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  ウンベルト・エーコの『薔薇の名前』は、久々に物語の面白さを満喫させてくれた作品である。これほどの文学的興奮を味わったのは、ナボコフの『青白い炎』以来であり、小説という表現形式が、現在なお創造的な力を失っていないことの証左と見なしても差し支えない。
 『薔薇の名前』の最大の魅力は、何と言ってもゴシック・ミステリーとしての骨組みの確かさにある。内部が迷路になっている文書館という舞台装置だけでも、充分に読者の好奇心を駆り立てるが、それに加えて、アリストテレスの失われた『詩学 第2部』が絡んで、ミステリーとしての道具立ては完璧なものとなる。怪しげな巨大建築内部で繰り広げられる陰惨な連続殺人というだけならば、洋の東西を問わず多くの作家が取り扱っている。しかし、こうした群小ミステリーとエーコの作品が本質的に異なるのは、舞台となる建物が、他の文学装置とともに、世界の象徴として完全に機能している点である。『薔薇の名前』の文書館は、単なるゴシック的なおどろおどろしさを醸すためではなく、人間の知性が自ら啓蒙を峻拒するための砦として描かれているのだ。本来は人々の知性を高めるはずの書物が、入り組んだ迷宮の中に死蔵されている世界──それは、この物語の背景となっている中世ヨーロッパの精神状況であると同時に、現代世界そのものの象徴でもある。
 こうした精神の迷宮を舞台とするミステリーは、必然的に、人間理性の限界を明らかにせずにはいない。そもそもミステリーとは、一見不思議に思える現象の背後に、確固たるロジックが存することを証するものである。ところが、『薔薇の名前』はで理性を代表するバスカヴィルのウィリアムは、数多くの偶然に翻弄され、最後には文学館の崩壊に立ち会うことになる。これは、まさに悲劇と呼んでしかるべきものであるが、しかし、その一方である種の幸福感を感じさせるのは、彼が、ここに描かれた中世的暗黒から600年を経て、啓蒙精神の代弁者たるシャーロック・ホームズとして復活することを信じられるからであろう。(1月6日)

  長い間緊張状態を続けてきたペルシャ湾岸で、遂に戦争が始まった。イラクのクウェート侵攻に端を発する今回の湾岸危機は、イラク軍のクウェート撤退を定めた期日を過ぎた17日、アメリカを中心とする多国籍軍によるバグダッド空爆という形で本格的な戦闘に発展、軍事拠点に対する多国籍軍の絨毯爆撃と、これに報復するイラクのイスラエルおよびサウジアラビアへのミサイル攻撃という泥沼的な様相を呈してきた。現在、中東に派遣されている兵士は優に百万人を越え、朝鮮戦争を上回る第二次世界大戦以降最大の戦争となった。
 今回の戦争が何とも後味の悪さを感じさせるのは、これが基本的にクウェートの石油資源を巡る利権争いであるにもかかわらず、参戦国が正義を振りかざしている点である。イラクは、当初からクウェートが本来は自国の領土であると主張して武力行使に踏み切ったのだが、そのきっかけになったのが、両国国境付近にある油田の取り合いであることはよく知られている。一方、イラクに対して最も強硬だったアメリカも、クウェートの主権を回復するための正義の争いを装っているものの、実質的には、親米派であるクウェートの石油資源を確保することが主たる狙いである。ただし、単なる経済的な争いにとどまらず、砲火が炸裂する大規模な戦闘になったのは、イラクもアメリカも、それぞれ政治的な思惑があったからである。イラクの場合は、8年間にわたるイランとの戦争を通じて、アラブ内部からも反感を招き、政治的にも経済的にも孤立の度を深めていた。そこで、アラブ世界にとって共通の敵であるイスラエルを戦争の舞台に引き出し、アメリカをバックにするこの軍事大国に果敢に戦いを挑むことによって、アラブのリーダーとしての地位を確立したいとの思惑があったに違いない。クウェート占領後も、再三にわたって、イスラエル問題をリンケージするならば撤退勧告に応じる姿勢を見せたのも、こうした腹づもりがあったからである。おそらく、フセイン大統領の脳裏には、1968年にイスラエルに対して戦争を仕掛け、敗れはしたものの一躍ヒーローになった(ただし、間もなく政治的に実力を失った)ナセル・エジプト大統領のことがあったのだろう。
