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第4の問題.未来はすでに定まっているのか



 決定論と非決定論の相克は、自由意志の問題と路んで、古くから哲学的議論の 格好の題材となってきた。この問題に対する形式的な解決は、カントによる純粋 理性のアンチノミー論を通じて与えられた〔29〕。すなわち、生起するものに関す る原因性に、自然法則とは異なる「自由」の要素が含まれているか否かについて 議論する場合、先験的な自由の理念を現象系列に当てはめようとすると、理性が 指示する悟性の適用法則と矛盾する。しかし、この矛盾(アンチノミー)は、仮 象に過ぎない感覚的現象に先験的理念を適用したことに起因する見かけ上のもの で、「自由」による原因の実在性と共立し得る。このようなカントの見解は、基 本的には妥当であるが、(空間や時間の限界に関するアンチノミー論が、現代物 理の成果によって明確な基盤を得たのと同様に)具体的知見をもとに科学的に基 礎づけることが望ましい。こうした観点から、本節では、物理学における現代的 な決定論について議論し、あわせて、この問題に付随して現れる諸々の謬見の認 知科学的な解明を試みたい。

(i)物理学における決定論の現状


 はじめに、いまだ定まらぬ未来に向かって時間が流れていくという素朴な非決 定論は、相対論的な時空観の下では、首肯しがたいことを指摘しておこう。なぜ なら、(既に、第1の問題として論じたように}事象が時間軸に沿って既定と未 定の2つの状態に区別されるとすれば、両者の界面としての「現在」が時間的な 超平面として表されることになるが、こうした超平面を特別扱いすると、ローレ ンツ不変性が破れて、諸々の観測事実と矛盾することになるからである。一般に、 「現在」を物理学的に(測定可能な対象として)定式化するのは困難である。従 て、物理学的に有意味な非決定論とは、ある空間的超平面(仮に、現在と呼ぼ う)上で自己共立的(self‐consistent)なコーシー的境界条件を初期条件とし て課しても、その後の時間発展が一意的に定まらない理論を指す。ここで過去 の側については、一般に(ビッグバンのような)時間の原点で一定の境界条件 が課されているので、現在の境界条件を併せることによって、時間発展が 一意的に決定されると考えても良い(別の見解もある)。
 歴史的な観点に立てば、古典力学的な決定論は、今世紀初頭に量子力学的な非 決定論(または確率的な決定論)にとって代わられたと主張することも可能だろ う。古典力学では、(位置と運動量を表す)位相空間内部に1点を指定するだけ で、そこを通る軌道が一意的に定まり、過去および未来への時間発展が確定され る。この場合、「時間」は、軌道上の位置を与えるパラメーターとなる。これに 対して、公理論的に定式化された量子力学では、理論の定義として正準交換関係 ([q,p]=i)が課せられるため、正準共役変数の標準偏差の積に原理的 下限が与えられる(ΔqΔp〜)ことになる。量子力学的な系を長時間にわた って時間発展させると、この「不確定性」が原因となって、偏差を表す軌道の幅 (いわゆる軌道のぼやけ)が次第に大きくなり、非決定論的な要素が無限定的に 増大していく。こうした性質をもとに、現代物理学の基礎となる量子力学を非決 定論であると見なす者は多い。
 ここで、一部の誤解を取り除くために、量子力学の不確定性と観測との関係を 述べておこう。量子力学における「不確定性原理」とは、(原理の名に反して} 交換関係の設定という量子化の操作そのものに起因するものであり、巨視的な装 置による観測過程とは直接の関係はない。光子によって電子を測定するというハ イゼンべルグの思考実験は、位置と運動量の不確定性を強く印象づけるものだが 〔30〕、論理的には不確定性を示す現象の一例に過ぎない。また、観測に付随する とされる非因果的な《波束の収縮》は、量子力学の不確定性とは、全く無関係で ある。なぜなら、この『現象』は、状態の記述に観測装置を含めない場合には、 測定によって区別される状態の間での干渉を避けるために人為的に一つの状態を 選択する必要が生じるという、純粋に技術上の虚構に過ぎないからである〔31〕。 こんにち、物理的に意味のある観測の問題とは、量子統計力学で取り扱われる巨 視的な物体の状態を議論する場合にのみ現れると考えられる。すなわち、このよ うな系で、量子論的な密度行列の非対角項を巨視的に区別できない状態について 積分したとき、果して、位相因子の符号が頻繁に変化することによって古典的な 密度行列に帰着するか否かという問題である〔32〕。従って、非決定論に関する科 学哲学的な議論においては、量子力学的な観測については無視してかまわない。
 それでは、量子力学の定義の一つである正準交換関係から導かれる不確定性は、 非決定論的な現象を説明するのに必須の条件なのだろうか。この点について、筆 者は懐疑的である。その理由は、現在の状況を鑑みるに、量子力学の将来には多 くの不安材料があり、非決定論的な要素を含まない理論にとって代わられる可能 性が強いことにある。量子力学は、非相対論の範囲では、公理論的な取り扱いが 可能となって理論の構成に曖昧さがなくなるという意味で、「完全な」理論であ る(もちろん、この語は方法論的な意味で用いておリ、「完全に正しい」という ことではない)。しかし、これに相対論的不変性を導入した場の量子論の段階で は、(確率振幅の摂動論的な計算に現れる紫外発散をはじめとする)多くの困難 が現れる。こうした困難は、根本的には、正準交換関係を相対論的に拡張した同 時刻交換関係の表式:
[φ(x,t),π(y,t)]=iδ(x−y)

