◎積極的安楽死について

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 積極的安楽死を巡ってさまざまな議論があるが、ここでは、積極的安楽死を合法化する場合に問題となるいくつかの論点に関して、簡単な解説を試みる。

■安楽死の分類

 安楽死は、行為の能動性と患者の自発性という2つの観点から、それぞれ2種類に分類できる。

行為の能動性をもとに
・積極的(active): 致死量の薬物の投与によって能動的に死に至らしめる
・消極的(passive): 延命治療の中止や苦痛の緩和によって結果的に死期を早める
 上の分類の他に、「直接的(direct)安楽死/間接的(indirec)安楽死/延命医療の中止」という3分類法を採用する論者もいる。間接的安楽死とは、モルヒネなどの疼痛治療薬の大量投与によって、苦痛の緩和と安楽な死という2重の効果(double effect)を引き起こすことを意味する。
患者の自発性をもとに
・自発的(voluntary):正常な精神状態における患者本人の意志による
・非自発的(non-voluntary):患者の意志によらない

 以上をまとめると、安楽死は次の4類型に分類される。

【安楽死の4類型】
積極的−非自発的(慈悲殺)消極的−非自発的
積極的−自発的消極的−自発的(尊厳死)

 社会的に容認される積極的−自発的安楽死としては、死に至る最終行為を、医師が遂行する場合と、医師が処方した薬物に基づいて患者自身が行う場合がある。以下の議論では、この2つのケースに限って議論を進めるので、両者を併せて「安楽死」と呼び、特に区別したい場合は、前者を「安楽死」、後者を「PAS(physician-assisted suicide)」と言うことにする。


■安楽死に関する法制

 安楽死やPASが合法化されているのは、2002年現在、オランダ、ベルギー、米オレゴン州のみである。

(1)オランダ
 オランダでは、1990年代から安楽死が事実上容認されていたが、2001年4月にいわゆる「安楽死法(要請に基づく生命の終結と自殺幇助の審査手続き法)」が成立し、次の条件を満たす安楽死が刑法犯罪から除外された(第2章第2条(1))[1]
…担当医は
  1. 患者が任意にかつ注意深く考慮したということを確信していなければならない
  2. 患者の苦痛は耐え難く、かつ回復の見込みがないことを確信していなければならない
  3. 患者に本人の現状とこれからの見込みを伝えていなければならない
  4. 患者の状態に鑑みて、患者とともに合理的な代替案がないという結論に達していなければならない
  5. …中立医少なくとも一人に意見を求めていなくてはならない
  6. 適切な医療処置および配慮のもとで患者の生命を終結させる、または自殺幇助していなければならない

