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  日動画廊で開催されている『現代の裸婦展』では、女性の裸体をモチーフにして、どのような観念連合が成立するかを模索する芸術家の試みがさまざまに示されていた。興味深いことに、性行為を暗示する強烈なエロティシズムを秘めた作品は、技巧によってこれを糊塗し、表面的にはエロティックでない。一方、あまり色気を感じさせない少女を描く場合に、直接的な裸体表現に向かっているように思われる。例えば、佐藤照雄の「花のマハ」は、まるで性行為後のようなモデルのあらわな姿態を、ほとんど画学生のような精緻な具象表現に埋め込んでいるし、古沢岩美の「ちえ」は、漫画を思わせるデフォルメによって女性の媚態を隠匿している。逆に、高塚省吾の「序」は、素直な表現で少女の肉体の美しさを描き込んでいた。(9月1日)

  最近、某予備校の講師が、研究社発行の中級英和辞典に引用されている例文の1/3程度が、英語を日常的に使用している人から見ると誤っている−−という内容の著書を出版し、物議を醸している。筆者は、残念ながら、この著書を手に取る機会に恵まれていない。しかし、現在の辞書に対してこのような批判が提出されることは、一般的に予測される事態であり、この種の問題についての個人的な感想を述べることにしたい。
 辞書に記載される例文が誤りとされるケースは、大きく2つのタイプがあると考えられる。第1のケースは、文法的に誤りであるにもかかわらず、大作家が使用した、あるいは日常的に頻用されているなどの理由で、採録されている場合である。例えば、シェークスピアは心に思いつくままを文章にしたらしく、文法的にはずいぶんと誤りを犯している。マクベスが最後の台詞として口にする "damn'd be him" などは、明らかに破格の表現だが、今日では、一般的な言い回しとして通用しており、高級な辞書には採録されているはずである。このような例をどこまで認めるかは判断の難しいところである。もちろん、文学的表現の制約上、文法的誤りを犯したものの、同様な言い回しが日常的に浸透するに至らなかった場合は、(文学辞典ならばともかく)辞書の例文として不適切なことは明らかである。日本語辞書の“横たふ”の項目に、「他動詞、ただし、自動詞として用いることもある」と記述し、例文として、「荒海や佐渡に横たふ天の川」を引用するのは滑稽である。しかし、“見る”の可能表現として、助動詞“れる”を付与したものも許されるとして、川端康成の小説中にある使用例を示すのは、容認できる編集方針だと言えるだろう。ここでポイントとなるのは、一般的な用語法としてどこまで定着しているかであるが、現実問題として、誰からも認められる判断基準があるとは考えられず、かなりの程度まで主観に頼らざるを得ない。
 辞書の例文が誤りと見なされる第2のケースとして、文法的には間違っていないものの、日常的にはあまり使われないという場合がある。こうしたケースが生じる理由としては、言語がきわめて流動的で、かつて正しかった言い回しが後に奇妙なものになるということもあろうが、より多いのは、地域ごとに表現形式が異なっているという事情だろう。後者は、いわゆる“方言”とも考えられるが、各民族の文化的発想法の差異に依存していることも少なくない。例えば、英語では "fly in the sky" と言うが、日本語では“飛ぶ”は他動詞として取り扱われ、「空を飛ぶ」というように表現される。したがって、辞書に“飛ぶ”の例文として、「空に(で)飛ぶ」と記載されたとすると、英文法の発想では正しいとしても、日本語としては奇妙である。このほか、いかにももってまわった敬語表現や、通常はイントネーションによって表される疑問形の助詞による表現など、文法的には正しくても日常的には使用されない文例は多数ある。
 さて、ここで問題となるのは、こうした文例を辞書に記載するのが妥当かどうかという点である。確かに、アメリカ人が使用しないような表現を英語の文例として掲げるのは、不適切だという見方もあろう。しかし、英語という言語は、決して英米人だけの通用語ではないことも忘れてはならない。カナダやオーストラリアで母国語として使用されるほか、植民地だったインドやフィリピンでは上層階級の言葉として、また、太平洋の島々ではクレオル語と呼ばれる変形した表現で用いられている。従って、辞書が、アメリカ(特に北西部)の日常的表現に則すべきか、本来の基本的な語法に立脚すべきか、はたまた、世界で使われているさまざまなヴァリエーションに対応すべきか、選択の余地がある。この点を曖昧にしたままでは、文法的に適格だが奇妙な(あいるはその逆の)表現を、どこまで例文として辞書に記載するのが妥当か、判然としないだろう。(11月19日)

