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  芸術とは art ──すなわち技術の成果である。技術を抜きにした美の表現は、人に一時的な感興を催させるかもしれない。ちょうど、砂丘の風紋が、全くの偶然の営みによって、目にも鮮やかな造形を示すときのように。しかし、これはあくまでただ一瞬の慰みにすぎず、人間の本性に迫る永続的な(というよりはむしろ非時間的な)ものではあり得ない。人を心の底から感動させるには、技術の錬磨が絶対的な必要条件となる。
 なぜ、技術がなければ芸術が成立しないのか。それは、個々の人間に実現できる成果がたかが知れたものであり、多数の協同作業と共通の認識基盤を用いなければ、日常生活の桎梏から脱するのが困難だからである。実際、人間は、地球上の生物種の中では、際だって多様性の乏しい生き物であり、犬のように体型や習性の変異がみられず、どの人間も同じように生活をしている。特に、都市文明の中では、画一化の圧力はきわめて巨大である。このため、人間が自己存在の本質をまさぐるための発想の飛躍は、一人の人間がいかに呻吟したところで、文明という観音様の手のひらから逃れられない。もし、何か新しい発見をしようと思うならば、文明の中に非=生産的な営為の場を設け、そこに大勢の人が活動できるように工作しなければならない。芸術とは、このような場ではじめて成立するものである。
 それでは、なぜ今世紀において伝統を破壊する“個性”が、これほどまでに芸術の本質として声高に主張されるようになったのだろうか。一つの理由として考えられるのは、19世紀において工業が急速な発展を遂げた結果、大量生産による規格品が社会に溢れるようになり、これに対する反発心が芸術家の間で高まったという状況である。これに加えて、安定した資本主義社会が、ブルジョア的スノビズムに迎合した似非アカデミズムを生み出し、芸術が一般市民に理解可能な形式の中に押し込められるようになったことが指摘できる。ただし、こうした“歴史的説明”がどの程度妥当なものか、いささか心許ない。実際、アカデミズムの権化であったアングルと、これに反旗を翻したドラクロワとでは、どちらがより“個性的”かと言えば、主題の選択や表現にロマン主義的歴史観を反映させ続けざるを得なかったドラクロワに、必ずしも軍配を揚げるわけにはいかないのである。
 社会が押しつける規格に対して反発するのは、常に自由人の特権であり、芸術家が“規格外”の作品を生み出すことを志向するのは、一見自然な営為のように思われる。しかし、そこに芸術の堕落という危機が待ち受けていることも、忘れてはならない。なぜなら、芸術が個々人の反発心を具体化したものにすぎないとすれば、そこから読みとれるのは、冷たい孤立した心でしかなく、作品を契機として構成的に思考を拡げるという芸術本来の役割が機能しなくなるからである。例えば、マルセル・デュシャンの「泉」は、芸術は非日常的なものであり、生理的行為の“汚らしさ”から切り離されねばならないとする従前のアカデミックな思想を嘲罵することに成功した。しかし、この作品自体は、そうしたデュシャンの反アカデミズム感情以上の何物でもなく、これを見る人に、豊かな感動はもちろん、産業主義社会の画一性に対する疑念すら引き起こせない。芸術史的な意味でターニング・ポイントたり得たとしても、作品の芸術的価値は皆無なのである。ピカソの「アヴィニョンの娘」にしても、アフリカの伝統芸術をダシにして、近代美術に対する反感を露わにしたものでしかなく、同じ作者の「軽業師の一家」がリルケをして「ドゥイノ悲歌」を生み出さしめたような創造的要素に乏しい。確かに、アカデミズムから逃れて自己を見つめることによって、それまで見逃してきた“些事に宿る美”を発見する可能性が拓かれたことは事実である。しかし、そうして見いだした美を自己の手持ちの表現枠の中で捉えていたのでは、他者に感動を伝えることはできないだろう。いやしくも芸術が何らかの意味での“共感”を基盤とするものであるならば、他者にとっても理解可能になるための指標を設定しなければならず、これを実行する上で必然的に技術が必要になるのである。
 芸術における技術は、決して手段の域を超えてはならないと言われる。しかし、成熟した形式にあっては、技術的な作業が新しい表現を生み出していることも、また事実である。マーラーの交響曲が与える感動は、あくまであの複雑なオーケストレーションが支えているのであって、曲の構成や主旋律をなぞっただけでは、単なる愛すべき大曲に堕してします。おそらくマーラーのインスピレーションは、オーケストレーションのさなかにあって、最も活動的だったと思われる箇所が、第6交響曲のフィナーレなど随所に見いだされる。近年の風潮として、芸術を個人的な意匠の発現の場と見なす傾向があるが、これは、芸術の堕落に結びつく危険を強く感じさせる。(1月7日)

  日本文化において最もアクティブなジャンルは何かと問われて、70年代においては小劇場演劇と少女漫画だといういささか類型化した答え方が許されるならば、80年代に日本文化の牽引車的役割を果たしたのは、日経新聞とNHKだと言って良いだろう。いずれも、現在進行中の社会の情報化を反映して、データベースの整備と専門部門の独立化および相互活性化をもとに、すぐれた作品(記事/番組)を制作している。このうち、日経に関してはいずれ改めて論じることにして、ここでは、NHKについて考えてみたい。