が、時間的な同時性と空間的なデルタ関数という2つの特異性を含んでいること に由来すると想定される。この問題についての掘り下げは次節に譲るとして、も し、相対論的な正準交換関係を放棄して別の枠組みを導入しなければならないと すると、この関係に依拠している不確定性原理も変更を余儀なくされる。実際、 干渉の問題さえ解決すれば、(チッターべヴェーグングのような)量子論的なゆ らぎは、熱力学に見られるような古典論的なゆらぎに還元することが可能であり、 原理的な不確定性を伴わない理論を建設することは、充分に可能である。

 量子力学の将来にこのような不安が残り、正準変数間の不確定性が払拭される 可能性がある以上、物理学的な決定論の問題は、別の観点から眺めなければなら ない。こんにち、この問題について多くの物理学者から支持されているのは、現 実の世界は決定系でありながら、多数のアトラクターが競合しているために予測 不能になっているという見解である。このような系では、(摩擦のある振子のよ うな)最終的な状態が初期条件に余り依存しない系と異なって、一定の時間が経 過したのち系がどのような状態にあるかは、初期条件から始めて全てのステップ をシミュレートしなければ予測できない。しかも、初期条件の測定誤差およびシ ミュレーションの近似のため、予測の誤差は時間の経過とともに指数関数的に増 大すると推定される。従って、事実上、ある時刻の初期条件をもとに未来を完全 に予測することは不可能であり、その意味で非決定論と変わるところはない。実 際、カタストロフィーの理論の建設者であるトムは、ラプラス的な完全決定系の 世界において実験に基づく理論の制御が可能になるのは、構造安定な局所モデル が構成できるような場合に限られていることを指摘した上で、次のように言って いる:「ありふれた現象のうちに構造不安定なものがたくさんあるということは、 経験的事実である。そして、構造不安定であるが決定的な現象と、本質的に非決 定論的な現象とを識別する実験的基準はあきらかに存在しない」〔33〕。
 こうした予測不能な決定系のアイデアは、カントのいわゆる純粋理性のアンチ ノミーを解消するものであり、哲学的な議論を展開する上でも参照すべき点が多 い。ここで興味深いのは、決定論と予測不能性は両立可能だとする「コロンプス の卵」的な発想が、なぜこれまで科学哲学的な議論の俎上に載せられなかったの かという点である。実は、この疑問に対しては、カントが既に解答している。冒 頭に述べたように、自由に関する哲学的議論に矛盾を招来する一方の要因は、彼 によれば、悟性の適用法則が(物自体ではなく)理性によって支持されるという 事情である。これを現代的用語法で言い換えれば、因果的連鎖に関する認知の方 略が生得的プログラムに基づく学習によって規定されていることを意味する。こ のような観点から、次に、決定論/非決定論の2元的図式を超克できなかった認 知方略の実態を探っていくことにする。

(ii)因果連鎖に関する認知方略


 人間が外部知覚を因果的な連鎖として分節するときどのような方略を用いてい るかについて研究することは、現代物理学が提出した決定論と非決定論を調和す る世界像が、なぜ哲学的に早期に見いだせなかったかという疑問に対して、理解 の糸口を与えてくれる。

