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  人間の胎児を使用する実験の是非について。
 現在、ヨーロッパでは、この問題が議論を呼び、各国の委員会で必ずしも一致しない見解が採択されている('Science'vol.242,p1117)。特に、ドイツでは、ナチ時代に行われた人体実験の記憶が生々しいせいか、胎児を使った実験の全面禁止を訴える主張も少なくないという。以下、この問題を考察してみよう。
 明らかに、全面禁止または全面解禁は、いずれも好ましいものではない。全面禁止は科学の停滞をもたらし、将来の人類の福祉にとってマイナスとなる。もちろん、宗教的・文化的反論もあるだろうが、かつては、「両親にもらった」肉体を傷つけることは許されないとして手術すら肯んじなかったものがいたことを思い起こしていただきたい。倫理観念は、社会的状況に応じて変化するものである。
 一方、全面解禁も、応用を思考する技術者のミクロな視点が優生思想と結びつく懸念が払拭しきれない。したがって、両者の中間に何らかのガイドラインを設定すべきである。ここで、この決定を「社会的コンセンサス」に委ねて流動的にすることは、諸々の事由から望ましくない。特に、資本主義的力関係が、人間科学に介入する事態を招くことは危険である。ガイドラインは、中立的な立場に立つ委員会が意志的に決定するものでなければならない。
 ただし、こうしたガイドラインが、自然界に存在する境界に即して引けるものではないことを自覚しておく必要がある。個体発生は系統発生を繰り返すとの言葉通り、胎児は、次第に人間になっていくのであって、ある特定の時点(受精時、分娩時など)をもって突如人間化するわけではないのだ。当然、“受精後2週間”のような恣意的な決定を余儀なくされるだろう。(1月2日)

  短歌の可能性について。短歌という形式は、その限られた容量のために、特定の意匠に対してしか有効でない。王朝時代には、コミュニケーションの手段として利用されたが、これは、伝達内容が(恋愛など)概ね定められていたからこそ可能だったと言えよう。現在、短歌が活用できるのは、これを一種のキャッチコピーとして、類型化された心情を惹起できる領域に限られる。(1月9日)

  人類に共通の“母語”はあるか。世界の言語は、インド・ヨーロッパ語族など、いくつかの語族にわかれているが、これらに共通の“母語”が存在すると主張する研究者が現れ、注目されている。
 “母語”を発見するための障害は2つある。第1に、“母語”に到達する経路を発見するのが困難だろうという点、第2に、そもそも“母語”が存在しない蓋然性が高いという点である。
 第1の障害は、方法論的なもので、主として言語が他文化から容易に影響を受けて変貌することに起因する。例えば、古代英語では、語順は統語論的機能には関係なく、冠詞が主語・目的語などを指示していたが、大陸からの影響で、次第に語順が機能を規定するようになった。こうした変化が頻繁に生じるため、現時点あるいは近過去の文献を元に作り上げられた言語変化の系統樹を、有史以前(少なくとも数万年前)に遡るのは困難を極める。
 第2の障害は、さらに深刻である。チョムスキーが想定したように、文法の最も基幹的な部分は、人間の思考様式それ自体に依存しており、核文法が共通だからといって、その歴史的起源が同一であるとは限らない。ここで、人間の言語の核となる基幹文法とは、その樹木構造と意味・統語の二重構造に関するものである。
 下等動物が使うシグナルは、特定の行動を触発するリリーサーにすぎないが、人間の使う概念は、状況に応じて異なった行動を惹起できる。例えば、「ライオン」という単語は「来る」という述語と結びつけると「危険」を、「去った」と結びつけると「安全」を表す。意味論と統語論を分離し、これを樹木状に構成するという思考様式は、あらゆる人間に共通であり、必ずしも同一祖先から派生してきた方法論であると仮定する必要はない。
 また、概念化における契機の類縁性も、認知心理学的に見て、生得的な認知の方略に還元可能なものと考えられる。神経回路の準安定な興奮状態に帰着する刺激のパターンを客体化し、それ以外を概念として取り扱わないという人間の認知方略は、神経システムというハードウェアに依存するもので、文化的な起源を持つものではないだろう。
 このように見てくると、“母語”を巡る議論は、不毛なままで終わりそうだと予測せざるを得ない。(1月12日)