 これに対して、アメリカ側の思惑は、イラクが軍事大国化して中東における反イスラエルの盟主にのし上がる前に、フセイン政権を潰してしまおうというものである。もっとも、数年前までアメリカは親イラクの立場をとっており、イスラム革命以降、ホメイニ師のもとに何かと反米的な動きを見せるイランに対抗する勢力として、イラクが軍備拡張を進める上で後押しをしてきたという経緯がある。実際、イラクは早くからテロ活動を行ってきたにもかかわらず、アメリカは、テロ対策からイラクを除外してきた。言うなれば、「敵(=イラン)の的は味方」という考えに基づいて、イラクの軍事独裁を容認したのである。ところが、予想した以上にイラクが強大になっていくにつれて、アメリカは危機感を強め、昨年8月のクウェート侵攻を契機に、決定的に反イラクの態度をとることになる。おそらく、フセイン大統領は、アメリカのこの豹変ぶりを予想できず、対イラン戦争の代償としてクウェート侵攻を黙認してくれるとタカをくくっていたのだろうが、世界情勢が冷戦終結に向かっている中で、もはや盾としてのイラクの役割は失われていたのである。特に、イラクが核兵器の開発を進めていたことが、アメリカにとって大きな脅威となったことは否めない。この結果、フセイン個人独裁によって強大な軍事国家となったイラクを叩くことがアメリカの急務と考えられるに到った。これが、今回の湾岸戦争の背景である。
 現在の戦局は、アメリカを中心とする多国籍軍が、圧倒的な軍事力の物を言わせて空爆を続けているのに対し、イラクは、イスラエルに向けて散発的にミサイルを発射したり、クウェートの油田を破壊したりするなど、ゲリラ的な戦術を遂行している。こうしたやり方に対して、批判的な議論をする識者もいるが、そもそも戦争に信義や公正が通用するはずもなく、基本的に破壊と殺戮を実施するものである以上、軍事的に劣った側がテロやゲリラの道を選択するのは、当然の結果である。しかし、戦争が長引けば、こうしたゲリラ活動は地球環境に対して大きなダメージをもたらすだけでなく、戦争終結後も、国際緊張の種を残すことになるだろう。従って、アメリカとしては、ゲリラ活動が活発化しないうちにイラクを降伏に追い込まねばならず、今後も空爆を強化せざるを得ない。イラクの側からすれば、地下壕を掘って空爆に耐えながら、時折攻撃を行えば、ある程度の期間は戦争を引き延ばすことが可能であり、そうなれば、たとえ戦争に負けたとしても中東における軍事的なリーダーとしての地位を確保できる。こうして、この戦争は、激しい空爆が継続された末、フセイン大統領の名を高からしめて終わるというアメリカにとって最悪のシナリオになる可能性が強くなってきた。(1月26日)

  寺山修司の遺志を受け継いだ形で国内外で上演が続けられてきた『奴卑訓』を初めて観る機会に恵まれた。確かに、これはきわめて刺激的な舞台であり、世界的に評価されたのも頷ける。ステージで展開される個々のエピソードは、時に奇怪、時に卑猥で、しばしばその意図が不明になるが、それでも全体を貫く視点は明確であり、作品の骨格がバラバラになることはない。すなわち、ここで主張されているのは、主人が失われ求心力がなくなった状態での人間の混乱であり、本性としての獣性の表現である。興味深いのは、こうした混乱を表現するのに、完全なカオスを提出する代わりに、さまざまな機械仕掛けを持ち出してくる点である。ここに、人間が機械的システムによって撓められた存在であるというメタファーを読みとることも可能だろう。(1月28日)

