◎バシリスクの水上走行

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 トカゲの一種であるバシリスクは、後肢で立ち上がって水の上を走り抜けることで知られている。同じような水上走行を見せるトカゲは、他にも何種かいるが、いずれも後肢を素早く動かすことで、水中に沈むのを防いでいるように見える。しかし、この動きを物理学的に解明するのは、意外に難しい。

 バシリスクの水上走行を扱った論文としては、次のものが有名である。

  J.W.Glasheen and T.A.McMahon, 'A hydrodynamic model of locomotion in the Basilisk Lizard,' Nature 380 (1996) 340-342

ここでは、この論文の内容を簡単に紹介してみよう。

 バシリスクの水上走行を解析するためには、まず、データを集めなければならない。そのために、コスタリカで採取された平均体重90グラム(89.3±6.1g)の7匹のバシリスク(チャイロバシリスク、Basiliscus basiliscus )がハーバード大学に運び込まれた。著者たちは、長さ3.66メートル、幅43センチ、深さ30センチの水槽を用意し、この上をバシリスクたちに何度も走らせては、その過程を高速度ビデオカメラで撮影した(この間にあったと想像される苦労について、論文では触れられていない)。こうして、後肢が水を蹴るときのスピードや時間が測定され、物理学的な解析が行われた。

 バシリスクの後肢の動きは、3つの過程に分けられる。

  1. 水面を打つ(slap)過程 : 後肢が水面に接触した際の衝撃力による瞬間的な過程。
  2. 水面を蹴る(stroke)過程 : 後肢が水面を押し下げていく過程(ある試行での継続時間は44ミリ秒)。このとき、後肢は水中に没するのではなく、10センチほどへこんだ水面上の柱状空洞内にある。
  3. 後肢を引き上げる過程 : 後肢は空洞がつぶれる前に引き上げられるので、水からの力をほとんど受けない(空洞がつぶれるまでの時間は80〜90ミリ秒、ある試行における3つの過程の継続時間は68ミリ秒)。

 この3つの過程は、片足ずつ間隔をあけずに繰り返されている。したがって、3つの過程の継続時間Tの間に体を支えるのに必要な力積mgT(mg:バシリスクに加わる重力)が、1.と2.の過程で生み出されているかどうかが問題となる。

 1.の水面を打つ過程で生じる力積を理論的に求めるのは難しいので、実物と同じ形をした後肢の模型で水面を打つ実験が行われた。この模型は、あるバシリスクの後肢で中手指節関節から爪先や踵までの間隔などを正確に測定したデータに基づいて、厚さ0.762ミリのアルミ板で作られており、足裏の面積は6.1平方センチだった。水面を打つ実験で、水面に衝突するときの速度と模型の後肢が受ける力積の測定を繰り返したところ、両者はほぼ比例していた(衝突速度が秒速1メートルのときは0.0033ニュートン秒)。したがって、ビデオ映像からバシリスクの後肢が水面を打つ速度が求められれば、この比例関係を使って、その際に受ける力積の大きさがわかる。32の測定データを解析したところ、体を支えるのに必要な力積mgTの18.3±2.7% が、この過程でもたらされていた。

 2.の水面を蹴る過程で生じる力積は、実験と理論を組み合わせて求められる。まず、後肢の模型を使って、水面を一定速度で押し下げるときに受ける力が測定された。このデータを元に、ビデオに映っている速度のときに後肢がどれくらいの力を受けるかを求め、さらに、その力のうちの体を支える成分を時間積分することで、力積が計算される。1.の過程と同じく32の測定データを解析した結果、必要な力積mgTの83.9±12.8% がもたらされていた。

 これらのデータから、いくつかの興味深い特徴が読みとれる。特に重要なのは、一般的な予想に反して、1.の水面を打つ過程からの寄与が2割弱と意外に少ない点である。水面を打つ瞬間には大きな衝撃力が発生するものの、継続時間が短いために力積が小さくなったためだ。表面張力を利用して水面を走っているように見えながら、実は、水を押し下げるときの反作用で体を支えているのだ。しかも、1回のストロークでは力積が不足し、次のストロークで盛り返しているケースも少なくなかったという。

 水上走行で消費されるエネルギーも、後肢が受ける力から推定できる。エネルギー消費は2.の水面を蹴る過程でのみ生じると仮定し、この過程で受ける力を変位で積分することにより、体重1キログラム当たり29ワットのエネルギーを消費すると求められた。トカゲの後肢で利用できる総エネルギーに関しては、体重1キログラム当たり最大135ワットというデータがあるので、バシリスクは余裕を持って走っていることになる。

 著者たちは、この結果を人間にも当てはめている(科学者ならではの遊び心だ)。スプリンターのデータによると、人間は1.〜3.に相当するサイクルを0.26秒で実行できるので、体重が80キログラムならば、mgT=204[N秒]の力積が必要とされる。足裏を半径10センチ程度の円で近似し、深さ50センチほど蹴り入れると仮定して、体を支えるのに必要な速度を求めると、秒速30メートルとなる。このスピードで足を動かすのは、現実には不可能だ。さらに、この過程で消費されるエネルギーを計算すると、人間の限界(体重1キログラム当たり20ワット、トカゲよりかなり低い)の15倍ものエネルギーが必要になることがわかる。つまり、どう足掻いても、人間は水面を走れないのである(当たり前か)。

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©Nobuo YOSHIDA