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  アドルノは『文化産業──大衆欺瞞としての啓蒙』という論文の中で、産業社会に組み込まれた現代文化の画一性を非難している。ここで描かれている社会は、資本主義・社会主義を問わず、貨幣という量化された価値基盤の中で高度に機能化された産業構造を持っているシステムであり、資本家なり独裁者なり少数の人々が社会を動かす実質的な権力を掌握している。そうした社会においては、単に政治や経済のみならず、文化も、こうしたシステムを維持するために機能する産業として、本来の創造的な自由を失い、独占的権力の前にひれ伏している──というのがアドルノの主張である。
 産業主義の中に組み込まれた文化の代表例としてアドルノが指摘しているのは、ラジオと映画だが、現代的に読み直すならば、何よりもTVが指弾されるべき第一候補だろう。こうした“文化産業”が採用している基本的な方法論は、全ての作品を産業主義のプロパガンダとして類型化するというものである。19世紀的なロマン主義は、新しい手法や素材の発見に喜びを感じ、全体から切り離された細部の彫琢に情熱をたぎらせた。ところが、こんにちの文化的な作品は、その製作システムが画一的な内容を押しつけるように構成されているため、既定路線を離れることを良しとしない。このことは、20世紀前半におけるハリウッドの娯楽作品に見られる類型的な筋書きや、現代のTV番組が示すお決まりのプログラムに典型的に現れている。
 こうした画一化は、こんにちの文化産業を享受する消費者の側に、独特の意識を植え付ける。すなわち、人々は、“文化”に積極的に参加していくのではなく、飽くことなく繰り返される類型的なパターンに身を委ねることを強制される。いつもケンカをしているように見える男女が実は心の内では愛し合っており、最後には結ばれることが明らかなメロドラマを見るとき、人はスクリーン上の人物が本当は何を考えているかなどと真剣に思いを巡らせる必要はない。ただ、洒落た会話を楽しみ、つかず離れずのドタバタにワクワクすれば十分なのである。鑑賞者に受動性を要求するこのような“文化”は、社会システムを維持するための潤滑油として機能する。
 ただし、ここで指摘しておかなければならないのは、優れた文化的所産は、常に支配権力の圧力の下で表現を模索した結果として生み出されるものだという点である。例えば、ベートーヴェンは、新興ブルジョアジーの浅薄な趣味に迎合してくどいほど単純な構成の交響曲を作曲せざるを得なかったし、ベラスケスは、スペイン・ハプスブルグの栄光を讃えるために肖像に過度の粉飾を施すことを余儀なくされた。にもかかわらず、彼らが作り出したのは紛れもない傑作であり、時代の桎梏から脱して永遠の生命を獲得している。同様に、現代社会において産業化された文化シーンに位置している作者の中にも、支配者に気づかれないようにしながら、優れた作品を製作している天才が数多く見られる。
 文化産業の典型であるハリウッドの映画業界に身を置いて、常に大衆に喜ばれる“通俗作品”を撮り続けたヒッチコックについて考えてみよう。戦前から戦後しばらくの間、ハリウッド映画には、安定した社会体制の中で慣習に従順になることを最終的な道徳規範と見なす風潮があり、既婚者がいかに恋のアバンチュールを楽しもうとも、ラストシーンで「本当は君/あなたを愛していた」と配偶者に向かって言うことで罪があがなわれねばならなかった。ところが、ヒッチコックは、こうしたハリウッド的道徳規範に対して、それとは気づかれない形で反旗を翻している。例えば、『ダイヤルMを回せ』という作品においては、グレース・ケリー演じる金持ちの女性が、身持ちの悪さを観客に見せつける。彼女は、有名テニス・プレーヤーに憧れて結婚するが、試合のために頻繁に家を離れることを不満に思うようになり、別の有望な小説家とつきあうようになる。テニス選手の夫は、妻から離婚され財産を失うことを懼れて殺害を企てるが失敗、最後には、夫は警察に捕まり、妻と愛人は晴れて結ばれるという皮肉な結末が訪れる。このように、当時のアメリカで社会から押しつけられていた道徳規範を平気で踏みにじっているところが、ヒッチコックの作品には多々見受けられる。もっとも、当時の観客が、どこまでヒッチコックの真意を汲み取れたか、いささか心許ない。ヒッチコック・タッチを模倣して作られた作品群──『ガス灯』『シャレード』『暗くなるまで待って』など──は、どれもハリウッド流の道徳遵守のタイプであり、これらがヒットしたという事実は、観客自身が映画に内在する道徳観をあまり重視していなかったことを示唆する。ただし、逆にこのことが、ヒッチコックの作家生命を長引かせるのに貢献したとも言えるだろう。