 NHKの最も優れた作品は、多額の資金を投じた単発の特集番組と、地道な取材の積み重ねが物をいう定時番組の双方に見られるが、前者は後者があって初めて成立するものであることを忘れてはならない。優れた定時番組の一例として、「おはようジャーナル」を取り上げよう。これは、主として主婦層を対象にした情報番組だが、家庭の問題を切り口として社会の本質に迫っていく取材力には脱帽させられる。例えば、土地問題をテーマにした回では、実際に値上がりの著しい地域の不動産屋を訪ねて、具体的な価格の変化などをチェックしており、身近な社会問題としての土地高騰をわかりやすく示している。しかも、その際にも、通勤時間やローンの返済が家庭にどのような影響を与えるかという“生活人”の感覚を失っていない。
 このような番組として、他にも「あすの福祉」「おかあさんの勉強室」「くらしの経済セミナー」などがあり、いずれも地道な取材に裏打ちされている。このような優れた定時番組が、予算をかけた特集番組を支えていることは、例えば、昨年の障害者の日に放映されたNHKスペシャルを思い起こしてみればわかる。このとき登場した障害者は、特に目立った社会活動をしているわけではないので、特集にあわせて探し出してきたのではなく、おそらく「あすの福祉」などの取材を通じてあらかじめ接触していたと思われる。このような制作態度は、NTVの「24時間テレビ」のような、見るからに悲惨な現場に女優を連れていって涙ぐませてみせる浮ついた表現と、鋭いコントラストをなしている。
 さらに、特筆しなければならないのが、専門家との密接な協力関係である。それも、大事件が起きてから泥縄式にコンタクトを取るのではなく(民放の中には、例えば三原山の大噴火があったとき急ごしらえで専門家を調達したため、かなり的はずれな議論を放映した局もある)、通所の連番において、専門家との協力の下に番組を制作するという体制が確立している。例えば、「トライ&トライ」のようなファミリー向け番組でも、あらかじめ国立研究所などど精緻な実験を行っており、安易な思いつきの紹介を避けている。中でも、「歴史誕生」や(既に終了しているが)「サイエンスQ」のような番組は、専門家でも驚くような本格的な掘り下げを進め、映像歴史学とか映像社会学と呼ばれ得るジャンルを生み出している。また、「ETV8」では、文芸ジャンルを中心に、現代文化の現状をありのままの姿で見せてくれる。この「ありのままの姿で」という制作態度は、現在の放送界にあっては貴重なものである。もちろん、ナマの情報は往々にしてあまりに現実に接近しすぎて時代の相を正しく反映していないうらみがあり、これに制作者側が色を付けて視聴者に的確な解釈を可能ならしめる作業は必要である。しかし、時代に対してワン・クッションおいている学芸の専門家が活動している領域では、TVマンの狭い視野の中に無理矢理押し込めようとすると、物事の本質が見失われやすい。「ETV8」では、そうした愚を避けるため、専門家の言動をできるだけ編集せずに提示すべく努めている。それだけに、現場のナマの姿が伝達されていて、好感が持てる。特に、「授業」や「聞き書き・庶民が生きた昭和」のシリーズは、近年のTV番組中の傑作と言えよう。
 このように、地道な取材と専門家との連携に基づく制作態度こそ、80年代におけるNHKの興隆を支える礎石だった。民放の特集番組が、えてして人目を引く題材に関して、一般庶民レベルの発想に基づく意見を提示するのにとどまっているのと対照的である。特に、「NHK特集」あるいは「NHKスペシャル」という番組枠で、スタッフを固定せず、各部署から内容を募集しているため、当事者が積み重ねたデータに依拠する充実した番組づくりが可能になっている。
 もっとも、80年代後半には、NHKはややマンネリズムに陥りつつあった。例えば、「シルクロード」の成功に気を良くした制作部は、「大黄河」「海のシルクロード」という“秘境探検番組”を連発して、アジア文化の実状を正当に把握していないとの批判を受けるに至った。これに応えるべく、今年度からは、新たに「北極圏」という大型プロジェクトを発足させ、ソ連の現状に深く立ち入った、従来の秘境ものとは一味も二味も異なるドキュメンタリーを作り上げている。また、民放の成果を取り入れて、大型の討論番組も企画している。こうした状況を見るにつけ、90年代もNHKが日本文化の最良の部分を形成していくことは間違いなさそうである。(1月14日)

  開発か自然保護かというように社会的に利害関係が入り組んでいる問題について、最良の決定を下すための科学的な評価法が存在するかどうかを考察する。議論を明確にするために、公共の目的によって必要とされる巨大施設を建設する候補地の選定方法について考えよう。
 こうした施設は、多くの場合、地域住民にさまざまな不便をもたらす。特に、立ち退きを要求される住民の場合、事態は深刻である。また、森林資源や水資源の破壊が生じることもある。このように、諸々のデメリットがある施設は、その建設に伴う被害を最小限にとどめるように建設地を選定しなければならない。しかし、住民はいないが貴重な原生林を持つ地域と、既に開発されているが住民の反撥が予想される地域と、どちらにダムを建設すべきか決断するに当たって、何を判断基準にできるだろうか。
