◎ベンゼン環の六角形は実在する?

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 古代から哲学の大きなテーマであった「何が実在するか」という問題に対しては、近代科学の勃興期に、ある種の回答らしきものが与えられたと言えよう。すなわち、温度や光度のような明確に定義可能な物理的属性として表現できる1次的性質が、匂いや味のような個人の感覚に依存する2次的な性質から峻別され、前者の客観性の根拠として実在性が議論されるようになったのである。温度を例に取ってみよう。暖かさ・冷たさの感覚には、個人差や状況に応じた変動があることは古くから知られていた。しかし、熱膨張を利用した温度計が実作されるようになると、こうした知覚のフィルターを通さない「客観的な」温度の定義が可能だという考えが生まれ、その背後に存する物理的状態についての考察も行われ始める。例えば、熱現象に関わる物理的実体は、熱素と呼ばれる元素の一種であり、これが物質中にどれだけ含まれているかを示す指標が温度である−−というような、(現在の知見からすれば正当とは見なされない)実在論的な解釈が行われた。
 こうした解釈の積み重ねは、19世紀後半から20世紀初頭にかけて、「力学的世界観」と言うべき一つの見解へ収斂していく。きわめて簡略化して説明するならば、これは、物理現象の担い手として質的に変化しない実体(substance)を想定し、その力学的な状態を表す変数(位置や運動量など)の変化がさまざまな現象を生み出しているという考え方である。例えば、熱に関する現象の背後には、分子・原子という(熱によって変化することのない)実体があり、これらの力学的な状態変数(エネルギーなど)が変化することによって熱伝導のような現象が生じると解釈された。同様に、電磁気的な現象は、エーテルと呼ばれる実体の力学的な変化と見なされる。ただし、エーテルの力学的な状態は、電磁気学を大成したマクスウェルの当初の解釈では、通常の弾性体と同じような歪みや捻れとして記述できるとされていたが、その後、弾性体とのアナロジーは放棄され、電場や磁場の強度それ自体が抽象化された力学的変数だと解釈されるに到る。こうした手法によって、さまざまな電磁現象も、力学の枠組みの中で統一的に扱うことが可能になる。
 「力学的世界観」は、熱力学(thermodynamics)、電気力学(electrodynamics)、流体力学(hydrodynamics)など、一般に「力学(dynamics)」と称されるジャンルを中心に定着していき、世紀の変わり目頃には、物理学の全分野へと拡がっていった。この見方を徹底させると、物理的な世界は、何種類かの質的に不変な実体から構成されており、その力学的状態を表す変数の量的な変動を通じて、あらゆる現象が実現されていると解釈することができる。素朴な言い方をすれば、この世界は、「物体が運動する」ことによって成り立っているのである。こうした素朴な描像は、量子論以降に形成される新しい物質像を元に大幅に修正される(後述)が、質的に不変な実体が持つ力学的変数の量的変化を通じて物理現象を記述するという「力学的世界観」に関しては、その基本的なスキームが維持されることになる。
 力学的な世界観に対置されるのは、実体の質的な変化を容認する化学的(あるいは錬金術的と言うべきか)な世界観と言えよう。日常的には、むしろ、こうした見方の方が馴染み深いものかもしれない。木が燃えて灰になるとき、同一の実体の力学的状態が変動したというよりは、質的に別のものに変化したと考えるのが実感に合っている。あるいは、物質と生命、肉体と魂を、それぞれ世界に併存する異質の実在として捉えた方が、納得がいくのではなかろうか。だが、こうした「古典的な」世界観は近/現代科学によって排斥され、質的に不変な実体の実在性が、“科学的真理”の名の下に正当化されるようになる。こうして、哲学者にせよ評論家にせよ、(部分的にでも)科学の助けを借りて客観的な実在について語ろうとするときには、どうしても日常的実感を振り捨てて「力学的世界観」を援用せざるを得ないという状況が生じる。