 現代の芸術家は、過去の作家たちと同様に、権力の前で身を隠しながらも、巧みに反抗を続けているのだ。(10月21日)

  ホリヒロシによる人形舞は、妖しく美しく心に残る体験だった。彼の人形の魅力は数年前からTVなどを通じて見聞していたが、それが生命あるもののごとく動かされたときの衝撃は、予想を遥かに超えたものであった。「唐人魚」に使われる人形は、おかっぱ頭の竜女の顔をした着衣の人魚で、ホリヒロシの作品特有の不気味さはないが、それでも、まるで流し目をするかのようにすっと振り向きときの色気は人間以上であり、息を飲む思いがする。人形を操るホリヒロシの動き自体も舞のように優雅で、いつまでも見続けたい思いに駆られる。このような体験は、一生の間にそう何度もあるとは思われないほどだった。(『ホリヒロシ美の世界 人形たちの森』(大丸ミュージアム)より人形舞「唐人魚」の実演を見て)(10月2日)

  日本が西洋に対して門戸を開き、新たな文物の導入を図ってから、すでに130年以上が経過している。この間に、(あんパンやすき焼きに象徴されるように)日本人は西洋の文化を日本流に消化して、自己のものとしてきたと言われる。しかし、本当に日本人は西洋文化を消化吸収しているのだろうか。日常的なところから、3つほど例を挙げて、日本における洋モノ理解がいまだ皮相的であることを示した。ここで取り上げる例は、(1)肉の食べ方、(2)靴の履き方、(3)椅子の座り方である。
 (1)はじめに、日本人はまだ西洋人ほど肉の食べ方を知らないことを語ろう。このことは、軟らかい肉に対する日本人の嗜好に端的に現れている。実際、日本人が肉を誉めるときの決まり文句が「軟らかい肉ですね」であり、松坂牛にせよ神戸牛にせよ、高級牛肉とされるものは、いずれも歯で簡単に噛み切れるほど軟らかい。これに対して、アメリカやアルゼンチンの輸入牛肉があまり売れないのは、その肉質が硬いからだと考えられる。しかし、本当に軟らかい肉は高級なのだろうか。こうした肉は、一般に牛を病的なまでに脂肪太りさせた結果として得られるもので、健康な牛の栄養に較べると質が落ちることは明らかである。そうした病気の牛の肉を美味しいと感じることは、やはり奇妙だと言わざるを得ない。
 こうしたおかしな嗜好は、日本人の肉料理の仕方に由来する。開国当初、獣肉を食べることは(現在、犬やカナリヤを食べること以上に)野蛮な行為だと考えられており、獣肉の匂いに吐き気を覚える者も多かったに違いない。このため、肉を日本人向けに料理する手法として、これを出来るだけ薄く切って強火で煮込んでしまい、しょう油と砂糖の味付けを施して肉の臭みを消してしまう手法が開発された。すき焼きや牛鍋は、その典型的な例である。このような料理用を採用すると、肉汁が流れ出してしまうため、どうしても肉は硬くなりがちである。これを防ぐには、はじめから脂肪分が多く軟らかい肉を使わなければならない。また、肉の臭みとともに風味も抜けてしまうので、それを補う上でも、うま味の強い脂肪分が好まれるのである。しかし、このような食べ方は肉の本来の味を殺してしまうものであり、いわば刺身をソース焼きにするような行為である。それよりは、欧米の人が行っているような肉本来の風味を楽しむ方が、優れた料理法と言えるのではないだろうか。具体的には、厚めの肉塊をステーキにして、内側がレアになるように調理する。こうすれば、肉汁が逃げ出さずに肉そのものが持つ美味しさを味わうことができる。
 また、日本人があまり食べない内臓類も、キドニーパイやレバーソーセージにしてどんどん食べるべきである。内臓は、筋肉とはアミノ酸の組成が異なっており、健康な身体を作るためには、どちらか一方に偏るのは好ましくない。この点でも、日本人はまだまだ西洋に学ぶべきである。
