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序章




 量子力学の本質を哲学的に解明しようと試みる現代の科学哲学者たちの努力は 、どこかしら、モオビィ・ディックに理不尽な戦いを挑んで敗北するエイハブ の悲壮な(しかし一面では滑稽な)姿を思い起こさせる。一個人ではその全貌 を捉えるのが全く困難なほどに巨大化・複雑化した現代科学の中にあって、そ の中枢部に揺るぎない地歩を占めているこの怪物的な理論を前にしては、〈解 釈〉や〈思考実験〉などをキーワードとする素朴な科学哲学的方法論は、白鯨 の背に尽き立てられた銛ほどにも威力がないからである。

 確かに、量子力学は、今世紀の科学が生んだ怪物である。その怪物性は、2つ の事実に集約されている。
 第一に、量子力学は、原子物理や物性物理などを中心とする幅広い領域で、 定量的に見て驚くべき成功を収めているという事実がある。しかも、量子力学 の諸成果が、単に理想的な環境を整えた上で執り行われる研究室内での実験( 原子核を標的とする散乱のような)のみならず、科学理論がその進化を問われ る最先端技術の開発競争のただ中においても見いだされる点は、大いに喧伝し なければなるまい。こうした成果の例は、半導体結晶のエネルギー準位に基づ いてレーザーの発振周波数や発振幅を求めたり、不純物を添加した場合のバン ド構造の計算をもとにトランジスタを設計したりしているエレクトロニクス産 業の研究・開発の現場に、掃いて捨てるほど転がっている。従って、こんにち 人類が統御できる程度の(エネルギー的、時空的)スケールの現象に関する限 り、量子力学が(少なくとも近似的な)基礎理論であることは、ほとんど疑い 得ない。
 ところが、このような華々しい成功にもかかわらず、量子力学の土台となるは ずの物理的世界像は、理論の建設から半世紀以上を経た現在なお漠として掴み 難いままである。これが、量子力学の計り知れない怪物性の第二の側面である 。もちろん、いわゆる〈コペンハーゲン解釈〉−−量子力学的な状態は、特定 の現象が観測される確率振幅を与えるとする−−が、正統的な量子力学解釈と しての評価をかち得ていることは言うまでもない。しかし、この解釈は、あく まで量子力学をどのように利用すべきかについての指針を示すだけであって、 世界の成立機制は何かを知ろうとする哲学徒の要求に応えるものではないだろ う。少なくとも、現在の形式のままでは、量子力学は、どのように有能な科学 者にとっても、本音を言えば「よくわからない理論」のはずである。

 「きわめて有用であるにもかかわらず、その実体が把握できない」という一 見相容れないこの2面性を前にして、われわれはどのように対処すべきなのだ ろうか。この点について、(いささか類型的な割り切りかたをするならば)哲 学者と科学者は正反対の態度を示している。
 量子力学の建設当初から、多くの科学的哲学者(および哲学的科学者)は、 確率振幅としての状態関数によって記述されるこの理論を、物体の運動が一定 の軌道として確定するラプラス的世界像に対するアンチ・テーゼと見なし、量 子力学の結果に合致するような新しい世界像の建設を志向してきた。極端な場 合、量子力学の〈非決定論的〉な性格の中に、人間の〈自由意志〉の起源を見 いだそうとする主張まで現れた程である。このような議論の鍵となる概念とし て頻繁に援用されたのが、《不確定性関係》や《相補性》などの、いかにも哲 学的含蓄のありそうな科学的諸用語であることは、容易に想像されよう。ただ し、理論の数学的構成に見られる緻密さに較べると、こうした概念を具体的な 世界像に結びつける作業が、いかにも素朴な直観に多く頼っていたという事実 は否みがたい。
 こうした哲学者の態度とは対照的に、量子力学の応用に従事する現役の科学 者の間では、量子力学を科学的な予測を行う上で有効な単なる〈道具〉とする 見解が一般的である。このため、科学者にとって「量子力学を理解する」とは 、その背後にあるはずの実体を直覚するのではなく、これを使って科学的な計 算を実践する計算を実践する手法を身につけることを意味している。科学者た ちがかくもプラグマティックな態度をとる背景として、量子力学特有の理論構 造を見逃すわけにはいかない。実際、ヒルベルト空間内のベクトルとその上に 作用する演算子によって物理系を記述するという理論形式は、それだけで一意 的に系の時間発展を定めることはできず、《対応原理》のような(一見アド= ホックなものに感じられる)指導原理によって各演算子を古典理論の物理量に 結びつける必要がある。言うなれば、量子力学とは、内容を持たない数学的な 形式と、これを現実の世界と関連づける《対応原理》を組み合わせて構成した 理論なのである。ところが、《不確定性》や《波動性》などの〈哲学的な〉論 点は、むしろ前者の形式的な側面にかかわる問題であり、実験・観測結果との 比較と通じてその妥当性を検証するという科学的方法論には馴染まない。この 点で、量子力学は、理論の根本原理が「ローレンツ不変性の要求」として特定 の時空構造を指定する形式にまとめられる相対性理論と、性格を異にしている 。理論の応用に携わっている科学者たちが、哲学的議論を白眼視する所以であ る。