  現代は、エレクトロニクスによる第3次産業革命の時代だといわれる。この革命が人類に何をもたらすか、長期のタイムスパンにわたって予測するのは難しい。もしかしたら、モータリゼーションを中心とする第2次産業革命がもたらした浪費的生活構造を、是正してくれるかもしれない。しかし、事態は必ずしも楽観できるものではない。現に、情報処理能力の向上は、社会における格差を助長する傾向性を持っており、上流階級における消費性向を差別化の指標として固定化する危険をも孕んでいる。
 第3次産業革命による消費者の差別化は、昨今の高級品志向という形で顕著なものになってきている。具体的には、大型カラーテレビなどの付加価値の大きい高級家電、リゾートマンションや各種の会員権、豪華なイベント類−−といったものである。単純に考えれば、こうした高級品志向は、日本の経済的繁栄を裏付けるものと思えるかもしれない。しかし、実際には、高級品の購買層はごく一部の上流階級であり、大多数の日本人はその恩恵に浴していないのである。実際、3万円のテレビが10台売れるよりも20万円のものが2台売れた方が、売上高が大幅にアップするので、テレビの高級化が促進されたが、これを楽しめるのは従来の1/5の人々ということになる。このように、現在の経済状況は、確実に貧富の格差を増大する方向に進んでいる。
 興味深いことに、こうした経済動向は、今年から施行された新税制に明確に反映されている。すなわち、高額所得者に対して大幅な所得税減税を行う一方、広く薄く課税する消費税の導入によって、低所得者層から重点的に税金を徴収するというものである。もちろん、このような税制改革は偶然になされたものではなく、為替のディーラーやソフトエンジニアなど、特定の技能によって高額な所得を得るようになった人々の、主体的な行動の結果である。彼らが、積極的に政界・官界に直間比率の見直しを訴える一方、法律の抜け穴を使って節税対策を進めたため、新たな税制に移行せざるを得なくなったのである。こうした社会的風潮の是非はともかく、1980年代に入ってからの日本が、急激に経済体制を変貌させつつあることは、論を待たない。
 こうした変化は、情報工学の発達に基づく第3次産業革命とパラレルに考えることができる。20世紀初頭に興った第2次産業革命は、大量生産を基本とする製造業中心の経済体制を固めるものだった。このような体制下では、同一規格の製品を大量に販売するため、普及品の購買層が拡大することが望ましい。この考えの下に、1970年頃までの経済界は、ベースアップの繰り返しによる消費の拡大を図ってきた。この結果、所得は平均化し、住居や家具に至るまで横並び傾向が進むことになった。しかし、80年代に入り、経済的にゆとりが生じると、いわゆる個性化の進捗が見られる。これは、余剰収入を、隣人との間に「差を付ける」ために用いる傾向を助長し、この結果としてサービス産業が成長していく。ただし、ここでいうサービス産業とは、家電のデザイン部門など、製造業内部の特定セクションを含む広い概念である。サービス化の進展は、デザイナーなど特定の技能を持つ人間を優遇し、これらの人材に格別の高賃金を支給することになるため、経済格差はポジティブ・フィードバックによって一層拡大していくことになる。現在の日本社会は、ちょうどこの加速段階に入ったと考えられる。ただし、社会全般にわたる平準化志向にはきわめて根強いものがあるため、このまま富裕層が社会の中で分離していくかは疑問である。(11月28日)

  12月9日は「障害者の日」ということで、NHKでさまざまな番組を放映したが、考えさせられることが多かった。何人かの障害者が口を揃えて言うのは、「周りの人が寄せる同情心がつらい」というものである。障害者を差別し社会から排除しようとするのは論外だが、彼らを健常者が介護しなければならない対象として取り扱うことも、基本的に障害者を邪魔者扱いする社会体制を容認することに他ならない。むしろ、“障害”という特別の要素を持っている人間が、人生を満喫できる条件を整えることが先決課題だろう。ここで重要なことは、障害者を援助するのに、ボランティアに頼ってはならないという点である。アメリカでは、介護者に対して適当な給付を行う制度が確立している。無償奉仕としてではなく社会に組み込まれた労働の一環として障害者の介護が行われることが、障害者を生かす社会づくりの第一歩となるだろう。
 さらに、障害者は彼らなりの人生の楽しみ方を持っている。NHKでは、目の不自由な女性が彫刻を鑑賞する姿を映しだしていたが、彼女の姿は、ハンディキャップを跳ね返す人間の力の象徴ともいえる。この盲目の女性は、彫刻を撫でるように触りながら、作品の持つ魅力を目明き以上に的確に感じ取っていく。特に感動的なのは、彼女が特別に許可を得て、仏像を撫でさすったときである。われわれは、金箔の仏像を見ると、その累計的な表現に辟易して、それ以上のものを感じようとはしない。ところが、初めて仏像に触れたその女性は、優しさ、ふくよかさを感じて、無名の作者の厚い信仰心にまで思い至るのである。その光景は、ほとんど仏の救済をすら想起させるものであった。
 確かに、障害者は、この複雑な社会のあらゆる局面に関与するには、ハンディキャップを負っていると言わざるを得ない。しかし、逆にそのことによって、彼らにしか生きられない人生を生きることが可能になっている。そしてまた、そうした存在を許すことこそ、社会の豊かさの指標であり、文化的成熟の度合いを示すものとも考えられる。ともあれ、NHKの好企画に感謝する次第である。(12月11日)

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©Nobuo YOSHIDA