  人類の未来を遠望するとき、その発展の可能性があまりに限定されていることに、慄然とする。現在の産業主義は、人間の行動倫理を画一化しているのだ。例えば、子供の死は常に悲劇とされ、できる限り避けねばならないと考えられる。こうした倫理観のもとでは、多くの子供を産み、その何分の一かを育てて他は死なせるという育児法は、決定的に誤った態度でしかない。しかし、果たして本当にそう言えるのだろうか。子供が多いと、そこから社会関係を学ぶ機会が増え、兄弟の死を通じて人間の尊厳が看取される。さらに、邪気のない子供のままで死ぬことは、人間の願望の一つではないか。だが、現代社会は、こうした発想をタブーとして禁じているようだ。その背後に、人間を教育された労働者として系統的に把握しようとする時代精神を、私は感じる。こうして、社会は生態学的な意味での選択肢を自ら狭めていくのだ。(1月23日)

  自動車を運転しているときのドライバーの意識において、自我の拡大傾向が見られることに注目したい。通常の人間は、何の疑問もなく身体を《自己》の一部として認識しているが、これは、自明なことではない。自意識が生じるのは、脳内部での協調的な神経興奮においてであり、身体像は、遠心的神経系に送られる運動野からの指令と、求心的神経系を介して送られる知覚情報との相関をもとに、事後的に組み立てられたものである。運転しようという意志を実行する自動車は、その遠心的な面に関しては、身体と類似した《自己性》を示している。しかし、自動車が身体と決定的に異なっているのは、求心的な情報伝達網がないという点であり、特に、ある行動意図の実行に際して、時に行動の遂行を思いとどまらせるような危険性情報のフィードバックが少ない。この結果、自動車は、ドライバーの能動的意志が一方向的に伝えられる擬似身体となり、これに対して、自我はしばしば強権的になる。これが、無謀運転の心理的な起源である。とすれば、こうした強権性を減殺するには、何らかの求心的回路を人為的に作り上げればよいはずだ。具体的には、タイヤの横方向に過大な摩擦力が加わったり、ハイドロプレーン現象によって路面との接触が低下したとき、ドライバーに対して不快なシグナルを発するようにすればよい。ここで、“不快さ”は必須の要素である。なぜなら、肉体における“痛み”のように、情動を喚起するものでなければフィードバック効果が期待できないからだ。(1月30日)

  現在、東京は、戦後何度目かの建設ラッシュである。最近の特色は、地価高騰のあおりを受けて、ぎりぎりの採算性を目指したビルを建てようとする傾向が顕著だという点である。広い敷地の中にモニュメンタルな建造物を構築するという(リンカーン記念センターのような)贅沢な土地の利用は許されない。しかも、グローバルな都市計画がなされないまま、土地が空きしだい建設を開始するため、パリの市街のような調和のとれた家並みは期待すべくもない。こうして、個々の建物に建築家が意匠を凝らして個性を出すのが、創造性を発揮する唯一の方法になっている。
 最近の建物には、従来のモダニズムを意図的に否定しようとする創作家意識が露わに浮き出ている例が稀ではない。この傾向は、ル・コルビジェに代表されるモダニズムが、実は、技術的・経済的制約によって直線的な繰り返しを迫られていたという事実が自覚されるにつれて、より補強されてきたようである。こうして生まれたポスト・モダニズム(というよりアンチ・モダニズム)の建築は、単調な繰り返しを忌避し、素材のマチエールを強調したものになり、しばしば、曲線が支配的になる。しかし、こうした特徴は、建築当初は目新しさによって人目を惹くものの、しだいにその居住性の悪さが意識されるようになる。そもそも、人間にとってのアメニティの起源は、長期間にわたる実体験を通じて初めてそれと知られるものであり、近代建築の端緒を否定するという方法論では明らかにしがたいものである。こうして、現代建築は、モダニズムを乗り越えようとして、逆に20世紀初頭の建築家が陥ったのと同じ落とし穴にはまった感がある。(2月6日)