 安楽死地域審査委員会によると、1998年11月−99年12月に2565件の安楽死の報告を受け、うち3件以外で医師は規則に沿った適切な措置を取ったという。対象患者の90%以上がガンを患っていた。
(2)ベルギー
 2002年5月にベルギー下院は医師による安楽死を合法化する法案を賛成多数で可決した。オランダと同様に、(1)本人の強い希望、(2)耐えがたい苦痛、(3)複数の医師の同意──などの条件を満たせば、医師が患者を安楽死させても刑事罰には問われない。
(3)米オレゴン州
 オレゴン州では、1994年にPASを容認する尊厳死法(Death With Dignity Act)の法案が住民投票によって51%の賛成を得て可決された。これに対して、憲法違反の可能性があるとして裁判所から差し止め命令が出されたが、1997年に連邦最高裁が憲法違反に当たらないと裁決、同年行われた住民投票でも再び住民に支持され、オレゴン州は、PASが合法化された唯一の州となった。
 オレゴン州尊厳死法(Oregon's Death With Dignity Act)の主たる条文は、次のものである[2]
 An adult who is capable, is a resident of Oregon, and has been determined by the attending physician and consulting physician to be suffering from a terminal disease, and who has voluntarily expressed his or her wish to die, may make a written request for medication for the purpose of ending his or her life in a humane and dignified manner in accordance with this Act.(2.01)
 ただし、"terminal disease"とは、医学的に確定された不治の非可逆的な疾病で、6ヶ月以内に死をもたらすと医学的に診断されたものである(1.01-12)。
(4)その他の国/州
 安楽死が合法化されていない国/州でも、秘かに実施されていると考えられる。アメリカでの調査によれば、ガン専門医の64%が、患者から安楽死/PASの要請を受けたことがあり、13%が実施したことがあると答えている(American Society of Clinical Oncology, 1995)。また、一般医の11%が安楽死の、18%がPASの要請を受けている(New England Journal of Medicine, 1995)[3]
(5)日本
法律はないが、積極的安楽死が容認される要件が2つの判決で示されている。
名古屋高裁判決(1962)における安楽死6要件 : 脳溢血で倒れ、死期が迫った父親から「苦しい、殺してくれ」と懇願された息子が、牛乳に農薬を入れて死なせた事件。以下の6要件を満たしていないとして、懲役1年・執行猶予3年の有罪判決が下された。
  1. 病者が、現代医学の知識と技術からみて不治の病に冒され、しかもその死が目前に迫っていること。
  2. 病者の苦痛が甚だしく、何人も真にこれを見るに忍びない程度のものなること。
  3. もっぱら、病者の死苦の緩和の目的でなされたこと。
  4. 病者の意識が、なお明瞭であって意思を表明できる場合には本人の真摯な嘱託、または承諾のあること。
  5. 医師の手によることを本則とし、これによりえない場合には、医師によりえないと首肯するに足る特別な事情があること。
  6. その方法が倫理的にも妥当なものとして認容しうるものなること。
横浜地裁判決(1995)における(医師による)安楽死4要件(要約) : 東海大付属病院で、「楽にしてやってほしい」という家族から依頼を受けた医師が、意識が混濁したガン患者に塩化カリウムを注射して死なせた事件。4要件を満たしていないとして、懲役2年・執行猶予2年の有罪判決。
  1. 耐え難い肉体的苦痛がある。
  2. 死が避けられず、死期が迫っている。
  3. 苦痛を緩和する代替手段がない。
  4. 患者本人の安楽死を望む明確な意思表示がある。
 横浜地裁判決では、「安楽死は医師が行うべきである」との前提があるため、名古屋高裁の「医師の手による」「方法が倫理的に妥当」という2要件がなく、また、「代替手段がない」ことを要件として加えている。

 以下では、横浜地裁判決の4要件について、医学的な観点から検討していきたい。


■「耐え難い肉体的苦痛」

 安楽死が必要とされる主たる理由として、苦痛からの解放が上げられる。SUPPORT(末尾の略語表参照)の報告によれば、半数以上の患者が、死ぬ前の3日間に中程度〜高度の苦痛を体験している。高齢者の介護者からの報告では、1227人の死者の33%が死ぬ直前の24時間に苦痛のうちにあった。「肉体的苦痛に苛まれながら死ぬよりは、死期が早まるとしても安楽な死を迎えたい」という発想が、安楽死を容認する最大の根拠になっていると思われる。

 こうした立論に対しては、いくつかの反論がある。その最大のものは、多くの苦痛は医学的に除去可能であり、医学の現場に最先端のペインクリニックが浸透すれば、安楽死は不要になるという主張である。

 実際、少なからぬ医師が、患者の苦痛を充分に除去していない。NIHの調査によれば、アメリカでは、患者の46%が不十分なペインクリニックしか受けていない。例えば、骨ガンは最も痛みの強いガンだと言われるが、ガンの骨転移は単純X線写真だけではわかりにくいため、医師が軽視しがちだとされる。また、1992年に日本で看護婦を対象に行われたアンケート調査では、「あなたの施設における医師のガン疼痛治療の内容は?」という問いに対して、1/4以上が「まずい/非常にまずい」と答えている[12]

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 安楽死が必要だとされる疾患の中で実数が最も多いのは、各種のガンである。一般に、ガンは多大な苦痛をもたらす病気であるとのイメージが強い。しかし、こんにちでは、有効な鎮痛薬が開発されており、ガンにおける疼痛の90%以上が制御可能だと考えられている。WHO(世界保健機関)はガンの痛みを人類共通の敵として、下の図で示すような疼痛除去のプログラムに基づいて、その闘いに全力をあげるように訴えている。

