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  昨年、人々の心胆を寒からしめた埼玉の幼女連続殺人事件の犯人・宮崎勤の初公判が、本日開かれた。この事件は、日本では珍しいネクロフィリアの実例として精神病理学者の興味を引いたが、一般人の関心は、むしろ、宮崎が心神喪失で無罪になるか、あるいは、順当に死刑になるかという点にある。
 ここで重要になるのが、犯人の責任能力の有無を判定する精神鑑定である。精神鑑定は、当事者の心理及び知能テスト、脳疾患等を調べる諸々の検査のほか、知人や関係者を通じて、青少年期から異常行動や偏向した性格が見られなかったかまでも調査する。ただし、当然のことながら、こうした鑑定では、犯行当時の精神状態を完全に捉えるのは困難である。精神分裂病やアンフェタミン中毒など、かなりはっきりした症状の現れる疾病の場合はともかく、各種のノイローゼ、過度のアルコール摂取による酩酊といったケースでは、責任能力がどの程度損なわれるか、はっきりとした医学的基準がなく、鑑定医の主観によって鑑定結果が大きく左右される。
 もっとも、最近の裁判では、心神喪失によって無罪の判決が下されるのは、重度の分裂病などごく一部の病状に限定されているようで、精神鑑定を通じて責任能力の減殺が報告されている場合でも、懲役刑が求刑より何割か減ぜられる程度にとどまっている。こうした傾向は、各種の精神病や薬物中毒の予後が一般に悪く、病院で治療した後も再発の危険がつきまとっているという事実によって、助長されるようである。どのみち十分な治療が加えられないならば、刑務所で刑罰に対する恐怖感を与えた方が、社会に好都合というわけだろう。
 確かに、殺人のような重罪を犯す場合、多かれ少なかれ異常な精神状態にあるのだから、心神喪失を安易に認めない傾向にも、確かに合理的な側面があるかもしれない。実際、今回の幼女連続殺人のケースでも、何人かの人が、「宮崎は特殊な人物ではなく、自分も状況によっては同様な犯罪を犯したかもしれない」という意見を述べている。この種の事件を“異常性”という安易な概念枠に放り込んで済ませることは、慎むべきなのだろう。(4月1日)

  先週末、オールナイトで押井守監督の劇場用作品5本をまとめて見たが、彼が現代日本で最も鋭敏な現実感覚を持つ映像作家であることを再確認させられた。これほど優れたアニメーション作家が、メジャー系列の会社では思うように仕事ができず、低予算の劇映画やオリジナル・ビデオを制作していることは、日本映画界の貧困を如実に物語っているのかもしれない。しかし、押井はそうした状況を逆手にとって、低予算や押しつけ企画でなければできない作品を、その鋭い批判精神に基づいて生みだし続けている。そこに、彼の作家としてのしたたかさと豊かさを感じずにはいられない。
 押井守の名が人々の口の端に上るようになったのは、TVの人気アニメ・シリーズ『うる星やつら』のチーフ・ディレクターを担当してからである。4年半続いたこの番組の前半を演出した押井は、最初の半年こそ高橋留美子の原作に縛られて、説明的なシチュエーション・ギャグを羅列するにとどまっていたが、各キャラクターが(声優の力もあって)アニメ独自の個性を獲得するにつれて、次第に獅子の牙を見せるようになる。特に、ディズニーの『不思議の国のアリス』に影響を受けたと思われるテンポの速い爆発的なナンセンス・ギャグに、押井の真価は遺憾なく発揮される。こうした才能は、劇場用にムーブアウトした2本の『うる星やつら』−−なかんづく第2作の『ビューティフル・ドリーマー』で見事に開花した。
 この作品は、既にTVシリーズで確立していたキャラクターを、日常性の崩壊した世界に放り込むことによって、常識的な世界観を覆そうというものである。といっても、決して晦渋な哲学的議論を行うことなく、スピーディなアクション・ギャグの連続の中で表現してみせる。ドラマツルギーに関しても、のっけから繰り広げられるドタバタに腹を抱えていた観客が、次第に「何か変だ」という不安な気持ち催す頃を見計らって、一瞬のうちに事件の核心に引きずり込んでしまう前半の盛り上げ方、あるいは、いくつかの出来事を並行的に描き出してわれわれの常識を破壊していく後半のバラエティと、見事な構成力を示している。
