◎科学と宗教の接点──道元の世界観を元に

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 科学は、宗教にとって躓きの石となる。科学的命題は、しばしば宗教が描き出す世界像に違背し、その正当性を脅かす。この問題は、宗教と科学は異なる対象を扱っているとする“棲み分け論”によって解消されると主張する者があるかもしれない。だが、こうした棲み分けは、宗教が科学の領域に踏み込めないことを意味し、世界を統一的視座から捉えようとする求道者の信仰を揺るがしかねない。宗教も科学も、限定されたコンテクストの中ではあっても、ともに「この世界」に存在する人や物について言及している以上、それぞれの記述がオーバーラップする領域があり、妥協を許さない真摯な態度に徹するならば、何らかの形で両者の調和を計るべきだと考えられる。
 もっとも、全ての宗教的ドグマを科学的合理主義と調和させるのは、現実問題として不可能である。特に、物理法則の桎梏に縛られない“奇蹟”を信仰の基礎に据える啓示宗教は、法則の普遍性を主張する科学とは相容れそうもない。この種の宗教が科学との葛藤を回避するには、科学的命題をあくまで蓋然的主張と見なして現実の中に自分が収まるニッチを強引に作り上げるか、あるいは、“奇蹟”と呼ばれるものは物理的な事象の連鎖に含まれないとして科学と袂を分かつしかないだろう。いずれにしても、科学との間に、互いに知見を交換して裨益しあうといった良好な関係を保つことは難しい。
 こうした事情があるため、「宗教と科学は、互いに接点を持ち得ない体系である」と考える人がいるのも、無理からぬことである。しかし、宗教といっても、教義を正当化するために“神の秘蹟”(mystery)を必要とするものばかりではない。現実そのままを神意の実現ないし普遍的真実と見なすことにより、現実の有効な記述としての科学と何ら矛盾することなく調和し得る宗教も、また多くの人々の支持を得ている。本稿では、そうした宗教思想の一例として、道元の世界観を簡単に見ていきたい。

 道元の思想は、中国禅宗の一派である曹洞宗をベースにしているが、達磨を開祖とするオリジナルな禅の理念に必ずしも忠実ではなく、しばしば仏典を自己流に解読して独自の世界観を展開している(もちろん、道元自身は、本来の禅の思想に従っていると主張する)。主著『正法眼蔵』の難解さは、主に、独自の思想と仏典の表記のずれを弁証術的に埋め合わせようとしたためであり、道元の思想そのものは直截明快である。実際、真言密教などに見られるオカルト的な要素の導入も、涅槃や西方浄土のような仮想世界の定立もないだけに、現実がすなわち仏の実現であるとする見解は、(同意するか否かは別にして)了解しやすい。
 こうした世界観に基づいて、道元は、只管打坐(しかんたざ)という禅の実践を説いており、最終的には「自受用三昧」と呼ばれる本来の自己を体現することを目標とする(私見では、只管打坐とは「ひたすら座禅をすること」ではなく生活そのものを禅の修行・実践の場とすることだと考えるが、ここでは説明を控える)。従って、実践を抜きにした世界観だけの分析は、道元の本来の主張を大きく歪めるものである。それを承知の上で、ここでは、宗教と科学との接点を探るという観点から、あえて部分的な分析を試みたい。

