◎科学的哲学とは

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 現代科学が明らかにした世界の姿は、人間が日常生活で採用している認識の枠組みに収まりきらない。この事実は、世界の本質を解明しようとする哲学的探究において、旧来の方法論が大幅に修正されなければならないことを意味する。

 人間的な認識の典型は、言語の文法構造に見いだされる。多くの民族は、名辞と述語を分節的に扱うが、これは、対象を客体として措定した上で特徴分析を行うという認識論的な方略を反映したものである。人間は、まず注意を向ける“何か”を捉え、それがどのような性質を持っており、どのような動きを示しているかを段階的に理解していく。こうした認識の枠組みを哲学的に洗練したものが、「実体−属性」「本質−現象」といった対立的な図式である。世界についての語りは、しばしば(明示的であるか否かは別にして)こうした対立的な枠組みに当てはめることで、理解したような気分にさせてくれる。

 問題は、こうした枠組みが、あくまで人間にとっての便宜にすぎないという点である。人間的な理解の仕方によれば、例えば、生体膜という「実体」が存在しており、これに膜弾性のような「属性」が付随しているということになる。しかし、実際には、液体内部で親水基と疎水基を持つ分子が一定の向きに配向して集まったものが膜構造を形成しており、これが安定した膜として維持されるためには、局所的な変形を復元するような膜弾性が備わっていなければならない。つまり、生体膜と膜弾性は1つの現象を異なる観点から記述したものであり、実体と属性という対立的な関係にあるわけではない。また、協同現象によって形態形成が実現されているシステムでは、形態を実現する本質は現象そのものであり、現象以外に本質はない。「実体−属性」「本質−現象」といった対立的な図式は、世界の本質を明らかにする上で、必ずしも役に立たないのである。

 人間が日常生活で採用するような認識の枠組みが利用できないとなると、どのような哲学的方法論を採用すべきなのか。20世紀の哲学者は、しばしば言語論を規範としてきた。しかし、言語は、シンタクスにせよセマンティクスにせよ、人間の認識方略をベースにしており、その限界を超克できない。人間的な理解の枠組みに全面的に依存しないという点では、科学的方法論を参考にするのが妥当だろう。特に、機能的モデルを用いた理論は、哲学においても有効性を発揮すると期待される。

 モデルによる方法論が有効な例を示そう。人間がある行動を取った原因として、一般に二重の説明が可能である。例えば:
 (1) 彼が水の入ったコップを手に取ったのは、喉が渇いて水が飲みたいと思ったからだ。
 (2) 彼が水の入ったコップを手に取ったのは、喉が渇いたという知覚入力に応じて水を飲むという運動プランを脳が策定し、それを実行するための神経出力によって手の筋肉が動いたからだ。
こうした二重の説明がなされるのは、背後に乗り越えがたい心身二元論のアポリアがひかえているからだろうか。

 モデルに基づく考察に慣れている者は、こうした詭弁に騙されることはないはずだ。(2)の説明が、モデル化可能な生理学的プロセスの因果関係を記述しているのに対して、(1)の説明は、意識と行為のアソシエーションを記述しているだけであり、完全に両立可能なのである。生理学的なプロセスに関しては、まず、それほど精密でないモデルを暫定的に仮定して粗っぽい説明を試み、それに成功すれば、より精密なモデルを考案していくという積み重ねによって、段階的に理論を精緻化していくことができる。これに対して、アソシエーションに関しては、伴って現れることが経験的に確認されるだけで、理論の精緻化が困難である。

 実は、上の二重説明の問題に関しては、認知心理学に基づいて、より踏み込んだ議論を行うことができる。通常、運動プランの策定は無意識的に行われており、その内容は、運動指令として投射されるとともに、フィードバック用のデータとして連合野に随伴発射される。随伴発射された内容が連合野で他の知覚や記憶と連合されたものが意識だと仮定すれば、意識と行為の間にアソシエーションが成立する理由が説明できる。実際、人間がどのような行動を取るかは、その行動プランを意識する以前に決定されていることを示唆する実験データがある。この仮定を受け入れるならば、(2) の記述に用いられたモデルを精密にすることによって、(1)の記述がコロラリとして導かれる。

 モデルに基づく哲学的方法論が他の全ての方法論に卓越するのは、日常的に用いられる認識の枠組みでは決して理解できないようなプロセスを相手にする場合である。膨大な数の自由度が関与する統計的な現象の場合、事態の進行を原因と結果に分けて記述することは一般に困難だが、ポテンシャルモデルが適用できるような構造変動に関しては、「ポテンシャルが最小になる位置の変動」を「構造因」として捉えることが可能になる。これは、アリストテレス以来、多くの哲学者が提案した「原因の分類」に、新たな項目を付け加えるものである。

 モデルによらなければ議論が困難になる最たる例が、「現在」という時刻の扱いだろう。人間の思考は常に現在に束縛されているため、現在を他の時刻から区別するための認識の枠組みを持ち合わせていない。現代の最先端物理学では、時間とは、時間軸と呼ばれるようなのっぺりした拡がりではなく、その内部で量子ゆらぎが生じるような膨大な次元の集まりとされる。それぞれの時刻は異なる次元であり、現在とは、その次元内部で実現されている物理的状態にとっての時刻となる。異なる時刻に属する物理的状態は、ある程度の相関と個別的な独立性を兼ね備えている。こうした物理学的モデルは、必ずしも正当化されたわけではないが、「現在」について考察する際に、1つの視座を提供してくれることは間違いない。

  哲学と訳される英語の“philosophy”は、「知(sophia)を愛する(philo-)」ことを意味する。とすれば、膨大な知見を集積しつつある現代科学の成果を無視することは、哲学本来のあり方をないがしろにする行為だろう。プロクルテスの寝台さながらに、言語分析などから得られた認識の枠組みに無理矢理押し込めるのではなく、科学的なモデルを柔軟に援用しながら世界についての理解を深めていくことが、これからの哲学の進むべき方向だと考える。

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©Nobuo YOSHIDA