◎番犬はシュレディンガーの猫を救えるか?

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本稿は、観測問題やシュレディンガーの猫についての基礎的な知識がある読者を想定しています。


 量子力学における「観測」に関しては、説明が杜撰な啓蒙書が数多く出版されていることもあって、さまざまな誤解が付きまとっている。ここでは、各人が観測理論を正しく理解しているかどうかを確認するための試金石として、「番犬効果」についての簡単な解説を試みたい。
 「番犬効果」は「量子Zeno効果」とも呼ばれ、繰り返し観測を続けることによって、量子論的な系が、シュレディンガー方程式に従わずに一定の状態を保つ(ように見える)効果である。「番犬が見張っているために量子論的な遷移が生じない」あるいは「ゼノンのパラドクスと同様に、飛んでいるはずの矢が動かない」と理解されることから、その名が付けられている。
 ここでは、簡単なケースとして、|0〉と|1〉という2つの状態間を遷移する量子系を考える(具体的には、歳差運動で結びつけられたスピンのアップ/ダウン状態や、光ポンピングで遷移させられる超微細構造準位などを想定すればよい)。シュレディンガー方程式を解くと、時刻 t=0 で状態|0〉にあったシステムは、時間とともに、|0〉と|1〉の重ね合わせの状態に変化していく:
  |ψ(t)〉= a(t)|0〉+ b(t)|1〉 …(S)
  初期条件は、a(0)=1, b(0)=0 とする。
 ここで、系が|0〉と|1〉のどちらの状態にあるかを、T秒間にわたってΔt秒おきにN回連続して観測することを考える(T=NΔt)。観測によって |0〉であることが確かめられた場合は、その時刻から再び(位相因子を別にして)式(S)に従って時間変化することになる。
  |a(Δt)|2 = 1-p
  |b(Δt)|2 = p
と置くと、t=0 からN回連続して状態|0〉にあると観測される確率Pは、
  P = (1-p)N
である。Nが大きくなるとpは小さくなるが、N→∞の極限で P がどうなるかは、必ずしも明らかではない。自然崩壊で見られる典型的な時間依存性は、
  exp(-λt)
という形をしており、
  p 〜 1 - exp(-λT/N) 〜 λT/N
となるので、0と1の間の有限値に収束することが予想される。しかし、磁場内部でスピンが歳差運動をするケースのように、いくつかの系では、 ka_fig23.gif
  p 〜 O((T/N)2)
の形で変化する(右図)ため、P=(1-p)N が N→∞の極限で1に収束することになる。このケースでは、連続的に系の状態を観測しさえすれば、シュレディンガー方程式によれば状態|1〉に遷移しているはずの時間が経過しているにもかかわらず、いつまでも状態|0〉に留まっていられる。したがって、状態が|1〉に遷移したときに青酸ガス入りの瓶が壊されて「シュレディンガーの猫」を殺す装置があったとしても、番犬が片時も休まず系の状態を観測し続けていると、猫は命を落とさずに済む。
 こうした「番犬効果」が興味深いのは、“意識を持った観測者”がいなくても、観測に相当するサブプロセスが存在するだけで、連続観測を行ったのと同様の効果をもたらせるという点である。
ka_fig24.gif  番犬効果を実現するために、|0〉と|1〉の他に|2〉という状態があって、|1〉→|2〉遷移の共鳴振動数を持つ強い光パルスを照射すると、|1〉から|2〉へほぼ100%の確率で遷移を起こした後、直ちに光放出を行って|0〉に崩壊するような粒子を多数用意する。光パルス照射によって|1〉→|2〉遷移を起こした粒子は、|2〉→|0〉遷移によって特定振動数の光子を放出するので、この光子数をカウントすれば、状態|1〉にあった粒子数がわかる。すなわち、光パルス照射は、粒子の状態を観測する過程に相当し、この観測によって|1〉の状態は破壊されて|0〉に変化する。
 はじめに強い光パルスを照射して粒子を全て状態|0〉に揃え、そこから時間t が経過した後に、再びパルス照射を行って粒子の状態を観測してみよう。このとき、系はシュレディンガー方程式に従って変化しており、状態|1〉にある粒子の割合は、式(S)の係数を使って
  |b(t)|2
となる。
 それでは、パルスを照射し続ける──すなわち、粒子の状態を観測し続ける──と何が起きるのだろうか。この場合は、番犬効果が効いて、|0〉から|1〉への遷移が抑制され、粒子は全て状態|0〉に保たれることになる。しかも、状態|1〉にある粒子は存在しないのだから、光パルスは吸収されず、観測によって系の状態は変化していない。「状態|1〉ではない」という“否定的な観測”が行われたわけである。
 番犬効果を検証する実験は、すでに複数のグループによって行われており、その存在は、ほぼ実証されたと言って良い。

 意識を持った観測者が介入していないにもかかわらず、シュレディンガー方程式に則った時間発展(S)が成り立たないという一見不思議な現象だが、種を明かせば、観測装置に相当する光パルスの状態の方に仕掛けがある。|0〉から|1〉への遷移が起きた場合、照射された光パルスが吸収され、異なる波数ベクトルの光となって放出されるため、遷移が起きていないときの光パルスの状態とはもはや干渉できない。粒子+光パルスを併せた波動関数の時間変化はシュレディンガー方程式に従っているものの、いわゆるデコヒーレンス(脱干渉)という現象が起き、|0〉→|1〉遷移が起きた世界と起きない世界への分岐が生じたわけである(この分岐は、数式の上で現れるもので、実際に異世界が存在すると考える必要はない)。ただし、遷移が起きる確率はきわめて小さいため、遷移が起きていないブランチだけが、番犬効果の生じている世界として実現されることになる。
 上の例は、観測問題に関する次の主張を補強するものである。
【参考文献】『量子連続測定と経路積分』(M.B.メンスキー著、吉岡書店)


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©Nobuo YOSHIDA