 奇妙なことに、『ビューティフル・ドリーマー』で観客からも批評家からも支持されながら、その後、押井は発表の場を著しく制限されることになる。続いて制作された『天使のたまご』は、ごく一部の劇場でひっそりと公開されるにとどまったが、全編美術作品と言える美しい画面は絶品であった。ただし、現実の閉塞状況を描くという視点は、あまりにありきたりで、ラストの箱船の仕掛けも『ビューティフル・ドリーマー』の亀の背に乗った友引町ほどにはショックを与えない。あるいは、自由に作品を作ることのできない押井のいらだちが、屈曲した表現となったとも考えられる。それ以後も、それまでのアニメの声優たちを出演させた『紅い眼鏡』や、やはり現実の閉塞感を描き出したオリジナル・ビデオ『迷宮物件』など、いまひとつの完成度の作品しか発表していない。
 こうした低迷の理由は判然としないが、押井のライバルに当たり、いまや押しも押されぬメジャー作家となった宮崎駿も、暫く雌伏していた期間があることを考えれば、事業効率のきわめて悪いアニメ業界の体質そのものに起因するのかもしれない。実際、良心的な長編アニメを作ろうと思えば、数億円の赤字は初めから覚悟しなければならないといわれるこの世界で、作家主義的な個性を貫く監督は、扱いにくさの極みなのだろう。ともあれ、ほぼ5年間、押井はその才能を十分に発揮できないまま過ごしてきた。
 そうした不満を一気に解消する傑作となったのが、昨年、松竹系で公開された『機動警察パトレイバー』である。これは、『うる星やつら』と同じく、TV連続アニメの劇場版であり、したがって、キャラクターはあらかじめ設定されている。他の監督には窮屈な桎梏となるであろうこの制約を、押井は逆に好材料と捉え、馴染みの人物が特定のシチュエーションに置かれたときにどう反応するを示した結果、状況そのものを鮮明に浮き立たせることに成功している。特に、作品中で問題としているのが、“現在”の歪みそれ自体であるだけに、この手法は威力を発揮する。例えば、地上げによって廃屋と化した東京の古い家並みの向こう側に超高層ビルが林立する中を、登場人物が謎の男を探し回る姿は、そのまま現在の都市問題を端的に示しているまた、作中で語られるコンピュータ犯罪は、情報化社会と言われながら肝心の情報操作の機構を誰も知らない不気味な現状を反映して、考えさせるものがある。こうした現代劇な視点に加えて、映像表現の面でも特筆すべき点が多い。『天使のたまご』以来の陰影を強調した図柄は、スピーディなアクション表現にとけ込んで味わい深い。特に、冒頭の説明抜きで展開されるバトルシーンの迫力や、あるキーワードによって突如暴走を始めるコンピュータとそれを呆然と見る主人公の対比の強烈さは、出色である。
 押井は、『パトレイバー』の後、一種の不条理劇ともいえる『MAROKO』でがらりと作風を変えてみせるが、この作品には、どこか食い足りない思いが残る。しかし、現代日本で、最も才能あふれる映像作家であることは、間違いない。(4月8日)

  こんにち、経済的な発展を遂げる上で、イノベーションは不可欠である。これは、単に資本主義的な自由競争に打ち勝つのに必要なだけでなく、産業革命以来、環境から一方的に資源を浪費するだけの産業構造を改めていく上でも、欠くことのできない要素なのだ。したがって、従来は消費者の好みの変化に追随するための製品革新が主であったのに対して、近年では、生産効率を上げるための過程革新が、より重要な意味を持つに至っている。