 (2)日本人は、靴の履き方も良く知らないようだ。欧米人は一日中靴を履きっぱなしにするため、さぞや足が臭いだろうと思いきや、彼らの足は、日本人のようにすえた匂いがほとんどしない。これは、基本的に風土の違いによるもので、欧米の大陸性気候の下では、湿気が少ないため、足全体を皮革で覆ってしまっても、さほど問題は生じない。ところが、日本のように高温多湿の気候の中で足の通気性を悪くしてしまうと、当然のことながら、細菌が繁殖して腐ったような悪臭を発することになる。もちろん、健康のためにも好ましいことではない。風土の差異を考えに入れず、物事の上っ面だけを眺めて模倣した結果である。もし、日本で靴を履こうとするならば、風土に合わせなければならない。かつての草履や下駄を復活させるのは難しいかもしれないが、少なくとも、通風性の良い素材で靴を作ることは可能なはずである。あるいは、かかとの部分をポンプにして、足を着地させるたびに空気が循環するような機構を考えても良いだろう。メッシュの靴を履く場合は、雨天のときに備えて靴全体をすっぽり包み込むような靴カバーを利用して、これで雨水をはじくようにしたらどうだろうか。いずれにせよ、靴を脱ぐとむせるような悪臭が漂うというのは、日本の恥であり、早急に改めなければなるまい。
 このほか、靴の形が往々にして足に合っていないのも、日本の遅れている点である。日本人は、欧米人に較べて足の指が広がっている。このため、靴の長さに対する横幅の比率を欧米仕様のものより大きくしなければならない。男性用の靴は、漸くEEEのものが標準になったようだが、女性の靴はいまだにつま先が異様に細いものが多く、改善すべきである。理想を言えば、洋服のように、靴も足形に合わせてオーダーメイドできるようになってほしいものだ。
 (3)日本人が欧米文化を吸収し切れていない第3の例として、椅子の座り方を指摘しておきたい。会談の場で良く見かける光景に、椅子の先端にちょこんと腰を下ろして身を乗り出している人の姿がある。概して日本人は、椅子に座っているときも前傾の姿勢を取りがちである。しかし、椅子というものは、本来、いっぱいに腰を引いて背もたれに体重を預けるのが最も心地よいように設計されているのだ。この状態になったとき、腰椎に加わる圧力が減じて、人類が直立したことに起因するさまざまの悩み──特に、内臓の圧迫感と腰の痛みから解放されるのである。このような効能を理解しないまま、日本人は単なる腰掛けとしてしか椅子を利用していない。残念なことに、欧米流のライフスタイルを身につけているはずの若者たちですら、こうした事情を心得ないまま椅子を使っている。電車などで足を前に突き出し、背を大きく湾曲させて座っている若者を見かけるが、これでは、内臓と腰を痛めてしまう。座り方が肉体に与える影響を知るには、ためしに同じ姿勢でものの10分も座ってみれば良い。腰を背もたれまで引いて背筋を伸ばすと、初めは少し疲れるように感じるが、同じ姿勢を続けるには、きわめて楽な姿勢であることに気づくだろう。
 ただし、このような機能が実現されるには、椅子が人間工学の要求を満たすものでなければならない。腰板の湾曲の仕方や高さ、背もたれの角度などは、欧米サイズではなく、日本人の体型に合わせて設計すべきである。このような椅子にゆったりと腰を下ろすと、足が自由になるため、自然と足を組むようになる。日本では、特に会談の折りなど、足を組むのは不作法だと考えられているが、これは、椅子の特性に対する無知に起因するものである(もっとも、和室でも目上の人の前では、不自然な座り方である“正座”をするのがマナーだとされているので、必ずしも無知だけが原因ではないだろうが)。腰をいっぱいに引いて足を組むのが正式な座り方だと言っても良かろう。
 このように、日本人の生活は、ここ100年ほどの間に著しく欧米化したと言いながら、さまざまな部分で表面的に風習をなぞっただけの真似事を演じているにすぎない。西洋の文化は、それなりの風土に根ざして成長したものであり、これを日本に移植する場合には、適当に日本化しなければならないのは当然だが、その結果として文化の持つ人間中心の要素を忘れてしまっては何にもならない。こんにち必要なのは、欧米文化の利点を取り込みながら、日本の風土に合致したものを作っていくことだろう。(10月8日)