 1つの方法として、有益性という単一尺度を導入し、これが最大になるような選択をすることが考えられる。この尺度uは、地域の経済成長や自然破壊の関数として定義されなければならない。問題を簡単にするために、施設のもたらす利害が、すべて独立なパラメータxiで表されるとしよう。これは、きわめて厳しい制約を課す仮定ではあるが、理論的に自己矛盾するものではない。具体的には、破壊される森林面積をx1、施設の経済波及効果に起因する成長率をx2…と置く。これらのパラメータが独立だという仮定は、有益性uが因子化できることを意味する:u=u1(x1)・u2(x2)…。さらに、xiの値を、現実に存在するいくつかの候補地の値に制限する。このとき、xiはあまり極端な値にならない(ダムの候補地として、知床の原生林を破壊する場所を選ぶことは考えにくい)ので、線形近似が許されるとしても良いだろう。xiを正規化すれば、ui(xi)=1+uiiと置かれる。こうして、問題は係数uiを決定することに帰着される。
 uiを決定するには、2つのパラメータxjとxkの値が異なり、他のすべてのxiが等しい2つの(仮想的な)候補地のどちらが好ましいかを、国民の意識調査を通じて明らかにする方法が有効である。例えば、他の条件が全く同じである場合、森林500haを伐採するが50億円の収益が見込めるケースと、森林破壊は100haにとどまるが、建設費が高くついて収益が10億円しか上げられないケースのどちらが良いと思うかを問い、その回答から係数uiを決めていくのである。
 ただし、こうした意識調査において、長期的な視野をもった専門家の意見をどこまで尊重するか、実際に利害関係が発生している地域住民の意見に何らかのウェイトを付けるべきかどうかという問題が生じる。有益性の計算をする際の仮定の多さと考えあわせれば、この方法では、ごく大ざっぱな目安が与えられるだけだろう。(1月18日)

  先日ラジオを聴いていたら、なぜ性器は醜悪なのかという疑問が取り上げられていた。確かに、性器は必ずしも美しいものとは考えられていないようだ。近代ヨーロッパの美術作品では、女性の陰毛や性器が描かれることはなく、男性のそれも(ミケランジェロの壁画が修正されたように)何らかの方法で隠すケースが多かった。また、男性性器の場合、たとえ描かれたとしても、成熟した裸茎ではなく、少年期の包茎の形で表されるのが一般的である。このことは、古代ギリシャの壺絵において、明瞭に観察される。もちろん、地方によっては、陽物崇拝の対象としてペニスをかたどった彫刻を飾るところもあるが、これはあくまで豊穣を祈る進行の対象として見ていたのであって、日常生活においても楽しめる美しさをもったものではない。さらに、花は性器としての美しさを愛でられた訳ではなく、品種改良によってバラの花弁が女性性器に似たものになったことも、必ずしも意図的な成果ではないのだろう。
 それでは、なぜ一般的に人々は性器を醜いと感じるのだろうか。近代においては単に「見慣れない」という要素もあるだろうが、それ以上に、性器の形状に問題がありそうである。特に、陰毛の存在と襞の多さが、素朴な美的感覚に反するようだ。実際、多くの画家は、(特に女性の体を描く場合に)すべすべした滑らかさを強調しているし、文献的にも(例えば楊貴妃の描写で)皮下脂肪の多い柔らかな肉体が好まれている。こうした滑らかさを好む傾向は、次のような理由に起因するものと考えられる:(1)人間は先天的にパターンの識別に便利な簡単な図形を好む;(2)シワは老化の象徴として嫌悪される;(3)男性社会においては、女性の特徴である皮下脂肪の多さが性的魅力となる。滑らかな状態が美的観点から一般的に好まれるとすれば、陰毛や襞を伴う性器が醜悪感をもたらすことは納得できる。
 男性性器に関しては、この他にも、機能面での不都合さを指摘することができる。すなわち、熱に弱いという理由だけで急所となる睾丸を外部に露出しているため、外敵に襲われやすく、運動をする上でも障害となる。排尿器と同居しているのもマイナス要因である。こうした“厄介者”としての側面が、美的感覚に抵触しているのかもしれない。

  アンドレ・マルローは、知的な楽しみとして、古今の名作を好みによって集めた「空想美術館」を構想することを提唱している。
 戦前の日本には、財閥による優れた美術コレクションがあり、個々の作品の質だけではなく、収集された美術品に通底する特質からコレクターの美意識なり鑑識眼なりが伺えて、興味をそそられたものである。例えば、安宅コレクションにおける御舟と唐三彩の取り合わせは、絶対的な美の追究という姿勢を鑑賞者に印象づけるし、仙崖と波山、ルオーとフランシスを並置する出光コレクションは、コントロールされた美意識の品の良さを思わせる。しかし、多くの美術品は、歴史的な事情によって所有者が決定されており、価格が高騰し続ける現在にあっては、一定のコンセプトのもとにコレクションを気づくのは困難である。そこで、せめては空想のうちで好きな作品を集めてみよう、というのがマルローの意図である。もっとも、これは決して消極的な試みではない。空想の中で作品をつきあわせてみてこそ、イマジネーションの火花が散ることも十分に期待できるからである。