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 重要なポイントをまとめる。

◆鎮痛薬
・非オピオイド…アスピリン、アセトアミノフェン、インドメタシン、イブプロフェンなど
・軽度〜中程度の痛み用オピオイド…コデイン(アスピリンの10〜20倍の鎮痛効果)など
・中程度〜高度の痛み用オピオイド…モルヒネ(コデインの6〜12倍程度の鎮痛効果)、メサドンなど
◆投与法 : 経口投与、皮下注射、持続皮下注入、座薬、カテーテルなど
・中程度までの痛みには、モルヒネなどの錠剤の経口投与で充分に対応できる。
・強い痛みには、硬膜外ブロック(硬膜外腔にカテーテルを挿入してモルヒネを注入)が有効。ただし、背中に細い管を入れ1日数回注入するため、日常生活には支障をきたす。
◆モルヒネの副作用 : 投与量を誤らなければわずかで、耐性や精神的依存も生じにくい
・便秘(ほとんどの患者に見られる)、吐き気(半数近く)が生じやすい。
・場合によっては、幻覚・せん妄・発汗・口渇、ごくまれに呼吸抑制が見られる。いずれも医療者が的確に対応すれば、大事に至ることはない。
 医師や家族の中には、副作用や依存の発生を心配してオピオイドの使用を控える人もいる。1993年の資料によると、がんセンターの60%以上、大学病院の44%でモルヒネによる積極的な緩和ケアが行われているが、一般病院での実施率は低いと見られる[4]

 「ペインクリニックがきちんと行われれば安楽死は不要になる」という見解に対して、批判意見も少なくない。そもそも、オピオイド鎮痛薬は軟組織の持続的な痛みには著効があるが、頭痛や神経破壊による痛みなど、5-10%程度の痛みに対しては反応が良くない。ガン患者は、転移が進行する末期には複数の疼痛に苦しめられることが多く、全てがオピオイド鎮痛薬で取り除かれるわけではない。また、呼吸困難・吐き気・嘔吐・脱水・無尿・便秘・不眠・腹部膨満・けいれん・出血・褥瘡・全身倦怠感など、単純な疼痛とは異なる肉体的苦痛もある。呼吸困難に対しては気管拡張剤や去痰剤、全身倦怠感に対しては副腎皮質ホルモンというように、各症状に対する治療薬もあるが、オピオイド鎮痛薬ほど劇的には効かず、患者を苦しめる。肉体的苦痛が完全に取り除かれない以上、安楽死は必要だというわけである。

 さらに、「肉体的苦痛は、必ずしも安楽死の主たる理由ではない」という見方もある。実際、オランダでは、鎮痛除去を積極的に行う緩和ケアが行われているにもかかわらず、年間2000件を越える安楽死が報告される。安楽死が選択される真の理由は必ずしも明らかではないが、アンケート等による調査からは、次のような回答が得られている。

オランダで1000人の医師を対象とした無記名アンケートの結果(1989)[5]
「意味のない苦しみ29%」「屈辱に対する不安とその予防24%」…「痛み5%」
オレゴン州でPASを行った医者の報告(6つの選択肢から複数選択)[6]
「自律性の喪失85%」「人生の喜びに参加する能力の減退79%」「人体の制御能力の喪失58%」「家族・友人・看護者にとって重荷35%」「不十分な疼痛治療22%」「経済的理由2%」
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■「避けがたい/差し迫った死」

 名古屋高裁や横浜地裁の判決では、安楽死の要件として「死期が迫っている」ことが上げられている。オレゴン州「尊厳死法」では「余命6ヶ月」の診断が条件になっているが、オランダ「安楽死法」には死期についての規定はない。多くの場合、安楽死は致死性疾患の患者に対してなされるが、そうでない(合法的/非合法的な)ケースも報告されている。どのような疾患の患者に対して安楽死が行われているのか、その実態を正しく把握しておく必要がある。

 オレゴン州で行われたPAS対象者(1998-2002, 129人)の疾患は次の通り。

ガン 79%ALS 8%COPD 6%その他 7%

オランダでは、前述の通りガン患者が9割を占める。

 自殺装置により約130人に対してPASを行ったJack Kevorkian元医師(第2級殺人罪で禁固10-25年の有罪判決)の場合、対象者の疾病で最も多かったのは各種のガンである。以下、ALS、COPD、多発性硬化症、アルツハイマー病、その他(重度の変形関節炎、骨盤障害など)。ただし、多発性硬化症やアルツハイマー病は「死が不可避的」でないため、通常は安楽死の対象にならない。