  ホフスタッターが『メタマジックゲーム』の中で提出した「囚人のジレンマ」は、一見単純な論理学的問題と見えるにもかかわらず、その実、社会の本質とも深く係わる深刻なテーマを内包している。このジレンマは、ある社会の成員が、“協調”と“裏切り”のいずれかを選択するように迫られたときに生じる。もし、すべての人が協調すれば、すべての人が裏切ったときよりも遥かに多くの報酬が得られる。しかし、一部の人が協調し、一部の人が裏切ったケースでは、裏切り者の方が協調者よりも利得が多くなる。このため、自分は他人よりも目先が利くと信じている人は抜け駆けを試みるため、社会全体の協調性が損なわれることになり、最悪の場合、すべての成員が疑心暗鬼に陥って、裏切りの側に身を投じることになりかねない。
 実際の社会でも、これと同じようなケースは頻繁に見られる。例えば、湾岸戦争などに便乗して石油製品を値上げしようとする輩は跡を絶たないが、これに対抗する最善の手段として考えられるのが、買い控えである。もしすべての人が買い控えを選択するならば、業者としても値上げを断念せざるを得ない。ところが、どんなときでも少数の裏切り者がいて、値上げを見越して先に買いだめに走ってしまう。こうなると、商品が品薄になって業者サイドにとって値上げの絶好の口実になる。一方、協調者として買い控えをするといっても限度があり、いつかは品物を買わざるを得なくなるが、裏切り者によって値が釣り上げられてから購入すると、大損の憂き目をみる。こうして、社会全体が雪崩を打って買いだめの側に向かい、その結果、大幅な値上げとなって全員が大損害を被るのである。
 このように、囚人のジレンマにあっては、論理的な利得計算をすると、常に社会に存在を与える結果を招く。ただし、幸いなことに、協調と裏切りは1回のトライアルで終わるわけではなく、人生において、何度も繰り返されることになる。こうなると、学習経験を通じて、成熟した社会人は、次第に協調戦略の有利さを学んでいくだろう。(2月2日)

  このところTVのワイドショーを賑わしている話題に、「トリカブト疑惑」と呼ばれる代物がある。リポーターの伝えるところによると、K氏なる人物の妻が3人続けて心不全とおぼしき病気で死亡、K氏が3人目の夫人に掛けてあった生命保険を受け取ろうとしたところ、保険会社が死因に疑惑があるとして支払いを拒否し、裁判の場に持ち込まれたが、行政解剖の結果、死体からトリカブトの毒が発見され、K氏は一転して訴えを取り下げたという。こうした報道内容だけを見ると、保険金目当てに妻を毒殺した疑いが濃厚であり、警察が動き出したことも当然だと思われるかもしれない。
 しかし、このようにマスコミ主導で事件が人々の口に上るようになることは、多くの問題を孕んでおり、一概に隠された犯罪を暴く快挙として歓迎できない。最大の問題は、(事実上)殺人犯と名指しされた人物の人権をいかにして確保するかという点である。日本が法治国家である以上、裁判によって有罪が確定するまでは無実と見なさなければならず、たとえ犯人と確信できたとしても、プライバシーを暴いたり、本人が同意しない取材を行ったりすることは許されない。まして、有罪判決にいたらなかった場合は、当人が受けた損害を賠償する責任が生じる。実際、モルジブで新婚直後の花嫁が休止した事件では、一部のマスコミが殺人と騒ぎ立てたにもかかわらず、警察が動き出すこともなく終わってしまった。こうしたケースでは、マスコミの過剰報道によって職場を辞めねばならなくなったなどの損害を被ったとしても、損害賠償を裁判で勝ち取るのはなかなか難しく、せいぜい名誉毀損の裁判を起こして数十万円の示談金を手にするのが精一杯だという。これでは、自宅や職場にまでリポーターが押し掛けて生活を破壊されたことの代償としては、あまりに些少である。しかも、マスコミ主導で事件を暴こうとするときには、ややもすればセンセーショナルな報道を追求するあまり、裏付け取材が不十分になりがちであるため、こうした“冤罪”は決して稀ではないのである。