 ここで誤解してならないのが、生産効率の上昇が、即、製品単価の下落と一致しないという点である。今世紀前半のアメリカ工業界では、フォード・システムに代表されるように、ベルト・コンベア方式による大量生産をもとにコストの低減を図ってきた。この方式では、工業製品が安価に大量に得られる反面、工業規格に合致したバラエティに乏しい製品しか製造されない憾みがある。歴史的には、従前の産業構造を改革し、低い水準に抑えられていた労働者の生活を改善する上で重要な役割を果たしてきたが、こんにちのように、最低生活が保障された市民の非・生産活動が増大するにつれて、不満を鬱積させるものである。イノベーションの矛先が向けられるべきは、この大量生産システムそのものであり、結果的に製品価格の高騰をもたらすことになっても、グローバルな観点からすれば生産効率を上昇させることが期待されるのである。
 大量生産システムの欠点は、次のようなものである。大量生産の現場では、労働者はごく限られた仕事を担当し、単調な作業を効率よく遂行しなければならない。この結果、投入された労働量あたりの生産性はきわめて高いものになるとされる。しかし、ここには2つの見落としがある。第1に、労働者が持つ潜在的な能力を過小評価している。簡単な作業を繰り返すのは、複雑な工程をこなすことより容易に見えるが、それはあくまで、非熟練工に限った話である。現場の技術者の中には、工程の無駄を見いだしたり、製造過程の革新を行ったりする能力の持ち主もいるはずで、こうした人材を単純作業の枠内に押し込んでしまうならば、それは人材の浪費以外の何物でもなく、イノベーションのチャンスを自ら失う結果になる。
 第2の問題は、大量生産のシステムが、資源効率を評価していない点である。近代技術は、資本生産性(労働生産性を含む)をアップさせたが、グローバルな観点から資源の利用実績を考えると、むしろ、生産性が大幅に下がっているのだ。生産現場では、環境からエントロピーの低い資源を取り出し、これをエントロピーの高い廃棄物に変えて放出している。これは、言うなれば自然界からの搾取であり、採取・運搬に費用がかかることを除けば環境資源は無料だということを暗黙の前提としている。しかし、資源が無尽蔵で、環境が完全な自浄作用を持っていない限り、こうした生産活動は持続的に行い得ない。消費される環境財を資本のストックとしてバランス・シートに記入した場合、経済活動としての大量生産は、大幅な赤字になっているのである。
 現在求められているのは、このような工業化社会の非効率性を改善するためのプロセス・イノベーションである。このとき、目標とすべきは持続可能な社会の実現だろう。(4月15日)

  レコード業界の発表によると、今後5年を目処としてブラック・ディスク(LP)の製造を中止するという。エジソンの蝋管に代わってレコードが主たる音楽メディアとなって以来、ほぼ1世紀にわたって人々に喜びを与えてきた製品がもはや店頭に並ばなくなるのは、確かに一抹の寂しさを禁じ得ない。マーケットからLPを駆逐したのは、ディジタル録音によるCDである。発売当初は、「音が機械的だ」「小さすぎてジャケットが楽しめない」という声もあったものの、スクラッチ・ノイズがない音の良さ、選曲がボタン1つで実行できる操作性などが評価されて、今では発売される盤の大半、レンタル・レコードのほぼ100%がCDとなっている。
 CDの大きなセールス・ポイントの1つが、その音質の良さであることはいうまでもないが、小0の点について若干補足すべきことがある。CD発売当初には、しばしば、高音がキンキンする機械的な音だという非難が聞かれた。これは、実は、アナログ・ソースの原盤をCDにカッティングした結果で、デジタル録音そのものの欠陥ではない。アナログの場合は、高音を十分に再生する能力がないため、原盤を作る際に、わざと高音をエンハンスして録音しておき、能力が不十分な再生機でちょうど楽しめるようにしてある。したがって、この原盤をそのままディジタルに移し替えて再生すると、高音が強調されすぎて聞きづらくなるのだ。
