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A.科学的世界像に対する諸制約




1.何が科学を制約するか


 人間の日常的思考が、文化的をコンテクストに拘束されていることは、多くの 識者によって指摘されてきた。例えば、眼前に万年筆が提示されたとき、たとえ 素材や機構についてのはっきリした知識がなくても、それが何であるかと尋ねら れれば『万年筆」と即答できるはずである。このような反応は、我々の社会が、 筆記用具としての機能を優先する文脈で万年筆を把握していることによる。また、 だからこそ、キャップをはずして二つの部分に分けても、依然として「1本(の 万年筆)」と認識されるのである。一般に、日常的な世界像は、実生活が安全か つ快適になるように、生物的・社会的および個人的経験に基づいて練り上げられ たものであり、客観的な実体把握よりも効率性・機能性を重んじている。従って、 自然とは何かを理解しようとする者にとって、日常的な思考様式は、理論の客観 性に対する制約として作用する。
 現代科学は、人間の思考が有するこうした制約を打破することを、目的の一つ としている。ここで基本となるのほ、自然を記述するに当たっては、生活世界の 残滓がこびりついている直観的な把握に頼らず、《予言能力》をもった数理的モ デルを建設し、その正当性は予言の有効性をもって判定するという科学的方法論 である。ただし、科学的な予言能力とは、実験や観察によって得ることが可能な データのうち、モデルの諸パラメーターを確定するのに必要な部分を除いた残リ を、モデルを自律的に機能させることによって生成する能力を指し、必ずしも時 間的未来の予言を行うものでほない。また、あるモデルの有効性が認められたと しても、それは単に、理論的予言が誤差範囲内で実験・観察のデータと一致する ことを意味し、当該モデルが含意する自然観が承認されているとは限らない。例 えば、こんにち、量子電磁気学が最も精密な物理学理論と見なされているのは、 あくまで、「くりこみ」の処方箋に基づく近似計算が実験と良く一致するからで あって、紫外発散の存在に含意される特異性が自然界に実在すると想定されてい る訳ではない。
 このような科学的方法論の延長線上に、「説明的なだけの理論は学問的に無価 値である』とする、現代科学者特有の態度が派生する。これは、一般に、説明的 な理論が人間の直観に訴えるもので、それ自体は機能的な予言能力を持っていな いことに起因する。実際、現代科学が目指しているのは、自然とは何かを説明す ることでほない。空虚な真空に浮かぶ実在の質点から相互作用を担う《場》の数 学的特異点へ、さらには特異性をもたない場の古典解へと目まぐるしく変わる現 代の物質観は、自然の本質についての説明を求める人の日には余りに定見がない ものと映るかもしれない。しかし、予言能力を持つ理論の漸進的改良という観点 からすれば、きわめて順当な発展と言えるのである。こうして数理モデルに依存 する限り、科学は、人間の日常的思考様式の桎梏からは解放されているように見 える。
 しかし、ここに落し穴がある。数学基礎論が示す通り、数理モデルを定義する のに必要な公理系は、無制限に提出できるものではない。例えば、実数体を拡張 して無限小量を取り扱えるようにするというアイデアは、ライプニッッの無限小 解析の延長上に位置するにもかかわらず、1960年代に到るまで現実化されなかっ た〔1〕。さらに、個々の公理の採否それ自体、人間の都合に任されているという 面も無視できない。このことは、選択公理とその否定のいずれをとるかの決定を 迫られた場合、通常は前者の方が計算力のあるモデルを構成するという理由で採 用されるという事実に、如実に現れている。このように、自然を記述するのに最 適な教学理論も、決して人間の直観的判断と無関係に与えられているのではない。 従って、現在展開されている科学理論においても、その数理モデルが人間の思考 様式の限界に規定されている可能性がある。
