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  神経症の原因としての条件付けが、どのようにして成立するかを考えてみよう。よく知られているように、パブロフは、イヌに不適当な弁別課題を与えることによって、神経症を誘発することに成功した。しかし、この神経症は、弁別課題を果たすべく行った訓練の仕方に依存するもので、条件付けの機序を明らかにするには、必ずしも適当な症例とはならない。そこで、以下では、不安神経症に限定して、条件付けの意味を考察してみよう。
 例えば、シマウマがライオンに対して感じるであろう“恐怖”は、どのようにして刷り込まれるのだろうか。明らかに、それは、実際に傷害を受けるという体験を経て獲得された訳ではない(もしそうであれば、多くのシマウマは、子供のうちにライオンの餌食になってしまう)。そうではなく、生得的に恐怖を喚起する内的メカニズムが装備されており、学習を通じて、このメカニズムが解発されるトリガーが決定されると考えられる。ここでトリガーとなるのは、集団の他の成員(小集団の場合は親)が、平穏な状態から逃走ないし防御の体制に遷移するときに随伴する事象となるのが一般的だろう。人間の場合も同様に、特定の刺激に応答して、恐怖反応を引き起こす生得的機構が備わっているはずである。ここでもし、本来は有害状況を生み出すはずのない刺激が、この反応を惹起するトリガーとなるように条件付けられたらどうなるだろうか。理由が判然としない“言われなき”恐怖の原因は、ここにある。
 具体的な例として、ゴキブリのような昆虫を恐れる女性について考えよう。こうした虫が人間に格別の悪影響を及ぼすとは考えられないので、ゴキブリに対する恐怖は、“言われなき”恐怖の一例である。こうした条件付けはどのようにして生じるのか。最もありそうなのは、母親やその他の近しい人が恐怖反応を示すのを見て、これを学習したというケースだろう。このケースでは、実際に恐怖を感じるべき状況に陥ったのではない点に、注意されたい。すなわち、恐怖の実体験そのものが、恐怖反応の条件付けに与ったのではなく、生得的な恐怖反応機構が、いわば誤作動したのである。こうした恐怖反応の条件付けが、(ゴキブリのような)適応的でない対象に対してなされた場合、神経症的な不安が発現する。
 こうした不安神経症を解消するためには、この条件付けを、何らかの形で変更することが必要になる。明らかに、単なる“慣れ”では不安は解消しないし、「実際に危険はないのだ」と教え諭しても効果は乏しい。なぜなら、ある刺激が恐怖を引き起こすのは、生得的な認知機構に由来するものであって、知識によって変更できるものではない(少なくとも完全には)からである。効果的に不安神経症を解消するためには、この生得的機構を逆手にとって、従前には恐怖を惹起した同じ刺激に対して、別の反応を引き出すように条件付けしてやればよいはずである。簡単な例で説明しよう。
 大勢の人の前でスピーチすることに恐怖を感じる人がいたとしよう。こうした恐怖感は、実際のスピーチで失敗した経験に起因する場合もあれば、単に状況を想像して不安に駆られたことが引き金になっている場合もあろう。しかし、いずれにせよ、期待される行為からの逸脱を厳しく禁じる社会的規制の中で、「大勢の前に立つ」→(状況に適ったスピーチができない)→「社会規範から逸脱する(=禁止行為)」という型にはまった認識連鎖が成立していることが、根本問題である。従って、不安症を解消するには、このパターンを破壊するのが、第一義的な目標となる。繰り返し人前に立たせるという“慣れ”によって恐怖を濃くすることはもちろん、人前に立っても何も起こらないという消極的条件付けも、不十分である。より積極的に、大勢の前では何か楽しい(あるいは、すくなくとも社会的規範に適合的な)事態が生じるという方向に持っていかなければならない。例えば、パーティのような場で、他の数名と共に適当なイベント(ゲームなど)を行いながら、他者の視線に慣れさせ、さらに、儀礼的な決まり文句のような簡潔な言葉を述べさせることを通じて、「人前」→「適合的な状況」という結びつきを構成していくことが可能ではないだろうか。もちろん、筆者には臨床体験がなく、このような方法がどの程度の効果を持つかは判定しがたい。しかし、ある種の“常識”と照らし合わせると、不安神経症の解消法としては、これが最も適当なものではないかと思われる。(4月11日)


