◎シュレディンガーはいかにして波動方程式を見いだしたか?

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 1925年にエルヴィン・シュレディンガーが見いだした波動方程式−−いわゆるシュレディンガー方程式−−は、現代物理学の基礎として今なおきわめて重要な役割を果たしている。本稿では、彼がどのような思考過程を経てこの方程式に到達したかを論じたい。

 シュレディンガーが波動方程式についての研究を始めるきっかけになったのは、1924年に提出されたルイ・ド・ブロイの博士論文である。ド・ブロイはこの博士論文で、1923年頃から短い論文を通じて発表していた物質波に関する議論を全面的に展開した。だが、電子との関係や伝播の仕方に関する具体的な記述はほとんどなく、実験データとの比較もなされていない。物理学の理論と言うよりは思いつきに近い内容で、他の物理学者からもあまり注目されなかった。わずかにアインシュタインが、ボース=アインシュタイン凝縮に関する論文の中で、自説を補強する目的で引用した程度である。ド・ブロイによる素朴な物質波のアイデアを、シュレディンガーはいかにして壮大な理論へと止揚したのか? 本人がその過程をつまびらかにしていないので推測に頼るしかないが、おそらく、次の4つのステップを辿って波動方程式に到達したものと思われる。

1.粒子概念を捨てて波動だけの方程式を考える

 ド・ブロイによる物質波の議論では、粒子として取り扱われる電子と物質波の関係が必ずしも明確でない。物質波は電子に付随すると言ったかと思うと、物質波の一部が凝縮して粒子状になるというイメージを語ることもあり、理論としての一貫性に欠ける。シュレディンガーは、粒子と波動の二面性に伴う曖昧さを避けるため、粒子概念を用いず、波動の一元論で話を進める道を選んだ。波動一元論の発想は、1927年にハイゼンベルクに手厳しく批判されることになるが、この時点では、方程式によって物質波を取り扱う唯一の手法であり、正しい選択だったと言える。粒子のイメージをきっぱり切り捨てたことによって、概念的な混乱に陥ることなく数学的な議論を全うすることができた。

2.相対論にこだわらない

 残された研究ノートによると、シュレディンガーは、波動方程式を検討し始めた当初、相対論的な式を求めようとしたらしい。波動現象を扱う方程式としては、19世紀以降さまざまなタイプのものが考案されていたが、ローレンツ変換に対して不変性を保つ相対論的な方程式は、次の形のものが知られている:
  (△ - ∂2/c2∂t2)ψ = f(ψ) (Δ:ラプラシアン)
シュレディンガーはこのタイプの方程式(fがψの1次式のもの)をいろいろといじり回したようだが、間もなく、この式を使っていたのでは、水素原子のように電子が定常状態になるシステムをうまく扱えないと判断する。そこで、シュレディンガーはすぐに発想を切り替え、相対論にこだわらずに波動方程式を立てる決断をした。原子物理という当時の最先端分野において、「基礎方程式は相対論に従うべし」という原理的な要請を無視することは、ある意味で英断である。この決定の正当性は、その後に行われたエネルギー準位などの非相対論的な計算が充分に良い近似になることで確かめられた。

 ここで注意しておかなければならないのは、シュレディンガー本人が相対論にこだわらなかったにもかかわらず、シュレディンガー方程式そのものは相対論的な式だという点である(この点に関しては、多くの書物に誤った記述が見られる)。対象とするシステムのハミルトニアンをHとすると、時間に依存するシュレディンガー方程式は次の形で表される:
  {(ih/2π)∂/∂t - H}ψ = 0
ここで、時間微分は4元座標xμによる微分の第0成分、ハミルトニアンは4元運動量Pμの第0成分であることを使えば、シュレディンガー方程式は、4元方程式:
  {(ih/2π)∂μ - Hμ}ψ = 0
の第0成分であることがわかる。上の4元方程式はローレンツ変換に対して共変であり、相対論の要請を満たしている。非相対論的だったのは、粒子描像に基づいて導かれたハミルトニアンHの具体的な形の方なのだ。

