◎私が超ひも理論を嫌いな訳

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 超ひも理論は、あらゆる物理現象を解き明かす「万物の理論(Theory of Everything)」として、一部の物理学者に熱烈に支持されている。最近では、複数の超ひも理論を11次元空間で統一するM理論も提唱され、“教皇”ウィッテンを中心とする一群の物理学者たちの研究は、さらに勢いづいてきたようだ。にもかかわらず、(「だからこそ」と言うべきだろうか)私は、この理論に魅力を感じることができない。基本的な前提に、どうしても馴染めないものがあるのだ。

 1970年代に確立された標準的な素粒子模型は、くりこみ可能な場の量子論によって記述される。しかし、この理論には、(1)短距離の極限で理論が数学的に破綻する、(2)重力場がくりこみ可能でないため標準理論の枠内に収まらない──という2つの大きな問題があった。この難点を解決するために考え出されたさまざまな理論の中で、最も有望で最も人気があるのが超ひも理論である。超ひも理論は、粒子の場を量子化した従来の理論とは異なり、「ひも」という非局所的な対象の場を考えているため、短距離極限で物理量が無限大になるというトラブルを起こしにくく、理論の形をうまく選択すれば、数学的に破綻を生じないようにもできる。さらに、標準理論に取り込めなかった重力は、超ひも理論では、ひもの場の励起状態として自然に現れる。こうした長所が、超ひも理論に対する信望を高める上で、大きな役割を果たしたことは明らかである。
 しかし、そもそもなぜ「くりこみ可能な場の量子論」が標準模型の基盤理論として採用されたのか。この点を反省せずに先に進もうとすると、道を誤りかねない。「くりこみ可能」とは、きわめて単純化して言えば、スケール変換を行っても、理論の形が変わらないことを意味する。例えば、量子電磁理論(QED)の場合、巨視的な現象から決められた ejμAμ という相互作用項は、陽子や中性子よりもさらに小さなスケールになっても、そのままの形で維持される。理論の形が変わらないことを利用して、自己無撞着的に量子補正を計算していくというのが、くりこみ理論の要諦であり、そうした計算法を使うことによって、標準模型におけるさまざまな理論的予測が可能になったのである。
 とは言え、自然界が人間による計算の便宜を図ってくりこみ可能な理論を採用した訳でもあるまい。標準模型がくりこみ可能になっているのは、くりこみ可能でない相互作用が短距離だけで現れて、長距離では観測できないからである。素粒子の世界では、長さの基準とされるプランク長は原子のサイズより何十桁も小さいが、仮に、プランク長程度のスケールを拡大して見せてくれる“顕微鏡”(=何らかの実験装置)があるとしよう。“分解能”を最大にすると、現在では知る術もないさまざまな相互作用が観察されるはずである。そこから“分解能”を次第に小さくしていくと、微細な相互作用の大部分は見えなくなり、顕微鏡下の光景はどんどん変わっていくが、プランク長からはるかに巨大なスケールを眺めるようになると、そのうち、いくら“分解能”を小さくしても形の変わらないような相互作用だけが観察されるようになる。これが、素粒子論で扱われるくりこみ可能な理論なのである。素粒子の標準的な理論がくりこみ可能な形に限られているのは、それだけが長距離で生き残るからであり、根源的な理論がくりこみ可能でなければならないという要請はどこにもない。
 ちなみに、重力がくりこみ不能になるのは、一般共変性の要請を満たすために、微分項を介した相互作用が加わるからである。微分項は、場の微細な変動を考えなければならない短距離の世界では大きな寄与となり、量子補正の計算を困難にする。しかし、“分解能”を小さくして微細な変動を全て均してしまったような長距離の世界では、この項は大して悪さはしない。古典近似の範囲でなら重力場がきちんと計算できるのは、そのためである。
 くりこみ可能な理論を短距離極限に外挿できない理由は、明らかだろう。理論の形が変わらないという条件の下で“分解能”を無限に大きくしていっても、“究極の理論”に到達するはずがない。これを見いだすためには、もっとドラスティックな方法論の転換、例えば、それ以下の拡がりはないような最小の長さが存在する理論を作らなければならないだろう。通常の計算で用いられる実数体には、スケール変換に対する不変性があり、数直線の一部を(ゴムひものようにビヨーンと)引き伸ばしても、解析学の基本定理はそのままの形で成立する。となると、実数体を使っている限り、究極の理論には到達できないのかもしれない。くりこみ理論を超えるためには、まず、短距離極限とは何かという基本的な問いかけがなされてしかるべきではないだろうか。
 ところが、超ひも理論は、もともと、短距離極限についての考察に基づいて作られたものではない。この理論の出発点は、中間子のモデルとして考案されたひも理論だった。クォーク模型によると、中間子は、クォークと反クォークを細く延びたグルーオン場がつなぎとめたものだが、1960年代には、電子などの点粒子とは異なるひも状の存在ではないかという説が提唱され、これを受けて、ひもの運動を量子化する方法が考案されていた。一方、1970年代には、フェルミオンとボソンという2種類の素粒子が存在することを受けて、両者を統一する超対称性についても研究される始める。1980年代に入って標準理論が停滞し始めた頃、この2つの流れが合わさった理論として、超ひも理論は、再び脚光を浴びるようになる。数学的にド難しいため、何か深遠な理論のように見えるが、その生い立ちを顧みると、さまざまな理論の寄せ集めでしかない。短距離極限とは何かという深い省察なしに作られたこの理論が、もし究極の理論だということにでもなれば、まさにセレンディピティの極みと言えるだろう。
 超ひも理論の最大の弱点と思われるのは、異常項(アノマリ)の取り扱いである。「超対称性を持つ第2量子化をしたひも理論」というだけでは、理論の形を特定できない。異常項が存在しないという条件を付け加えて、ようやく現実的なひも理論を絞り込むことができる。しかし、標準理論での経験からすると、異常項があると困るのは、長距離極限での振舞いに悪影響を及ぼすからである。長距離で異常項のないものだけが生き残るというのならともかく、短距離極限をも記述する究極的な理論の形式が異常項の有無によって制約されるというのは、(物理学的に不当とまでは言えないものの)いささか本末転倒である。