  中原俊監督の『櫻の園』は、近年の日本映画の中でも出色の作品であり、これまで、いささか魅力に乏しかった“学園もの”に新たな1ページを付け加えることになった。こうした秀作を世に送り出したスタッフに、惜しみない賞賛を送りたい。成功の鍵は、もろくこわれやすい青春の情感をスクリーンに定着するために、女子高生の生き生きとした姿を粉飾を加えずに表現した点にある。これまでの学園ドラマは、ともすれば、青少年の風俗や精神病理を過度に強調する嫌いがあった。それに対して、『櫻の園』では、現実に女の子たちが使っている言葉遣いや立ち居振る舞いをそのまま再現しており、登場人物の一人ひとりに深い親近感が抱ける。それだけに、4人の主役たちの心理の動きが、切実に心に迫ってくるのだ。特に、白島靖代と中島ひろ子が演じる2人の少女の友情は、見る人に青春時代のはかない美しさを思い起こさせて痛切である。肉体的な要素を必要としない愛、ただ一緒にいて同じ台詞を口にするだけで至福へと到達できる瞬間──そういったものは、人生のある時期だけに特権的に許されている。2人が記念写真を撮るシーンは、その美しさ、はかなさを完璧に描き出す。そして、離れたところから2人を見守るつみきみほも、この幸福を分かち与えられている。大人になってしまうと、もはや1人を排斥せずにはいられない三角関係が、ここでは奇蹟のような均衡を保っているのだ。だが、現実には、この関係は永続しない。一瞬にして過ぎ去っていく至福の時間が、『櫻の園』の世界なのである。(11月15日)

西洋美術館で開催されているW.ブレイク展は、内容が充実して見応えがある。この作家は、日本では白樺派によって詩人として紹介されたが、実際には、壮大な神話を創造した幻視者であり、詩と版画によってその世界を部分的に開示して見せたと言った方が当を得ている。それほどまでに、彼の詩も版画も何回であり、さまざまなイコノロジー的な手法を通じて読み解いていかなければならない。例えば、彼の作品には、しばしば長いひげを生やした威厳のある老人が現れるが、これは、世界を機械論的な知性でがんじがらめにしようとする悪神ユリゼンであり、非難されるべき存在である。ブレイクは、いかめしさや厳かさに対して嫌悪感を抱いており、うっかりすると宗教的崇敬の対象と見誤りそうなものが、実は、悪しき知性の象徴であったりする。このことは、個人の身体においても妥当し、硬直しねじ曲げられたりしたような体位は否定的に取り扱われ、逆に足を後ろに振り上げるような軽やかな姿勢が、人間精神の豊かな発露に見立てられる。このことは、最晩年の『神曲』において最も見事に造形化され、フランチェスカ・ダ・リミニやベアトリーチェを取り巻く渦動となって現れている。(11月21日)

  鈴木浩による“Photosphere”展(インフォミューズ)は、この作家が、現代日本にあって最も創造的な才能を持っていることを証している。W.ギブソンやギーガーの描き出す世界は、テクノロジーが極限まで追求された結果、バイオメカニックな装置に覆い尽くされることになったものだが、そこで使われるさまざまなイディオムは、むしろ古典的な肉体の付属物であり、それも、フロイト的に変形された形で提示されている。このため、サイバーパンクと呼ばれながら、喚起するイメージは、より身体的な生々しさを感じさせる。これに対して、鈴木浩が創り上げたのは、ギブソン的なジャルゴンに惑わされることのない微生物や夜空の星晨を思わせるような原始的映像でありわれわれの肉体的感覚とかけ離れているだけに、逆に直接精神の深奥に感応するものである。このような有能な作家の登場に、心から拍手を送りたい。(12月5日)