  今年4月に導入された「消費税」なる新税に対しては、各方面から批判が提出されている。私は、税制実施以前は、簡便な間接税として比較的好意的な目でこの税金の見ていたが、いざ実施されてみると、実に多くの問題を抱えた悪税であることが判明した。以下に、そのポイントを指摘していきたい。
 「消費税」に関する私の最大の不満は、課税段階で余分な手間が掛かる点である。大蔵省は、各業者が消費者に税を確実に転嫁できるようにするために、レジで値札に対して3%分を徴収するという外税方式を推奨した。この方式は、確かに税の取り損ないや、便乗値上げを防ぐ上では効果があるが、レジでの計算に時間が掛かり、無駄な労力を必要とする欠点がある(もっとも、これを契機に計算機能の付いたレジスターを購入し、販売戦略の合理化を図るという副次的効果を狙った商店もあるようだが)。例えば、あるファーストフード店では、従来370円だった商品に消費税3%を上乗せして381円にしたため、忙しい昼食時に釣り銭のやりとりで余分な時間がかかるというデメリットを生じている。
 こうした3%上乗せの外税方式は、一見合理的だが、その実は、形式的すぎて、多くの矛盾点を孕んでいる。なぜなら、販売価格というのは、単に仕入れ値に必要経費と労賃を加えたものではなく、販売状況を元に戦略的に決定されているからである。短時間で多くの顧客を相手にしなければならない場合は、原価が92円と86円のものを、等しく100円とするのが合理的である。一般に、個々の販売価格は、各小売店の裁量に任せるのが妥当であり、機械的な外税方式よりは、戦略的な内税方式の方が望ましい。新税導入に際しては、当然、販売量が値段に敏感に影響される商品は、価格を据え置き、あまり需要が変化しない品を3%以上値上げするといった方策が採られることになるだろう。
 内税方式による消費税は、本質的矛盾を抱えている。すなわち、内税の場合は、最終的に税金に転嫁されているはずの消費者に納税意識が生じず、各販売店が納税を肩代わりすることになってしまい、法人税との差別化が図りにくいという点である。中曽根内閣時代に当初構想された間接税は、工場出荷段階に賦課する「蔵出し税」で、言わば物流に対する課税である。しかし、現在の日本における経済行為は、サービスの流れが工業産品の流れに匹敵する金額になっており、工業産品にのみ課税するのは不公平だとして、この案は葬り去られた。もしこの蔵出し税が実現していれば、物流という特定の経済行為に課税するという積極的意味があったろう。だが、改めて、売上税、あるいはこれを改正した消費税という税制を採用すると、すべての経済的な事業活動に課税されるため、法人事業税とほとんど差異がなくなってしまう。しかも、日本では、EC型付加価値税と異なって、インヴォイスを発行せず帳簿で決済するため、間接税を採用するメリットの一つである脱税の減少もあまり期待できない。それどころか、簡易課税方式と証して売上高の80%を仕入れ値と見なすことが許されているため、消費税と法人事業税の差は、中小企業ほど小さなものになっている。
 もちろん、消費税と事業税は、二つの点で基本的に異なっている。ところが、この差異が、まさに消費税の欠点となっているのである。第一に、税率が一律に3%だという点である。この課税方式は、大企業にとっては相対的に安く、中小企業にとって高額になるという意味で、逆進性が強い。確かに、国家レベルでは、国際的競争力を持った大企業が力を付ける方が好ましいかもしれないが、国民にとっては、大部分が中小企業に勤めているだけに、生活を破壊する税制だといわれても仕方がないだろう。特に、今回の税制改革では、消費税を導入する代わりに、高額所得者の所得税を減税しており、これまで金持ちから取ってきた税金を、中低所得者に転嫁しようという意図が明らかである。
