◎『観測問題』管見

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 量子力学のいわゆる『観測問題』に関しては、1930年代から多くの物理学者によって論考が提出されてきたが、1980年代に入って、漸く解決の糸口が見えてきたと言って良いだろう。この問題に関しては、物理学者のみならず、哲学者が関心を抱いて発言することも稀ではないが、不必要なまでに哲学的な議論は、かえって問題の所在を不明確にしてしまう危険がある。ここでは、晦渋な形而上学的議論は避けて、物理学的な要点のみをピックアップして示したい。


 歴史的に見ると、『観測問題』が物理学者に取り上げられるようになったきっかけは、量子力学系における時間発展に2種類あるというノイマンの定式化である。『量子力学の数学的基礎』(1932)によれば、系の量子論的な振舞いを規定する統計演算子は、根本的に異なる次の2種類の過程に従って変化するとされる。すなわち、
  1. シュレディンガー方程式に従う連続的・因果的変化
  2. 人間が系に関与したことに起因する非連続的・非因果的変化
の2つである。1は、シュレディンガー方程式の核関数(kernel)として定義される時間発展の演算子Uを使って表せば、量子力学の初等教科書に記載されている式:
ψ(t′)= U[t′,t]ψ(t)
に帰着する。一方、2は、純粋な量子論的状態(統計演算子ρが
ρ=|ψ><ψ|
と表される)が、物理的に区別可能な状態の混合(同じく
ρ=Σ|m>wm<m|
と表される)に変化する過程で、|m>という状態が確率wmで実現されていると解釈される。ここで、時間発展の演算子Uによって、純粋状態が混合状態に自動的に変化することは数学的にあり得ないので、ノイマンは、第2の過程は、対象としている量子系が環境と相互作用することによって生じると考えた。具体的には、人間が対象系に測定などを通じて干渉した瞬間に、純粋状態が混合状態に置き換えられるのである。

 数学的な観点に立っているノイマンからすると、量子論的な状態は、物理的な状態そのものではなく、統計的なアンサンブルを表していると見なされる。このため、彼自身は、測定による知識量の変化を通じて状態が変わることに、さして違和感を覚えなかったようだ。しかし、原子がどのような結合状態にあるか、核崩壊が起きているかどうか−−といったリアルな状況を状態ベクトルで表している物理学者にとって、量子論的な状態とは、単なるアンサンブルではない。たとえ実在そのものを直接的に表すのではないとしても、状態ベクトルは、(古典的な物理量と同じように)現実と対応させられる実在性を持っており、現実との対応がオプティマルになるように(現実を最も適切に表すように)状態を選べるはずである。

 「実在そのものを表すのではないが、現実を最も適切に表すように選べる量」という考えを理解するには、古典的な統計力学に現れる「温度」を思い出すとわかりやすいだろう。「温度」は統計的な概念であり、温度そのものを表す物理的な実在は存在しない。実際、ある物体の温度とは、「(物体の状態を指定する)物理的自由度の値が、どのように分布しているか」をもとにして決定されるものであり、対象とする系全体に関わる平均的な概念である。適当な台関数を利用して局所的な温度を定義し、連続的に変化する温度分布を考えることも不可能ではないが、この場合は、台関数の定義に任意性があるため、ある1点の温度が物理的に与えられるわけではない。にもかかわらず、「温度」という概念は実在的であり、「ある物体の温度がいくらか」という命題の正当性を、現実との比較によって(近似的ないし確率的に)決定することが可能である。物理学者にとって、オプティマルな状態ベクトルとは、温度と同程度に実在性を担っていると感じられるものである。

 「物理的な」観点に立つと、ノイマンの議論には、2つの問題点があるように思われる。第1に、上で述べた2の過程に関しては、状態の変化を時間的に追跡することが不可能だという問題がある。数学的なアンサンブルならば、時空間内部で連続的に変化しなければならないという理由がないため、ノイマン流の定式化でもかまわないと強弁することはできる。しかし、量子状態を実在的なものと見なす立場からすれば、測定によって非連続的に状態が変化するという定式化を受け入れることはできない。