 「力学的世界観」それ自体は、多くの科学理論と整合的な見解であり、アブダクション(仮説演繹法)の論法に則って提出された諸仮説に依拠している“頼りない”世界観ではあっても、現時点での科学的言説を展開する限りにおいては、これを暗黙の前提とすることに何ら不都合はない。しかし、科学的言説の範囲を超えて、「何が実在するか」という哲学的な問題領域に踏み込む場合には、注意が必要となる。19世紀までは、「力学的世界観」に立脚したイメージとして、「物体が運動する世界」を想定することが許された。だが、20世紀における物質像の変革は、「質的に不変な実体」や「力学的変数の量的変化」という概念を、従来の物体や運動のイメージから遥かに隔たった抽象的なものに変えてしまっている。そうした事情に疎いまま、「力学的世界観」を科学における正当な見解として鵜呑みにしていると、結果的にきわめて非科学的な実在論を振りかざすことになりかねない。
 現代物理学における「力学的世界観」の内容を詳述するには前提となる知識の紹介が不十分なので、ここでは、19世紀的な「物体が運動する」という素朴なイメージがどのような形で修正されたかを、3つのポイントに絞って紹介する。
 第1に、「物体」は「運動」に先立つ即自的存在としての資格を失ったことを指摘しておきたい。場の量子論において、「質的に不変な実体」として想定されているのは時空と一体となって世界に偏在している「場」であって、素粒子のような「物体」的存在は、あくまで「場」の励起状態として派生的に生じるものでしかない。「場」の基底状態は真空と見なされるので、「物体が何もない状態」も存在の一つの様相と見なされる。また、「場」は空間方向のみならず時間方向にも拡がっており、「静止」と「運動」の差異は、励起状態が時間方向にコヒーレンスを示しているかどうかという問題に還元される。こうして、「物体が(存在しこれが)運動する」という19世紀的な描像は、「物体の存在や運動を表す力学的状態が実現されている」という一元的なイメージに置き換えられねばならないことになる。
 科学的な厳密さを犠牲にすることが許されるならば、時空の各点にバネが存在していると考えるのがわかりやすいだろう。この場合、バネの伸び縮みが状態変数に相当する。バネ同士の相互作用によってさまざまな振動が拡がっていくが、量子論的な効果が加わると、特定のパターンだけが長期間にわたって持続することになる。こうした持続的パターンを持つ状態が「物体が存在する」という事態に対応する(下図)。
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 第2のポイントとして、「存在」の一意性が否定されたことを挙げておきたい。20世紀以前の(広義の)力学においては、空間の枠組みが固定されており、その内部に存在する物体が時間とともに運動するというイメージを維持することができた。この場合、「存在」と「非存在」は、一方が実現されているときには他方は実現され得ないという排他的概念であり、「大きい/小さい」「明るい/暗い」のような連続的な変容が認められる物理的な性質とは、根本的に異質である。しかし、量子論において、存在を表す状態関数は、時空間の1つの点においても量子論的な揺らぎによって拡がっており、存在と非存在を明確に弁別することはできなくなっている。言うなれば、存在と非存在の中間状態がさまざまなウェイトで重ね合わせられており、存在するか否かは一意的に定まっていないのだ。
 先のバネの模型を援用するならば、バネの伸び縮みの値が正確に定まっておらず、量子論的な揺らぎによって拡がっていると考えなければならない。このため、振動パターンにも不確定性が生じ、振動しているパターンとそうでないパターンが重なり合った状態も可能になる(下図)。
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 第3の(おそらく最も難解な)修正点は、「存在」と「性質」の区別が原理的に困難になったことである。「〜がある」と「〜である」という2種類の命題は、物理的には区別できないのだ。すでに「存在」の一意性が否定された段階で、存在概念を性質概念から識別する論理的根拠が揺らいだとも言えるが、現代物理学の概念構成は、この2種類の概念を分け隔てていた論理的根拠を、より徹底的に粉砕したのである。
