◎科学と宗教

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 科学は宗教と対立するものではないし、対立させてはならない。宗教的な信仰は、科学的知見と矛盾しない形で把持することが可能であり、両者を兼ね備えることが、豊かな人生を送るために欠かせない要件である。私がそう考える理由を、掻い摘んで説明しよう。
 科学の要諦は、万物が等しく普遍的法則に従っているという認識にある。これがなければ、仮説演繹法に基づく厳密な手法に基づいて科学的命題を生成することができないからである。科学を信頼するならば、現実の諸事象が、因果応報のように人間社会でのみ通用する指導原理に則って生起することはなく、また、人格神の介入によって法則の桎梏が一時的に解除されるべくもない。こうした“非情な”現実は、科学的な法則に従わない奇蹟の実現を教義の基盤に据えるキリスト教などの啓示宗教にとっては、信仰の障害になりかねない。杓子定規に考えれば、科学と宗教は相容れないようにも見える。
 しかし、現代科学が明らかにした自然界の法則性は、デカルトが想定した「時計仕掛け」のように単純でメカニカルなものではなく、人間の知的能力では捉えきれないほど複雑にして精妙である。世界の構成要素は空間内部に定位できるようなリジッドな物体ではなく、微妙に揺らぎながらカオスの綾を紡ぎだしている。物質と生命は根元的なところで混じり合い、生き物が作り出す社会や文明の深淵さがどこまで物質に支配されているのか、人間に答えることは叶わない。世界が“非情な”法則に支配されているとしても、それが分析的知性では計り知れない超越的なものである以上、知られざる世界へのスタンスを決定する指導原理としての宗教が機能する余地が存在するはずである。
 科学時代の宗教にとって試金石となるのが、現代宇宙論が明らかにした「不毛な宇宙」に対する解釈である。現在の宇宙は、開闢以来わずか100億年余りしか経っていない。宇宙の寿命を仮に1040年とすると、ビッグバンから現在に至るまでの時間経過は、宇宙の生涯の「100億×100億×100億」分の1となり、まだ「始まりの一瞬」の内にあると言っても良い。エントロピーがきわめて小さな状態から始まったこの宇宙は、ちょうどコーヒーに落とした1滴のミルクが初めの何秒かは美しい模様を描くものの次第に一様に混ざっていくように、エントロピーが急増するごく初期には生命や文明を胚胎することも可能だが、今から数千京年後には生き物の影さえない不毛な世界へと頽落し、もはや新しいことが何も起きない状態のまま生涯のほぼ全てを過ごすことになる。生命や文明は、宇宙誌においては打ち上げ花火を思わせる一瞬の華やぎでしかない。
 「永遠の生命」という理念を否定するかのようなかくも殺伐たる宇宙像は、科学が宗教と和解し得ない証左にも見えよう。しかし、実は、宇宙論においても、宗教が機能し得る超越的な領野が(他ならぬ科学自身によって)用意されているのである。それは、時間の問題である。日常的な認識では、未来が過去へと遷移する瞬間の「現在」だけがリアルで、それ以外は実在しない虚構と見なされる。こうした時間観に基づくならば、大半の時間において「死の世界」の趣を呈する宇宙は、絶対的な価値を峻拒するものと映るだろう。だが、科学が教える時間の真相は、「流れ」というよりはむしろ「拡がり」に近い。エントロピーが増えきった不毛な宇宙は、時間的にマージナルな領域と見るのが妥当である。とすれば、「生命の永遠性」という理念を適用するのに相応しい対象は、時間的拡がりの延長ではなく、生命の存在を許容する時間(及び空間)の様式でなければならない。生命は、空間に配置された物質的な素材の時間的な運動ではなく、時間・空間を構成する高次元スペース内部の事象であり、それが何らかの様式で存在する場合に生命としての永遠の価値を獲得すると言うべきであろう。これは、現在の瞬間がすなわち永遠なりと喝破する禅宗の思想と通底するものである。ただし、科学は、価値そのものについては、科学的方法論が無力になる超越的な問題領域に属するとして、あえて語ろうとしない。
 1998年に全米科学アカデミー会員を対象に行われたアンケート調査では、90%以上のエリート科学者が「神を信じない」と回答している(『日経サイエンス』(1999年12月号p.60-))。これは、科学者が非宗教的であることの証拠なのだろうか。おそらく、そうではあるまい。確かに、現代科学は、人格神や死後生を認めるような素朴な宗教とは縁が薄い。しかし、科学的知見の辺縁に、正に宗教的な問題と絡んだ超越的な領野が拡がっていることを考えるならば、科学と宗教は、人間が世界に対峙するときに両足を置くべき土台として、共に必要ではないだろうか。

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©Nobuo YOSHIDA