚めない夢を見ているような異様な感覚にとらわれてしまう。もちろん、舞台上で繰り広げられている演技は、近頃の若者の劇団らしく、スピーディなギャグに満ちている。しかし、そのおかしさは真の暗さと裏腹の関係にあり、喩えて言えば通夜の席で陽気に騒いでいる遺族の姿を思い起こさせる。こうした暗さは、単に死をテーマとしているからだけではなく、祖母という具体的な人間の死を取り上げることの卑近性に起因している。老人は若い人よりも先に死ぬ。その当たり前さが、逆に舞台の上の死を切実なものとしているのである。日常と非日常の裂け目の中で、死を否定しようという動きは、われわれが敢えて見つめようとしないものの本質を開示しているのだ。この作品は、表面に見える以上に奥が深い。(少年王者館公演『マバタキノ棺』(ザ・スズナリ)を観て)(8月8日)

  現代建築には、いわゆるポスト・モダニズムの様式に則っている作品が多い。しかし、こうした“新しい”建築が、今後10〜20年を経過しても、なお建築当初の評価を維持できるだろうか。いささか心許ない。一般の美術作品と異なって、建築物は、たとえどのように不格好であろうとも、実用上の支障がなければ数十年にわたって使用され続ける。そうした一種の宿命がある以上、建築は長期的展望の下に設計されなければならない。にもかかわらず、若手の設計家の中には、ここ10年程度の流行の変遷の中でしかものを見ていないような輩が存在している。モダニズム建築は、鉄とコンクリートを基本素材として、直線と直角で構成されているが、ポスト・モダニズム建築には、単純にこれらを否定しようとする意志が強く現れる。直線を曲線で置き換えたり、余分な突起や装飾物を付け加えることが、モダニズムの目指した機能主義に対する批判になると考えているようだ。ところが、直線や直角は、モダニズムの理念を体現する表徴として採用されたというよりも、むしろ強度や工事の便を考えて使われた意匠であり、これを否定したからといって、モダニズムの根底にある理念を超克したとは言えない。このことは、“現代的”と言われる建物が、完成後数年を経ずして急激に古びていくという事実からも納得されるのではないか。ゴテゴテした装飾は、新築当初は人目を引いて楽しめるかもしれないが、慣れてくると、ただ煩わしさだけを感じさせる。こうした“付加物”によってしか主張され得ない個性など、見かけのものにすぎない。重要なのは、モダニズム建築における機能主義が、あまりに近視眼的な目標設定しかしていなかったことに気づき、よりグローバルな視座を獲得して地域に密着した建物を造ることである。ここで私が強調したいキーワードは、“風土”である。モダニズムの1つの方向は、建築物を基本的なユニットに分割し、それを再構成することによって建物を作り上げようとするものであった。ポスト・モダニズムを標榜する建築家の中には、これを否定するのに、全体的な統一性を醸し出す曲線や装飾品を利用しようとする者もあったが、これが皮相的な対応策でしかないことは明らかだろう。むしろ、建物をその地域に根付かせるように、風土とマッチしたデザインを案出するのが、モダニズムの桎梏を打破する契機となるはずである。例えば、沖縄・名護市の市庁舎のように風土に適合した建物こそが、モダニズムを超克した建築の理念を示すものである。(8月22日)

  浪漫伝の作品を見るのは今回で2度目だが、他の劇団にはない濃厚なロマン性を湛えた川松理有の作品世界は、相変わらず冴えを見せて飽きさせない。最近の小劇場演劇は、自己の閉塞感をそのまま舞台に映し出しているものが多く、核戦争後の地球とかサイバーパンク風の機械化された社会を題材にして、言葉だけは大上段に振りかざして社会や人間の問題を訴えながら、その実、内容は空疎な心象風景の叙述に偏りがちである。だが、こうした批判は、浪漫伝にはほとんど当てはまらない。今回の『KATAN DOLL』でも、美少女の人形がほしがるスイカを求めて、まるでおとぎ話に語られるような世界を主人公の少年が彷徨するという劇的世界は、作者の個性によって強固に確立されており、不安感を抱かせない。しだいに登場人物のアイデンティティが失われていくというストーリーも説得力がある。場面転換などで技術的にやや未熟な点も残るが、この劇団は、今後の成長が期待できる注目株である。(浪漫伝公演『KATAN DOLL』(タイニイ・アリス)を観て)(8月24日)