 道元の世界観は、『正法眼蔵』の全ての巻で明確に語られているが、特に「仏性」において体系的に論述される。この巻は、涅槃経の引用から始まる(一部表記を現代風に改める)
釈迦牟尼仏言、一切衆生悉有仏性、如来常住無有変易
初期仏教では、釈迦の文言の前半は、「一切の衆生は悉く仏性有り(どんな生物でも成仏する可能性がある)」と解釈されていた。しかし、大乗仏教の成立とともに、仏性の概念は普遍的な真実の地位に高められ、涅槃経では「仏性とは第一義空に名づく、第一義空は名づけて智慧となす」「虚空とは即ち真実なり、真実とは即ち仏性なり」と語られるようになる。道元は、この見解を踏まえつつ、仏典の文言をレトリカルに再構成する:
世尊道(=釈迦の言葉)の「一切衆生悉有仏性」は、その宗旨いかん。…あるいは衆生といひ、有情といひ、群生といひ、群類といふ、悉有の言は衆生なり、群有也。すなはち、悉有は仏性なり。…衆生の内外すなはち仏性の悉有なり。
道元独特の言い回しがいささかわかりづらいが、割り切って解釈すると、「一切」あるいは「悉有」と称されるあらゆる事実は、それぞれ個別的存在者と目される「衆生」等々および仏教的概念である「仏性」と等価であり、従って(「衆生」の概念にニュアンスとしての個別性を残しながらも)「衆生は仏性である」、すなわち「個別的存在者と見なされている物も、実は普遍的な真実の一側面である」ということになる。
 道元は、さらに、異なる見解に対して反論を加えながら、如上の“汎仏論”的な世界観を補強していく。特に厳しく指弾するのが、仏性を質的に限定しようとする見解である。「悉有」というときの有は、その不在が想定され得るような「存在者」ではなく、不在という対立項を持たない普遍的存在である。同様に、「仏性」も生成消滅するものではなく、常に現前する(「仏性の現前せざる仏性あらざるなり」)。また、主観と客観、他者と自己という分節を行った上で、一方に優位を認めることもしない。当然のことながら、客観的存在を否定し主観を仏性と同一視する思想を邪見として排斥する。
 道元思想の興味深い点は、主観主義/客観主義いずれにも荷担せずに、真実の普遍性を正面切って主張しているところである。物質的世界についての描像が全て心意識による虚構であると仮定すれば、明快な一元論が得られるが、現実に対峙したときの有効性に欠落する。物と心を対立図式によって捉えるならば、この図式を使ってあらゆる事象を説明することも可能だが、全く異質のものがいかにして相互作用するかという二元論特有のアポリアからは逃れられない。もちろん、・素朴な・唯物論は、なぜ自分が意識を持っているかという問いに答えられない。道元は、物質も心意識も、共に「仏性」という普遍的真実の側面として統一的に理解し、一元論の独善からも二元論の混迷からも逃れている。心意識は、それ自体が独立した存在として絶対的であるかのように思われがちである(「自心自性は常住なるかとあやまる」)が、そうではない。
人、舟にのりてゆくに、めをめぐらしてきしをみれば、きしのうつるとあやまる。目をしたしく舟につくれば、ふねのすすむをしるがごとく、…もし行李(=日常的行為)をしたしくして箇裏(=その内実)に帰すれば、万法のわれにあらぬ(=真実の法則は自分個人に帰属するものではない)道理あきらけし。(現成公按)
 一方、物質的存在も、実体を伴わない単なる表象ではなく、心意識と同等の意義を持つ「仏性」の現前である。
この山河大地みな仏性海(=無辺広大な仏性)なり。…山河をみるは仏性をみるなり。仏性をみるは驢腮馬嘴(=ロバのあごや馬の口のような卑近な存在)をみるなり。
 このように、物と心を統一的に捉えながら、唯物論/唯心論のいずれとも一線を画する思想的立場を確保できるのは、普遍的真実である「仏性」が、「現成」という〈分節性を包摂する様式〉において実現していると見なせるからである。
諸法の仏法なる時節、すなはち迷悟あり、修行あり、生あり、死あり、諸仏あり、衆生あり。
万法ともにわれにあらざる時節、まどひなくさとりなく、諸仏なく衆生なく、生なく滅なし。
「現成公按」冒頭のこの2つの文章は、対立する考えを提示しているのではなく、同じ事態を異なる側面から述べたものである。個々の事象(諸法)を仏法の実現と捉える局面においては、自己と他者などの差異性が強調される。その一方で、全事象(万法)を個々の自我から切り離された普遍として捉える局面では、個別的事象の有する差異性は解消される。後者の立場は、あたかも自己を超越した普遍的な世界知であるかのように見えるが、その認識が個人において行われる以上、仏教教義の最終的な到達点ではあり得ない。むしろ、どの時刻においても「まさに今(而今)」として実現される個別的事象の絶対性にこそ、仏性の普遍性が如実に現れていると考えるべきである。
而今の山河(=まさに今存在しているという世界のあり方)は、古仏の道現成なり。…空劫已前の消息(=存在の前提となる真理)なるがゆへに、而今の活計(=まさに今、生き生きと現れた状態)なり。(山水経)
道元の思想は、こうした分節的な普遍性を自己の身体に実感できるという信念に基づいて展開されており、宗教にありがちな認識不可能な対象への盲信を排除している。この実感は、また、参禅を促す契機となる。

 上に述べたような世界観をベースに衆生救済を果たす信仰を生み出せるという事実は、科学と宗教の対立が必ずしも調停困難ではないことを示唆する。
 科学は、厳密でありながら同時に曖昧(多義的)でもあり得るという特異な知の体系である。厳密さは、前提とするモデルの適用に関する要請であり、モデルから演繹される帰結と実験・観測データが齟齬する場合は、モデルを棄却しなければならない。しかし、モデルそのものの絶対性/完全性が主張されるわけではなく、一般に、同一モデルによって(有限の誤差範囲内で)記述される世界は複数個存在する。この厳密さと曖昧さの狭間に、宗教との接点を求めることは可能だろう。
 ただし、科学は、無矛盾性と稠密性への指向を強く持っているため、現時点での科学的モデルと共立的な全ての宗教が、科学と調和できるとは言えない。無矛盾性への指向は、さまざまなジャンルにおけるモデルが、同一の対象について異なった予測を生成しないことを要求する(現実のモデルは完全に無矛盾ではないため、無矛盾性が保たれる範囲に適用限界が画定される)。また、稠密性への指向は、科学的な記述の対象とならないような現象が物理的に存在しないことを要求する。信仰の基盤として奇蹟や異世界を必要とする宗教は、この指向性に背馳するために科学と相性が悪い。
 多くの宗教的主張が科学的記述と齟齬を来す中で、道元が提唱する世界像は、無矛盾性・稠密性への指向に逆らうことなく、科学の包摂する曖昧さ(多義性)の中にスッポリと収まってしまう。これは、道元の描く世界の姿が、多面性を示す統一的存在として一貫しているからである。「仏性」という完全には理解しかねる概念を導入しているとは言っても、そこに現実には観測できない彼岸についての言及がない(むしろ、彼岸思想を排除する)だけに、科学との対立は生じない。

 道元の禅の思想と現代科学の関係を考察してみることは、宗教と科学の接点を模索する際の一つのテストケースとして、きわめて興味深い作業になると思われる。

 個人的には、私が提唱する「この世界についての仮説」は、道元の世界観と緊密な関係を築き得ると考えるが、ここでは深入りしない。

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©Nobuo YOSHIDA