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  最近、世界各国から優秀な高校生を集めて得点を競う「数学オリンピック」が開催され、日本からも6人の学生が初の代表として挑戦、参加60ヶ国中24位という「中の上」の成績で終わった。ある程度は予想された結果だが、数学教育の水準が高いと言われる日本としては、あまり芳しい成績ではないと感じた人も多いことだろう。確かに、日本人がおしなべて計算に強い国民であることは間違いない。しかし、高等数学となると、日本のトップクラスの学生が、はたして、アメリカやフランスの英才たちと肩を並べられるか、いささか心許ないのが現状である。
 日本人の計算能力の優秀さは、九九と算盤に由来していると推定される。九九については、1桁のかけ算を簡単に暗記させられるという点で、限りない功績をもたらしている。実際、英語圏の人が、「3×4=12」を覚えるのに、「th・ree ti・me(s) four i(s) t・we(l)・ve」と10前後の音素を必要としているのに対して、日本では、「さん・し・じゅう・に」と4音素で暗記できてしまう。この簡便さが、日本人一般の計算能力を引き上げるのに重要な役割を果たしているのである。
 一方、算盤は、変則的な5進法を用いることで、直観的な計算能力を涵養している。人間の場合、いくつかのドットを見て瞬間的に個数を言い当てられるのは、たかだか4〜5個だとされており、それ以上になると、数えなければいくつあるのかわからない。したがって、演算を1〜5の範囲に限定すれば、きわめて迅速に計算結果を得ることができる。算盤とは、人間のこうした特性をうまく利用して、すばやく演算を行う道具である。例えば、「6+8」を直接求めようとすると、数を数え上げなければならないので、相当に手間がかかる。しかし、これを「(1+5)+(3+5)」のように分解すれば、直観的に演算可能な「1+3=4」と「5+5=10」という形で素早く計算を遂行できる。これに慣れると、盤を使わなくても、頭の中で5進法の計算ができるようになるはずだ。外国でしばしば釣り銭の計算に時間がかかる理由は、おそらく、こうした5進法的な演算に子供の頃から馴染んでいないためだろう。このように、算盤とは、決して電卓に置き換えられるものではなく、人間の計算能力を訓練する上で、きわめて有益な教育用具である。
 九九と算盤の効用で、日本人の計算能力が世界でもトップクラスに押し上げられたことについて、われわれは、誇りを持って良いだろう。ただし、このことは、直ちに日本の数学研究のレベルが高いことを意味しない。はっきり言って、日本の基礎数学の水準は、欧米よりもかなり遅れており、特に大学での研究水準は低い。一般人の計算能力の高さと比べると、この落差はいささか極端に思われるかもしれないが、紛れもなく事実なのである。
 このように、小中学校レベルでの算数で勝っていながら、高等数学の領域で優れた人材が育たない理由は、さまざまにあるだろうが、最も直接的な原因は、英才教育を怠っていることに求められる。日本の教育システムは、年齢別に修学させる方式を採用しており、成績の出来不出来によって飛び級させたり留年させたりすることは、比較的少ない。このため、授業を理解できない学生が「お客さん」として落ちこぼれていく一方で、才能のある人がつまらない話につきあわされることになる。数学の場合は、特に、少年期にその才能が芽生えることが多いので、こうした教育方法は、数学者を養成するのに不向きである。アメリカやソ連、ヨーロッパのいくつかの国では、有能だと思われる生徒には、教師が積極的に働きかけ、飛び級はもちろん、その才能を生かすように上級の学校へと進学させる。社会全体から見て、どちらの方法が有益かは一概に言えないが、少なくとも数学界にとっては、英才教育の効能は大きい。例えば、今世紀最大の数学者であるウィーナーは、大学教授である父親によって学校に行かされず、徹底的な英才教育を受けている。もっとも、本人は、後年になってそのことを遺憾だと述べているが、結果的に見ると、この“常識はずれ”の教育が、数学研究の水準を押し上げたことになる。
