◎誰のための医療か?

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 現代の科学・技術は、人間生活に直接かかわる医療の面で、従来の倫理観に抵触しかねないような新たな状況を生み出しつつある。ただし、医療倫理の問題は、論議の対象が多岐にわたるため、ここでは、基本理念となるインフォームド・コンセントについて簡単に説明した上で、いくつかのホット・トピックスを瞥見するにとどめる。

インフォームド・コンセント
 かつての医療現場では、医者が患者に対して絶対的な権利を持ち、診断結果を伝えることなく一方的に治療方針を決定するケースが少なくなかった。これは、医者の絶対数が少なく特権的な階級に属していたことに加えて、基本的な治療のスキームが、周知の医薬品の投与かパターンの決まった外科手術(患部の除去など)に限られていたためだと考えられる。しかし、現代においては、多くの医療機関が身近なものとなり、そこで、実に多様な診断・治療を受ける機会が与えられている。現代の高度な医療技術の中には、身体にどのような効果をもたらすものか、専門外の人には思いも及ばないものも少なくない(例えば、パーキンソン病の治療として胎児性脳組織を脳に移植されたときに何が起こるか、核磁気共鳴を利用した画像撮影が体に悪影響を与えないか、素人にはとうてい判断できないだろう)。また、治療のバリエーションも豊富になり、効果は大きいが重大な副作用を伴う医薬品や、完治はするものの長期のリハビリを必要とする手術など、それを選択することが患者にとって最良かどうか判然としないケースも多々ある。こうした状況の下で、医者が、特定の治療法を押しつけていたのでは、かえって患者の人権が損なわれる懸念も生じる。科学・技術が発展すればするほど、最終的な選択においては、むしろ、患者本人の意志を尊重すべきだという考えが生まれてきた。これが、「患者の自己決定権の尊重」という思想である。
 アメリカでは、1970年代に入って、特に「患者の自己決定権」という考え方がクローズアップされる。その背景には、いささか非人間的な終末期医療が広まってきたことがある。致死性のガンのような進行性の疾病に罹患している患者の場合、最終局面では死が避けがたいものになる。しかし、そうした段階に達しても、患者の体をチューブだらけにして治療を続け、心臓が停止しそうになると薬品を投与して死を先延ばしにするといったやり方が、最先端医療の名の下に平然と行われてきた。こうした「治療法」に疑問を感じた医療関係者が、いかにして患者の人権を守らなければならないかを模索し、一つの結論として、患者に説明した上で同意を得るという方法を提案した。いわゆるインフォームド・コンセントである。
 インフォームド・コンセントがいかなるものかは、1973年にアメリカ病院協会がまとめた『患者の権利宣言』の中にわかりやすく記されているので、これを引用しよう。
 「患者は、その担当医から、自分の診断・治療・予後について、理解できる表現による完全な情報を得る権利を有する。そのような情報を患者に与えることが医学的見地から適当でないと思われる場合には、本人に代わる適当な人に伝えられなければならない…」
 「患者は、あらゆる処置および治療が開始されるに先立ち、同意する上で必要な情報を、担当医から得る権利を有する。緊急な場合を除き、かかる同意のための情報には、特殊な処置や治療、医学的に有意なリスクおよび無能力状態が続くと予想される期間を含まなければならない…」
 「患者は、法律の許す範囲で治療を拒否する権利を有すると同時に、かかる拒否行為がもたらす医学的結果に関する情報を得る権利を有する」

 インフォームド・コンセントとは、充分に説明した上での同意を意味し、ともすれば最先端技術の中に人間性が埋没してしまいがちな医療現場で、人間が人間らしくあり続けるために必要な基本的手続きである。専門知識を持っていない患者が、自分で治療法を決定することは困難である。しかし、充分な説明が与えられれば、医者が示す複数の治療法の中から、自分にとって最良と思われる方法を選択することは可能である。インフォームド・コンセントは、この「選択権」を保証するものである。また、どうしても納得できない治療を施されそうになったとき、これを拒否する権利もある。例えば、宗教上の理由で輸血を拒否することは、患者に認められた権利である。ただし、医療はきわめて専門性の強い行為なので、専門家でない患者が、特定の治療法を医者に強要する権利は認められていない。特定の治療を受けたい場合は、それを行っている医者を探し出して受診しなければならない。

 インフォームド・コンセントの問題点 : インフォームド・コンセントについての考えには、自己決定権の重要性をきわめて高く評価するアメリカ的な発想が強く反映されている。しかし、現実問題として、患者の自己決定権を常に最重要と見なすことが妥当かどうかは、疑問の残るところである。いくつかのケースを列挙しよう。(1)治療効果を考えたとき、必ずしも真実をすべて伝えない方が好ましい場合もある。例えば、治癒の可能性がきわめて小さい難病の患者に対しても、希望を失わせないようにした方が、一般に予後が良いと言われる。また、プラシボ(薬効のない偽薬)も、投与の仕方によっては鎮痛効果を発揮することがあるが、インフォームド・コンセントの条件を満たすことができないため、副作用が全くないにもかかわらず、使用しにくくなっている。(2)患者の選択は、しばしば“素人”判断となって正当性を欠く。伝染病の患者の中には、他人を感染させる危険性について過小評価する者が少なくない。(3)当人の同意が信用できない場合もある。長期加療中の患者には鬱状態に陥る者が多く、苦痛を伴う治療を拒否するようになりがちである。また、小さな子供や精神病患者の自己決定権をどこまで認めるかについては、必ずしもコンセンサスが形成されていない。