 アナログ録音に関していうと、機械の性能を考えて録音の仕方を調整する技術は、エジソン以来、さまざまな経験の積み重ねを通じて進歩してきた。そのノウハウの蓄積は膨大なものとなっており、録音の際の楽器の配置からミキシング・レベルの設定、果ては録音テープの磁性体のさじ加減にまで及ぶ。これに対して、CDは「原音に忠実」というコンセプトばかりが先走って、より人間的な技術が追いついていない憾みがある。実際、フルートの音などは、楽器のすぐそばよりも、障子1枚隔てた方がきれいに聞こえると言われる。したがって、これをディジタル録音する場合は、それなりの配慮が必要となる。こうした人間的な技術を開拓しないままCDへの転換を急ぐと、何かとてつもなく貴重なものを失いかねない。(4月22日)

  「平家なり、太平記には月も見ず」とは其角の句だが、確かに「平家物語」の徹底した滅びの美学に対して、「太平記」の世界は、遥かに殺伐としている。あるいは、そこに「太平記」の文学としての完成度の低さを感じる人がいるかもしれない。実際、「太平記」には、しばしば出征した豪族や武家の名前を延々と書き連ねた文章が現れ、鑑賞のためと言うよりは、家系ごとの武勲や忠誠の度合いを記録する役割を担っている。しかし、一方では、武術に長けた侍の勇壮な姿をバロック的な形容を散りばめた装飾的な美文で綴る箇所もあり、読む者を楽しませようとするはっきりした意図が感じられる。「太平記」の面白さは、むしろ、さまざまな要素がゴッタ煮的に配された混沌の中にあるのであって、それが日本史上最も血なまぐさい時代の描写にマッチしているのだ。
 こうしたまとまりのない作品にあって、元弘の乱から南北朝への分裂を描く第1部は、「史記」や「三国志」を彷彿とする勇壮な物語として読むことができるかもしれない。特に、小勢ながら知略をもって大軍を翻弄する楠正成の活躍は、読む者の心を高鳴らせる。しかし、他の登場人物は、あまりパッとしない。本来なら、天皇を護って奮戦し非業の死を遂げるヒーローたるべき新田義貞も、女性にかまけて戦機を逸するエピソードが語られ、死の場面に到っては、文字通りの犬死にとして繰り返し非難がましく述べられている。さらに、足利尊氏となると、(後世の政治的圧力があったにもかかわらず)人間としての器量を疑わせるような描かれ方しかされていない。歴史的にみても、彼が北条氏から後醍醐天皇方へ、さらに北朝を擁立して将軍へと変節を繰り返してきたことは事実である。しかし、好意的に解釈すれば、機を見るに敏であったと言えなくもないこの態度に対して、「太平記」は、一貫して否定的である。そればかりか、戦いで負けそうになると、「自分の兵法の失敗を棚に上げて、朝敵となったので天が味方しないと嘆いた」というように、ややもすれば精神的に弱いアンチ・ヒーローとして描かれている。また、敗色濃厚な戦闘で、何度も自害の準備をしたり出家を画策したりする点も、滑稽さを拭いがたい。
 このような卓越したヒーローの不在は、「太平記」の作者の視点が一定しないことの原因にもなっている。特に、尊氏や義貞が死んだ後の第3部に、この傾向が著しい。例えば、楠正成の次男・正行は、必要な戦いを仕掛けず、不肖の子として非難される。また、新田義貞の子である義興も、人望厚いことを語る傍らで、女好きの性格を暴かれ、知略に長けると言いながら、かちかち山よろしく穴のあいた舟に乗せられて頓死してしまう。優れた人物がいないだけでなく、登場人物はあまりに頻繁に寝返り、時には敵味方の区別すら曖昧になって、侍の道徳など微塵も顧みられない。死を覚悟して打って出ながら、途中でけがをしただけであっさり降伏する者、いったん敵軍に下りながら、相手が闇討ちにあったと錯覚して混乱するとこれを捕虜にとって悠々と自軍に復帰する者など、おこがましい人物は枚挙に暇がない。
