◎アルジャーノンに花束を

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 『アルジャーノンに花束を (FLOWERS FOR ALGERNON)』と言えば、SFファン以外にもよく知られているダニエル・キースの名作である。脳外科手術で知的障害者から天才へと変貌したチャーリイ・ゴードンの体験を本人の手記という形式で綴ったこの短編小説は、発表と同時に大きな評判を呼んでSF界最高の賞であるヒューゴー賞を受賞、後に著者自身によって長編化された。アルジャーノンとは、チャーリイに先立って手術を受けたマウス(ハツカネズミ)のことで、当初は迷路学習などで卓越した知能を示したものの、少しずつ様子がおかしくなり、次第に凶暴性を見せるようになる。そうした変化がチャーリイの逃れ得ぬ運命を予知させる仕掛けになっているのだが、これ以上は、原作を読んでもらうのが一番である。
 この小説が発表された1959年当時、人間の知能を向上させる技術について語ることは、SFの範囲でしかできなかった。しかし、昨今のバイオテクノロジーにおける急速な進歩は、アルジャーノンの物語にある種のリアリティを与えるところまで来ている。
 1999年、プリンストン大学の銭卓らは、遺伝子操作によって「賢いマウス」の系統を作り出したと発表し、世間を驚かせた。TV番組『ドギー・ハウザー博士』に登場する天才少年にちなんでドギーと名付けられたこのマウス(1匹ではなく遺伝子操作を受けた一群のマウスたち)は、記憶と学習の能力が通常よりもかなり優れていることが、いくつかの実験から確かめられた。例えば、彼らは通常の4〜5倍の時間にわたって記憶を維持することができる。2個の物体をケージに入れて探索させた後、数日経ってから1個を別の物体に変えて再び提示したところ、普通のマウスが両方とも「初めて見るもの」として探索行動を開始したのに対して、ドギーたちは、以前に見た方は覚えていて、新しい物体にだけ興味を示した。また、学習速度も速い。ある部屋にそれまで流されていた電流が切られたことを学習するのに、通常のマウスでは5回以上の試行が必要なのに対して、ドギーたちは2回程度で電気ショックがないことを学んでしまった。さらに、白く濁った水の中に隠された台の場所を周囲の視覚的な手がかりをもとに探し出させる(ネズミにとってはかなり難しい)課題でも、ドギーたちは高い成績を収めた。
 ドギーの系統を作り出した遺伝子操作は、シナプス結合の強化に関与するNMDA受容体の機能を高めるというものである。
 脳内部には、ニューロン(神経細胞)のネットワークが形成されており、ニューロン同士はシナプスと呼ばれる隙間を介して連絡している。ニューロン同士は、当初はランダムにつなげられた後、さまざまな体験を経る過程で繰り返し利用されるシナプス結合だけが強化され、他は自然に脱落していく。こうして特定の結合を残した有効なネットワークができあがる。シナプス結合を強化する役割を果たしていると推測されるのがNMDA受容体と呼ばれる膜タンパク質(ニューロンの細胞膜に結合しているタンパク質)で、これに神経伝達物質の1種であるグルタミン酸が結合すると、3次構造が変化して細胞内にカルシウムイオンのゲートが開くことが知られている。NMDA受容体を構成するNR2サブユニットとして、若い個体ではNR2Bと呼ばれる部品が多く使われるが、成熟するにつれてゲートを開いている時間が短い(したがってシナプス強化の機能が低い)NR2Aに取って代わられる。これが「若い個体の方が学習能力が高い」ことと関係しているのではないかと言われている。銭卓らは、マウスの受精卵にNR2Bの遺伝子を注入し、これを脳内部で発現させることによって、成熟してからもゲートの開放時間が通常の約2倍になるドギー・マウスを作り出したのである。
 ドギーの成功が人間社会に何をもたらすかは、にわかには答えられない。正しく理解すべきことは、ドギーのケースで向上したのはあくまで記憶と学習の能力だけであり、問題解決能力としての知能が全般的に高まったわけではないという点である。遺伝子操作によって「知能の高い人間」を作り出すことは、現在なお夢物語にとどまっている。もちろん、アルツハイマー病のように記憶力の著しい減退が見られる疾病に対して、症状を緩和するためにドギーで行われたのと類似した遺伝子治療(あるいは、NMDA受容体の活性を変化させる薬物治療)が行われる可能性はある。ただし、その場合でも、脳の活動に対する不自然な介入であることを認識しておく必要がある。成熟個体でNMDA受容体のNR2サブユニットがNR2Aになる理由は、今もってはっきりしていないが、そこには、何らかの生物学的理由があるはずであり、「記憶・学習能力の向上」という人間から見て好ましい変化は、どこかで生理的な代償を支払っていると考えられる。そうした“負の側面”に目を向ける努力を怠っていると、現代の技術はいつか、アルジャーノンの悲劇を現実のものとしてしまうかもしれない。
(ドギーについては、銭卓「記憶力増強マウスの誕生」(日経サイエンス、2000年7月号p.28-)を参考にしました)


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©Nobuo YOSHIDA