 第二に、消費税が事業税と異なって粗利益にかかる税金だという点である。個人レベルでは、利益は直接的に浪費に通じるため、これに課税することは、社会倫理的に見ても妥当だろう。しかし、企業にとっての粗利益は、(会社を私物化しているワンマン経営者がいる場合を別にして)設備投資に回されるのが一般的である。従って、消費税は、投資にかかる税金となり、薄利多売型の経営戦略を持つ企業に有利となる。このことは、一見消費者向けの企業努力をしているところが、税制的に優遇されて望ましいと思われるかもしれない。しかし、実は、薄利多売型の企業は、他の企業が先行投資をして流通体制を整えた中でゲリラ的に活動している場合が多い。むしろ、充分な投資を行っている企業の方が、社会の下部構造を安定化させる上で大きく寄与していると考えられる。消費税は、こうした“優良”企業に対して重く税金を課すことになる。
 以上の考察から、明らかなように、消費税は明らかな“悪税”であり、可及的速やかに廃止の方向に持っていくのが望ましいと言えよう。(4月21日)

  現代美術の潮流を見渡すと、いわゆる伝統的絵画が停滞しているのに比して、写真芸術が隆盛の方向に向かいつつあるように見える。これは、考えてみると、奇妙な現象である。なぜなら、今世紀における美術界の革新は、伝統の桎梏を破壊することによって成し遂げられたものであり、基本的には、自由度の高いジャンルほど、アーティストが腕を振るう余地が大きいはずだからである。ところが、実際には、自由であることを許されている絵画芸術はむしろ全体に萎縮しており、表現力そのものが乏しく感じられる。その理由は、美術を理解するのに必要なバックボーンが形成されていないことに求められるだろう。
 例えば、われわれがレンブラントの『ヤコブの祝福』に感動するのは、祝福を授かった者のみならず、授からなかった者までも事態に完全に満足しているかのごとき表情を浮かべ、その中で、老人がまるですべてを許そうとするかのように穏やかに手を差し伸べているからである。もし、このような理解がなければ、この作品の与える芸術的感動は、遙かに小さなものになったはずである。換言すれば、共通認識となる聖書の知識があり、その形骸化しつつある部分に新たな視座を提出することによって、価値論的な差別化が生じ、これが感動の源泉となっているのだ。
 ところが、現代美術では、こうした共通の基盤を、硬直したアカデミズムとして否定したため、日常的な意識の流れや個人的体験を重視した作品に向かわざるを得なかった。例えば、ピカソの『アヴィニヨンの娘たち』は、伝統的な女性像に対するルサンチマンが、作品の根底にあるものの、これを乗り越えて何か新しいものを創造したわけではなく、アフリカ芸術などを引用するにとどまっている。いささか断定的に言えば、表現内容が構造化されていないのである。ここで、構造化とは諸概念が、日常的コンテクストを脱して、意識的に設定された関係の中に置かれることを意味する。こうした構造化が成し遂げられた典型的な言説が、いわゆる“神話”であり、神という超常的な力能と、日常的な人間存在を、明確な関係性の下に置くものである。19世紀までの芸術作品は、構造化された言説を背景にしており、これが人々に崇高な感情を与える契機となっていた。手医術を評価するとき、最も規範的な情念となる崇高感が、作品の構造に依拠していると考えるとき、現代芸術が失ったものの大きさが理解できるはずである。
 確かに、現代の芸術家は、アカデミズムの枠組みがかなりの程度まで撤廃され、自由に作品を制作することが許されているという意味で、“自由”だと言える。しかし、この“自由”を芸術家に与えた結果、彼らは、作品を構造化するための手がかりを見失ってしまったのではあるまいか。
 作品が構造化できない場合、芸術家は日常的な感性に則って制作せざるを得なくなる。その結果として現れるのは、現実をさまざまにデフォルメした表現、特に、芸術家にとって桎梏と感じられる諸々の規制に対する揶揄とも思われる表現である。もちろん、その中には、芸術的にすぐれたものも少なくない。しかし、かつての作品がわれわれに与えてくれたような崇高感をもたらす芸術は、現代においては、きわめて数少なくなっていることも、否みがたい事実である。