 今回のトリカブト事件では、刑事事件として訴追されるには多くの不確かな要素があり、最終的に有罪判決に至るかは判然としない。一般人からみると、(1)K氏の3番目の妻がトリカブトで死亡したこと、(2)自殺の動機がなく、K氏の調合したカプセルを飲用していたこと、(3)K氏がトリカブトを購入したという証言があること──を総合して、殺人の疑いがきわめて濃厚だと考えるだろう。しかし、刑事事件としてみると、トリカブトの毒を死体から検出したのは行政解剖によるもので、司法解剖に比べて証拠能力に乏しいほか、トリカブトを売ったという店主の証言もあくまでマスコミ取材の範囲で得られたものなので、現段階では疑ってかかる方が妥当である。とすれば、K氏を有罪に持ち込める蓋然性は必ずしも高くなく、マスコミによる冤罪事件に終わる可能性も小さくない。そのとき、各マスコミがどのように対応するか、ある意味では、言論の自由を保障するために注目しなければならない事件である。(2月10日)

  近頃若い女性の間で、「前世占い」なるものが流行っている。これまでにも、過去の有名人の生まれ変わりだと自称する奇人はしばしば現れたが、今では、全ての人間が何らかの前世を持つとされ、輪廻転生の流れに組み込まれているという。しかも、前世は必ずしも人間とは限らず、さまざまな動物や、果ては道具類にまで同定されることがある。こうしたナンセンスな占いが流行するのは、それなりの理由があるはずが、それは必ずしも明るいものとは思えない。いささか使い古された言葉だが、「不安の時代」と呼ばれる現代の世相が、そこに反映されていると考えられる。
 現代人は、社会的機構の中に組み込まれて、とりあえずは安定な生活を獲得しているものの、きわめて強大な画一化の要求に晒され、望むと望まざるとにかかわらず、誰と比較してもほとんど変わり映えのしない生活様式を余儀なくされている。こうした中で、ふと自分とは何だろうという不安感に苛まれる若者は少なくないのだろう。「前世占い」は、こうした不安を解消するものではなかろうか。実際、TVなどで見られる占いは、人々に隠れた才能があることを告げて力づけたり、あるいは逆に、行き過ぎが起きないように諫めたりする傾向が強く、言うなれば、信仰に基づく性格改良の色彩が濃い。
 こうした方向性は、古くからの占いにも認められるもので、優れた占い師は、訪れた人の心の底にある不安を見つけ、自信なげな人には後押しをするような助言を与える一方、自信過剰と思える人には手綱を引くように忠告する。もっとも、このような助言は、心理学のような学問的知見に基づいて行えるはずもなく、また、たとえ心理学をマスターしたサイコ・セラピストが口にしたとしても、それほど素直に受け入れられることはないだろう。占いという形式は、人間誰しもが持っている信じやすさを巧みに利用した優れた心理的治療法の側面がある。
 ただし、だからと言って、昨今の「前世占い」を支持する気持ちは毛頭ない。その理由は、この占いの半科学性にある。占いそのものは、人間の心理に精通した者が巧みに行えば好ましい帰結をもたらす。ところが、前世占いは、新しく登場した形態であるだけに、若手の“占い師”なる人物が現れて、かなり恣意的に結論を出しているように見える。しかも、前世の存在として認められるのが、人間に限らず妖怪や道具にまで拡張されており、転生を主張するにしても“何が”転生するのか、一貫性に欠けると言わざるを得ない。こうしたことは、前世占いが、「前世の存在」という客観的対象物を、心理的な問題である占いのコンテクストに導入したというそもそもの方法論に起因する。すなわち、科学的な議論が成立する領域を侵犯しながら、なおかつ占いを実行しようとする点で、単に非−科学性にとどまらない反−科学性が生じるのである。私は、決して非−科学的な議論が社会に果たす役割を軽視するものではない。しかし、現行の科学と直接に相反するような主張が一般に流布するのは、決して好ましいことではないだろう。(2月15日)