 上で名前が上がった病名のうち、ガンについては広く知られているが、他の病気に関しては一般に知識が乏しいと思われるので、簡単に解説しておく。

◆ALS(筋萎縮性側索硬化症)
ルー・ゲーリック病とも言う。運動ニューロンを障害する進行性疾患。特発性のものと遺伝性のものがあるが、いずれも発症機序は不明。人口10万人に1人が罹患する。手や指の筋萎縮から始まり、次第に体を動かすことが困難になり、最終的には呼吸筋が制御できなくなって、主に呼吸困難で死亡する。患者の5年生存率は20%程度。進行を遅らせる薬はあるが、治療薬はない。看護者にきわめて大きな負担を掛けることもあって、安楽死を希望する患者の割合は決して小さくないとされるが、その一方で、安楽死が合法化されると、無言の圧力により死を急かされることにならないか心配する意見も多い。著名な宇宙物理学者ホーキングは20歳代でALSを発症し30歳まで生きられないと宣告されたが、合法的な安楽死という選択肢があった場合、数々の大発見をする前に死を選んでいたかもしれない。
◆COPD(慢性閉塞性肺疾患)
慢性気管支炎・肺気腫のことで、息切れ・咳・痰を引き起こす。世界の死亡原因の第4位にランクされる。日本の推定患者数は530万人。主な原因は喫煙。気管支拡張剤などで症状を抑えることはできるが、一度壊れた肺胞を元の状態に戻すのは困難。急性増悪を起こすと、呼吸障害で死亡することもある。重症化したCOPDは、慢性的な呼吸困難という苦痛を患者に与える。
◆多発性硬化症
中枢神経系における神経細胞のミエリン鞘が傷害される。病巣の位置に応じて、身体の動き・感覚・知能・感情・内臓機能などに異常が現れる。欧米では数千に1人の割合で見られる。原因は不明。良性型では急性症状を呈した後に数日〜数週間で回復するが、最も多い再発寛解型では1年に1〜2回の割合で再発を繰り返す。症状が進行する慢性型もある。インターフェロンにより再発が抑制されるものの、治療薬はない。
◆アルツハイマー病
老人性痴呆症の半分以上を占めると言われる。海馬から大脳の灰白質にある神経細胞が死滅し、脳全体が萎縮する。病変部にβアミロイドが蓄積されることは判明しているが、具体的な発生機序は不明。進行を1年近く遅らせる薬はあるが、治療薬はない。致死的な病変はないものの、異常行動に伴う合併症を起こしやすい。痴呆状態になっても長期間生存できるので、看護者の負担は大きい。初期のアルツハイマー病と診断された患者の中には安楽死を希望する者もいるが、その段階では肉体的苦痛はなく、また、痴呆症を発症した後には自己決定能力が喪失するため、通常は安楽死の対象とならない。

 安楽死問題について考えるときには、こうした疾患に関して、「誤診の可能性はないか」「治療法が開発されないか」という点にも配慮する必要がある。

○誤診の可能性
・致死性慢性疾患の場合、病名の誤診は少ない。
・余命の診断には誤差が多い。SUPPORTのデータによると、余命半年以内と診断されたうっ血性心不全患者の28%、肺ガン患者の13%は1年以上生存している。全患者の17%は予測よりも2ヶ月以上、7%は6ヶ月以上生存した[7]
○新しい治療法の開発
 かつて死病と恐れられたAIDSも、近年では(完治はできないものの)病気の発症を抑える抗ウィルス薬が開発されたため、安楽死を希望する者はほとんどいなくなった。一般に、有効な治療法が開発されると、その疾患は安楽死の対象から外されると言って良い。近年、新しい医療・創薬技術が開発され、難病治療法開発の期待が高まっている。安楽死を実行した直後に画期的な治療法が開発される可能性についても、考察しておくことが望ましい。
 ただし、画期的な治療法が発見されても、臨床試験を経て実用化するまでに早くても5年は掛かるため、「死期が目前に迫っている」という要件を課す場合は、治療法開発の可能性をもって安楽死を否定することは難しい。

■「本人の明確な意思表示」

 かつては、医療行為は医師が一方的に治療を施すものだったが、1970年代に入って、患者の自己決定権が重視されるようになる。安楽死も、患者の医療において自己決定権を尊重するものとする見解がある。例えば、「患者の権利に関するリスボン宣言」(1981年第34回世界医師会総会で採択、1995年第49総会で修正)では、次のような患者の権利が認められている[1]