 ただし、英才教育が、きわめて効率の悪いシステムであることは、認めなければならない。平たく言えば、1万人の生徒を教育できる能力のある教師に100人の生徒を教授させると、1人の英才が育つといったものである。それを良しとするだけの余裕が社会にあって、初めて英才教育は可能になるのだ。(7月23日)

  新宿梁山泊による『人魚伝説』は、パワフルな演出と息を飲む表現美に彩られた傑作である。この劇団の評判は以前から耳にしていたが、噂以上の充実ぶりで、ここ数年間に見た小劇場演劇の中でも、最高のステージの1つと言いたい。何よりも素晴らしいのは、水を使った体当たりの演技である。最近の舞台では、映像を中心とした小手先の演出がまかり通って、生身の人間を見せるという演劇本来の役割が見失われる傾向にあった。これに対して、不忍池という自然空間を利用して、あるときは水に飛び込み、またあるときは水をかぶって、人間の情念を具体的なアクションで表現している。こうした演出は、失われたものの哀切さを訴えるストーリーと相俟って、感動的な空間を生み出すことに成功した。(7月28日)

  こんにちの日本におけるTV界の実状と問題点について論じる。このような論述を試みる理由は、現状のままでは日本のTVは、来たるべき情報化社会に対応できず、かつての映画と同様の没落の憂き目を見ることが必至だからである。こうした状況をTV界の人が十分に認識した上で、何らかの打開策を打ち出すことを期待したい。
 現在の危機的状況を最も端的に表しているのが、NHKと民放の間にみられる方法論的な格差である。NHKの場合、はっきりと21世紀のメディア戦略を意識して、広域帯の衛星放送を実用化し、さらに、ハイビジョンの普及に向けて着々と準備を進めている。ハイビジョンとは、決して画質の改善のみを目的とするものではなく、印刷・出版業界を含めた全メディアの再編成の軸となる技術である。実際、ハイビジョンで撮影した映像は、そのまま印刷しても、これまでのオフセット印刷に拮抗する解像度を持っており、映像資料の交換や配布に活用することができる。NHKは、おそらく、映像を機軸とする情報コングロマリットへの脱皮を画策している最中であり、そのための基盤技術としてハイビジョンを利用する戦略なのであろう。このような目的を(意識的にか否かは別にして)踏まえながら、ここ数年のNHKの番組制作には、映像資料の体系化を推進する傾向が如実に現れている。70年代初め頃までは、NHKのドキュメンタリーといえば、隠された現実をしっかりと(と言うよりは“じっとり”と)見据えることによって、社会悪を告発する姿勢が明確であった。その後、『70年代われらの世界』や『日本の条件』のような大型企画を実現させ、告発の対象を地球規模へと拡大していったが、基本的な方法論は、現実そのものを直視するという昔ながらのものであった。ところが、ここ1〜2年の間に、『NHK特集』を『NHKスペシャル』に模様替えしてから、時事問題の歴史的背景を明らかにしようという姿勢が顕著になってきた。具体的には、『核の時代』や『社会主義の20世紀』などの企画がこれに当たり、豊富な映像資料に基づいて歴史的な経緯を体系的にまとめている。こうした番組は、確かに特定の問題に関して勉強するには便利だが、いかにも“教科書的”であり、例えば、かつての『ドキュメント昭和』のような意外な面からの切り込みに欠ける憾みがある。こうした番組の体系化(教科書化)は、教養番組の領域にも及んでおり、『地球大紀行』『銀河宇宙オデッセイ』など、映像の美しさと最新の科学的知識で魅せるものの、そこから何か新しい発見をしようという気概に乏しい作品として具現している。もっとも、NHKの名誉のために断っておくが、最近のNHKの番組が一様に詰まらないわけではなく、ETV8の『聞き書き・庶民が生きた昭和』のように、日本のTV史上最高傑作と言える作品も生みだしている。しかし、全般的に言って、NHKが、自身で所有する情報を総合的に体系化しようとする傾向は否定できないだろう。
