◎タイムパラドクス!

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 1884年に発表されたH.G.ウェルズの中編『タイムマシン』以降、SFの分野では「時間旅行もの」というジャンルが人気を集めてきたが、そこでしばしば取り上げられるのが、「時間を遡って結婚前の親を殺したらどうなるか」といった“タイムパラドクス”と呼ばれる奇妙な事態である。私が好きなのは、こんな例である。物理学者Y氏がタイムマシンに乗って未来の図書館を訪れると、書棚にあった教科書に、万物の振舞いを記述する「究極の方程式」が解説されていた。現代に戻ったY氏は、出典を隠して件の方程式を発表、学会に旋風を巻き起こす。その方程式は、実験を通じてあらゆる物理現象を正しく表していることが判明、いつしか「究極の方程式」と呼ばれるようになる……。ところで、方程式についての知識は、どこから湧いて出たのだろう?
 長い間、過去に戻るタイムマシンは原理的に制作不可能な代物であり、タイムパラドクスなど起きるはずがないと考えられてきた。しかし、一般相対論の解を調べていくうちに、そうとばかりも言えないことが判明している。 ka_fig25.gif 一般相対論には、「時間的に閉じた世界線」の存在を禁止するような原理はない。ここで、「時間的に閉じた世界線」とは、その延長が常に未来に開いた光円錐の内側にあるにもかかわらず、閉じたループになっているものである(右図)。仮にこうした世界線が存在したとすると、ある時点からこの線に沿って生きるようになった人間は、この世界線の周期を経た後に過去の自分と出会うことになり、タイムパラドクスが生じる余地が生じる。もっとも、現実の宇宙のどこかに、時間的に閉じた世界線が存在するとは考えにくい。入り口と出口の時間が大きくずれているワームホールがあれば存在可能だという説もあるが、巨視的なワームホールは(負のエネルギーがない限り)安定ではないので、物体を過去や未来に送るタイムトンネルにはならない。しかし、「時間的に閉じた世界線」が原理的に禁じられていない以上、その存在によって引き起こされ得るタイムパラドクスに関して、物理学的な考察を行うことは必要である。
 物理学的に言えば、多くのタイムパラドクスは、方程式の解が2値関数になることに起因する。古典物理学では、物理現象は時間を変数とする微分方程式によって記述され、ある時刻における境界条件を与えれば、その後の時間発展は微分方程式を解くことによって確定するとされていた。例えば、ニュートン力学における質点の運動方程式は、位置座標q(t)に関する2階微分方程式となっており、ある時刻における位置qと速度dq/dtがわかれば、q(t)は全時刻にわたって一意的に決定される。ところが、時空が歪んで時間的に閉じた世界線が現れるような世界では、この一意性が成り立たない。ある時刻で境界条件を与えたとしても、閉じた世界線に沿った時間変化を辿っていくと、いつしか最初の時刻に戻ってしまい、同一時刻の状態が(q(t)とq(t+T)というような)2つの関数で表されることになる。これは、物理法則の破綻を意味する。
 タイムパラドクスの教訓は、「事実」と「法則」に関して吟味する必要があるという点である。物理現象を記述するのに、全時空点における物理状態を完全に知る必要はない。ある時空点の状態は、普遍的な「法則」を通じて別の時空点の状態に依存しているので、ほんの一握りの「事実」に関する情報さえあれば、他の状態は、それに「法則」を適用することによって一意的に決定される。それでは、何がその“ほんの一握りの事実”なのだろうか。ニュートン力学に代表される古典的な物理学理論では、全世界の状態を決定するのに必要充分な「事実」は、ある時刻における状態だとされていた。宇宙開闢の瞬間における状態が与えられれば、それ以降に何が起きるかは、微分方程式の解として完全に決定されているという考え方である。タイムパラドクスは、解の一意性が失われる可能性を示し、そうした発想に潜む欠陥を暴露する。
 興味深いことに、「ある時刻の状態+微分方程式」によって全時空の状態が決定されるという主張は、別の文脈ですでに論駁されている。よく知られているように、量子力学は非因果的な理論であり、初期状態が与えられたからと言って、その後の状態が一意的に決定されるわけではない。シュレディンガー方程式の解は、あくまで系の確率的な振舞いを記述するだけであり、より確定的な記述を行うためには、観測による「事実」情報の補完が必要となる。量子力学の場合、異なる時空点の状態を関係づける「法則」は、常に不確定な要素を残しているため、世界を決定するために必要充分な「事実」を、どこか1ヶ所に集中させることはできないのである。
 実は、こうした量子力学の特性を利用すると、多くのタイムパラドクスを解消することが可能になる。量子力学的な過程は、一般に、経路積分によって記述される。経路積分とは、始状態と終状態の間で可能な全ての量子状態にある重みを付けて足し合わせたもので、互いに干渉しない部分に分割すると、その1つ1つが実際に生起する量子過程を表すと考えられる(†)。仮に、この宇宙がビッグバンに始まりビッグクランチに終わるとすると、原理的には、この両端の状態を始状態と終状態とする経路積分を考えることができる。その中には、「時間的に閉じた世界線」が含まれているかもしれないが、経路積分によって与えられる量子過程は、この世界線に沿って方程式を解いているわけではなく、状態に重みを付けて足し合わせているだけなので、世界線上の状態が2値関数になることはない。「過去に遡って結婚前の親を殺したら、自分が生まれなくなるので親を殺すことはできず、殺されなかった親は自分を生んで…」という堂々巡りの事態は、実際には起こり得ない。
 ただし、全てのタイムパラドクスが無くなるかというと、そうではない。量子力学から導き出される命題は、あくまで確率的な予測にすぎず、閉じた世界線上でいかなる状態が実現されるかまで確定するものではない。このため、量子力学に従う限りは、ループ上に突如として「究極の方程式」に関する知識が湧いて出る可能性も、完全には排除できないのである。もっとも、その確率は、原始星雲の内部で分子が自然に凝集してなぜか電気冷蔵庫が出現する確率よりも遥かに小さいだろう。こうした事態が実際に起きるさまを目の当たりにできたとしたら、マクスウェルの悪魔の力でオンザロックが突如沸騰し始める光景を見ることができた教授(*)よりも、さらに幸運であることは間違いない。
(†)吉田伸夫「量子過程の記述から確率情報を分離することは可能か?」(科学哲学 35(2002)57)
(*)この教授は、ガモフ著『不思議の国のトムキンス』に登場する。


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©Nobuo YOSHIDA