  ミヤギサトシのプロデュースによる『サロメ』は、演劇の新しい方向を示唆する興味深い作品だった。この公演の最大の特徴は、オスカー・ワイルドによる華やかなレトリックに満ちた台詞と、俳優による舞踏めいた動きを、二人一役という手法によって分離した点にある。通常の舞台では、俳優が台詞を口にする際には、どうしても動きを止めて呼吸を整えなければならず、演技の連続性が損なわれる。また、俳優によっては、台詞に寄りかかって生身の肉体の持つ力を十分に発揮できない人もあろう。ところが、台詞が分離されて、他の俳優が口にするコトバに合わせて体を動かすとなると、肉体の動きに精神を集中させ、動きそのものの美を開発することが可能になる。しかも、空間的に切り離された台詞と演技が意識の上で重ねられるため、美術作品におけるコラージュにも似た新鮮な効果が生じる。日本では、義太夫による謡と人形師による振り付けが分離された文楽という独自の演劇が、驚くべき完成度を誇っているが、今回の公演は、これを意識してか、俳優たちに敢えて人形のような動きを振り付けている。こうした演出は、新劇的な身振りによる意図ないし感情の表出を意識的に否定するものと見て良いだろう。人間は、決して特定の身振りを個々の感情に割り当てているわけではない。深い感情表現は、ありきたりの身振りを離れたところに成立するはずである。ところが、演劇的と呼ばれる振舞いは、しばしば感情表現を大げさにステレオタイプ化したものを指す。通常の舞台では、日常的コンテクストにおいてはあり得ないような「演劇的振舞い」の不自然さを台詞によって糊塗する傾向があるが、ミヤギサトシは、やはりこれを欺瞞と感じたのだろう。時に滑稽に見える場合もあるが、強いて人形的な動きを役者に振り付けることによって、空虚な類型化を排したのである。特に、主演の美加理は、極端にギクシャクした動きから始まってエロティックな踊りに到るまで、人間の肉体の美しさを際だたせていた。(ミヤギサトシ・プロデュース『サロメ』(METHOD高井戸クラブ)を観て)(9月4日)

  新興宗教「幸福の科学」と雑誌フライデーを発行している講談社の間で対立が激化し、TVや週刊誌のネタになっている。事の発端は、フライデーに「幸福の科学」を糾弾する記事が掲載されたことである。その中で、早川というフリーのジャーナリストは、急成長する教団の非宗教的側面を批判するとともに、教祖の大川隆法について「ノイローゼで人生相談を訪れたときは分裂病的だった」と個人攻撃を行った。これに対して、教団側は名誉毀損で講談社を告訴する一方、抗議の電話やFAXで事実上の営業妨害を行い、紛争は泥仕合の様相を呈している。端で見ていると、ほとんど蛇と蠍の争いにも思われるが、一部の人は「言論の自由」と「信仰の自由」に関わる重大問題だと騒いでいる。
 私見を述べると、今回の事件は、主として講談社側に責任がある。フライデーの記事は、明らかに大川隆法に対する個人攻撃であり、その名誉を傷つけるものである。もちろん、宗教団体といえども、何らかの不正を行っているならば、これを糾弾するのがジャーナリストの務めである。特に、近年には、宗教法人が税制面で優遇されているのを良いことに、営利事業を行っていながら適切に納税していないケースが少なくないと聞く。こうした事実を取材によって明らかにし、場合によっては司直の手に委ねることは、社会正義の観点からみて称賛に値する。ところが、フライデーに掲載された記事は、教団の不正を追及することなく、単に、その急成長ぶりを揶揄し、教祖の人間的欠点をあげつらう中傷に終始している。