 これに対して、民放各局は、あいかわらず従前の“視聴者サービス”的な態度を捨てきれないでいる。しばしば指摘されるように、視聴率は視聴者の意識を直接に反映するものではなく、(野球中継のように)“ながら”視聴が容易なものは入れ込みの度合いが少ない割に高視聴率を得やすい。このような不正確な数値でありながら、多くの局が、これに振り回されている。記憶に新しいところでは、TBSが夜10時代に大型ニュース番組を鳴り物入りで登場させたにもかかわらず、視聴率が上がらないという理由で中途で打ち切っている。この時間帯には、当初、テレ朝の人気番組『ニュースステーション』を模倣した『プライム・タイム』を放映していたが、特集にセンスが欠けた面白みのない内容に終始しているうちに、ひょんなことからキャスターが降板せざるを得なくなり、番組そのものが頓挫してしまった。ところが、その後に始まった『JNNニュースデスク』は、『報道特集』の伝統を生かしたハイレベルの仕上がりで、今後の展開が期待されただけに、視聴率を気にした番組中断は拙速とのそしりを免れがたい。TBSは、このほかにも、番組再編成の折りのゴタゴタが原因で名キャスター・中村敦夫を番組から降ろしたり、深夜帯にフジのマネをしてノーカット映画枠を設けながら所期の成果が上げられずに中途半端に打ち切るなど、全体として腰の定まらない醜態が目立っている。また、フジテレビは、フジ産経グループの中でメディア・ミックスを指向するという点では未来を先取りしているように見えるが、実状は、儲け優先主義と言われても仕方のないものである。例えば、フジはしばしば自社製作映画(『子猫物語』や『タスマニア物語』など)やイベント(『夢工場』など)をフィーチャーした番組を制作しているが、これらは、番組の名を借りた事実上のコマーシャルであり、CMを一定枠に制限する民放の協定を踏みにじるものである。テレ朝は、深夜の討論番組を開拓したり、海外放送局との共同制作を行うなどチャレンジ精神を示しているが、ナマ番組の人気に味をしめたためか、表面的な議論に満足しがちである。その典型が『ニュースステーション』で、久米宏の似非ヒューマニズム的コメントがいかにももどかしい。
 こうした中で、筆者が期待をもって見ているのが、テレビ東京である。現在のように社会が複雑なシステムとして機能している時代にあっては、各種技術に関する専門的な知識の裏付けがなければ、正当な議論を展開することは困難であり、そのためにも、十分に吟味されたデータベースが必要となる。こうしたデータベースを備えている機関として、こんにちの日本では、他の何よりもまずNHKと日経新聞の名を挙げねばならない。単なるデータだけならば、東大や各省庁にも備えられているだろう。しかし、膨大なデータをジャンルに囚われずに現実の事件と結びつけられる能力に関しては、この二者に追随できる機関はあるまい。NHKが教科書的な体系化に向かいつつある現在、その豊富なデータベースに基づいて現代日本を論断できるのは、日経新聞以外にはないかもしれない。そして、放送メディアを通じて日経の収集した情報を一般市民に伝える窓口となっているのが、テレビ東京である。ただし、現時点で、テレビ東京がこの役割を十分に果たしているとは言い難い。日経新聞のデータベースは、経済分野で優れているだけではなく、最先端の科学・技術に詳しいという特徴がある。これは、日経グループが、『日経サイエンス』や『日経エレクトロニクス』などの専門家を記者に迎えた雑誌を刊行しており、その情報をグループ内で流通させていることの現れである。例えば、HDTVの規格に関して、NHKのハイビジョンが国際化路線に乗り損なった原因について、どこよりも詳しい解説を載せていたのが『日経エレクトロニクス』であり、そのエッセンスが、日経新聞本紙上に掲載されている。ところが、現在の日米欧の技術と経済の実状を論じるのに絶好のこの話題について、(おそらくNHKならば1時間枠の特集番組を組めたであろうに)テレビ東京は、本格的に取り上げることを敢えてしなかった。なぜか。これは、日経新聞が収集しているデータベースを利用する体制が整っていないことに起因する。さらに、最近行われた生体肝移植についても、日経新聞本紙では、インフォームド・コンセントの考えに立脚した倫理的議論が展開されているのに対し、テレビ東京で本格的な番組を作成することはなかった。このような例は枚挙に暇がなく、せっかくの日経との協力関係が十分に生かされていない。日経のデータベースの豊富さを考えれば、現在より遥かにおもしろい番組作りができるはずなのだが、どうだろうか。特に、近年は、情報番組に対する根強い需要があり、有意義なデータを活用していれば、それなりの視聴率を上げられるだろうもちろんそのとき、データの利用を誤って皮相な議論にとどまると、物量的に勝っている『ニュースステーション』に水を開けられることになりかねないのだが。