  セゾン美術館で開催されているフランク・ロイド・ライトの回顧展を見て、建築は言葉の本来の意味でのアートだと感じ入った。現代では、社会から切り離された個人的作品を芸術と見なす傾向が強いが、これは、帰属的な所有欲を満足させる不純な要素を多分に含んでいる。芸術とは、現実生活と何らかの関わりを持ちながら、なお心を揺さぶるものであるべきではない。そうした意味においては、大衆文学や環境音楽の方が、難解なヌーヴォーロマンやダルムシュタット流の現代音楽よりも高く評価されることになる。同様に、建築も、そこに住む人間、それが置かれた社会及び自然環境の双方と対決する存在として、機能しながら感動を与える本来的な芸術作品なのである。例えば、ライトの代表作の1つであるカウフマン邸を考えてみよう。これは、流れる水の上に突き出すような構造を持っている住宅で、遠くから見ると、渓流と岩が織りなす自然の景観の一部のように見える。しかし、もちろん景観の中に埋没してしまうことはなく、その最も艶やかな部分として自己主張もしており、自然との非調和性──この場合は、自然には見られない水平と鉛直の線によってもたらされるのだが──が作品のポイントとなっている。このように、周りの環境にある程度まで調和しながら、なおかつ自己主張するような建築こそ、芸術の1つの極点とも言えよう。(2月17日)

  もはや現代日本人の美食家ぶりは、古代ローマ人になぞらえられるようになっている。古代ローマの貴族は、連日連夜の宴席でさまざまな珍味を楽しむために、食べる端から吐瀉していたという。さすがに日本人はそこまではいかないが、豪華な料理を味わう一方で、美容のために高い料金を支払ってフィットネスクラブやエステティックサロンに通ったり、日常の食べ物を制限したりしている。こうした愚かしい行為は、単に食資源の無駄遣いであるのにとどまらず、日本人の健康を損なう要因にもなりかねない。ここでは、美食の追求が健康に与える悪影響という点に議論を絞ってみていこう。
 はじめに指摘しておかなければならないのは、いわゆる“美食”と呼ばれるものが、きわめて特別な料理に属するという点である。通常の食卓に載るような料理は、せいぜい数十程度のヴァリエーションしかなく、自宅で食べる食事の半分以上は、十以下のメニューから構成されていると思われる。そうした料理は、舌鼓を打ちたくなるほどのおいしさである必要がないばかりか、むしろ多少味気ない程度が好ましい。なぜなら、人間の美味追求欲は、体に良い食べ物を“探索する”動機を提供するためのものであって、おいしいものが少ない場合にこそ機能するのであり、毎日のように豪華なご馳走を出されると、かえって味覚が鈍磨してしまうからである。しかも、味覚を楽しませる食事は、通常は不足気味となる栄養素を多量に含んでいるものであるために、飽食の時代に生きる現代人にとっては、高カロリーになりすぎる憾みがある。実際、高級和牛とされる松阪牛などの霜降り肉は、肉牛を病的に肥満させ、健康な状態では皮下に蓄積されるはずの脂肪が筋肉組織に入り込んでいる状態であり、そのような肉を毎日食べたならば、たちまち牛と同じ病気に罹ってしまうであろう代物である。それほどでなくても、現代の日本人が口にする肉は、いずれも過分な脂肪を含有しており、健康に良いとは言えない。確かに、脂肪分は舌の上で溶けて“旨味”をもたらす要素だが、これはあくまで、日常生活であまり脂肪が得られない動物に獲物を求めさせるための生理的トリックなのであって、毎日味覚を喜ばせることは、健康を損なう原因となるのである。同様に、糖分の甘味も、野生動物が求めようとする対象としてふさわしいものであっても、日常的に口にされる間食のたぐいに用いられた場合は、肥満や虫歯の原因になりかねない。
 人間にとって最も健康的な食事は、むしろ飽きない程度に薄味の料理だろう。この点では、米飯が最良の基準を与える。米のご飯は、他の穀類に比べてタンパク質が豊富であり、またデンプン質が分解して糖になることによる甘味を有するが、かと言ってくどい味付けにはならずに毎日食べても決して飽きることがない。これを参考にして、おかずも同程度の味付けにしておけば充分なのである。にもかかわらず、旨味や甘味を効かせすぎた料理を作るため、一時的には美味しく感じるものの、すぐに飽きてしまい、日々新しいレシピを試さねばならなくなる。こうして、毎日のメニューに苦労させられながら、それが家族の健康にマイナスになるというハウスキーパーのジレンマが生じる。この事態は、悲惨というよりはむしろ滑稽であり、食についての認識を改めることで克服できるはずである。