 もう少し具体的に説明しよう。19世紀的な存在命題は、空間の特定領域に「物がある」ことを前提としている。これを場の理論の用語法で言い換えるならば、「該当する空間領域の状態変数に関して、ある励起状態を表すようなピークが現れる」となるはずである。しかし、ここで「空間領域の状態変数」を指定することは、物理的必然性に裏付けられたものではなく、全くの恣意的な行為にすぎない。なぜなら、物理的な状態を表す力学的状態変数は、無限次元の関数空間(位相空間)を構成しており、ある状態変数をピックアップする手段として時間・空間を指定することは、この関数空間を記述するための「基準座標系」として、無限にある選択肢の中の1つを人為的に選び出したことに相当するからである。
 「基準座標系」の選び方に見られる任意性は、「存在」が他の物理的な「性質」から一線を画させるべき特権的な概念ではないことを意味する。時間・空間で指定されるような基準座標系を選んだとき、そこに特定のピークが見られるならば、人はそれを「物体が存在する」と解釈するだろう。しかし、仮に、ある物理的状態が、時間・空間とは異なる指標によって定められる基準座標系で見たときにピークが現れるようなものであったとすると、これは「何もない」状態だと言ってしまって良いのか。そうではあるまい。両者は、状態変数の関数空間において、基準座標系を適当に選んだときにピークが示されるという点で共通しており、たとえ、一方が「特定の空間領域に物が存在する」状態として認識されないものであったとしても、ともに物理的に明確な存在様態として認めてしかるべきである。
 科学的な議論はわかりづらいので、ここでは、下図のようなイメージを思い浮かべていただきたい。ここに描かれている物は、一般に用いられる座標系で記述しようとしても、何であるか判然としないが、ある座標系から見ると、それが「A」という文字であることがわかる。このように、基準となる座標系を適当に選ぶことによって、初めて実態が明確になるような物理的状態もあるのだ。この例では、「A」という文字は一般の座標系に依拠したのでは認識できないにもかかわらず、厳然と存在していると考えられる。
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 時間・空間とは異なる基準座標系において現れるピークは、量子論的な《アトラクタ》に相当する。古典力学の場合、《アトラクタ》は、ある系が最終的にそこに到達すると予想される領域として定義される理論的な“虚構(artefact)”にすぎないが、量子論では、特定のパターンを持つ励起状態の領域として、物理的実在性を持つ。特に、あるタイプの《アトラクタ》の存在は、考えているシステムが、レーザー発振や超伝導のような協調的な振舞いを示すことを意味する。上の議論は、こうした協調的な現象が、単に個々の構成要素が偶発的に集まって起きるものではなく、「物体の存在」と同等の物理的リアリティを持っていることを主張する。
 このように見てくると、現代的な「力学的世界観」が、19世紀における「物体が運動する世界」というイメージからいかに懸け離れているかが理解されよう。質的に不変な実体として措定される「場」は、もはや即自的存在と認めるに足る個性を持っていない。関数空間内部でさまざまなパターンを示すその力学的状態が、連続的に「非存在」へと変容し得る「存在」や、「存在」と同等のリアリティを持つ「性質」を、文字通り形成しているのである。
 こうした前提の上で、タイトルの問題−−「ベンゼン環の六角形は実在する?」−−を考えてみよう。19世紀的な観点からは、この問いはナンセンスである。実在するのは炭素原子(あるいはその構成要素)であり、相互作用によってこれらが(たまたま)六角形の頂点の位置に並んだにすぎない。ベンゼン環が「六角形である」ことは、偶有的な性質とされる。しかし、現代的な観点からは、そうとは言えない。ベンゼン環を含むシステムの状態変数の中から6個の炭素原子の相対的な位置を表す組み合わせを選び、これを基準座標とする部分空間を考えてみよう。ベンゼン環の形状空間とも呼ぶべきこの関数空間において、システムの状態は、炭素原子が六角形に配置される点にピークを持っている。すなわち、ベンゼン環の六角形は、“実在”するのである。

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©Nobuo YOSHIDA