 という訳で、私も自分なりの好みで美術品を集めてみよう。私の「空想美術館」の入り口に掲げられるのは、レオナルド・ダ・ヴィンチの『聖ヨハネ』である。暗い背景から浮かび上がるアンドロギュヌス的なヨハネは、キリスト教の聖者というよりは、はるかに蠱惑的な存在であり、人々に怪しげな気分を催させる。それは、およそ美というものの反社会性の象徴である。最初の部屋は、この雰囲気の中で異境的なエロティシズムを盛り上げるべく、両側の壁に、コレッジオに『レダ』とギュスターブ・モローの『サロメ』を掲げ、中央にドナテッロの『ダビデ像』を置いている。いずれも、人間の肉体が現実以上に人々を引き寄せる輝きをもって表現されている。その悪魔性は、ルネサンス初期のドナテッロには明瞭には現れていないが、後期のコレッジオになると、はっきりと意識され、19世紀のモローはその中に埋没する。こうした危険な魅力に満ちあふれた部屋の掉尾を飾るべく、出口のところには、余りに妖艶なパルミジアニーノの『長い首の聖母』が置かれている。
 次の部屋にはいると、華やかながらも宗教的な重々しさを含んだ作品が集められている。戸口の上には、ラファエロの『キリストの変容』がある。ラファエロは、近代に入って不当に過小評価されているが、その技術力は端倪すべからざるものがある。特に、彼の遺作となったこの作品では、晩年にみられたマンネリズムを脱却して、キリストの神々しさを表現することに成功している。部屋の中央部には、向かい合わせにティントレットとダリの『最後の晩餐』が掲げられている。天使が空に舞い使用人が食事の用意をする・世界で最も騒々しい晩餐と、透明なキリストを中心に12人の使徒がひたすらに祈り続ける世界で最も静謐な晩餐。しかし、これほど対極的な作風でありながら、信仰を客体化しようとしながら肉体的な憧憬を禁じ得ない作者の心情には共通項がある。部屋の出口の上には、レンブラントの『ヤコブの祝福』を見ることができる。この絵については、何も言うまい。妻や子に先立たれ、貧窮のうちにあったレンブラントが、なお全てを赦そうとする悟りの絵である。
 次の部屋は十字形をしており、それぞれの奥まった部分に絵が掛けられている。向かい合った絵の一対は、フリードリッヒの『ドレスデンの大猟場』と速水御舟の『炎舞』である。この2枚の作品は、いずれも自然を対象としながら、作家の創造力がひしひしと伝わってくる。画家の多くは、自分が画を描く理由について思いめぐらすことなく、世間が認める画家としての地位に安住して、画材になりそうなものを探すことに余念がない。だが、フリードリッヒも御舟も、画家としての自恃の念が対象となる自然を激しくゆがめており、そのデフォルメーションの中に画家としての存在意義を見いだしている。例えば、『炎舞』に描かれた昆虫たちは、触角から足に至るまで丹念に細密描写されており、死骸を模写したことは一目瞭然である。しかし、だからと言って御舟の技量が稚拙なわけではなく、むしろ、写実の極致を通り越して自然にはあり得ないリアリズムに到達しようとする画家としての探求心が、胸を打つ。同様に、まるで魚眼レンズを使ったように湾曲した『ドレスデンの大猟場』も、風景画を描くことが単なる事実描写でも、あるいはまた個人の思いつきに応じて独善的にあつらえた装飾でもなく、自然界を構成的に眺めながら、その成り立ちを透徹した観察力でキャンバスの上に表現する過程であることを思い知らせてくれる。
 十字の部屋に掲げられたもう一対の作品は、人間を主題とした絵画芸術の極致を示すもの−−すなわち、フェルメールの『ミルクを注ぐ女』とヴェラスケスの『フェリペ四世』(エスキス)である。フェルメール作品の静謐さは何に由来するのだろう。部屋の中に戯れる光は、淡いオランダのものであると同時に、些事に永遠の彩りを添えるライムライトだ。ここに描出された光景は、ごくありきたりの日常茶飯事であり、それ自体に何の価値もないように見える。しかし、いかなる些細な出来事も、それが人間の心に映じる現象である以上、ちょうどプルーストのマドレーヌ菓子のように、人生の全体験に結びつく可能性を秘めており、それ故に、他のあらゆる瞬間と等しい価値を担っている。フェルメールの作品は、人をそんな哲学的瞑想に引き込む魅力を持っている。そして、ヴェラスケスの『フェリペ四世』−−。絶頂期を過ぎて次第に頽廃の道を歩み始めたスペインの状況を反映してか、その容貌はいかにも疲労の色が濃く、どこか哀愁を帯びている。それは、最高の権力も所詮は砂上の楼閣に過ぎないというお定まりの諺を越えて、人間存在自体の寂寥感を表している。
 この部屋を出ると、2体の立像が対峙する空間に迎えられる。一方の隅に置かれたサモトラケのニケ像は、飛翔する人間精神の自由を象徴し、他方に佇む薬師寺東院堂の聖観音は、世界を観照する人間の叡智を感じさせる。いずれの像も、人間の肉体の美しさを基本にしながら、その上に薄物をまとうことによって、流れるような衣紋の効果が輝きを添えている。古代ギリシャの彫刻家やミケランジェロが、裸体にこだわるあまり次第に表現の幅を狭めていったのと対照的に、人間の偉大さは肉体の上に付加されたものの中にあることを教えてくれる。