 この間の事情を、数の概念を使って説明することにしよう。
 かつて、ウィトゲンシュタインは、等差数列の任意の項が与えられたとき、そ の次の項を確信をもって答えることができる事実に驚きを表明した〔2〕。敷延し て言えば、四則演算を含む自然数の体系に実質的な個人差が存在しないのはなぜ かという問題である。これは、決して自然法則の反映ではない。事実、数論の前 提となる集合の元の同一性・不変性(1個のものは演算操作を加えない限リ同じ 1個であり続ける)は、個体の分裂や合体が日常的に行われている自然界での基 本的性質ではない。自然数論の普遍性は、むしろ、対象を個別的に客体化した上 で、一定の性質と結びつけるという、生理的な認知の方略によるものと考えられ る。この方略に基づいて数を数える場合は、各々が弁別可能なように客体化され た対象に、順番に「既に数えられた」という性質を付与する形式的な(対象の何 たるかに依存しない)操作を施し、1回の操作を行う度に(適当な呼称があると 否とにかかわらず)「次の(これまでのものとは異なる)」数詞を呼び出してい けぼ良い。このようにして得られる数の概念が、数学的な自然数とほぼ等価であ ることは、自然数を定義する《ペアノの公理》を想起すれば明らかだろう。《ペ アノの公理》を日常的なことばを使って表現すれば、「一意的に定まる次の数を 1から順に数え上げていったものが自然数である」となり〔3〕、上の形式的な操 作と概ね等しい(ただし、日常的な数の概念に教学的帰納法の原理が含まれてい るとは言えない)。しかも、ペアノの公理系が自然数の全体系を再構成するため の十分条件であることから、これと別個に計算能力の普遍性を仮定しなくても、 四則演算は万人に共通のものとなる。
 自然数論の基礎にあるのが、自然法則よリもむしろ人間の認識過程であるとい う上述の主張を理解するためには、自然数を知らない知的生命を想定してみるの が良いだろう。幸い、ポーランドの作家スタニスワフ・レムが、驚異的な想像力 をもって描き出した「ソラリス」なる生物が、その実例としての役割を果たして くれる〔4〕。ソラリスとは、1個の惑星の全表面を覆う流動体から成る生物で、 この惑星が恒星と衝突しないように自力で重力ポテンシャルを調節しているとき れる。このような生物は、悉無的な応答をする神経系が具備されていないため、 対象を個別化して認識する能力を持たないはずである。代わリに、一種のアナロ グ・コンピューターとして連続量を分析する能力を発達させ、諸現象を「数えら れるもの」に分節せずに、「測られるもの」として認知するに到るだろう。その 結果、1という数は、0.999から1.001までの範囲を示すというように、人間に は当然に思われる「数の一意性」が欠落した数諭を展開することになると予想さ れる。この例は、自然数のような基本的な概念ですら、人間の生得的な思考様式 に依拠していることを示している。
 上の議論から明らかになったことは、現代科学がいかに客観的・合理的な方法 ものになればなるほど、無意識・無批判のうちに受け入れてしまい、科学の文脈 における客観的な部分から識別するのが難しくなる。以下では、この問題をさら に掘り下げて、より広範を見地から、科学における認識論的制約を考察していく ことにしよう。