  戦後漫画界のスーパースター・手塚治虫氏が逝った。享年60歳、まだまだ仕事盛りである。
 マンガという芸術ジャンルは、世界中の他のどこよりも日本で興隆を極めている。その理由はかなり複雑であり、考え方によっては、絵巻物や挿し絵入りおとぎ草紙の歴史まで辿らなければならないだろうし、少なくとも、戦前の紙芝居の流行について語らない訳にはいかない。漫画におけるストーリー性の重視は、『黄金バット』などに端を発しているし、実際、復員してきた水木しげるや白戸三平らがまず手がけたのは、紙芝居の製作だったという。
 しかし、こうした先人たちの業績を認めるのにはやぶさかでないにしても、漫画を芸術の域にまで高めて最大の功労者は、手塚治虫その人であろう。アメリカのコミック・ストリップが完全に子供向けのものであるのに対して、日本の漫画の中には文学作品を遙かに凌駕する感動を与えてくれる作品が少なくない(例えば、山岸凉子の『日出処の天子』や萩尾望都の『銀の三角』、岩明均の『寄生獣』など)。欧米から訪れた人が、しばしば「日本人は大人でも電車の中で漫画を読んでいる」と驚くが、大人が読むに値する作品があることを知っているのか、いささか心許ない。
 漫画という表現手段の最大の特色は、時間を自由に伸縮させながら、イメージの衝突をはかれる点である。コマの中に流れる連続的な時間と、コマの間の離散的な時間−−その弁証法的な効果が、漫画を他のすべての芸術とは異なるユニークなものにしている。これに加えて、コマの大きさや描法を調節することによって、イメージを自在に変形することも可能である。こうした漫画芸術の表現法の基礎を作り上げたのが手塚治虫だった。
 手塚の業績の一つとして、漫画に豊かな擬音を与えたことがある。拳銃を撃つときの「ズギューン」など多くの新しい音表現を発案し、さらに文字をイラスト化することによって表現の幅を広げることに成功した。ところが、あるとき、音のない状態を表現しなければならない場面に遭遇した。手塚は、考えに考え抜いた末、音のない状態を表すオノマトペ−−「シーン」−−を編み出す。この手塚の発明以来、日本人は、無音状態を認識する新たな視座を手に入れたと言えよう。
 天才の早すぎる死は、惜しんでも惜しみきれない。(2月10日)