 こうした中で、最初に述べたように写真作品が絵画以上の面白みを持ってきたというのは、何を意味するのだろうか。確かに、写真は、現実という抜き差しならぬ対象があり、これを(多少の特殊効果を別にすれば)変更することは不可能である。しかし、逆に言えば、それだからこそ素材の意味づけを熟考した上でシャッターを押さなければならない。例えば、ビルマで失った戦友の慰霊のために現地を訪れた人がいる。こうした人々は、かつての戦場と思われる土地で合掌し悲痛な表情を見せるが、決してそれだけの行為にとどまらず、時には笑み、時には怒る。現地人とのトラブルもあり、また肝心の戦場が見つからずに慌てることもある。そういた状況をいかに表現するかを考えるとき、優れたカメラマンは、構造的な問題に思いを馳せるだろう。具体的には、現地の人と慰霊団を同一のフレームに収め、一部の人は微笑みあっているが、その背後には目を背けている人がいるというように。この光景は、もしかしたら現実を正しく表現していないかもしれない(風が吹いたので目を背けただけかもしれない)。しかし、現実以上に真実を表現した作品であり得ることも明らかだろう。こうして、写真というきわめて“不自由”なメディアが、全き自由を保証されているはずの絵画その他の芸術作品に較べて、より大きな感動を与えることが、往々にして見られるのである。もしかしたら、この点に、閉塞した現代芸術の状況をうち破る鍵があるかもしれない。(4月30日)

  最近、NHKで報じられて驚かされたのだが、一部の小中学校では、生徒の性格テストを行って生活指導に役立てているという。テストの内容は、「最近イライラすることがある」という情緒分析を目的とするものから、「好きな人がいるか」のようなプライヴァシーに踏み込む質問もある。こうしたテストが行われる背景には、これまで非行や暴力事件などの外面的な反抗を力で押さえつけようとしてきた学校が、登校拒否や家庭内暴力のような陰に籠もった“問題児”を、あくまで権力をもって管理しようという意図が感じられる。もちろん、どのような性格が社会的な異常行動と相関するかを調べることは、心理学的に意味がある。しかし、それは無記名のアンケートで十分なはずであり、自己の内面をさらけ出すことをエイトに強要しなくとも済むはずである。自分がどのような性格であるかを分析したいという要望があれば、自己診断を行えるように問題を工夫すればよい。そもそも、社会的行動と直接に結びつくような性格は心理学的に考えられず、性格と環境との複雑な相互作用を通じて初めて外面化されるのである。従って、環境因子を十分に評価しないで性格のみをテストしていたのでは、学問的に意義のある知見は得られない。しかも、テストを作成するのが学校とは独立の(学校の内情を必ずしも把握していない)業者であり、こうしたテストで判定できるのは、数値化可能なごく一部の性向にすぎない。このようなテストの実施は、教育に活用できる有効な資料を得る上で効果がないばかりでなく、生徒を拘束する手段となるリスクが大きいと言わざるを得ない。(5月24日)

  人間にとって知り得る真理の外延というものがあるだろうか。これは、認識論上の問題である。おそらく、この世界は、ある一意的な状態に置かれているのだろう。しかし、こうした実在界は、ただ存在しているだけであって、認識の対象とはならない。認識とは、情報を特定の方式で処理する過程であり、この処理方式になじまない情報は、認識にとって無意味なのである。このような意味で、人間の脳は、多くの人が考える以上にコンピュータに近い機構である。そこで、このアナロジーをもとに、コンピュータにとっての真理があり得るかを考えてみよう。人間にとっての常識−−この世界には、人間が日常生活を営んでいるとか、人間には喜怒哀楽があるといった−−は、コンピュータにとっては意味がない。コンピュータにとっての重要事は、あるデータと他のデータとのリンクの有無であり、この形式に則らない情報は、処理しようがないのである。いささかうがった言い方をすれば、データは、他のデータとリンクされるという形式においてのみ、真理性が付与できるのである。ところが、こうした真理は、コンピュータにとっては正しいものであったとしても、人間に同意されるとは限らない。例えば、各データごとに引用回数をカウントするようなOSを採用しているコンピュータを考えてみよう。