2.科学的世界像に対する物理的制約


 ある知的存在が構築する世界像は、その生命体の置かれている物理的環境に制 約される。人間の場合も、当然のことながら、現在の地球上という限られた状況 の中で試行錯誤を積み重ねるしかない。ここで問題となるのほ、そのような制約 のうち何が、「普遍的な」世界像を模索する上で蹟きの石となるかという点であ る。これは、決して前近代的な自然認識――「全ての物体が地面に向かって落下 するので、地球が世界の中心である」のような――だけの問題ではない。確かに、 人間の知覚が及ばない領域の現象を垣間見せてくれる観測技術の進歩は、自然に 対する人間の視野をかなリの程度まで拡大し、日常的思考法が通用しない科学理 論の建設に貢献している。しかし、だからと言って、これまで人間が獲得してき た科学的な知見が、現実の物理的制約から完全に解放されていると考えることは 許されない。なぜなら、人間にとって現時点で原理的に観測可能なのは、たかだ かこのアインシュタイン宇宙という限られた世界の、きらに、観測点を原点とす る過去に開いた光円錐の内側の領域でしかなく、それ以外の現存するかもしれな い世界については、データを得ることすら本質的に困難だからである。


 こうした観測上の限界について、より具体的に考察しよう。
 我々が棲んでいるこのアインシュタイン宇宙について語る際に、しばしぱ、さ まざまな物理定数が生命の生存に適した値に設定されていることが注目されてき た。例えば、陽子と電子の間にある2000倍近い質量の開きは、安定な構造をもつ 物質の内部で電荷の移動を伴う電気的現象が生じるための必要条件である。この 事実に対する最も簡単な説明として引用されるのが、《人間原理》と呼ばれるド グマである〔5〕。これは、物理法則や物理定数の異なるいくつかの世界が現実に 存在したとしても、その中で認識の対象になり得るのは、生命の発生に好都合な 環境を備え、現に知的生物が生息している世界だけだという見解である。逆に言 えば、科学理論が生物によって語られる言明の体系である以上、科学が記述する 世界は生命の存在を保証するものに限られることになる。この見解は、必ずしも 検証不可能な命題を弄する類のものではない。実際、近年の宇宙論によれば、こ の宇宙は、約百五十億年前に起こった大爆発(ビッグ・バン)以降、温度が低下 する過程でいくつかの小宇宙に分岐していった可能性が指摘されている〔6〕。こ こで、相転移に伴う対称性の破れが各小宇宙で不規則に起きるとすれば、それぞ れの世界は、素粒子の質量や結合定数が「この」世界とは異なっているはずであ る。こうした基本的な定数が変化すると、物理法則の定性的な振舞いも影響を受 けるので、これらの「異世界」は人間の日常的な想像を越えた異形のものとなる かもしれない。例えば、この宇宙では陽子や中性子などの粒子が反粒子よリも圧 倒的に多数であるが、この二種類の粒子が同数となる宇宙が現実に存在すること も不可能ではない。なぜなら、これらの粒子と反粒子の非対称性は、ある種の結 合定数に虚部が存在することに起因しており、もし全ての結合定数が実数である とすると、宇宙初期における粒子/反粒子の非対称性の生成が起きなくなるから である。しかも、粒子と反粒子が同数である宇宙は、両者の問の対消滅が頻繁に 起こるため、巨大質量を持つ銀河が存在できないという奇妙な世界になる。以上 のように、《人間原理》とは、物理的にも決して荒唐無稽なアイデアではなく、 真摯な議論に値するものである。
 注意しなければならないのは、《人間原理》が(ちょうど、ネオ=ダーウィニ ズムにおける《自然淘汰》の原理と同様に)「説明力」がありすぎるために、論 理的に許される範囲を逸脱しないようにその適用に自制的になる必要があるとい う点である。実際、物理法則として提出される理論的命題の多くは、より基本的 な相互作用の形式に還元されるものであり、命題の段階で《人間原理》を持ち込 んでその当否を議論しても無意味である。当然のことながら、時間の並進不変性 や力学系の(擬)アトラクターの性質を考慮しないで、エネルギー保存則やエン トロピー増大の法則が成立していない異世界を思い描いても、科学哲学的な価値 はない。しかし、だからと言って、人間原理の適用範囲を、現行理論のパラメー ターを調節するだけにとどめていたのでは、この原理が有する本来的な革新性を 活かすことができない。そこで、次の「人間原理適用の際の基本方針」を導入す る。すなわち:

現行の理論によって生成される科学的命題の普遍性が《人間原理》によって 制限されるのは、この命題の否定を生成する(科学的方法論に則って構成さ れた)理論の相対的多数が、生命の存在を許きない場合に限られる。