 ここで参考になるのが、ラジオの文化放送でオンエアされている『梶原茂の本気でどんどん』である。この番組では、2時間にわたって最もホットな話題を探求していくのだが、生放送の強みを生かして、各界に電話しているうちに次第に事態の本質が明らかになっていくという推理小説的な面白さを実現している。現在のTV番組においては、ディレクターに意向に則ってインタビュー場面などを編集してしまうため、専門家が有益な話をしても、その中で視聴者受けしそうな部分だけを切り出してきてしまう(例えば、地震や火山噴火などがあると、「東京にも危険がある」という部分だけを抜き出してオンエアするというように)。このような手法では、非専門家にすぎないディレクターの市民感覚の範囲内に問題を矮小化してしまい、事態の本質が示されないまま一方的な意見を押しつけることになりやすい。TVでは、ラジオの『本気でどんどん』のような手に汗握る番組作りは困難かもしれないが、電話によるインタビューをデータベースへのアクセスに置き換えることによって、謎を解明するおもしろさを実現できるのではないかと思われる。 (8月12日)

  最近、日本の新作ミステリを読みあさっている。質的には、あと一歩というものが多いが、これまでの社会派推理に較べて遥かに楽しめる仕上がりになっているのが嬉しい。
 文学において、ミステリはマイナーなジャンルとされ、批評家から本格的に論評されることは少ない。しかし、狭隘な芸術観にとらわれずに眺めれば、このジャンルが実に魅力的な作品群を擁していることに驚かされる。特に、1930年代の日本において、ミステリに分類される多くの傑作があることは、知る人ぞ知る事実である。例えば、夢野久作は、現実離れした不可思議な事件の中に、ほとんど猥雑なまでの生のエネルギーを描き出し、畢生の大作『ドグラ・マグラ』では、虚構と現実という二分法が成立しないような目眩く世界を創出している。また、小栗虫太郎は、より知的ゲームとしての面白さを求め、一見衒学的な、しかしよく読むとほとんど虫太郎のイマジネーションの産物であるような装飾的な文体を楽しんでいる。もちろん、夢野も虫太郎も、いわゆる“本格推理小説”とは異質の作品を著している。だが、それらは決してファンタジーと呼ばれるべきものではなく、やはりミステリの名を冠するのがふさわしい出来上がりになっているのが興味深い。同時代の他の作家−−江戸川乱歩や久生十蘭など−−についても同様である。
 それでは、こうした幅広い作風の諸作を包含する“ミステリ”とは、一体いかなるものだろうか。私の個人的な見解では、「非現実的な事件とその論理的な解明を軸とする作品」という定義が最もしっくりする。ここで重要なのは、「論理的」というポイントである。実際、虫太郎の『黒死館殺人事件』は、奇怪な人造人間や物理的に不可能なトリックが使われており、全く現実的でない。しかし、作中での解決は、あくまで論理を積み重ねるという形式をとっており、単なる怪奇小説とは一線を画している。そもそも、“ミステリ”という言葉自体が、キリスト教の秘蹟を意味するもので、超常的な現象の背後にある神の意志を示す概念である。これが、一般文学に適用された場合、神のロゴスに代わるものとして、人間のロジックをもってくるのは、実に当を得ていると言えよう。
 個人的な好みを言えば、ミステリの論理性は、「名探偵による犯罪の解決」という形式をとったとき、最も興趣豊かなものに感じられる。これは、おそらく犯罪行為が日常的な諸事象と繋がりを持ちながら、ほんの5cm非日常の世界へと偏倚しているためだろう。欲を言えば、エラリー・クイーンばりに、謎を解決するための手掛かりをあちらこちらに残しておき、われわれがいかにロゴスの表徴を見落としやすいか実感させていただきたいものである。(8月17日)