 第2に指摘されなければならないのが、「選択」の問題である。ノイマンの定式化に現れる混合状態は、物理的に区別される状態|m>が重みwmで混じっているというものであり、現実には、ある|m>が確率wmで実現されることになる。この場合、|m>が「選択」される過程は、時空間内部の連続的な変化として記述されない。「測定してみたら系は|m>という状態になっていた」という結果としてしか表されないのである。これは、いかにも不細工な定式化であり、現実をより適切に表現する方法があると考えるのが自然である。

 ノイマンによる数学的な定式化の奇妙さを浮き彫りにするのが、いわゆる「シュレディンガーの猫」の実験である。『量子力学の現状』(1935)と題された論文に登場する猫は、50%の確率で崩壊する放射性原子核の振舞いに応じて、生きている状態|L>と死んでいる状態|D>に分かれる。さて、猫の状態を観測(=自我を持った観測者による測定)する前に、猫はどのような状態にあり、それが観測によってどのように変化するのか。

 シュレディンガーの例は、量子論的な状態を実在的なものと見なす立場からすると、ノイマンの定式化が不完全であることを、印象的に表している。ノイマンは、自我を持った「本来の観測者」を考慮の外に置くことによって、対象とする系が純粋状態から混合状態へと移行する過程(上の2の過程)の客観性が保証できることを示した(詳細は、上掲書の第4部を参照されたい)。量子力学がミクロな事象に適用されている限りは、それで問題がないように思えるかもしれない。しかし、シュレディンガーが示したように、量子論的な効果が巨視的システムに波及することもあり得るので、猫のような巨大な存在の状態変化も、理論的な定式化の枠内に入ってくる。猫は「本来の観測者」とは異なる対象系として扱ってよいのだろうか。観測前の猫の状態は、|L>と|D>の重ね合わせとしての純粋状態か、それとも、|L>と|D>が完全に分離した混合状態か、はたまた、|L>または|D>のいずれか一方なのか。この状態は、観測の瞬間に非連続的・非因果的に変化するのか。そのことを、猫自身はどのように感じるのか。

 もっとも、猫を使ったこの思考実験は、あまりに印象的にすぎて、物理学に詳しくない哲学者までもが参入して議論を紛糾させてしまう憾みがある。観測の直前までは生と死が重なり合った状態にあった猫が、観測の瞬間に生か死のいずれかの状態に急変するという奇妙なプロセスが、現代物理学の帰結として、まことしやかに語られたりもする。しかし、物理学的な議論としては、論点は、ノイマンの定式化に対して上で示したように、次の2つに絞られる。

 第1種の観測問題:巨視的なシステムにおいて、純粋状態から(実質的な)混合状態への移行が、シュレディンガー方程式に従う「自然な」過程として実現され得るか。実現されない場合は、量子力学の基礎方程式を見直さなければならないか。

 第2種の観測問題:(実質的な)混合状態の1つが現実の状態として「選択」される過程は、物理的な状態変化として記述されるか。記述できない場合は、どのような方法で対処しなければならないか。
ここでは、「第1種/第2種」という区別をしたが、これは筆者が仮に採用したネーミングで、他の学者は、より適切な用語法を使っているかもしれない。一般に、量子力学の教科書で未解明の課題として言及されるのが第1種、哲学者が形而上学的な議論の中で取り上げるのが第2種の観測問題である。


