◎プライオリティを守るために

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 科学者にとって、競争相手を制して画期的な発見をすることは、単に栄誉・名声を得るばかりでなく、社会的・経済的なメリットをもたらしてくれる。特許などの知的財産権に関わる発見の場合は、(勤めている企業や大学との契約にもよるが)ロイヤリティを手にすることができる。また、特許とは無縁の基礎研究の場合も、先行研究ということで引用される回数が増し、業績査定において有利に働く。こうしたことから、科学者は、研究のプライオリティをきわめて重視しており、これを守るためにいろいろと気を配っている。通常は、非公式会合などの場で軽々しく研究中の内容を口にしないという程度のものだが、世紀の大発見となりそうなケースでは、かなり手の込んだ防御策が講じられることもある。ここでは、高温超伝導物質を巡る有名なエピソードを紹介したい。

 金属を絶対零度近くまで冷却すると、ある温度で突然電気抵抗が0の超伝導状態に転移することは、20世紀初頭から知られていた。しかし、多くの科学者が精力的に研究したにもかかわらず、転移温度が絶対温度でたかだか23K(−250℃)までの超伝導物質しか見い出すことができず、冷却するのに費用がかかりすぎるため、実用化には支障があった。この障害をうち破ったのが、ベドノルツとミュラーによるセラミック系超伝導物質の発見である。IBMチューリッヒ研究所に在籍していた二人は、新しい超伝導物質を探索するため、それまで誰も試していなかったセラミックの金属酸化物を使った実験を行っていた。数年間の試行錯誤の末、1986年になって、ペロブスカイトと呼ばれる層構造を示す金属酸化物が、13K(−260℃)で超伝導になることを確認した。

 ベドノルツとミュラーの研究結果は、学界であまり反響を呼ばなかった。その理由としては、(1)実験ミスが生じやすい電気抵抗の測定だけを行い、超伝導の証拠とされるマイスナー効果を確認していない;(2)いくつかの相が混在する試料を用いており、どれが超伝導になったかを決定していない――など、実験上の不備があったためでもあるが、何よりも、「セラミックが超伝導になるわけがない」という先入観が強く作用していたと思われる。ところが、東京大学の田中昭二らが、他の研究グループに先駆けてチューリッヒ研の結果を再確認したばかりか、超伝導相の分離精製を行って、当時としては世界最高の転移温度 の値を得るのに成功したことを報告すると、世界中の研究者が、セラミック系の高温超伝導物質探しに血道をあげるようになる。実は、田中は、原論文が出版された時点で直ちにその重要性を認識した訳ではなく、1ヶ月ほど放置した後で大学院生の研究テーマに使えないかと試してみたのが出発点だったという。きっかけはどうであれ、この時点で東大グループが世界のトップを走っていたことは間違いない。

 超伝導物質を見つける鍵は、層構造を作るための添加物質として、何を選ぶかにある。ベドノルツとミュラーは、バリウム(Ba)とランタン(La)を使って超伝導を実現することに成功したが、転移温度はあまり高くなかった。田中は、バリウムの代わりにストロンチウム(Sr)を使うことによって、転移温度がより高い超伝導物質を作り上げたが、決定的なブレイクスルーには到らなかった。安価な液体窒素(77K)による冷却で電気抵抗が消失する文字通りの「高温」超伝導物質を発見したのは、ポール・チューに率いられたヒューストン大学のグループである。チューは、田中とは異なって、ランタンをイットリウム(Y)に置き換えることにより、世紀の大発見を成し遂げたのである。彼がいかなる理由でイットリウムを使おうと考えたのかは、はっきりしない。一説によれば、「結晶原子がよりコンパクトに詰め込まれたとき超伝導になりやすい」と考え、化学的性質が類似してイオン半径の小さいものに置換する方向に研究を進めていった成果だとも言われる。いずれにせよ、イットリウムを利用するということが、研究の成否を分ける最大のポイントとなった。

 チューの研究が最終段階に入る頃になると、セラミック系超伝導のブームは世界中に飛び火しており、いくつかの研究所が熾烈な争いを始めていた。そんな中で、十分な実験施設も完備していない“田舎”の大学であるヒューストン大のグループは、業績を横取りされる不安を抱くようになる。特に、超伝導研究の大御所であるAT&Tベル研究所の動向は不気味であった。たとえ産業スパイを使わなくても、超伝導の専門家ならば、チューのグループがイットリウムを使って実験を重ねていると小耳にはさんだだけで、次に何をすべきかがわかってしまう。そうなると、ベル研のような組織力のあるグループなら、あっという間にヒューストン大の研究を追い抜いていくことは目に見えている。内輪の研究チームだけなら箝口令を敷くこともできるが、雑誌に原稿を投稿してから印刷されるまでの間は、外部の人が介入するだけに心配も大きい。しかも、自然科学系の学術雑誌では、投稿された論文が掲載するに値するかを専門家が審査するレフェリー制度が採用されているため、論文がライバルの研究者に審査された場合は、公に発表される以前にその内容が漏れる可能性がある(もちろん、そうした不祥事が起きないように、レフェリーの選定には万全が期されているが)。

 そこで、チューはあるトリックを使って情報の漏洩を防ごうとした。原稿では、物質名を用いず全て化学記号を使って表記していたのだが、そこでイットリウムを現すYを全てYb(イッテルビウム)に置き換えたのである(さらに、反応式の係数の値も一部改変している)。これでは、たとえ原稿を目にしたとしても、チューの発見を再現することはできない。そうしておいて、原稿が印刷に付される直前に、YbはYのタイプミスなので全て訂正するようにと出版社に申し入れたという。もちろん、「ミス」だと言われれば出版社としても訂正せざるを得ないので、出版された論文には、正しくYの文字が印刷されていた。こうして、チューは、印刷前に情報が漏れることを防ぎ、まんまとプライオリティを守ることに成功したのである。

 この話には面白い余談がある。印刷前に原稿を目にした誰かが、高温超伝導の鍵はYbだという(誤った)情報をリークしたらしく、いくつかの研究室でイッテルビウムを使った超伝導の実験が実際に始められたのである。イッテルビウムはイットリウムよりもはるかに高価なので、余計な出費をするはめになったわけだが、怒るに怒れないというところだろう。

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©Nobuo YOSHIDA