 すでに述べたように、食物の旨味や甘味は肉体にとって不足しがちな栄養素を発見するための導きの糸となる。しかし、味覚はそれだけにとどまらず、数多くのアミノ酸の微妙な組み合わせや、ビタミン、ミネラル類を識別する機能を持っている。したがって、大味な食事を避け、素材が持っているままの要素が楽しめるような食事を工夫すれば、旨味や甘味にとどまらない“大人の味”を持った“美食”を作ることが可能になる。しばしば、健康に良い食事は味気ないと言われるが、これは基本的な誤解である。なるほど、食べてすぐにおいしいと感じられるような味は、健康食にはない。しかし、こうした突出した味は、あくまで行動の方向性を決定するためのリリーサーとして機能するものであり、それだけにきわめて単純である。実際、「複雑に絡み合って微妙な味わいをもたらす甘味」をイメージするのは難しい。これに対して、肉体に必須のアミノ酸を含む食べ物は、際だったおいしさを示すことはないが、“さっぱりした味”や“噛みしめるほど湧いてくる味”など、底の深い味を提供してくれる。
 どの民族においても、伝統的な料理はこうした複雑な味わいを持つ。例えば、インドのカレー料理は、漢方薬とも共通する複雑な機能を担った多量のスパイスを使い分け重層的な味わいを出しているし、中華料理においても、多くの材料を一緒に炒めながら、あえて互いに拮抗する要素を入れて味を膨らませている。もちろん、日本料理もしかりである。現在のグルメ文化が浅薄だと言われるのは、こうした本来の深い味わいを持つ料理に対する見識が不足しているからである。(2月24日)

  石油資源を巡るイラクとアメリカの利権争いが高じた末の湾岸戦争は、ついに多国籍軍による地上部隊の突入という重大な局面を迎えた。これを機にイラク軍が一挙に崩壊するか、それとも徹底抗戦に出て泥沼化するか、現時点では予断を許さない。アメリカ国民の70%以上はこの戦線拡大を歓迎しているというが、地上戦が基本的には一般市民をも巻き添えにしかねない悲惨な殺戮戦である以上、今回の事態が憂うべき愚挙であることは疑うべくもない。ここでは、アメリカを中心とする多国籍軍の地上戦開始が、第二次世界大戦末期におけるソ連の対日参戦ときわめて類似していることを指摘しておこう。
 最大の類似点は、対戦国(イラクないし日本)が経済封鎖と空爆によって疲弊の極に達しているにもかかわらず、あえて地上戦に踏み切った点である。しばしば空爆だけでは戦争を終結させられないと言われるが、すでに大量殺戮兵器が開発されている現在では、地上戦と同等以上の恐怖を人々に与えることが可能である。現に、引き続く空爆のために、イラク国民は日常的な必需品すら手に入れるのが困難になっており、厭戦ムードが広まっていたと伝えられる。にもかかわらず、地上戦に突入したのは、──第二次世界大戦の時のソ連と同じく──戦後の支配権を配慮してのことに他ならない。実際、地上戦開始の直前にソ連が和平工作に乗り出し、フセイン大統領との間で停戦に関する合意が成立していながら、アメリカ側はこれを蹴っている。ソ連のメンツを潰してまで戦闘にこだわったのは、この段階で和平に持ち込んでは軍国主義的なフセイン体制が戦後も存続し、中東の火種になると予想されたからである。アメリカとしては、軍事政権を完膚無きまでに叩き潰して、親米的な政権が樹立されることを望んだ訳だ。地上戦を開始する大義名分を作るために、アメリカは無条件降伏に等しい国連決議受諾の要求を期限付きでイラクに突きつけた。この間の事情は、ポツダム宣言受諾を求めた1945年7月の状況に酷似している。当然、イラクはこの屈辱的な申し出を飲む訳にはいかず、日本と同様に国家の破滅を選択することになる。