  数年前から、世界的に反捕鯨の動きが広まっている。特に、アメリカの環境保護団体は、日本の調査捕鯨に対してきわめて批判的で、時には実力行使すら辞さない。こうした反捕鯨の運動家たちは、自分の主張の正当性をほとんど疑っていないだけに、しばしば確信犯的な言動すら見られるが、はたして、それほどの確固とした理論基盤があるのだろうか。疑問に感じざるを得ない。
 多くの人が指摘しているように、鯨の知性が高いということは、捕鯨を批判する論拠にならない。その理由は、2つの側面から論じられる。第1に、鯨の知性は、他の哺乳類に比べて必ずしも抜きんでているわけではなく、人間と鯨の差は、鯨と牛や豚の差よりはるかに大きいことがある。この点は、鯨が行う通信が、分節的なコート体系ではなく、むしろ牛や馬の“鳴き交わし”に近いシグナルであることによって傍証される(ただし、鯨の言語については未だ不明な点が多い)。また、鯨の集団行動は、ガゼットなどの集団性の動物と類似のパターンを示しており、鯨を他の哺乳動物と別格に扱う必然性はない。
 第2の側面として、よし鯨の知性が多少高いとしても、だからと言って鯨を特別扱いする理由にならないことを指摘しておこう。実際、「利口な動物を殺してはいけない」という命題は、裏返せば、「馬鹿な動物なら殺して食べてもかまわない」という意味になりかねない。知性によって取り扱いに差をつけるのは一種の差別であり、牛や豚を含めた一般的な生命の尊厳という概念を貶めることになる。また、知性がない動物を殺すのが残酷でないという主張がナンセンスなことは、バイオテクノロジーによって大脳皮質を欠いた牛や豚を創って食用とする計画の非情性に思いを馳せれば明らかだろう。人間が倫理的に責任を感じなければならないのは、個々の生物の知性ではなく、この世界に満ちている生命一般に対してである。こうした生命そのものの尊重は、生あるものを殺さなくては生きていけない人間(および他の生物)の業を、宗教的に浄化する契機になる。キリスト教のある解釈では、鯨は神が人間に帰属させた動物に含まれていないため、食用に供するのが忌避されるようだが、この教義を他の宗教の信者にも押しつけようとするなら、それは狭隘なドグマに堕すだけである。個別宗教の教義を他者に強要することが許されるならば、牛を神聖なものとするインドの一部の信徒が、アメリカに対して、「牛を嘱するような野蛮な風習を改めない限り鉱物資源の輸出を制限する」と主張するのも可能なはずである。
 反捕鯨を主張する最も妥当な理論的根拠は、生態系の保護が必要だという認識である。人間は、いかに科学的知識が増大したとはいえ、生命の活動については全くの無知に等しい。例えば、形質の進化において、ダーウィン的淘汰がどの程度働いているか、
いまだにはっきりとさせられない。人間も未知なる生態系の一部を構成する以上、人間にとっての生活環境をどのように整備すればよいかについて、われわれは、何も知らないのだと自覚すべきである。現在の都市は、きわめて人工的な意匠に基づいて設計されているため、一見合理的に見えるが、人間の生理的・心理的実態に必ずしも即しておらず、諸々の都市問題を産み出している。このような状況の下で、われわれは、本来人間が属すべき世界の実相を開示してくれる“自然の”生態系を、可能な限り保持しておくべきである。こうした生態系の保護は、いわゆる“動物好き”による小動物の愛玩とは、本質的に異なる。動物がかわいそうだから保護するのではなく、生態系の破壊が人間を含めた生命全体の尊厳にかかわるからこそ、自然保護が必要になるのだ。この点を見誤ると、動物園や医療機関で飼われている動物の救済と鯨の捕獲反対が同一の基盤で論じられるというトンチンカンが生じる。
 さて、生態系の保護の必要性を認めた上で、これが捕鯨反対の根拠として利用できるかを考えてみよう。すなわち、捕鯨が鯨の生態系の破壊に通じるかどうかである。明らかに、19世紀以来の鯨の乱獲のため、多くの種が激減し、シロナガスクジラやマッコウクジラなどが絶滅しかかっている。当然のことながら、こうした種を捕獲し、食用に供する事は許されない。しかし、鯨の中には、確実にその個体数が増加している種もある。もちろん、19世紀に比べて大幅に減少し、南氷洋に追いやられた種が徐々に生態系を回復させている過程なので、増加分のうち、捕獲が許されるのはたかだか20%、できれば10%以下に止めたいところだろう。だが、少なくとも、現在許されている調査捕鯨の程度なら、生態系に対するダメージとはならないと考えられる。
 こうした議論に対しては、そもそも野生動物食すること自体が生態系を破壊する野蛮な行為であり、文明化した社会では、養殖動物のみを食べるべきだという主張もある。これは、一見妥当なように見えて、その実、きわめて独善的な立論である。なぜなら、こうした主張の背後には、人間が“自然の”生態系から独立した種であり、生態系を保護する立場にあるという人間至上主義が窺えるからである。実際には、人間も一連の自然的過程の中に組み込まれた一つのリンクにすぎないのだ。人間が置かれている状況を忘れて、僭越にも人類は生態系の上に立つと考えるのは、単におこがましいのみならず、生物としての人間の衰退をもたらしかねない。具体的には、動物性タンパク質を人工環境の下で飼育した家畜に頼った結果、多くの文明人が、タンパクと脂質のバランスが崩れてた食生活を余儀なくされ、肥満などの成人病に蝕まれることとなった。しばしば、日本食は成人病予防に効果があると言われるが、これは、余剰脂肪の少ない“野生の”魚を多食することに依る面が大きい。
 最後に、鯨を食することの文化的側面について考察してみよう。食文化というのは、単に栄養を補給するだけのものではなく、当該文化圏における社会のさまざまな面にかかわっている。例えば、動物タンパクの摂取量が厚生省などの示した必要基準を大幅に下回っているアフリカ内陸部の原住民が、決して栄養不良に陥らず、やせてはいても筋骨逞しい体型をしていることに注意を向けるべきだろう。これは、長い歴史を通じて、体の特性を変化させ、その社会にとっての最善の食生活を実現させていることの好例である。このように、食文化とは、社会生活と一体化しており、簡単に改変することは危険である。含有タンパク質が同量だという理由で、特定社会で食されている動物を別の生き物に振り替えることは、時として社会に深刻な影響を与えかねない。もちろん、鯨は日本人の食生活のごく一部を占めるにすぎない。しかし、だからといってこれを安易に放棄するのは、日本人に最適化された食文化を崩壊させることに通じかねないのだ。(3月15日)