現代医療と人権
 自己決定能力を持つ理想的な患者の場合、その人権を尊重する方法論として、インフォームド・コンセントの手法は、かなり有効だと考えられる。しかし、現代の科学・技術が実現した新しい医療の中には、この手法がうまく機能しないケースが稀はない。新しい医療技術の開発に際しては、医者や患者からの要望の有無と、技術的な実現可能性が、優先的に検討され、その技術の導入がいかなる倫理的問題を引き起こすか、患者の人権を守るためには何が必要かの考察は、事後に回されるのが常だからである。こうしたケースをいくつか紹介しよう。

 胎児診断 : 胎児の異常を出生前に診断する技術は、近年、急速に進歩している。これは、少子化に伴って「パーフェクト・ベイビー」を期待する両親が増えたことを受けて、生まれてくる子供に「異常がない」ことを保証するサービスを多くの産院が取り入れるようになったためである。胎児を傷つける恐れのあるX線撮影が禁忌とされるので、超音波検査、羊水穿刺、胎児鏡検査、母体血清の検査など、非侵襲性の診断法が採用される。問題は、異常が発見された場合の処置である。胎内治療が可能な症例(水頭症、尿路系閉塞などの一部)もあるが、大半は、治療不能である。胎児には自己決定能力はないとされるので、両親に的確な説明を行い、中絶するかどうかは両親の判断に任せるというのが一般的である。胎児の異常が致死的で、放置しても自然流産したり出産直後に死亡することが確実なケースでは、母体保護のため、人工中絶するのが適切だとされる。しかし、第21染色体のトリソミーによるダウン症の場合は、軽度の知能低下と心臓や胃腸の合併症が見られるものの、成人するまで生きられることが多く、中絶することに対して倫理的な観点から批判が強い。胎児診断には、中絶の是非を巡って両親に心理的葛藤をもたらすというマイナス面がある。
 新生児治療 : 新生児も、胎児と同様に自己決定能力を持たない。しかし、胎児と異なって自立的に生存する個体であるため、異常が発見されたときの対処においては、両親の意志よりも、「生き延びる可能性のある新生児は常に救済されるべきだ」とする社会的コンセンサスの方が重視される傾向にある。こうして、医療現場では、治療を施せば生存可能だと予測される新生児に対しては、新生児集中治療室などで積極的に治療を行うという方針が一般的になっている。こうした方針が奏功して、近年、未熟児の生存率が大幅に向上している。例えば、体重1kg以下の新生児の場合、1960年代には90%が死亡していたが、現在は過半数が生存できる。このこと自体は、一見きわめて好ましいように思えるが、実は、さまざまな問題を孕んでいる。一般に、新生児に対する集中治療はきわめて高額なものであり、総医療費の高騰の原因となる。多くの患者がメディケイドのような医療保険を利用するアメリカでは、保険危機を招きかねない。さらに、こうして治療を施しても、結果的に、永続的な障害を残してしまうケースが少なくない。新生児が最も陥りやすいトラブルは、出産直後に肺呼吸への切り替えがうまくできないというもので、これに対する治療法として、肺が自立的に活動を始めるまで血液に酸素を供給する技術が開発されている。しかし、酸素供給が開始されるまでの低酸素状態が脳に回復不能なダメージを与えることも多く、重度の脳性マヒを患った子供を残す結果となる。
 遺伝子スクリーニング : 遺伝病の保因者(本人または子供が何%かの確率で遺伝病を発症する)を発見するスクリーニングの技術は、1960年代に開発されている。社会的な遺伝病予防の観点から、こうしたスクリーニングが多くの住民に対して行われた場合、差別問題に発展する危険性がある。実際、1970年代にアメリカで鎌形血球病のスクリーニングが実施されたときは、黒人に保因者(遺伝子型がヘテロの場合は症状を示さない)が多く、また、プライバシーへの配慮も足りなかったことから、人種差別を助長する結果となった。こんにちでは、スクリーニング結果が雇用者や生命保険会社に漏出しないかという点が、心配されている。例えば、中年以降になって発症する進行性の痴呆症であるアルツハイマー病は、いまだ原因が解明されていないが、特定遺伝子との関連が疑われている。将来、遺伝子スクリーニングによってアルツハイマー病を発症する確率の高い人を事前に発見する技術が開発された暁に、会社が健康診断の名の下にこの検査を行うことはないだろうか。新たな医療技術は、常に、新たな倫理問題を引き起こすのである。

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©Nobuo YOSHIDA