 地上戦突入後の戦況をみても、イラク軍は45年前の関東軍の故事をなぞっているかのようだ。戦力・士気ともに圧倒的に上回る多国籍軍を前にして、イラク軍はほとんど為すすべもなく敗走している。もちろん、「死して虜囚の辱めを受けず」という教えに感化されていないイラク兵が次々と投降してくる点で日本軍との違いはあるが、まだ逃げる気力のある兵士たちが行きがけの駄賃とばかりにクウェート人を虐殺したり市街を爆破していく過程は、関東軍に見られた暴挙とうり二つである。指揮系統が混乱し、現場の軍人が撤退命令を知らなかったりするところも、45年の歳月を隔てているとは思えないほどだ。
 ソ連の場合は、日本が不法に占拠していた満州を“解放”しただけでなく、いささかオーバーシュート気味に北方領土まで我がものにしたばかりか、北海道まで侵攻のターゲットとしていた。事実、8月15日に日本が降伏していなければ北海道の北東部を占領するつもりだったと言われており、戦後長期にわたり日本人の対ソ観を嫌悪の情の混じったものにする結果を生んだ。イラクに攻撃を仕掛けた多国籍軍は、さいわいバグダッド占領は思いとどまる様子だが、それでも、イラク人およびイラクを支持するパレスチナ人の対米感情の悪化は免れがたいだろう。
 歴史が教えてくれる最大の教訓は、人間は歴史から何も学ばないということである。(2月28日)

  パルコが毎年開催している「期待される若手写真家」の展覧会は、先物買いのための重要な場として評価を集めている。今年は、大野純一や佐藤時啓が出品した昨年に比べてやや小粒になった感じもするが、それでもなかなかに見応えがある。特に、焼き印を押された牛を(フィルターを使ったと思われる)独自の色彩感覚でクローズアップして捉えた貝塚純一の作品は、今後を大いに期待させるものがある。また、自分の好きな人の肖像を何重にも重ねて焼き付けた平野覚堂の作品は、現実には存在しない理想の人間像の茫洋としたイメージを浮き立たせて感動的だった。(3月8日)

  人が見る夢の中に深層心理の属している多くの情報が隠されていることは、フロイトが指摘して以来、精神科学者の間で常識になったようである。しかし、こうした情報を再び表層意識の言語で表現し直そうとすると、さまざまな問題が生じてくる。例えば、夢においては、日常生活で不道徳なこととして抑圧されている種々の欲動が形を変えて登場すると言われている。具体的には人前で裸体になるといった“はしたない”とされる行為が、夢の中では実行されているのである。しかし、こうした状況を「夢においては社会的な抑圧が解き放たれて肉体的な欲動が具現化される」と言い換えることは、正当な解釈とは認めがたい。なぜなら、肉体的欲動は、その生理的機構からして必然的に能動的行為を惹起するはずであるのに、夢においては、そうした能動的な要素が乏しいからである。実際、「人前で裸体になる」といった行為にしても、夢の中では、“いつの間にかそうなっている”という形式で具象化されており、自らの意志で“敢えてこうしよう”として遂行されることはない。また、社会的抑圧が取り除かれるからといって、暴力や殺人、その他の刑法犯罪となるような行為が夢の主題となることも稀である(と思われる)。このことは、夢の内容が抑圧の解放として日常的にイメージされる行為と異質だという結論を導く。さらに言えば、夢の中に現れる不道徳な行為は、抑圧されている欲動一般に対応するものではなく、その中の特別なタイプに限定されると考えられる。もちろん、夢においては、能動的な意志は発現しにくいので、こうした事情は驚くに当たらないかもしれない。しかし、非能動的な欲動とは、日常的な意味での欲動とは何ともかけ離れていることも認めなければならない。性的なイメージにしても、能動性を剥奪した上で提示するだけならば、さほど反社会的な性質は担いきれないだろう。このように考えると、夢に込められている意味を解釈するに当たって日常的な用語を用いることは、夢の本質を歪める結果になると言わざるを得ない。(3月13日)

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©Nobuo YOSHIDA