 空想美術館の出口には、レオナルドが赤チョークで描いた自画像が掲げられている。入り口の『聖ヨハネ』が天を指さしながらあまりにコケティッシュなのに対して、己れを見つめたレオナルドの姿は、遂に崇高さを表現し得たと言って良いのだろうか。いずれにせよ、レオナルドに始まりレオナルドに終わる私の空想美術館は、自分の感性を信じて集めたかけがえのないコレクションである。(2月11日)

  岡本喜八は、戦後の日本監督の中では、職人芸的なヒット作メーカーに数えられるかもしれないが、どうしてどうして強烈な自己主張をもった作家である。彼の資質は、いわゆるアクション映画に鮮明に発揮されるが、それは胸をすく爽快さではなく、むしろ巨大な力を前に暴れまくる無謀さの産物である。例えば、『血と砂』の三船敏郎は、武器を手にしたこともない楽士の少年たちを巧みに操って、最小の被害で的の砦を奪取するが、援軍のないまま逆襲に逢い、終戦の日に全滅してしまう。こうなると、砦を奪ったときの一時的な快感の虚しさが、逆に強調されるわけだ。『どぶ鼠作戦』においても、ラストは勇壮な突撃シーンになっているが、そのまま主人公たちが戦死することは不可避である。こうした虚しさの漂う無謀さが、岡本アクション映画の基調となっている。(2月24日)

  女性の社会進出を考えるとき、家庭と社会をある程度まで二項対立的に捉える必要がある。日本の場合、家庭内での女性の地位は、戦後著しく向上し、おそらく世界でもトップクラスに位置すると思われる。実際、「主たる収入を得ている夫が、給与の全額を妻の管理に任せる」ことがごく当たり前の風習になっている国は、日本以外にはほとんどないだろう。また、子供の教育問題や、住宅・家具などの高級品の購入に際しても、主婦の発言権は充分に高い。にもかかわらず、日本の女性が、一見安楽に見える家庭を出て、社会へと向かう背景には、何があるのだろうか。おそらく、現在日本で進行しつつある社会のサービス化が重要な鍵となっているのだろう。
 従来の工業化社会においては、経済の基幹をなすのは、規格化された商品の大量生産であり、こうした規格品の消費を支えていたのが、定期的なベースアップによる最低賃金の保証であった。したがって、社会は全般的に画一化が進展し、ライフスタイルは驚くほど均質化するにいたった。しかし、各種技術の発展に伴う生産効率の向上は、大量産品を各消費者に分配するだけでは足りず、従前の社会構造のままでは供給と需要の不均衡を生じてしまう。その結果訪れると予想される不況を避けるため、近年においては、付加価値に基づく差異化を押し進める方向に社会が変革されつつある。有り体に言えば、能力のある人間が高級を取得し、これをもとに個性的なライフスタイルを採用するのである。女性の社会進出も、こうした社会的風潮の中で解釈する必要があるだろう。
 例えば、一家の主婦が食事を作らず、出来合の惣菜を購入するとしよう。経済学的にみると、これは、家庭内で行われ経済統計に現れなかった料理というサービス行為が、経済活動の枠に組み込まれることを意味する。したがって、財の生産という観点からみると、それほど大きな変化はない。むろん、外部に委託した分だけ効率的な調理が望めるが、家族の健康状態に見合った適切な栄養配分が困難になるというデメリットがあり、功罪相半ばする。家庭内労働の外部委託化という社会傾向の本質は、むしろ、“主婦”というステロ化した役割分担を解体し、再構成する過程にある。
 ただし、こうした過程が、社会全体にとってプラスになるかどうかは、別問題である。確かに、従来アンダーグラウンドで遂行されていた(家事などの)行為が表面化すれば、数字の上ではGDPの増大をもたらすが、それが生活水準の向上に通じるかどうかは疑わしい。むしろ、女性の潜在能力が、受付嬢のような非効率的な職種や、カルチャークラブなどの純粋消費に費やされる危険を感じる。むろん、長期的には女性の社会進出は好ましいことと考えるが、受け皿ができるまでの十数年間は、必ずしも生活水準の向上には繋がらないと予想される。(2月25日)

  エルマンノ・オルミ監督の『聖なる酔っぱらいの伝説』は、静かな崇高感を湛えた秀作である。何よりも、主人公にルトガ・ハウアーを起用したことが、好結果を生んでいる。ストーリーからすると、飲んだくれの男がコミカルな状況に巻き込まれるという設定なので、もう少し気の良さそうな俳優に向いているとも思える。しかし、この役を、美男で偉丈夫のハウアーが演じたことにより、まるで宗教的な犠牲を捧げるかのような厳粛さが生まれたのである。偶然の織りなす一連のハプニングも、滑稽感よりは、まるで何か超越的なものの意志が作用しているかのように描かれている。それだけに、ラストシーンは、まるで昇天の光景を思わせるほど感動的である。(3月2日)

  最近発売されたファミコン・ソフト「ドラゴン・クエストIV」は、総売上が500万本にも達しようという超ヒット作となり、発売当日のフィーバーがマスコミでも盛んに取り上げられていた。こうした風潮に批判的な人も少なくないだろうが、ディスプレイ上で繰り広げられるゲームのおもしろさを考えれば、小中学生が熱中するのも当たり前かもしれない。私自身、「ザナデュー」に始まって、「エリュウシオン」「マイト・アンド・マジック」「ウルティマIV」と立て続けにRPGを渉猟し、現在は、パズル・ゲームの要素を加味した「ダンジョン・マスター」に挑戦中である。この種のゲームは、ほとんど麻薬的な作用があって、一度始めると、余程の意志の力がなければ止めることが叶わず、夜を徹してディスプレイに向かったことも1度や2度ではない。