 おそらく、上のいずれの立場も、量子力学の本質を把握するためには、方法 論的に不十分だろう。量子力学が有用な物理学の理論である以上、その基盤に は、ニュートンの自然観に対置されるべき確固たる《量子力学的世界》が存在 するはずである(もっとも、それが人間にとって認識可能かどうかという問題 が残るが)。従って、量子力学の諸々の業績をもとに、その背後に想定される 世界の実体について思索を巡らすことは、科学哲学的に見てきわめて有意義な 作業と考えられる。ただし、こうした作業を遂行するに当たって、従来のよう に量子力学の枠内にとどまっていたのでは、目覚ましい成果は期待できない。 特に、(ハイゼンベルグが不確定性関係を説明する際に例として使った光子に よる電子の測定のような)思考実験に依拠した議論は、特定の認知の方略に基 づいて情報を処理する人間の思考能力の限界を露呈するだけだろう。なぜなら 、哲学的な論争の的となる量子力学の諸原理は、それ自体が(ローレンツ不変 性に類する)物理的内容を含んでいるのではなく、適当な翻訳規則を通じて現 実の世界と結びつけない限り、単なる数学的公理にすぎないからである。
 こうした点を考慮して、本論文では、議論の地平を従前よりも拡張して、い つか発見されるであろう量子力学の基盤となる物理理論本体を構想してみよう と思う。この姿勢は、譬えて言えば、実験的に得られた伝導方程式をいくら捻 り回しても熱の本質が理解できない(仮想上の)物理学者が、熱現象の背後に あるべき原子論的世界について漠然と想像を巡らせるやり方に似ている。もち ろん、既存の理論を越えた領域に、何の実験・観測データもないまま踏み込む というドン=キホーテ的態度は、「予言能力を持った理論を提出してその有効 性を検証していく」という正統的な科学方法論とはきわめて異質であり、何ら かの指導原理なしには、単なる憶測の羅列に終始するだけだろう。こうした過 ちを犯さないために、本論文では、量子力学の諸原則を再検討し、これらの中 で何が理論に不可欠な原理で何が便宜的な仮定か、何と何が独立で何が従属的 かを明らかにするという方針で、議論を進めていきたい。うまくいけば、この ような評価を通じて、量子力学の根底にある自然法則の概要が浮かび上がって くると期待されるからである。

 こうした方針に基づいて、以下の各章は次のように構成されている。はじめ に、第1章で、量子力学の基礎構造を明らかにし、科学哲学的に議論すべき問 題点を洗い出す。次いで第2章で、量子力学が「外部の理論からの情報なしに 科学的予測を提出できる」という意味で《完結した》理論であるためには、理 論から《波束の収縮》を排除しなければならず、そのために《観測》なる概念 を含まない形式化が必要なことを主張する。加えて、こうした形式の下では、 量子力学は(実在に関する情報を縮約している点で)《完全な》理論とは考え られないことを明らかにする。第3章では、量子力学の完全性に関連して分離 不能性とベルの不等式に関する議論を行い、局所的な理論によって不確定性が 再現される可能性があることを示唆する。さらに、第4章では、量子力学特有 の性質と見なされている粒子・波動の二重性に言及し、この性質が不確定性関 係から独立なこと、および、物理手金実在する非局所的な場が想定されること を論じる。さらに、結語で、未来の物理学における量子力学の展開を、筆者な りの独断で予測したい。


©Nobuo YOSHIDA