 短距離極限の問題とともに、もう1つ指摘したいのが、超ひも理論が「ひも」のイメージから離れられないという点である。
 標準的な場の量子論は、質点の量子力学を第2量子化することによって作られたと言われるが、実際には、そうした言葉から思い描けるような漸進的な改良などではなく、ほとんど奇跡的な飛躍によって産み落とされたものである。1925〜26年に構築されたシュレディンガーおよびボルン/ハイゼンベルグの量子力学と、1929年のハイゼンベルグ/パウリの場の量子論とでは、理論形式が根本的に異なっており、どのような思考過程を経てこの理論に到達できたのか、容易には跡づけられない。ここで驚くべきことは、場の量子論が粒子運動の量子化を念頭に置いて作られたものであるにもかかわらず、粒子自体が派生的なものとして扱われているという点である。場の量子論は、物質と力をともに場の相互作用から演繹する場の一元論であり、ある種の励起状態に見られる粒子的な状態が、電子やクォークなどと呼ばれているにすぎない。場の量子論は、粒子のイメージから離れることによって、あらゆる物理現象を統一的に眺める視座を獲得しているのである。
 これに対して、超ひも理論では、第2量子化を果たしているものの、「ひも」をイメージしないことには、なぜ多重局所的な形式になっているかすら理解できない。場の量子論では「実体としての粒子」という概念を捨象して一元論的な自然観を作り上げることが可能だったのに対して、超ひも理論の場合、もともと古典的な概念である「ひも」を頼りにパッチワーク的な描像をつむいでいかなければならない。まず「ひも」とは無関係に数学的に美しい理論が与えられ、そこから自然に「ひも」のイメージが導き出されるならば、超ひも理論の正当性が増すはずである。

 もしかすると、一部の学者が信じるように、超ひも理論は・本当に・究極の理論なのかもしれない。だが、そうだとすると、私の学問的方法論は自然相手に無力だったことになってしまう。そうあってほしくないと思う気持ちが、超ひも理論に対する強い反感となるのだろう。

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©Nobuo YOSHIDA