 この記事は、二重に問題がある。第1に、個人の病歴を暴露することによって非難するという最も卑劣な手段を用いている点が指弾されねばならない。日本では精神病に対する偏見が根強く、その手の病院で受診したというだけで社会的な地位を失いかねない。こうした偏見を利用して個人攻撃を行うのは、ジャーナリストにあるまじき行為である。第2の問題点は、そうした主張そのものの信憑性が乏しい点である。ここで指摘されているのは、大川隆法が「ノイローゼの症状を呈し抑鬱症で分裂病的だった」という伝聞の内容である。だが、3つ並べられた症状は同時に顕現することが珍しいもので、医学的な知見も得ないまま神経症と二大精神病を思いつくままに列挙したとしか思えない。しかも、こうした重大な内容に関して裏付け取材を行わず、一人のカウンセラーに電話取材しただけですましているばかりか、伝聞という形で責任逃れをしている(そもそも、職業上知り得た秘密を軽々しく他人に明かすカウンセラーの話が信頼できるはずがない)。ジャーナリストにあるまじき卑劣な態度であり、名誉毀損に相当する中傷記事であることは間違いない。
 ただし、「幸福の科学」による電話・FAXによる集中抗議は、いささか行き過ぎだろう。出版社では、業務の多くが電話回線を介して行われている。そこに、百万人と言われる「幸福の科学」の会員が次々に電話を掛けてきたため、講談社では事実上業務が麻痺してしまったという。もし、こうした電話攻勢が教団幹部からの指令で行われたとすると、明らかな威力業務妨害罪になる。むろん、個人的な義憤から電話を掛けている限りは、刑法上の罪には当たらないため、明白な証拠がない限り、講談社が訴訟に持ち込んでも勝訴は見込めないが、「幸福の科学」にとっても社会的に反感を買うことになってマイナスになるだろう。
 今回の事件を概観すると、事の発端からして講談社側の落ち度が大きく、早急に謝罪記事を掲載すべきだったと考えられ、事態をここまで泥沼化させた責任の所在は明らかである。言論の自由などと大上段に振りかざす必要すらない些末な事件であり、イエローペーパーに付き物の騒動といってしまえばそれまでである。しかし、TVや新聞などの論評を通じて、はからずも日本のマスコミにみられる宗教嫌いが露呈してきたのは興味深い。かつての「イエスの方舟」事件を思い起こしてもわかるように、新興宗教に対してTVや週刊誌などの大衆的なメディアが行う報道は、概して、反社会的という観点から厳しい批判を展開する内容のものが多い。もちろん、ある種の宗教は、通常の社会倫理に反するものとして排斥されても仕方がないだろう。しかし、社会通念に反する奇妙な活動を行うということならば、人が死ぬとスキンヘッドの男が来て訳の分からぬ中国語の呪文を唱える仏教も、その中に加えねばならない。そもそも宗教とは、日常とは異なる空間を現出して共同体意識を高めることを目指しており、社会体制に従順な似非ジャーナリストの目には、新しい宗教は常に反社会的に映るものである。こうした底の浅い批判が、日本人の宗教心を薄めていることは嘆かわしい限りである。(9月9日)

  マスメディアを媒体とする芸能において、優れた笑いが失われつつある。TVはもちろんのこと、映画や演劇でも、入念にネタを仕込んでからストンと落とす“仕込みオチ”の笑いがほとんど見られなくなり、代わりに、“瞬間芸”と呼ばれる単純なギャグがもてはやされるようになった。瞬間芸は、状況から予想される行動パターンから一定の方向性をもって偏倚して見せたり、類似と相違のアンバランスな組み合わせを表現するもので、人間の認識過程における傾向性さえ把握していれば簡単に構成できる。したがって、そこに含意される意味連関は、常識的な知見を大きく越えるものではない。いささか型にはまった言い方をすれば、「皮相な笑い」なのである。