  人間の婚姻形態は、生物学的な事情によってのみ成立しているのではなく、経済的要因によって大きく左右される。この点について考えてみよう。
 多くの動物は、発情期ないし子供の養育期間だけ特定のパートナーを持つが、それ以外の期間は、単独で、あるいは群の一員として生活している。人類の場合、限定された発情期がなく子供に手が掛かる期間が異様に長いという特殊な事情があるため、末子が親から独立するまでの都合20数年を特定のパートナーと過ごすことは、生物学的にナチュラルに見えるかもしれない。しかし、多くの非産業主義的社会集団において、親が子供の面倒をみるのはせいぜい4〜5年で、それ以降は部族の一員として育てる集団的養育システムが機能していることを考えれば、子供を長期間親元に留めておくシステムそれ自体が、産業主義的な経済体制の産物ではないかと推測したくなる。
 ここで重要なのは、分割不可能な家督を継続していくという制度であろう。農民の場合、農地を子供ごとに分割していくと、次第に労働者一人あたりの収穫が先細りしていくことになるため、資産を相続する人を選別しなければならない。その結果として、正規の相続人を指定する社会的制度が生まれてくる。具体的には、非嫡出子よりも嫡出子を、女子よりも男子を、次男よりも長男を選別する制度であり、これを採用することにより、ほぼ自動的に家督の相続人が一意的に決定される。こうして、家督を守る人が形成する集団としての“家”が、経済体制の最小単位として社会に組み込まれることになり、その構成者である夫婦と長男は、社会内部での自由な移動を禁じられる。こんにち我々がごく当然の婚姻形態と考えている一夫一妻制の背景には、このような社会体制が存在している。
 現行の一夫一妻制が経済体制に由来していることは、こうした婚姻形態が採られていない社会を考察すれば明らかになる。2つの例を挙げよう。第1に、日本の戦国時代において、多くの領主は複数の側室を持ち、子を産ませていた。これは、女子を他の武将に嫁がせることによって血縁関係のネットワークを作り上げるためであり、時代の中で生き残るために採用された独自のシステムである。第2に、サハラ以南のアフリカで見られる婚姻形態を指摘しておこう。西欧的な考え方に従えば、アフリカの民族はきわめて離婚率が高く、男女ともその生涯に複数の配偶者を持つことになる。しかし、これはあくまで一夫一妻制の枠内で解釈しようとした結果であり、むしろ、個々の時点では1対1のペアを形成しているものの、実質的には多夫多妻制を採用していると考えるべきだろう。こうした制度が定着するに至った理由は、アフリカにおける経済体制の中に見いだすことができる。すなわち、アフリカでは、灌漑施設などについての利権の寡占が発生する近代農業と異なり、大規模設備を必要としない粗放的農法を中心としているため、独占権を含む家督を嫡子へと相続させる親族制度は必要とされなかった。むしろ、荒れ地を共同作業によって開墾するために、ある程度の規模の集団が緊密な協力組織を形成する方が好都合である。この結果として、アフリカでの婚姻形態は、血族のネットワークが作りやすいように多夫多妻制の形を取るに至ったのである。
 婚姻形態が経済体制に依存していることから予想されるように、婚姻に関する道徳も、経済状況の変化とともに移り変わっていく。特に、現代日本のように、社会が豊かな生産力を有するに至った場合、市販の工業産物を分配することによって充分に満足できる生活が送れるため、家督の継続性を主眼とする一夫一妻制に束縛される必然性はない。ただし、住宅事情や老親看護の問題が絡んでくると、男女のペアを核とする家族制度が最も安定であることから、一夫一妻制が簡単に崩壊するとも思われない。このため、表面的には夫婦の絆を守りながら、配偶者以外との交渉も行うというライフスタイルが一般化することになる。現在すでに、婚姻前に密な人間関係を形成することは、ごく当たり前の風習となっている。また、婚姻後に配偶者以外と交渉を持つことは、いまだ不道徳と考える人が多いものの、現実には、かなりの頻度で実行されている。筆者は、以前、こうした状況を一夫一妻制そのものが崩壊する兆候と受け取っていたが、今では、単に、変則的な一夫一妻制への移行の過程と解釈している。(9月2日)