 なぜRPGは、これほど人を熱中させるのだろうか。消極的に考えれば、人間関係が複雑で精神的ストレスの溜まりやすい現実からの逃避を目指しているともいえる。しかし、もう少し積極的な意味づけを行い、将来において新たな芸術的創作の場となる可能性を模索することも、不可能ではあるまい。こうした観点から、RPGのおもしろさの根拠を考えてみよう。
 単純に考えると、RPGでプレイヤーは、現実の世界では体験することのできない役割を演じるとされる。それは、多くの場合、怪物や妖魔の蠢くファンタジーの国で失われた財宝や囚われの王女を取り戻す英雄の役である。こうした人物設定は、ゲームに付属した冊子にかなり詳細に説明されている。しかし、実際にゲームを始めると明らかなように、プレイヤーは必ずしもこの役割を意識しないでゲームに没頭しがちであり、非現実的な役割を演じられることが、RPGの魅力になっているわけではない。むしろ、ゲームに設定されているさまざまな謎を解いていくことの方が、遥かにおもしろく感じられる。ここに、RPGの秘密がある。単なる謎解きのパズル・ゲームでは、個々の問題は内容的にも単純で、また特定の知識や技能を偏重することが多いため、飽きがきやすい。これに対して、RPGでは、パズルを解くために必要な戦略が、主人公に与えられた目標に沿って、合目的的に構想できるようになっている。
 こうした事情は、いわゆる“本格”推理小説と共通している。推理小説は、読者に謎を提示して解答を迫る文学の形式である。謎の解決は必ずしも現実的である必要はないが、読者にアンフェアだという感じを抱かせてはならないとされる。このため、謎とその解答の間には、読者が辿ることの可能な論理の繋がりが必要となる。例えば、毒薬がすべての人に行き渡るように仕向けられながら、ある特定の人物にだけ致死量以下になるように按分されていた場合、この人が犯人ないし共犯者と推定されるに足る証拠があると見なされるのであって、現実には、致死量の1/3以下の毒で死ぬ人もいれば致死量の3倍投与してもケロッとしている人もいるという事実は、不問に付される。致死量以上の毒薬は死をもたらし、それ以下なら安全だというのが、推理小説を読む上での前提であって、非現実的だと批判するのは的はずれなのである。推理小説が一部の人に熱烈に愛好されているのは、こうした基本設定が、優れた娯楽を提供してくれるためだと考えられる。実際、熱心な推理小説ファンは、作品を読みながら、必要事項をメモしたり、人物関係図を作ったりして推理を楽しむが、その場合でも各人物は特定役割の中にステレオタイプ化され、現実に見られる複雑な人間絵図は顧慮しないのが一般的である。
 RPGのおもしろさも、“本格”推理小説と同様なものと考えると理解しやすいだろう。このゲームの中では、ヒーローに特定の目的(経験値のアップ、パズルの解答など)が与えられ、これを果たすのに戦略的な思考が余儀なくされるが、その一方で、現実世界で不可避となる厄介な些事(パーティを組むキャラクターの人間関係など)に立ち入る必要はない。このような戦略的なゲームは、多くの人の好むところであり、コントラクト・ブリッジやマージャンの人気と通じるものである。しかも、多くのテーブル・ゲームが、かなり煩雑なルールに通暁していなければ勝機を得難いのに対して、コンピュータ・ゲームとしてのRPGは、ある程度まで人間の実際の行動をシミュレートしているので、あまり複雑な規則に振り回されずに戦略を練ることができる。この種のゲームは大人にも子供にも人気があるが、概して子供は(アクションRPGと呼ばれる)反射神経を競うリアルタイムのプレーを楽しむのに対して、大人はより戦略的な発想をおもしろがるようである。
 RPGに関しては、いわゆるファミコン・シンドロームのような心理的悪影響を危惧する声もあるが、基本的にブリッジやマージャン、将棋などと同じ戦略的なゲームである以上、それほど深刻に心配する必要はないだろう(ただし、従来のテーブル・ゲームと比較して、はるかにルールが簡単なため、入門時の障壁があまり高くない分、より多くの人を耽溺させやすいとも言える)。私としては、むしろ、RPGが知的娯楽として発展することを期待している。例えば、ボード・ゲームとしてのウィザードリィは、ゲームマスターとの心理的な駆け引きを要する高級な知的エンターテイメントだが、コンピュータ上では、単なるパズルと大差ない。こうした不満を解消する方向に進んでいくことにより、RPGはブリッジやマージャンに匹敵する高度なゲームとして、21世紀により多くの愛好者を獲得するのではないだろうか。(3月4日)

  NHK教育で特集された利休に関する新説には、瞠目させられるものがあった。中でも、利休が朝鮮文化に深く共感していたという主張は刺激的である。利休が朝鮮の国花でもあるむくげを愛し、当時の日本ではあまり一般的でなかった竹細工を利用したことは、日本文化の代表者といわれてきた利休像の修正を要求するものである。さらに、わびの最高の表現とされる茶室の「待庵」が、朝鮮の民家の作りと類似していることを実証する下りは、TVによる文化論の趣がある。例えば、日本家屋では、床の間に柱の縦の線を見せて、垂直と水平のコントラストを際だたせるが、朝鮮人の感性では、そのような造作は粗雑だと感じられるらしく、漆喰で完全に隠れるように床柱を塗り込めてしまう。同様の仕上げが待庵にも施されており、利休の朝鮮好きが伺える。このように考えると、朝鮮出兵を画策していた秀吉が、利休に切腹を命じた理由もわかるような気がする。(3月9日)