 こうした状況が生じた元凶として、TV放送を指弾することはたやすい。TVの場合、視聴者は何の抵抗もなくブラウン管から目を逸らすことができるため、長い時間にわたってネタを仕込んでいくと、その間に視聴者が離れてしまう危険がある。ドラマや歌番組のようにタレント個人の人気で引っ張っていける場合は別にして、視聴者を芸で繋ぎ止めるためには、どうしても息の短い素材に頼らざるを得ない。この結果、瞬間芸と呼ばれる皮相な笑いがブラウン管を席巻することになり、さらに、その影響力の大きさから、芝居や映画までもが、この種の笑いに汚染されてしまった。特に、演劇の分野では、TVで育った若い観客を相手にすることが多いため、注意力の持続が要求される笑いが敬遠され、TVと同程度の瞬発的な逆が多用されるようになった。近年人気のある劇団(夢の遊民社や第三舞台など)にも、言葉遊びを主体とする瞬間芸的な笑いを安易に取り入れる傾向が見られる。もちろん、こうした言葉遊びの中には谷川俊太郎や井上ひさしを彷彿とする優れたセンスに溢れたものもあるため、一概に批判することはできない。実際、野田秀樹の戯曲には、表面的には駄洒落のように見えながら、その実は深い私的な真実を捉えているものもある。しかし、こうした閃きは、ごく一部の限られた局面にしか感じられず、多くの場面は、皮相な言葉遊びの段階にとどまっている。それどころか、しばしば人生や社会に対する(いささか紋切り型の)慨嘆の衣をまとっているだけに、かえって実態以上に高く評価されてしまうこともある。
 フランス思想界の記号論に毒された批評家の中には、内実を伴わない瞬間芸的な笑いを、シニフィエに対するシニフィアンの優位というおきまりの命題で擁護しようとする者もある。しかし、これは、記号論の背後にあるべき記号操作の法則性に対する無知を表すものである。なぜ記号論的にみてシニフィアンが重要なのか。その理由は、人間の認識が特定の形式を有しており、その内容が何であり、ある形式を解発するトリガーが引かれると、必然的に認識の方向性が定められるという性質にある。例えば、崇高な感情に突き動かされるとき、その発端にあるのがイワシの頭であったとしても、魔法の鍵穴に合致する鍵が使われれば、その感情は決してまがい物ではない「真の」崇高感となる。このプロセスに関する限り、意味される内容よりも意味を与える表現の方が重要になる。とは言っても、任意の表現形式がトリガーとしての役割を果たすわけではなく、一定の“鍵型”を備えていなければならない。崇高な感情の場合には、一見脈絡のないような具象的な事実が、より深い秩序を感じさせる形に配置されていることが必要である。一般的に言って、トリガーとして有用な表現は、比較的多数の要素を高次の法則性の下に組み合わせていなければならない。したがって、これは既に単純な“表現”ではなく、組み合わせという“内容”を持つことになる。芸術表現におけるシニフィアンの優位という主張は、作品に援用される意味系列の大分類が必ずしも作品の価値を高めるものではないという経験的事実に関しては正当ではあるが、表現素材の組み合わせについて適切な分析を行っているとは思えない。こうした不完全な主張に依拠して、瞬間芸のような皮相な芸を称揚することは、歪められた批評として排されるべきである。
 現代日本の芸能は、TVの普及によって衰退しており、ことに笑いの分野においてこの傾向が著しい。しかし、事態は全く悲観的というわけでもない。特に、TVとは無縁の個人的技能が重要な役割を果たすマンガにおいて、優れた笑いのセンスを持った作家が見られる。例えば、高橋留美子は現実と空想の差異がもたらす歪みの中にギャグを作り上げる独特の才能を持っており、いわゆる“仕込みオチ”も得意としている。こうした才能に、日本の芸能の将来を託したいものだ。(9月29日)

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©Nobuo YOSHIDA