◎クローン技術の利用法

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1996年7月、イギリス・エディンバラでクローン羊ドリーが誕生して以来、生物学者のみならず一般の人々の間でも、クローン技術に対する関心が高まっている。

 「クローン」とは、同一の遺伝情報を有する細胞・個体を意味する用語である。一卵性双生児は、自然に発生したクローン個体であり、1個の受精卵が卵割の途中で何らかの原因により2つに分かれ、それぞれが個体に発育したものである。これを応用したのが初期胚の分離によるクローニングで、受精卵があまり分化していない時点で人為的に2つに分離することによって、一卵性双生児を作る技術である。ただし、双子を作るのがやっとで、三つ子以上になると成長は見込めない。畜産業では、(肉質が良い、産乳が多いなど)優秀な形質を持つ個体の大量育成が望ましいため、この技術を改良して多数のクローン個体を生み出せるように技術開発が進められた。こうして実現されたのが、 初期胚の核移植によるクローニングである。標準的なクローン動物(羊や牛)は、受精卵が32個細胞期胚になったときに、これをバラバラにして、核を吸引除去した未受精卵の細胞質と電気融合させ、体外培養で胚盤胞にまで成長させた後、別の雌の子宮に移植することによって作り出す。この技術は、すでに実用化されており、日本の畜産試験場でも、クローン牛が誕生している。

 ここで重要なのは、上で述べた技術を使う限り、クローン個体は原則的には同時期に子供として生まれるという点である。その意味で、一卵性双生児を人為的に生み出したものと考えて差し支えない。ところが、ドリーの場合は、すでに成熟した個体の体細胞を使ってクローン個体を作り出しており、言ってしまえば、大人が自分の(遺伝的な)コピーを作ったことに相当する。受精卵が、そこから内臓や骨格など体のさまざまな部分が分化していくという意味で全能(ominipotent)なのに対し、成熟個体の体細胞は、すでに全能性を喪失し、培養しても各組織特有の細胞にしかならない。このため、体細胞からクローンを作り出すことは不可能だという考えが、生物学者の間では支配的だった。ドリーを誕生させたロスリン研究所イアン・ウィルムット博士のグループは、この常識を覆すべく、次のようなテクニックを用いてクローニングを行った。まず、年齢6歳の雌ヒツジ(フィン・ドーセット種)の乳腺細胞を採取し、3〜6世代にわたって継代培養する。これを、核を除いた(スコティッシュ・ブラックフェイス種ヒツジの)卵細胞と電気融合させ、しかる後に、さらに別のヒツジ(スコティッシュ・ブラックフェイス種)の子宮に移植して誕生させたのが、ドリーである。成功をもたらした鍵となる操作は、乳腺細胞の継代培養中に栄養条件を悪くして、細胞周期を休止期に誘導し、分化した細胞核に全能性を取り戻させた点である。こうして、成熟個体の体細胞からクローンを作るという「神をも恐れぬ」技術が実現したのである。

 ドリー誕生に用いられた技術は、まだいくつかの問題を含んでいる。第一に、成功率がきわめて低く、「まぐれ当たり」的な色彩が色濃いこと。ドリーの場合も、同様の処置を行った多数の乳腺細胞のうちただ1つだけが成長した。第二に、こうして誕生した個体の生物学的な特性が、充分に解明されていない点が挙げられる。例えば、体細胞が分裂する過程で、染色体上のテロメアと呼ばれる部分が少しずつ短くなっていき、これが限界点を越えると細胞の分裂能力が失われることが知られている。ドリーには、すでに6年分の分裂を通じて短くなったテロメアを持つ細胞が使われているので、彼女は、細胞学的には、生まれながらにして6歳に達している訳である。テロメアの問題を含むさまざまな要因が、クローン個体やその子孫にどのような影響をもたらすかは判然としておらず、今後の研究課題である。

 こうした問題があるにもかかわらず、成熟個体の体細胞からクローン個体を生み出す技術は、多くの利用価値を含んでいる。最も期待されているのが畜産業への応用であり、将来的に、優秀な形質を持つ乳牛や食肉用羊のコピーを大量生産するために、この技術が利用される可能性は高い。しかし、倫理的な問題は別にしても、染色体異常などを持たない正常な個体に成長するかどうか、今後とも見守るべき点は多い。医学的には、特殊な形質を持つ実験動物のコピーに役立てられよう。絶滅した古代生物の復活に利用できるという声もある(『ジュラシック・パーク』!)が、核移植を行う細胞や胚を成長させる培地(哺乳動物の場合は胎盤)を用意しなければならないので、実現にはなお相当の時間が必要である。

 真剣に考えなければならないのは、この技術を人間に適用することの可否である。アメリカでは、不妊医療にクローン技術を応用するとラジオで声明した学者も現れ、論議を呼んだ。確かに、事故や病気で生殖能力を失った後も子供を作ることが可能になるので、この技術の利用を望む人もいるかもしれない。しかし、夫婦間の遺伝子を半分ずつ持つ通常の子供とは異なって、ひとりの大人の遺伝的コピーを作るという点で、倫理的に容認しがたいと思われる。すでに、クリントン米大統領が、クローン技術の人間への適用に対する強い反対姿勢を表明したほか、多くの医学者も同様の見解を示している。

 ただし、一部の人が不安に思っているように、ヒトラーのような特定の人間を再生することは、クローン技術といえども不可能であると強調しておくべきだろう。ドリーで用いられた技術は、生物学者にとっては、受精卵ではなく体細胞からクローンが生み出されたという点が画期的なのだが、そうした技術的な面に目をつぶると、単に、時間差を付けて一卵性双生児を生み出したことにほかならない。当然のことながら、記憶や意識は全く別のものとなり、クローン人間といえども、独立した人格の持ち主として別個の人生を歩むことになる。一卵性双生児は、顔や体つきのみならず内面までそっくりだと言われるが、これは、ふたりがほぼ同一の環境で育てられた結果であり、生育環境を違えれば、学業成績や行動パターンなどにかなりの差異を生じることが知られている。心を数値化することは難しいが、大雑把にいって、知能や性格のうち遺伝的に規定されるのは50%程度であり、残りは、環境要因によって変化すると考えられる。実際、遺伝子が持っている情報の多くは、細胞の置かれた環境(特定の化学物質の濃度など)に対してどのように反応するかを定めるものであり、個体の全体像をまとめた設計図が予め用意されている訳ではない。代謝系に影響を及ぼす糖鎖の構造や、異物に対する反応を定める免疫系も、遺伝以外の要因によって決定される。ドリーのように、共通するのは遺伝子だけで、細胞質や母胎環境が全く異なるケースでは、クローンではあっても乳腺細胞を提供した“親”とはかなりの差異が生じるものと予想される。むしろ、ドリー・タイプのクローンの研究を通じて、生物の成長に後天的な要因がいかに大きな影響を及ぼすかが判明するのではないだろうか。

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©Nobuo YOSHIDA