  セゾン美術館で開催されている「安井賞展」を見て、具象絵画にまだ豊かな可能性が秘められていることに感銘を受けた。特に、佳作に選ばれた智内兄助氏の「桜狩遊楽図I」は、華やかに着飾った江戸時代の人々の姿を周辺に配した中、少女のしどけない姿をエロティックに描出して、類い希な感興を呼び起こす。そもそも具象画とは、抽象画と対をなす概念だが、肖像画や風景画など具体的な対象を写しただけでは(安井賞に値するような)具象絵画とは言えず、対象に向かうより主体的な姿勢を必要とする。その意味で、意図的に具象画を描き続ける態度は、キュビズムやフォービズムなどの美術運動と同列に考えることができる。具象絵画における作家の姿勢とは、対象が持つ日常的・因習的あるいは文化的な意味を、美術作品がもたらす心理的作用の要因として積極的に利用しようとするものである。例えば、南洋風の植物や鳥を“美しい”と思って写生したのでは単なる風景画にすぎないが、もともとは特定の生態系の中で棲息しているはずのこれらの静物を、孤立させ静止させて細密描写をすると、外面的な静物としての形態と、内面的な無機性が画面の上で衝突することになり、生命の神秘を感じさせる具象絵画となる。もっとも、こうした絵画作品としての“仕掛け”が常に成功するわけではなく、展覧会場の多くが、漫然たる描写にとどまった絵で占められているという事実は、具象絵画の難しさを示している。(3月11日)

  先週3回連続で放映されたNHKスペシャル『痴呆症』は、こんにち大きな社会問題として注目を集めつつあるアルツハイマー病に焦点を当てた好企画だった。一般人向けのTV番組なので、あまり突っ込んだ考察は行っていないが、それでも、痴呆症の老人についての取材やコンピュータ・グラフィックスを利用した表現は、なかなか見応えがあった。
 一口に痴呆症と言っても、原因や症状に大きな相違のある2つの病気−−脳血管性痴呆症とアルツハイマー病に大別される。このほか、強度のうつ病なども、外見的には痴呆に近い症状を呈するが、これらは抗うつ剤によって治療できる精神病として、痴呆症として一線を画される。日本では、動物性タンパク質が少なく塩分の多い食事が災いして、脳梗塞や脳内出血などの脳血管性の疾患が全痴呆症の6割以上を占めるが、欧米ではアルツハイマー病の方が逆に2/3に上るという。日本でも、食生活の改善によって脳血管性の疾病が減る一方で、謎の痴呆症と呼ばれるアルツハイマー病が増加する傾向にあり、この疾患についての研究が待たれる状況になっている。
 アルツハイマー病の最大の特色は、症状が40〜50代の壮年期に現れ、痴呆症が一方的に進行して改善がごく僅かしかみられないという点にある。脳血管性の痴呆症の場合は、血管が詰まったり破れたりした時点で急性症状が表にでるが、アルツハイマー病は、ごく軽微な物忘れに始まり、本人に病識がほとんどないまま病状が重くなっていくだけに、一層深刻だ。脳に見られる主たる病変は、視床や海馬におけるコリン作動性ニューロンが死滅していく過程だが、そのきっかけとなる物質が特定できないのが現状である。一時期、アルツハイマー病の患者の脳に数多くみられる老人斑と疾病の関係が強く疑われ、1〜2年前には老人斑に蓄積されるβ−アミロイドが病気を引き起こす原因物質だという論文がScienceやNatureの誌面を飾ったが、その後、老人斑は正常な人の脳にも見られ、また、β−アミロイドをニューロンの培養細胞に投与しても細胞破壊に到らないことから、直接的な因果関係は否定されている。原因が特定できないからには、適切な治療法はもちろん、予防法も全くないわけで、「この人が」と思われる知的な人間が突如発病して周囲を驚かせる結果になりやすい。
 もっとも、直接的な治療法はなくとも、症状を緩和させる対症療法は知られている。「刺激法」とでも言うべきものがこれに当たり、脳の可塑性を利用して病的な機能低下を補償させる療法である。しばしば脳細胞は成人後は増殖せず、失われる一方だと言われるが、それはあくまでニューロンに関する状況であって、シナプス結合は死に至るまで活発に生成・崩壊を繰り返している。そして、一般的な思考能力は、ニューロンそのものよりも、このシナプス結合の多寡に依存しており、密なシナプス結合を持つ脳ほど能力が高いと考えられる。その理由は、神経細胞は興奮と静止の2つの状態しか取り得ない2値回路ではなく、神経伝達物質の放出量をもとに微調整を行う複雑な機能素子であり、その機能の多くがシナプスに担われているからである。シナプスは単なるジャンクションではなく、それ自体の調節能力をもった一種のLSIチップとして機能するのであり、これが多いほど、脳としての機能は増強されることになる。こうしたことから、たとえニューロンが減少したとしても、シナプス結合を増やすことによって、その分の埋め合わせは十分に可能だと考えられるのだ。