  最近の若い人の間では、潔癖症候群と呼ばれる一種の神経症がかなりの頻度で見られるという。この種の病気としては、従来から“手洗い強迫症”が知られており、外出したり他人の物に手を触れるたびに石鹸で手を洗う行動の形で現れる。しかし、こうした古典的な症例では、自分以外の物を不潔だと感じているのに対して、ここ数年の間に目立つようになったのは、自分自身の肉体を不潔なものと見なす態度である。例えば、“朝シャン”なる行動習慣は、毎朝シャンプーを使って洗髪することをさすが、これは明らかに1日の活動によって生じた汚れを落とすための行為ではなく、就寝中に生じた寝汗などの生理的分泌物を洗い流すことを目的としている。実際、現代の青少年は、汗や体臭を“汚いもの”として忌み嫌っており、これらを他人に意識させることを恥と感じている。生物学的には、これらは決して不潔ではなく、汚染源と考える必要はない。汗の大部分は涙と同様に水を主成分として若干のミネラル等を含んだ液体で、細菌に汚染されていることは滅多にない(あれば病気と見なされる)。また、体臭も、異性を性的に興奮させるフェロモンとしての作用があり、本来は悪臭でないはずである。もっとも、直立歩行をしてワキを締めるようになった上、夏でも袖のついた衣服を着る機会が増したため、ワキの下に関しては細菌が繁殖しやすく、悪臭を発することがある。これは、靴を長時間履いたときの臭いと同じく、清潔さを保つことによって抑えなければならないものだろう。汗臭さや長期間洗っていない髪の匂いも、主として雑菌の繁殖に起因するものである。しかし、生理的分泌物自体は、人間が嫌悪感を覚える類のものではなかった。にもかかわらず、現代の青少年がこれらを毛嫌いするのは、どのような理由によるのだろうか。
 いささか単純化された見解だが、都市部における人工的な環境にその原因を求めることは、それほど的はずれではあるまい。人造物は、基本的に限定された機能を持っており、自然界の諸事象のように、何のためかはわからないがとにかくも存在するという性格のものではない。人工的な環境とは、機能主義的なシステムにすぎないのだ。こうした環境の中で育てられた人間は、諸事象を機能的な関係に基づいて分節する傾向が強いと想像される。作物を育む土壌は、単にみずと栄養を供給するだけでなく、実に多様な生物相を示し、複雑な生理的・化学的過程が実現される場となっている。ところが、人工的環境に馴染んだ人間からみると、このように得体の知れない対象はあまりに不気味であり、それよりは、水と各種栄養素を供給することによって作物を育てる工場内農業の方が“清潔だ”と感じられるのである。当然のことながら、こうした機能主義的な視点で世界を割り切ろうとすると、世界の方からとんでもないしっぺ返しを受けることになる。特に、それが自分の体に向けられるとなると、話はいささか悲惨である。人間の生理的機能は(他のあらゆる生命現象と同様に)特定の目的をもって設定されたものではなく、進化の過程でさまざまに変化させられ、場合によっては本来と異なる用途に代用されている。そうした機能は、人工的な環境に育った人間にとっては、不可解で汚いものと感じられても仕方あるまい。しかし、このような多義性こそが自然の本質なのであり、これに嫌悪感を覚える青少年は、逆に世界から見捨てられる運命を辿るのではないかと、不安を禁じ得ない。(12月21日)

  ここ数日の間、世は“クリスマス狂想曲”のさなかにある。特に若い男性は、恋人を喜ばせるために、フランス料理をご馳走し、ダイヤモンドの指輪をプレゼントし、その見返るにホテルで一夜を過ごさせてもらえるという。まさに、バチ当たりの騒ぎである。そもそもクリスマスとは、その名の通りイエス・キリストにミサを捧げる日のことであり、キリスト教徒は、教会で祈った後、静かに家族とお祝いをするはずだ。ところが、宗教心の薄い日本人は、この神聖な儀式すら馬鹿騒ぎのきっかけにしてしまう。20年ほど前までは、いい年をした大人がキャバレーやバーでトンガリ帽子を被ってジングル・ベルをがなり立て、若い人のひんしゅくを買っていた。その騒ぎが収まったと思ったら、今度は、若い人の側から反動が起こって、また20年前に逆戻りである。このようなバカげた振舞いは、願わくば日本国内だけにとどめておいてほしい。さもなくば、欧米のクリスチャンから日本叩きの材料にされかねない。日本人にとってみれば、ぞろ目の1月1日が真にお祝いすべき当日だから、年末は忘年会シーズンとして騒いでもかまわないと思っているのかもしれないが、冬至の衰えた太陽が復活の兆しを見せるクリスマス・シーズン(12月24日〜31日)こそ、欧米人にとって最も神聖な時期なのである。 (12月24日)

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©Nobuo YOSHIDA