3 .自己決定の権利
  1. 患者は、自分自身に関わる自由な決定を行うための自己決定の権利を有する。医師は、患者に対して、その決定のもたらす結果を知らせるものとする。
  2. 精神的に判断能力のある成人の患者は、いかなる…治療に対しても、同意を与えるかまたは差し控える権利を有する。患者は、自分自身の決定を行う上で必要とされる情報を得る権利を有する。
10. 尊厳を得る権利
  1. 略(プライバシー)
  2. 略(苦痛の除去)
  3. 患者は、人間的な終末期ケアを受ける権利を有し、また、できる限り尊厳を保ち、かつ安楽に死を迎えるためのあらゆる可能な助力を与えられる権利を有する。

 ただし、患者の権利として一般的に認められているのは、(1)情報を得る権利、(2)治療を選択する権利、(3)治療を拒否する権利──であり、特定の医療行為を医師に強制する権利はないとされる。また、次の「安楽死についての宣言」(1987年第39回世界医師会総会で採択)に記されているように、世界医師会は、積極的安楽死に賛成していない[1]

患者の生命を故意に終わらせる行為である安楽死は、たとえ患者自身からの要請であっても、あるいは近親者からの要請であっても、非倫理的である。しかし、この見解は、医師が末期の病状にあって自然なプロセスをたどって死を迎えたいという患者の願望を尊重することを妨げるものではない。

 ここで重要なポイントは、安楽死の決定を行う際の精神状態である。医療の現場における自己決定は、健全な精神状態で完全に自発的になされるべきだと考えられるが、安楽死が行われる局面では、これを阻害する要因がいくつかある。箇条書きで述べていこう。

◆抑うつ状態
 長期慢性疾患の患者には、抑うつ状態に陥る人が少なくない。病気の進行・機能障害・苦痛・欲求不満・知人との交流の喪失・経済的不安・認知能力の衰退などが原因となる。また、疾患による器質的病変や治療に用いられる薬物が直接的にうつの原因になるケースもある。 ▽うつを引き起こす可能性のある疾病:ガン、AIDS、貧血、喘息、慢性感染症、うっ血性心不全、糖尿病、ウィルス性肝炎、インフルエンザ、栄養失調、関節リウマチなど ▽うつを引き起こす可能性のある薬物:降圧剤、副腎皮質ホルモン、精神安定剤など
 死に至る不治の病に冒された人の心理状態は、「(1)初期反応(否認・怒り・混乱)→(2)不安・抑うつ→(3)受容・適応」と段階的に変化すると言われる。ただし、適応段階に達せず、不安・抑うつの中で死を迎える患者も少なくない。
 抑うつ気分とは、憂鬱で悲しく寂しい、落ち込んだ気分で、孤独感が深まり、自信を失い、周囲に迷惑を掛けていると自責的になる。生命感情全般が低下し、思考能力は緩慢になる。不眠・食欲不振などの症状を示す。進行すると、希死念慮(早く逝きたい、死にたい)・自殺念慮が現れる。
 ちなみに、ガン患者に見られる精神症状には、次のようなものがある。
【ガン患者(入院・外来215人)の精神症状】[8]
適応障害(1)うつ病せん妄(2)その他診断なし
32%6%4%5%53%
(1)日常生活に支障を来す程度の不安・抑うつ
(2)脳機能低下による認識力や集中力の障害

 これより明らかなように、ガン患者のかなりの割合が適応障害を示しており、こうした精神状態の中で安楽死のような重大な決定がなされた場合、果たして本人の意志が正しく反映されたものかどうか疑わしい。
 抑うつ状態の治療には、支持的精神療法(支持的な医療者との関係やコミュニケーションを通じて精神的苦痛を軽減し、病気を理解し適応することを援助する精神療法)が有効とされる。症状が顕著なときは、抗不安薬による薬物療法を行うが、眠気・ふらつきなどの副作用を伴う。
◆精神的プレッシャー
 家族・看護者への経済的・心理的負担を気に病んで、本当は死にたくないにもかかわらず「死にたい」と意思表示する患者がいると予想される。
 アメリカでは貧困層に健康保険未加入の者が多く、治療費削減の圧力は日本以上に強い。安楽死に用いられる薬(主にバルビタール系鎮静剤)は40ドル程度と、「最も費用の掛からない」医療である。
◆安易な解決法の提示
 安楽死という選択肢が与えられた場合、さもなくば死を選ばなかった人が選択するかもしれない。
 統計によると、自殺者は真に自殺を望んでいないことがある。自殺未遂者886人の追跡調査によると、5年後までに自殺を完遂したのは34人にすぎない[9]