 一般に、シナプスの増強は外部刺激に対応して生じるとされる。その例としてしばしば引用されるのが、乳児期に脳腫瘍のため大脳半球新皮質の摘出手術を行った患者の例である。このケースでは、右半球を摘出したため、当該部位が担当している空間認知能力の減退が予期されたにもかかわらず、患者が成人してからの知能検査では、(言語性IQが117程度だったのは肯けるとしても)運動性IQが105と平均を上回る値を示し、残された脳が通常の倍の機能を果たしていることが確認された。これはもちろん、患者が超天才であったとか、脳が切除されたときの補償の仕方が遺伝的にプログラムされていたというものではなく、右半球を摘出した結果、左半球に多くのニューロンが投射されて、この部位での刺激が活発になったため、これに触発され(神経成長因子が分泌されるなどのプロセスを経て)ニューロンの成長とシナプス結合の増強が進んだことによると考えられる。この反応を利用して、アルツハイマー病の対症療法を行おうというのが、刺激法である。と言っても、決して難しいことではなく、痴呆症の患者に多くの刺激を与えて、シナプス結合を促進する方法で、具体的には、患者にパズルなどのゲームをやらせたり、健常者と積極的に話をさせたりすることが行われる。従来、痴呆症の患者が、看護者が身の回りの世話まで全て引き受けるというケースが多かったが、これは逆に痴呆症を加速させる結果になりやすい。この視点は、今後、老人問題を考えるときにも、重要な示唆を与えてくれる。(3月25日)

  ETV8の枠内でシリーズとして放映されてきた『聞き書き・庶民が生きた昭和』は、近年のTV史上に残る傑作である。この番組は、タイトル通り激動の昭和を生き抜いてきた庶民に、主として高度成長期前の体験を語ってもらうものだが、何よりも衒いのない表現が好ましい。カメラをフィックスにして、各人の表情を正面から捉えているが、登場する人は感情をあまり表に出さず、万感の思いを胸中に秘めながら、自分の過去を淡々と語っていく。それは、映像作家が意匠を凝らした派手さはないが、人間の生きる姿をまざまざと感じさせる画面になっており、なまじのドキュメンタリー番組が及びもつかない迫力を示す。例えば、林業に従事していた人が、チェーンソーを使いすぎて白蝋病になりかけた体験を語るとき、あるいは、ハマチの養殖に失敗して大量の魚が死んだことを経験者が語るとき、まるで大した事件ではなかったかのようにほとんど無表情に話を進めることによって、仰々しく飾り立てない真実の深刻さが前面に押し出されてくる。最もTV的な素材でありながら、滅多にTVで使用されない“語り”の面白さを満喫させてくれた番組である。(3月26日)

  この4月から文部省の学習指導要領が改訂されて、入学・卒業式での日の丸の掲揚と君が代の斉唱が事実上義務づけられることになった。こうした事態は、これまでの文部行政の経緯からみて当然予想されたことだが、現実の問題となると、やはり由々しき事態といわざるを得ない。
 日の丸・君が代問題で最も議論されねばならないのは、なぜ義務教育の場に押しつけるのかという点である。欧米諸国では、日本よりも国旗・国歌に対する敬愛の念が強いが、それは主として公的行事の場面であり、学校教育の枠内で生徒に礼拝を強要するという話はあまり聞かない。実際、年端もいかない子供が勢揃いして、あの血なまぐさいラ・マルセイエーズを合唱したら、それこそ不気味だろう。
 それでは、なぜ文部省は教育現場での日の丸・君が代にこだわるのだろうか。おそらく、省幹部としてみれば、大蔵省や通産省が産業界に及ぼしている影響力と同等のパワーを学校に与えたいとの意欲があり、その象徴的な役割を果たす“踏み絵”として、日の丸・君が代を持ち出したのだろう。しかし、文部省のエゴを満足させる手段としては、いかにも姑息であるのみならず、戦前のナショナリズムを喚起するという点で好ましくない。私は、何も愛国心を批判するつもりはない。それどころか、日本を愛する気持ちは人後に落ちないと自負している。しかし、愛国心は権力から強制されて高まるものではなく、外部からの侵略や権力者の搾取に対抗して、自由と平等の権利を守るべく人々が団結するときに生じる。国旗や国歌をもって特定の権力にひれ伏させるのは、愛国心を養うものでなく、単に服従を強要するだけである。
 歴史的にみた場合、国旗は、それまでの支配勢力に対抗する際の団結の象徴(フランスの三色旗やソ連の赤旗)であったり、ばらばらの団体が1つにまとまるための合意の徴(アメリカ星条旗やイギリスのユニオンジャック)であったりしたわけで、お上の側から提出されたデザインが人々の間に浸透して愛国心を養うなど、聞いたことがない。日本の日の丸は、もともと船舶の国籍を明確にするための単なる符丁にすぎず、フランス人が三色旗を誇りに思い、アメリカ人が星条旗を尊重するのと同格に論じられるような歴史的由来はない。こうした事情を無視して、判断能力が十分備わっていない小中学校の生徒に対して日の丸・君が代を押しつけるのは、文部省の横暴としか言いようがない。喩えて言えば、キリスト教国でクリスマスに『きよしこの夜』の斉唱を義務づけるようなもので、「大きなお世話」である。日本に対する愛国心を涵養するためには、日本文化の素晴らしさを認識させることが必要であり、それ以外の手段は、政治的策謀以外の何者でもない。(3月29日)

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©Nobuo YOSHIDA