◎光量子論の受容を巡って

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 アインシュタインが1905年に提唱した光量子仮説は、プランクの輻射公式を一歩進めた画期的な理論であるが、科学史的に見ると、このアイデアが正当な学説として受容されていたのは、期間的にも人脈的にもきわめて限られた範囲にすぎない。

 そもそも、1905年の論文で、アインシュタインが議論の根拠としているのは、黒体輻射に関してウィーンの公式が近似的に成り立つ短波長極限で、輻射場の統計的な振舞いが希薄溶液と良く似ているという“素朴な”発見である。具体的には、変分原理を教科書的に応用してウィーンの公式から単色光のエントロピーを求め、その体積依存性が希薄溶液のものと一致することをもとに、輻射場を分子論的に解釈することが可能だと主張しているのである。こうした議論の進め方は、仮説演繹法に則った科学的な論法とは異質であり、あくまで直観に依拠する発見的なものでしなかい。アインシュタイン自身、そのことを明確に自覚しており、論文のタイトルも「光の発生と変換に関する発見的な見方について」となっている。アインシュタインの論文にしばしば見られる発見的(heuristisch)な論法は、彼独自のものである。簡単にいえば、複雑な現象の中から最も本質的な要素を抜き出して、直観的なイメージやアナロジーを援用しながら考察を進めていく。もちろん、こうした直観は、あくまで議論を先に進めるための「踏み台」であって、演繹的な学説が完成すれば用済みとなる。特殊相対論の論文では、第1部でこうした発見的な議論をもとに相対論的な変換則を求め、第2部で、この変換則を前提とする演繹的な立論を行っている。相対論の論文のように、発見的な議論が学説にまで昇華されていれば問題はないのだが、光量子仮説の場合は、論文の中で学説を完成させることができずに一つのアイデアを提出した段階で終わっている。このため、光量子仮説を巡っては、当時の物理学者(および現代の科学史家)の間にさまざまな葛藤を生み出すことになった。

 科学史家の中には、1905年の論文を、ニュートン的な光の粒子説の復活を宣言するものと見なす者もあるが、著者の意図は、むしろ、マクスウェル方程式の適用限界を示し、これを改訂するための足がかりを作ろうとしたものと考えるべきである。実際、アインシュタインは、1909年に、プランクの法則に従う輻射場のエネルギー揺らぎを計算して、これが、粒子的な項と波動的な項の和になっていることを示しており、単純な粒子説とは異なる粒子−波動の二重性に基づく理論展開を志向している。

 ただし、当時は、マクスウェル方程式の正当性を学界に認識させることに奮闘した科学者たちが、いまだ巨大な勢力を有しており、マクスウェル流のアプローチと正面から対立する粒子的な描像に対して、アレルギーにも似た忌避反応を見せていた。特に、1913年のアカデミーの報告では、プランクやネルンストを含む大家によって、光量子仮説が頭ごなしに否定されている。このため、アインシュタインも戦略的後退を余儀なくされる。1916年の論文では、光の粒子性に全く言及しないで、固体が持つ共鳴子というプランクの顰みに倣った仮説に基づいて、プランク分布が導けることを示している。さらに、1917年には、輻射場と平衡状態にある固体が放射に伴って被る反跳運動量を統計物理学の手法に基づいて計算し、これが、一方向に偏っていることを示した。こうした論法は、輻射場の性質が単純な波動描像のみでは理解しがたいことを遠回しに示すものだが、かといって、短絡的に光の粒子説を唱えるのではなく、電磁場の理論の改訂を促すものと解釈すべきであろう。アインシュタイン自身、光を粒子の流れと素朴に同一視したことは一度もなく、常に、従来の理論では説明しきれない性質があることを訴え続けていた。しかし、こうした迂遠な論法は学界を動かすインパクトに欠けており、光量子論の受容は遅々として進まなかった。

 それでは、光量子論をなかなか受け入れなかった当時の科学者たちは、度し難いほどに保守的だったのかというと、そうではない。忘れてならないのは、光量子論が、理論的にも実験的にも、支持を集めるだけの内容に欠けていた点である。