 現在では、いずれの問題に関しても、解決への方向性は見えてきている。

 第1種の観測問題については、基本的には、「デコヒーレンス」というプロセスを考えることによって解明できると期待されている。 ka_fig01.gif

 「デコヒーレンス」とは、数多くの構成要素から成り立っている物質の状態が、自然に「互いに干渉しない(デコヒーレントな)」状態に分岐していく過程で、物理学的には、対象の統計的な振舞いを規定する密度行列の非対角項が0になることである。測定対象となる系Pと測定装置を含む環境Eに分けて考えた場合、Pの測定値が異なるようなEの状態は互いにデコヒーレントになっている(はずな)ので、Pの状態だけを数学的に表現しようとすると、測定値が異なる状態が互いに干渉しない(厳密に言うと、Pの自由度から作られる任意の演算子の非対角項が消える)という条件を「あらわに」示さなければならない。これは、Pが混合状態に移行したことと、実質的に等価である。したがって、Eがシュレディンガー方程式に従う「自然な」過程としてデコヒーレントな状態に分岐することが示されれば、第1種の観測問題は解決されたことになる。

 残念ながら、実際にデコヒーレンスの過程が起きることは、厳密に証明された訳ではない。いくつかのきわめて簡単なシステムで、近似的にデコヒーレントになることが示されているが、一般論ができあがったというには、ほど遠い状況である。問題を難しくしているのは、ハミルトニアンが一般に連続固有値を持つという事実である。エネルギーが無限小だけ異なっている状態間には、O(ε)の干渉項が最後まで消えずに残ってしまうのである。この点がクリアされれば、量子力学の基本的な枠組みは変えないで済むはずだが、この「喉仏に刺さった棘」が、最終的には量子力学そのものを転覆させてしまう可能性も払拭しきれない。

 第1種の観測問題が解決されるならば、第2種の方を形式的に処理することも可能になる。デコヒーレンスが厳密に成り立つことが言えた場合、グリフィス(1984)が示したように、分岐した後の状態の時系列によって、世界の履歴を記述することが可能になる。仮に、デコヒーレンスによって2つの状態に分岐していくとすると、その内の一方を含む履歴が、世界の表現として採用されることになる。こうしたデコヒーレンスは無数に生起していると考えられるが、現実の世界は、その1つの系列として与えられるのである。
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 こうした「時系列理論」には、一般の人にはなじみにくいいくつかの性質がある。

 まず、「系列の分岐」は局所的に記述される物理的な過程ではないという点である。アインシュタイン−ポドルスキー−ローゼンの議論(1935)に示されているように、量子力学では、もともと相互作用していた物体が2つに分かれて十分離れた後でも、それぞれの物体がどの状態に「分岐」していくかについて長距離相関がある。しかも、この相関は、物体が相互作用しているときにあらかじめ決定されていたものではない(これは、有名なベルの不等式の帰結である)。このことは、量子力学の枠内では、「分岐」過程が自然な物理的過程として実現されているとは言えないことを意味する。ある時系列全体が、一つの世界史として与えられていると考えるべきであり、始状態から物理法則に則って「自然に」分岐が実現されていく訳ではないのだ。

 もう一つの「不自然さ」は、「時系列」が離散的な状態の集合であって、連続的な時空上で「遺漏なく」定義されていないという点である。デコヒーレンスにおいては、分岐の初期段階で、すべての状態が重ね合わされたまま変化する過程が含まれており、初めから、1つの分岐だけを抜き出すことは不可能である。このため、デコヒーレンスの過程を経て「ある状態」が実現されていることが判明したとしても、どのようなプロセスを経て「その状態」に到達したかを記述することはできない。これは、状態表現が現実のシステムと1:1に対応していないという意味で理論の不完全さを示すものだが、現実の世界では、素粒子レベルのプロセスでデコヒーレンスが実現されており、記述不能な中間段階の詳細が巨視的な影響を及ぼすことはないと考えられる。

 なお、デコヒーレンスが完全でなくO(ε)の「おつりの項」がある場合、時系列解釈は根本的に覆されてしまう。ある時刻においては無視できるようなわずかなズレであっても、十分に長い時間が経過すると、その効果が再び巨視的な影響を及ぼさないとは言えないからである。

 こうした問題があるため、「時系列解釈」には否定的な見解もあるが、第2種の観測問題を解決する唯一の科学的な理論であることは確かである。

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©Nobuo YOSHIDA