3.定在波の式を立てる

 シュレディンガーの洞察力が最高度に発揮されたのは、波動方程式は定在波(定常波)に関するもので充分だと見抜いたときである。

ka_fig48.gif  ド・ブロイは、水素原子核の周囲を円運動する電子に関して、「1周したときに同じ位相になる」という条件が満たされているときに定常状態が実現されると考えた。軌道半径をrとすると、軌道に沿った長さは2πrなので、ド・ブロイが与えた条件は、波長λの波が2πr進んだときに周回遅れの波と同じ位相になるという式、すなわち、
  2πr = nλ  (n:整数) …(1)
となる。ド・ブロイは、すでに物質波の形式に関する議論を通じて、物質波の波長λと運動量mvの間に、関係式:
  mv = h/λ  (h:プランク定数) …(2)
があることを導いていた。式(1)と式(2)を組み合わせると、
  mvr = nh/2π
となるが、これは、1913年にボーアが水素原子模型を提唱した際に利用した量子条件と等しい。ボーアは、この量子条件を課すことによって、水素原子の線スペクトルに関するリュードベリの法則を導くことができたが、この量子条件が何を意味しているかは、理解の埒外に置かれていた。ド・ブロイは、物質波の干渉という直観的にわかりやすい議論によって、意味不明だったボーアの量子条件を理解する方向性を示したのである。
 ド・ブロイが与えた式(1)は、冗長な博士論文の終わり近くに出てくるので、本気でこの論文を読破しようとした少数の物理学者にしか気づかれなかったが、シュレディンガーは見逃さなかった。しかも、粒子概念を捨てて波動だけの方程式を立てるべきだと考えていたシュレディンガーは、円運動する電子に付随して軌道上を進む波というド・ブロイのイメージが不適切であることにも気がついた。電子が存在しないとするならば、軌道上だけではなく原子核の周囲全体に拡がる波を想定しなければならない。そうなると、これは円軌道に沿って進む進行波ではなく、同じ場所で上下動を繰り返す定在波と見なすべきである。たとえ定在波であっても、軌道に相当する円周上で位相が少しずつずれながら振動していれば、そこで見ている限り進行波のように振舞う。しかし、全体としてみると、どこにも進んでいかずに原子核の周りに留まる定在波となっている。そして、定在波ならば、各地点での振幅を求める方程式には時間微分が含まれない。つまり、「時間に依存しない波動方程式」を考えれば良いのである。

4.方程式は線形だと仮定する

 シュレディンガーは、求めるべき波動方程式は波動関数に関して線形だと仮定した。その後に開発された量子力学的な解釈によれば、波動関数は重ね合わせの原理を満たす確率振幅となる。したがって、波動方程式が線形であることは、理論の原理的な要請となる。しかし、シュレディンガーが波動方程式についての考えを巡らしていた時点では、線形である必然性はなかった。むしろ、複雑な波動現象を可能にするには、非線形の方程式を考える方が自然である。にもかかわらず、シュレディンガーは線形の方程式しか扱わなかった。単に、線形方程式の方が簡単で解析しやすかっただけなのかもしれないが、そうであれば、議論のどこかに非線形に拡張することが可能だという留保をつけておくのがふつうである。そうしなかったのは、論文に曖昧さを残したくないという彼の美意識からなのか? その辺りは定かでないが、ともあれ、これで波動方程式を求める目処が立った訳である。

 想像するに、シュレディンガーは、定在波に関する線形の波動方程式として、まずヘルムホツルの方程式:
  Δψ + (2πν/c)2ψ = 0
を取り上げたはずだ(研究ノートにも、この式が記されている)。この式は、空洞共振器内部の電磁振動を求める方程式として、19世紀末から盛んに研究されてきた。空洞共振器内部には定在波が形成されるので、同じく定在波となる原子内部の物質波について研究する端緒になると期待できる。ただし、この式に現れる (2πν/c)2 という係数は、ψを時間について2階微分した結果として出てきたものであり、もともとのマクスウェル方程式が相対論的であることを示すものである。相対論にこだわらないという立場からすると、係数が (2πν/c)2 でなくても良いはずである。おそらくシュレディンガーは、ド・ブロイの議論に振動数νではなく波長λが繰り返し出てきたことから、
  ν/c = 1/λ
と置き換えて、さらにド・ブロイが与えた関係式(2)を使って、ヘルムホルツの方程式に現れる第2項の係数を、
  (2πmv/h)2
と書いたことだろう。ここで、何かが閃いたに違いない。mv2/2 は電子の運動エネルギーなので、全エネルギーEとポテンシャルエネルギーVの差として与えられる。つまり、第2項の係数は、
  (2πmv/h)2 = 2m(2π/h)2)(mv2/2) = 2m(2π/h)2(E - V)
となる。これより直ちに、もともとのヘルムホルツの方程式は、
  ((h/2π)2/2m)Δψ + (E - V)ψ = 0
と書き換えられる。これはまさしく「時間に依存しないシュレディンガー方程式」そのものである。シュレディンガーは、このようにして波動方程式を導いたのではないだろうか。

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©Nobuo YOSHIDA