この場合、データは引用されるたびに、少なくとも引用回数が変更されるため、OSは、常に更新されたデータとして扱う。とすれば、このコンピュータにとって、同値関係における反射律「AはAである」は自明なものではない。なぜなら、最初に“A”を引用した時点で、このデータの引用回数が更新されるため、次に引用される“A”と同一のものであることが保証されないからである。このように、人間にとって疑い得ないはずの同値律でさえ、絶対的なものではないのである。逆に、人間の思考は、脳という特定のハードウェアに規定されているため、他の知的存在にとっての常識−−例えば、アナログ・コンピュータにとっての常識である「数値には幅がある」ということ−−が受け入れられないという側面もある。このように、物自体の法則として絶対的な意義を持つ真理は、認識論的にみてあり得ないのだ。(5月28日)

  日本における民衆の生活意識は、大きく「ハレ」と「ケ」に二分されると言われる。すなわち、生計を立てるための通常の生活を「ケ」と称し、その苦しさを超克する祝祭的状況が「ハレ」となる。しかし、この二分法は、日常生活をあまりに苦しいものとして 否定的に見ているように感じられる(もっとも民俗学者には、そのような“偏見”はないのかもしれないが)。人々が日々を生きていくとき、それほど生真面目に労働だけに没入しているわけではないことは、農村生活の中でごく一般的に見いだされる豪快な笑いを想起すれば理解できるだろう。実際、(さまざまな報告が記しているように)農民たちは、日常生活−−なかんづく性的な出来事をネタによく笑う。この笑いは、「ケ」が、決して苦しいだけの卑屈な日常意識ではないことを示している。むしろ、「ケ」とは、この日常生活を生き抜くためのエネルギーと考えるのが妥当だろう。
 ただし、「ケ」のエネルギーは、すべての局面において積極的に現れるのではなく、場合によっては厳しく否定されることがある。これが、「ケ」の喪失、すなわち「ケガレ」である。従来、「ケガレ」は消極的な意味で、日常生活から排除されるものとし捉えられてきた。しかし、「ケ」を日常生活におけるプラスのエネルギーと見なすのと対にして、「ケガレ」はマイナスのエネルギーと定義した方が妥当だと考える。例えば、古代の日本人は、死をケガレの対象として忌み嫌ってきた。しかし、これは、単に死によって日常生活が送り得なくなるというだけの消極的な意味によるものではあるまい。古代人にとって、死とは生を否定するマイナスのエネルギーを持つはずである。実際、傷のある手で死体に触れると、敗血症などを誘発して死に至ることは稀ではない。病原菌を知らない古代人にとって、こうした事態は、死者が生あるものを冥界へと引きずり込む過程のように感じられたろう。この死へと向かうマイナスのエネルギーを示す符丁が「ケガレ」であり、それ故、これを忌むべきものとして排除する意識が生じたのである。
 「ケガレ」が単なる「ケ」の喪失ではなく、より強力な「ケ」からの離反であることをより明瞭に示しているのが、女性の生理を「ケガレ」とする見方である。多くの民族において、生理は喜ぶべきことであると同時に、直視すべからざるものという意識がある。日本では、より烈しくこれを排除し、特に宗教的な儀式の場から閉め出そうとしている。その理由は、筆者の考えるところでは、女性の出産が巨大なプラスのエネルギーの創出であることから、(直感的な)エネルギー保存の法則に従って、妊娠をもたらす状況の中でマイナスのエネルギーが蓄え込まれるはずだというロジックの中にある。生理や出産後のおりものがケガレているのは、新生児を生み出すという「ケ」のエネルギーが費やされた反動の故である。
 こうした「ケ」−「ケガレ」の二項対立が存する日常生活を超克するのが「ハレ」の祝祭空間であると主張するのは、あまりに簡略化しすぎた図式とのそしりを免れないだろうが、日本的な民族意識を理解する1つの手助けとなるのではないか。ただし、「ハレ」が「ケ」の側について、言わば日常的なエネルギーを注入する役割を担うのか、単に「ケ」と「ケガレ」の対立をご破算にするだけのものなのかは、筆者の乏しい知識では答えられない。「ハレ」の祝祭性は、確かに日常生活に戻る力を与えてくれるかもしれない。しかし、これはおそらく、それまでの「ケ」と「ケガレ」の間の緊張関係を解消した結果ではないかと思われる。とすると、図式的には、「ハレ」−「ケ」の対立はなく、むしろ、生活の単なるアスペクトと言えるものなのだろう。(6月4日)