 そして、かくも乱れに乱れた世界を時に予兆し時に支配するのが、さまざまな怪奇現象である。歴史的な悲劇の背後には、しばしば人知を越えた力が働いているという見方は、何も「太平記」に限ったことではないが、それでも、本来歴史書であるはずの物語にしては描写が生々しく、また説話集などに比べても人間の無力さが強調されすぎている。こうした歴史観は、数十年にわたって戦乱が絶えなかった時代を目の当たりに見てきた作者の実感かもしれない。しかし、そうした意識が「平家物語」の無常観に向かわなかったのは、まだまだ時代が動乱の可能性を秘め、いざとなったらどの勢力に流れが傾くかわからないという緊張感があったためだろう。世界は変転きわまりないが、その中で人間は強引に生きていかなければならない−−そんな意識が、歴史を操る天狗や怨霊の姿を生み出したのかもしれない。
 こうした混乱に何とか論理を与えようとする作者の意図は、煩わしいほどの挿話となって現れてくる。英雄らしき人々が活躍する第1部には、サイド・ストーリーはあまりみられないが、情勢が混沌とする後半になると、にわかに故事来歴の引用が頻繁になり、しばしば巻の過半を占める。おそらく、作者としては、透徹した歴史観の下に論理的連関のある挿話を選んできているつもりなのだろうが、後世の読者からみると、ストーリーが中断されて退屈なだけである。いかに豊富な教養があろうとも、戦乱の世にことわりを見いだすことが困難だったということか。
 歴史の流れに対する無力感が最も明確に表現されているのは、おそらく全巻の最終節だろう。ここで作者は、将軍に幼少の足利義満が立って、漸く戦乱が収まったことを僅か1行で記している。と言うよりは、それ以上のことが書けなかったに相違ない。実際、義満政権は長い戦乱期における短い平和のエピソードにすぎないのである。そうした歴史を見つめる作者の目は、もしかしたら、現代にまで及んでいるのかもしれない。(5月6日)

  最近頻発している“異常”犯罪に関するマスコミの報道姿勢について、考えてみたい。埼玉の幼女連続殺害事件にしても、綾瀬の女子高生コンクリート詰め殺人事件にしても、連日、新聞やTVで派手な報道合戦が繰り広げられ、否が応でも人々のセンセーショナルな関心を煽ってきた。このとき、報道の姿勢として、犯人がいかに異常であるかを強調し、その異常さの原因を明らかにしようとする傾向が顕著だった。しかし、報道の熱気が去った後で検証してみると、これらの事件の犯人は、一部マスコミが書き立てたほど異常な人間だとは思われない。例えば、幼女殺害犯の宮崎は、自宅に6000本のビデオを所有していたというが、これは、未整理のまま録画したビデオを放置しておいたもので、単なる杜撰なビデオ収集家の姿に他ならない。しかも、彼のビデオ・コレクションの中で、ホラーやロリコン物の占める割合は、それぞれ1%以下であり、このジャンルの隆盛ぶりを考えれば、ノーマルと言える範囲である。にもかかわらず、多くのマスコミが、現実と虚構の境界が曖昧になった人間という類型的な犯人像に飛びつき、ホラーやロリコン・ビデオの法的規制まで唱える有様だった。こうした報道の背後には、自分とは異質の人格に悪業を押しつけることによって安心感を得たいという大衆心理があり、マスコミに利用される似非文化人の発言がそれに輪をかけたと考えられる。(5月13日)

  先週、日本人の実業家(斎藤氏)がサザビーズのオークションでゴッホの『医師ガジェットの肖像』とルノワール『ムーラン・ド・ラ・ギャレット』を、それぞれ120億円あまりで落札したというニュースが世間を賑わした。優れた美術品が日本に来ることには必ずしも反対しないが、美術愛好家として必ずしも心から喜べない。以下、その理由を説明しよう。
 はじめに注意しておくが、ヨーロッパの美術を日本が購入すること自体が文化摩擦になるとは思わない。19世紀末には、日本の優れた美術品が大量に欧米に流出し、ジャポニズムの興隆を生んだという歴史的事実もある。また、第一次大戦後、ろくに文化も創れない成金国家と陰口を叩かれたアメリカが、いまのジャパン・マネー以上に恐れられていたアメリカン・マネーを使って、革命後の経済的苦況に喘ぐソ連から、エルミタージュの秘宝などを大量に買い付けていった経緯もあるが、結果的にはメトロポリタンやボストンの美術館が充実して、アメリカ国民や観光客に大きな喜びを与えるに至っている。日本の場合も、いまや日本一国ではなくアジア各地から観光客の訪れる文化センターとなっているので、欧米の優れた美術品を揃えておくのは、間接的な文化交流として有意義である。