 光量子論が敬遠された理由は、一般的な量子化の手法がなかなか構築されなかったためでもある。初期の段階では、E=hνというエネルギー量子を導入するやり方は、ボーアによる角運動量の量子化J=nhと類比的に考えことができた。しかし、ボルンやエーレンフェストらの努力によって有限系での一般的な量子化規則が練り上げられ、∫pdq=nhなるソフィスティケートされた公式が導かれるに到ったのに対して、光量子論は、相も変わらず、エネルギー量子の枠を突き破ることができなかった。このため、固体の量子論に対してはシンパシーを示していても、光量子論は拒否する学者も少なくなかった。原子構造論で振動数仮説を採用したボーアも、エネルギー量子という単純なアイデアを信じていたのではなく、プランク流の共鳴子の考え方に近いものがあった。

 光量子論にとってさらに不利だったのは、これを支持する実験事実が充分に得られなかったことである。光量子論を裏付ける実験事実として、しばしば光電効果が引用されるが、光電子の最大エネルギーについてのアインシュタインの関係式:E=hν−Wは、特殊な共鳴状態があれば光量子論を仮定しなくても導びけるはずだと考えた学者は少なくない。光量子論でなければ説明困難な現象は、紫外線を照射した直後から電子が放出されることだけであり、いささか説得力に欠ける。光量子論を強く支持するデータが得られるのは、コンプトン効果についての厳密な測定が行われた1923年まで待たなければならない。ただし、コンプトン効果といえども、光量子論の正当性を決定するデータとは言えない。これは、あくまで短波長光によって1電子が散乱されるという特殊なケースであり、光量子論が一般的に成立することを保証するものではない。

 その後の歴史的展開は、光量子論が、前期量子論における一つのエピソードにすぎなかったことを示唆する。1925年から26年にかけて、演繹的な理論体系としての量子力学が完成する。ただし、この理論は、あくまで電子や原子に関するもので、輻射場は量子化されない外場として導入されていただけである。点粒子と見なされる電子を量子化する手法が得られたのだから、光をhνのエネルギーを持つ粒子と解釈して同様に量子化すれば良いのではないか――光量子論を素朴に受け入れると、そんな発想も許されるように思われるのだが、現実の科学の発展は、全く異なった方向に進んだ。まず、1927年にディラックが、時空間に偏在する場の全ての自由度を量子化するという天才的な発想を得る。さらに、1928年のヨルダンの研究を経て、1929年にハイゼンベルグとパウリが場の量子論を構築する。ここに到って、初めて光の粒子−波動の二重性を説明する演繹的な理論ができた訳である。そして、この理論の研究を通じて判明したことは、光量子論が、きわめて限られた適用範囲しか持たない暫定的な仮説だったという事実である。

 現代物理学を少しばかりかじった人は、光をエネルギーhνを持つ粒子と見なしがちである。しかし、自由に伝播する電磁場の振舞いを調べると、一般に1粒子状態で近似することはできない。通常の電磁波は、コヒーレント状態と呼ばれる光子数が1個から無限個までの状態が重畳した状態で表される。電磁場が関与するほとんどのプロセスは、光子数が不定な状態を使って計算しなければならない。しかし、1電子が短波長の電磁場で散乱される過程は、摂動論の高次項が小さな寄与しか持たないため、近似的に、1つの光子が電子と衝突して散乱させたものと見なすことができる。このとき、1光子のエネルギーはhνとなり、素朴な光量子論の結果と一致することがわかる。

 光量子論は、量子力学の入門編で頻繁に取り上げられるため、しばしば、その正当性が過大評価されやすいが、あくまで、きわめて限られた領域にのみ適用できる近似的なものにすぎない。こうした観点から見ると、発見的な議論にこだわって素朴な光の粒子説には与しなかったアインシュタインや、光量子論の受容をためらった1910年代の物理学者たちについて、正当な理解が得られるように思われるのだが、いかがなものだろうか。

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©Nobuo YOSHIDA