ただし、ここで「人間原理によって制限される」なる条件の意味は、当該命題が 現に妥当しているのほ、知的生命(=人間)が発生したというこの世界の特殊性 に依拠しており、これが普遍的に成立するという原理的な根拠がないということ である。よリ積極的に、この命題が成り立たない世界が現存する可能性があると 主張しても良い。
 上の基本方針の基盤となる考え方は、以下のようなものである。まず、科学的 方法論に則って、考えている命題Pが成立しない世界を想定する。(i)こうした世 界でも一般に生命が存在できるという結論が得られた場合を考えよう。もし、こ のような世界が現に多数存在していると仮定すると、Pが成リ立つ「この」世界 に人間が生きているのは、余りありそうもない偶然の結果ということになる。従 って、この仮定は妥当でなく、Pは大多数の世界(または唯一の実在である「こ の」世界)で成立する普遍的な命題だと推測できる。(ii)逆に、Pが成立しない世 界では、一般に生命が存在できないことが判明したとする。このとき、人間がP の成り立つ世界にいるのは(それ以外では生きていけないので)必然的帰結とな り、Pの普遍性を保証する根拠がなくなるのである。
 この「基本方針」により、人間原理が適用できない例を挙げておこう。我々の 生きるアインシュタイン宇宙では、空間の次元数は3であると考えられる〔7〕。 これに対して、空間が3次元でない世界を想定しよう(相互作用の形式は、この 世界と等しいとする)。空間が1次元の世界には、明らかに、興味ある現象は生 起しない。空間が2次元の場合、空間内部に現れる秩序の構成要素は1次元的な 構造物となるが、よく知られているように、1次元の物体は相転移を起こさず、 生命発生の条件となる複数の準安定状態間の遷移も生じない。ところが、空間が 4次元以上になると、生命の発生を妨げる要因はなく、むしろ3次元の場合よリ も複雑な機構をもった生物が登場すると予想される。従って、 「基本方針」によ れば、 「空間の次元数は(数千とか数億になることはなく)余り大きくない」と いう命題は、普遍的な性格のものである。


 上述のように、科学的命題の普遍性を主張する前提として、生命が発生する条 件を考察する必要が生じる。しかし、地球上における生命発生のメカニズムすら 解明されていない現状では、きわめて限定されたモデルでの議論しか可能でない。 従って、厳密な議論は将来の科学の進展に委ねることにして、ここでは、物質− 空間というごく基本的な世界像にかかわる問題だけを指摘しておく。
 生命が発生するために必要な条件の中で、特に重要なものは、物質の構成要素 の大きき(素粒子の相互作用半径のような)に比べて、きわめて巨大なオーダー で秩序が形成されることである。一般に、長距離秩序が安定状態を保つためには、 その状態が準閉鎖系となって、物質の出入りを制限することが必要になる。この ため、生命が存在する世界は、境界をもった個物的秩序の存在を保証する物理法 則に支配されていると予想される。ところが、このような世界は、比較的明確な 境界を有する物体と、その回りの構造に乏しい空間から成るばずである。従って、 (少なくとも、生命体から見た巨視的レベルでの)物質−空間の2元論は、生命 が発生し得る世界での必然的な世界像と言うことができる。人間の棲息するこの 世界については、確かに、場の量子論の段階まで、物質−空間の2元論的な記述 がなされている。
 それでは、逆に、物理学的に見て2元論でない世界は可能なのだろうか。具体 的には、境界で画定されるような構造が現れない物理法則が現実的なものとなり 得るかという問題である。この問いに対しては、肯定的な解答を与えることがで きる。実際、量子化されない場の古典論、あるいは、長さの次元量を全く持たな い場の量子論は、一般に、安定な構造を作ることができない〔8〕。従って、この ような理論で記述される世界では、空間の内部に孤立して在るという直観的には 普遍的と思われる物質の存在形態が実現されず、代わって、世界全体に物質が蘭 漫するはずである。もちろん、このような世界で生命の発生はあり得ない。よっ て、物質ー空間の2元論的な世界像は、人間原理に基づいてその普遍性が制限き れることになる。
 科学的に興味ある結論は、生命の発生に必要とされる物質−空間の2元性は、 生命体と同じ程度のスケールで見た世界の条件であるため、微視的な領域でも妥 当している必要はないという点である。例えば、現在は素粒子と呼ばれているも のを重力場のトポロジカルな古典解と解釈すると、物質は空間の一つの存在様式 に還元される(ただし、現行のアインシュタインの重力理論では、このような解 は存在しないので、根本的に理論を作り換える必要がある)。こうして、2元論 的世界像は、単に、この世界とは直接は結びっいていない異世界で成り立ってい ないかもしれないのみならず、空間的なスケールを変換しただけで破れる可能性 のあるほど「脆い」ものであることがわかる。
 このほか、物質(フェルミオン)と力(ゲージポソン)の2元論など、直観的 には科学的世界像の基本的な要素と見なされているいくつかの命題に関しても、 同様にして普遍性が制限されると予想される。