 今回のゴッホ、ルノワールの高額落札が孕んでいる最大の問題点は、美術品マーケットを混乱させるという点である。既に落札した斎藤氏自身、予定より50億円ほど高かったと述べている。このような相場を無視した落札は、オークションの常とはいえ絵画相場の高騰を招く。
 美術品の価格がつり上げられることは、一般の美術愛好家にとってさまざまな意味で好ましくない結果をもたらす。何よりも、美術が公共の財産であるという意識が薄れ、投機の対象とされることが恐ろしい。現に、サザビーに訪れる日本人バイヤーの多くは、株式市場から流れてきた投機目的の人らしい。こうして、投機目的で売買された美術品は、公開されずに人々の目から隠されるばかりか、不適切な管理によって損傷する危険がある。特に、日本画のように保管の難しい作品については、危惧の念を禁じ得ない。
 投機目的での価格高騰策が続けば、多くの美術館は作品の蒐集に困難をきたす。美術館の中には、オークションを介さず、保有者との直接交渉により市場価格の数分の一で購入を進めているところもあるが、それにも当然予想される困難がつきまとう。さらに問題なのは、美術品の市価が高まるにつれて、保険金が高額につくことである。現在、どの美術館でも、収蔵作品の評価額は、市価に比べてかなり低めに抑えられている。これは、美術品を貸し借りして展覧会を開催する場合、保険金が余り高くならないように意図的に操作している結果である。もちろん、盗難にあったときには大損害になるが、相手側が十分な管理を行うという紳士的な信頼関係が築かれているのだ。ところが、これほど市価が高くなると、どうしても保険金も引きずられて高騰し、美術展の開催が困難になる危険がある。
 このように、美術品の高額落札は、美術を愛する者にとっては、迷惑きわまりない蛮行である。
 そもそも、今回の落札騒ぎは、斎藤という実業家が、ゴッホとルノワールの作品に惚れ込んで、金に糸目を付けずに手に入れようとした結果、起きたものである。それでは、なぜゴッホでありルノワールであるのか。この二人は、ちょうど明治開国期の泰西流行作家ということで、たまたま日本人の舶来嗜好に合致したにすぎないのであって、西欧絵画史上に抜きんでた画家ではない。その作品に、併せて240億円も支払うとは、いかにも趣味の悪い成金のしそうなことで、美術に対する純粋な愛好心の現れとは考えにくい。戦前の財閥は、優れた美術品を蒐集して独自のコレクションを築いたが、その中には、当時、必ずしも高い評価を得ていないものも含まれていた。真の美術蒐集家にとって最高の夢は、無名時代の大画家を発見することだと言われるが、一流のコレクターは、確かにそれだけのことを実現している。例えば、出光美術館のもとになった出光コレクションは、仙崖や波山など、かつては一部の“通”に好まれた作家の作品を系統的に集めている。しかも、決して手当たり次第ではなく、ルオーやサム・フランシス、仁清からイランの壺に至るまで、趣味の良さが一貫している。既に散逸してしまった安宅コレクションや松方コレクションも同様である。賢明な金の使い方をすることが、金持ちの責務であり、己の悪趣味を満足させるために金を使うのは、悪しき成金以外の何者でもない。せめて、240億もの金の1割でも使って、新人画家の育成を行った方が、遥かに世のためになっただろうが、斎藤氏にはそれほどの見識はないだろう。せめて、自分の死後は、ゴッホとルノワールを美術館に寄付するほどの良心がほしいものである。(5月21日)

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©Nobuo YOSHIDA