  一部の“文化人”は、日本語が論理的でないという主張を行い、その根拠として、主語がしばしば不明瞭になること、自動詞・他動詞の区別が曖昧で、助詞の選択と文法上の「格」が必ずしも一致しないことを挙げている。しかし、この主張は、そのままでは受け入れられない。むしろ、英語の方が、ある意味で遥かに非論理的とも思われる。その理由を以下で説明しよう。
 はじめに強調しておきたいのは、英語が語順によって統語論的構造を指定するのに対して、日本語は、語形が文法的機能を表す点である。これは、主として、ヨーロッパの“僻地”で形成された言語である英語と、孤立した地理的環境の中で独自の文化を熟成させた日本のことばの相違であろう。英語も、もともとはラテン語の流れを汲んで、語形が(主格や目的格のような)文法的機能を示していた。しかし、大陸に近く、また海路を利用した交易が盛んだったイギリスでは、さまざまな新語が流入してくるため、語形だけでは文法を表しきれなくなった。
 実際、現在の英語を見ても、同じ形容詞でありながら、good, wildのような単音節の語、beautiful, sunnyのように名詞に適当な語尾を付け加えたものなど、さまざまなヴァリエーションがあり、中には、openやfatのように、他の品詞と語形が共通のものもある。この多様性は、「…い」で終わり、その活用形が共通である日本語の形容詞と著しい対照をなしている。語形の不統一は、明らかに、言語の流通経路が多彩であったことに起因している。この結果、英語の文章は、語の区切り方によって統語論的構造がさまざまに解釈されるという曖昧さが生じる。
 有名な、"Time flies like an arrow."という諺を考えてみよう。語形だけをみると、time は「時」という名詞でもあれば、「(時を)計る」という動詞でもあり得る。同様に、"fky" は「飛ぶ」と「ハエ」、"like" は「〜のように」と「〜が好きだ」のいずれとも解釈される。従って、上の諺は、これらの組み合わせによって、「時は矢のように飛ぶ」とも「ハエを矢のように計れ」とも「時バエは矢が好きだ」とも解釈できる。
 このような英語の統語論的な曖昧さは、語形による機能指定が困難になって、語順という1次元的な指標によって文法構造を表さなければならないことの帰結である。もちろん、実際に発話する場合は、イントネーションなどによって統語論的な区切りを与えることができる。しかし、書き表された文章に関して、英語は、きわめて曖昧である。そして、この曖昧さを防ぐために、統語論的機能を持つ語(主語や目的語など)は、文意から自明であっても省略できず、さらに、冠詞や代名詞の多様によって、機能指示を補わざるを得ないのである。
 これに対して、日本語は、それぞれの語あるいは付属する助詞によって文法上の格が明確になるので、不要な語は省略することが可能である。こうした格を持つ語を、文の中心をなす述部に対して配置することによって、日本語の文章は成立する。こうした文法−−フィルモアの用語を借りれば「格文法」−−では、ちょうどモビールのように多くの要素が述語に取り付け可能な構造をしている。これほど確固として機能化された文法を持つ言語のどこが曖昧だというのか。ラテン語やドイツ語ならともかく、英語を比較相手とするならば、英語の方が遥かに曖昧で洗練されていない言語である。将来、世界言語というものを構築する際に、英語をベースにすると、禍根を残すことになろう。もちろん、日本語にも、助動詞を不定に積み重ねられる(「病気の犬に、餌を食べさせられませんでした」!)とか、否定詞が文末にくる(「私は、こうした国際感覚あふれる先駆的な業績を高く評価する者ではありません」−−同時通訳が悲鳴を上げたそうな)といった問題があるが、洗練された格文法に従う言語こそ、世界言語に相応しいものだと思われる。(6月11日)

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©Nobuo YOSHIDA