  マーラーの交響曲第9番第1楽章について考えてみたい。作曲者が完成できた最後の作品であるこのシンフォニーは、暗い死の予感に満ちた憂鬱な感情の揺れ動きを表しており、中期の作品のような厳格な形式感はない。しかし、近代音楽の伝統の中にいたマーラーが、完全に古典的な形式を放棄したわけではなく、ある程度まで古典音楽の語法で分析することが可能である。ここでは、第1楽章を拡大されたソナタ形式と見なして、構造を分析してみよう。
 この楽章は、チェロとホルンの呼び交わす印象的な導入部で始まり、ついで弦楽器群が短い旋律からなる暗く悲しげな第1主題群を奏する。はじめのうちは、主題が断片的な形で現れるが、各楽器群に受け渡されていく間に1つの主題旋律を形成してくる。その後、音楽は高調し、前進的だがどこか悲壮感を帯びた調子になる。この部分は、ホルンによる輝かしいファンファーレによって中断された後、さらに1つのまとまりとして現れ、第2主題群を形成する。音楽はさらに激しさを増し、最初のピークを作ってから、トランペットによって提示部の前半が締めくくられる。批評家の中には、ここで主題提示部が終結すると考える人も多いが、私は、音楽のコンティニュイティを重視して、もう1度、第1/第2主題群が繰り返されると考えたい。物憂げな第1主題群と悲壮な第2主題群の対照を経て2度目のピークに到達した後、ティンパニの連打によって音楽はその流れを止め、展開部に入っていく。展開部は、ティンパニで区切りをつけられた2つの部分からなり、前半は混沌とした低弦楽器の動きが主題的まとまりを獲得して盛り上がるが、後半は、音楽がどこへ流れていくか不透明なまま、長い移行句を介して主題が再現される。しかし、再現部では、提示部の輝かしさが現れないまま、フルートとホルンのソロに導かれて、異様に長いコーダへと受け渡される。この部分では、ソロ楽器が主題の断片的旋律を奏するが、音楽はしだいに解体され、神秘的な雰囲気を浮かばせたまま静かに楽章を閉じる。 (9月9日)

  月蝕歌劇団による『邪宗門』は、寺山修司のおどろおどろしい近親憎悪の世界を、軽やかな幻想の物語に読み替えた舞台として、それなりに楽しめるものだった。「地獄」をキーワードとし、「時計」や「黒子」にこだわる寺山のオブセッションも、むしろ、舞台効果を高める手段として利用されている。J.A.シーザーの音楽こそ観客の心を揺さぶる原始的な力を感じさせたが、「革命の演劇より演劇の革命を」と叫ぶ寺山の主張とは裏腹に、一種のミュージカルとしての味わいを得ている。もっとも、こうした“軽やかさ”は、寺山の作品をねじ曲げるというよりも、時代的な感性に合致させようとした結果であり、むげに非難すべきものではあるまい。(9月17日)

  現在、西武系の美術館で“東京”をテーマに現代美術の特集が行われているが、中でも、西武シブヤで開催されている『東京〜ハイパーリアル展』は、なかなか興味深い内容だった。美術作品は、常にその時代の人々の意識と結びつけられて機能するものなので、絶対的な美の規範などはあり得ず、一種の虚構として現れる他はない。美の本質は、絵画や彫刻のようなハードウェアではなく、それを契機として生起する諸々の認識過程の中に見いだされるべきソフトウェアなのだ。この意味で、実在しないソフトとしてのハイパーリアルな美術作品が登場するのは、時代の要請として当然の帰結である。特に関心をそそられたのは、指向性の小型マイクで拾った音をヘッドフォンで立体的に再現してみせる機械である。これを使えば、現実にはあり得ない音の広がり──例えば、頭の中を貫通していくような──を自由に構成でき、新しい音芸術の地平を切り開くことが可能になる。また、コンピュータ・グラフィックスも長足の進歩を遂げており、超現実的な映像を作り上げている。(9月20日)

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©Nobuo YOSHIDA