 このように、慢性的致死的疾患の患者が安楽死を決心したとしても、直ちに自己決定権に基づく正当な決断とは言えない。

 もっとも、安楽死を合法化したときに、こうした自己決定権に違背するような安楽死が増えるとは限らない。逆に、「患者からの自発的な同意」を必要条件とする安楽死法を制定した場合、秘かに行われている非自発的安楽死を防止する役割を果たす可能性もある。

 現実に行われている(しばしば非合法的な)安楽死に、自己決定権が守られていないケースが少なくないことは、以前から指摘されていた。アメリカでのガン専門医355人を対象とする調査では、10.7%が安楽死またはPASを行ったことがあると回答、うち15.3%は、患者本人の意思を確認せずに家族からの要請に従っていた(Journal of the American Medical Association, 2000)[10]。日本をはじめ多くの国で同様の実態があることは、想像に難くない。1980年代から安楽死が実施されていたオランダの場合、1995年の調査によると、実施された安楽死の21%で患者の十全な同意がなかったとされる(New England Journal of Medicine, 1996)。こうしたケースの多くは、以前に安楽死を求める指示書を提出しながら、病状が進行して意識が混濁し、安楽死の最終確認の際に同意できなかったものである。ただし、この割合は1990年の調査結果よりも低くなっており、安楽死に際して「患者の十全な同意」を必要条件とする裁判所の判例や改正埋葬法(1993)が多少なりとも「慈悲殺」の歯止めになったことを伺わせる[11]

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■「代替手段の欠如」

 積極的安楽死が容認される条件として「代替手段がない」ことが必要とされるが、現在では、積極的安楽死を行わなくても済むような方法がいくつか提案されている。

◆緩和ケア
治癒を目的とした治療に反応しなくなった患者に対する積極的で全人的なケアであり、痛みその他の症状のコントロールだけでなく、心理面・社会面・霊的な面のケアを行う。最終目標は、患者とその家族にとってできる限り良好なQOLを実現させることである(WHO,1990)。
厚生省は、主にガンとエイズの患者を対象とする緩和ケア病棟の設置基準を設けた(1999)。2003年2月現在の届出数は114施設。他に未承認で緩和ケアを実践している施設もある。
◆セデーション(sedation; 鎮静)
死亡前に緩和困難な苦痛から解放するために、患者の意識レベルを意図的に低下させること。あるホスピスでは、末期ガン患者202人中138人にセデーションを行った。セデーション開始の理由は、57%が全身倦怠感、25%が呼吸困難。患者の病状が死亡数日〜数時間前と判断されるケースに限定し、死期を早めないようにしている。[12]
◆間接的安楽死
苦痛の緩和を意図する措置が結果として死期を早めることが予想されるにもかかわず、緩和という目的のためにその措置を選択すること。主にオピオイド鎮痛薬の過剰投与という形で行われる。積極的安楽死との境界は曖昧で、実施をためらう医師も多い。また、疼痛を伴わない疾患(ALSなど)には適用しにくい。

【引用文献】
[1] 『資料集 生命倫理と法』(資料集生命倫理と法編集委員会編、太陽出版)
[2] http://www.rights.org/deathnet/ergo_orlaw.html (法令全文を掲載)
[3] http://www.euthanasia.com/docs.html
[4] 『人は痛みからどう解放されるか』(保阪正康著、ベネッセ)p.133
[5] 『安楽死:生と死を見つめる』(NHK人体プロジェクト編著、日本放送協会)p.57
[6] "Fifth Annual Report on Oregon's Death with Dignity Act" (http://www.ohd.hr.state.or.us/chs/pas/ar-index.cfm)
[7] J.ホーガン「安楽死は本当に必要か」(日経サイエンス、1997年8月号)
[8] 『看護のための最新医学講座34 医療人間学』(中山書店)
[9] http://www.euthanasia.com/suicstud.html
[10] http://www.euthanasia.com/doctors.html
[11] http://www.family.org/cforum/research/papers/a0015056.html
[12] 『死の臨床VII  死の個性化』(日本死の臨床研究会編、人間と歴史社)p.121

【略語表】
□PAS : physician-assisted suicide, 医者が幇助する自殺
□QOL : Quality of Life, 生命の質/生活の質/生きることの快適さ
□SUPPORT : Study to Understand Prognoses and Preferences for Outcomes and Risks of Treatments (Critical Care Medicine, 1996), 1990年代初頭から5つの大学付属病院で9000人以上の重症入院患者を調査した資料

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©Nobuo YOSHIDA