 以上の議論が示しているように、現行の科学理論は、知的生命が存在するのは 特定の環境の下に限られるという条件によって大きく制約されている。残念なが ら、現時点でこれに対して提出できる科学哲学的な陳述は、せいぜい、どの命題 が普遍的でない可能性があるかという消極的な主張でしかない。この問題につい てほ、これ以上の詮索は行わないことにする。

3.科学的世界像に対する心理的制約 


 前節の最後の議輸は、知的生命の匿かれている環境は、長距離秩序が形成され、 物質が個体として存在し得る世界であることを示していた。それでは、逆に、こ のような(この世界と類似した法則性を有する)環境の下では、全ての知的生命 が同じ世界観を抱くに到るのだろうか。この問いに答えるためには、人間の神経 機構の特徴に着目する必要がある。地球上の高等生物の神経は、いずれもニュー ロンを基本単位とする悉無的な応答系から成っている。従って、知覚による入力 情報は、一般に離散的にコード化されることになリ、連続的な変化量がそのまま の形で取り扱われることはない〔9〕。こうした神経系の特徴は、対象を個物とし て客体化するという基本的な認知の方略に反映されている。ここで注意しなけれ ばならないのは、このような個物化の方略による認知は、現実における物質の存 在形態より強い規定性をもっているという点である。すなわち、客体としての個 物は、自然界には必ずしも存在しない弁別可能性(他の物体と弁別できる)や同 一性{ある物体は短期間は同じ物体であり続ける)などの性質を付与され、思考 が安定かつ確実なものとなるように整備されている。こうした思考様式は、おそ らく、獲物を捕食する際などに明確な客体をターゲットとする方が効率的である という理由によって、進化における淘汰過程を通じて獲得されてきたと推定され る。こうして、地球上の高等生物、中でも人間は、まず対象を個物化された客体 として把握し、これに、一次知覚に基づく、あるいは、認識の文脈に応じた種々 の性質を付随きせていくという形で、世界を認識する手法を獲得している。この 結果、各々の個物は、現実に見られるような変化に富んだ諸性質の多くが剥奪き れ、言語(ないしその萌芽的形態)による異種感覚連合的な「概念」を媒介とし て、ネット・ワーク状の意味体系を構成するようになる〔1O〕。人間的な思考とは、 このような意味ネットをある形式的な操作によって変形する過程だと見なすこと ができる。
 それでは、このような思考の様式が、具体的にどのように世界像を制約するの だろうか。いくつかの基本的な問題にっいて、注意を喚起したい。
 既に何度か指摘していることだが、人間的な思考様式に依拠する世界像が、あ らゆる知的存在(意識が目覚めたアナログ・コンピューターまで含めたような) に共通するものでほない。仮に、古典力学が成立する世界を考えよう(これは、 例示のための仮定であって、実際には、古典力学系では生命は発生できない)。 このとき、3次元空間内のn質点系の運動は、6n次元の位相空間の軌道と等価 であり、位相空間の方を認識する知性にとっては、「拡がった空間の内部にいく つかの粒子が存在する」という描像は妥当しない。一般に、ある世界の現象を記 述するのに、数学的に等価であリながら異質の世界像を与えるいくつかの理鈴が 構築できる場合、それぞれの理論に基づく世界像は、特定の認知の方略を使用す る知性によって直観的に支持されるもので、いずれか―つが普遍性を主張できる ということはない。
 よリ具体的に、人間の抱く世界像の特徴に目を向けよう。具象物に関する人間 の思考は、与えられた対象を客体として個物化した上で、これに何らかの操作を 施すという形式で進んでいく。従って、こうした思考過程を経て得られた世界像 にほ、ほっきりと意識されることがなくとも、識閾下の認知的な操作の痕跡が残 されているほずである。この問題については、―般論を展開するよりも、テーマ を絞って掘り下げていった方がわかりやすいだろう。そこで、セクションを改め て、人間による空間的拡がりの認知が、現実の科学理論にどのような影響を与え ているかにスポットを当てることにする。

©Nobuo YOSHIDA