  NHK教育ETV8の枠で、『アジアの伝承医学』と題して、インドと中国の医療現場をレポートしていたが、多くの点で興味深いものであった。中国・インドの医学に共通しているのは、人体をシステムとして総合的に把握する視点である。この視点は、いわゆる「未病」に対する理解を深めるだけではなく、「疾病」に関しても、多くの有効な治療手段を与える契機となる。
 一般に、西欧医学の場合、複雑な生理現象を分析的に単純化したために、過度に還元論的な議論を行うきらいがある。細菌感染症の場合を考えよう。西欧的な見地に立てば、バクテリアの侵入と疾病の発症は、因果的な原因と結果の関係にある。この理解は、因果関係が、一連の現象を、コントロール可能なノードと、それらを結びつけるリンクに分節したものであることを失念しなければ、決して誤りとは言えない。しかし、この見方を治療の現場に外挿して、原因となるバクテリアを除けば健康が回復すると考えることは、あまりに短絡的である。東洋医学的な視点を導入すると、病気は、むしろ、バクテリアをストレッサーとする総合的なストレス応答として捉えられるべきである。こうした捉え方は、例えば、発熱という生理現象を説明する上で好都合である。細菌感染症の症状の一つである発熱は、バクテリアが直接的にもたらすものではなく、身体の側の免疫反応の一種である。解熱剤の投与が、しばしば病状の改善をもたらすのは、生体内におけるエネルギー配分が変化して抗体産生などの有効な免疫活動が効率的に行われるようになるからだと考えられる。(3月16日)

  麻薬の蔓延が、大きな社会問題になっている。麻薬に起因する問題は多岐にわたり、LSDや覚醒剤の幻覚作用による殺人等の凶悪犯罪、麻薬売買を通じての非合法組織の拡大、トリップ体験への嗜好がもたらす労働意欲の低下などがある。日本では、これまで、諸外国に比べて、麻薬犯罪の阻止に成功してきたといわれていたが、ここにきて、暴力団が資金稼ぎのために行う覚醒剤の売買に加えて、市販の風邪薬や睡眠薬に含まれる麻薬成分を利用する動きが見られ、麻薬汚染が広まる兆しが現れている。
 こうした状況下で見直されなければならないのが、各民族がアルコールを規制している手段である。アルコールは、血液−脳関門を通過して直接的に中枢神経系に作用して嗜癖を引き起こす強力なドラッグである。アルコールに起因する犯罪件数や中毒による死亡者数も、マリファナやヘロインに比べて格段に多い。しかも、きわめて簡単に製造できるため、1920年代のアメリカの失敗が示しているように、法的に規制するのは難しい(ただし、禁酒法が、アメリカ国民のアルコール消費量を大幅に減らし、その健康増進に寄与したことは、否定しがたい事実である)。そこで、多くの文化圏では、これを社会意識の上で規制する道を選んだ。例えば、日本の場合、アルコール分解酵素を持たない人が多いにもかかわらず、日本酒のアルコール度数がかなり高いため、熱することによって口内粘膜からの吸収率を高め、速やかに酔いが回るようにしている。このほかにも、猪口を用いて一度に少量しか摂取できない飲用法を採用したこと、飲酒が断続的になるように返杯のような作法を一般化したことなど、アルコール依存症の多発を防ぐさまざまな文化的な仕掛けが考案されている。もちろん、「昼間から酒を飲むこと」に対する道徳的嫌悪感という直接的な規制も忘れてはならない。このように、人類にとって最も危険なドラッグであるアルコールを、文化的手段のみによって(ある程度)封じ込めることに成功している以上、他の麻薬を防ぐために文化的意識を高めることに、かなりの有効性が期待できると思われる。(3月31日)

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©Nobuo YOSHIDA