 知覚情報の処理を行う際に人間がとる基本的な方略の一つとして、対象化の原 則を挙げることができるだろう。この原則は、いわば「もの」を「もの」として 認知する方略である。その適用範囲はきわめて広く、本やリンゴのような具体的 個物から雲や渦巻のような準安定な状態に到るまで、およそ他から分離可能な部 分は対象として把握される。場合によっては、言語レベルに敷衍されて、国家の ような体制や喜怒哀楽の心理過程までも、あたかも実在するもののごとく対象と して語られることがある。
 このような方略は全ての人間に共通であり、神経機構に組み込まれていると考 えられる。その傍証として、(おそらく)あらゆる民族が、個体を表す“1”と いう数詞と、それに1を加える操作によって得られる“2”という数詞を持って いることを指摘しておこう。こうした基本的数詞の所持は、うっかりすると「当 り前のこと」として見過ごされがちであるが、実は、人間(および類似の認知方 略を採用している他の知的生物)に固有の性質である。実際、意識に目覚めたア ナログ・コンピューターにとっては、“1”はただ―つの値を持つ離散的な数で はなく、例えば偏差0.01を有する拡がった量であり、従って、「1+1+…」 という操作を百回繰り返しても、人間のように確定した値を得る代わりに、99か ら101までの範囲に(ある種の重み関数をつけて)拡がった解答が求まることに なる。
 よく知られているように、中枢神経系における一次投射野の段階では、知覚情 報はいくつかの特徴に分解されて、各特徴ごとに特異的な部位で分析的な情報処 理がなされる。例えば、ネコの視知覚においては、2本の平行な線分が垂直方向 に振動するのを見るとき、振動が同位相のときに興奮するニューロンは、逆位相 のときのニューロンとは別物であることが判明しており、運動方向に関する特徴 分析器が生得的に備わっていることを示唆する。従って、対象化の原則は、一旦 は分解された特徴を再び統合する機能の指導原理であると想定される。ただし、 このような統合過程を実践する機能が、大脳皮質の特定部位に局在しているとは 考えがたい〔34〕。なぜなら、知的活動自体が困難なきわめて重篤な痴呆の患者を 除けば、およそ思考を行使している人間で、対象把握が特異的に阻害されている 患者の例は報告されていないからである。たとえ、物品を正しく呼称できない失 名辞の症候を示す失語症患者においても、迂遠な表現や動作を用いて当該物品を 指示することは可能であり、喪失されたのが単に物品と名詞の間の連合に過ぎな いとわかる〔35〕。
 なお、対象化の方略がきわめて基本的で、これから脱するのが困難である証襲 は、人間の思考様式を高度に抽象化した体系である述語論理学において、同様の 手法が維持されている点にも見いだせる。すなわち、論理学の議論では、対象の 同一性の指示は、内包的規定(すなわち対象が何であるかという記述)を利用せ ず、単に(x=yのように}変数を等しいと置くだけでなされる。こうした方式 は、論理学で用いられる対象という概念が、内容に依存しない認識の形式である ことを意味し、素材に非特異的に対象化を遂行する日常的な認知の手法と軌を一 にしている。

 外部知覚を分節する際の第一の方略が対象化の原則であるならば、第二の方略 としては、準安定な状態間の遷移過程を「事象」として認識する高次統合作用を 挙げることができるだろう。例えば、アメーバーは形態的に変化しても位相幾何 学的には安定な存在なので個体として同定されるが、これガ状況に応じて安定な 2個体状態に変化すると、1個体から2個体ヘの遷移過程全体が「細胞分裂」と して概念画定されることになる。ここで謂う所の遷移とは、直観的には、2つの 極小値をもつポテンシャル模型において、一方の極小値から他方へと移る過程と 類比的に取り扱って良いだろう。この過程に因果律的な説明を施すとすれば、当 初の極小値からはじきだす作用を動力因、遷移がポテンシャル関数の構造変化に 起因するとしてこの変化を構造因と呼ぶのが妥当である。
 ここで重要なのは、こうした状態間遷移の概念画定においては、始状態・終状 態となるいくつかの準安定状態のみが着目されて、遷移過程の連続的な変化球一 般に無視(ないし過小評価)されるという事情である。これは、認知的方略とし てまず安定状態の対象化が行われ、しかるのち状態を結ぶ事象が分節されるとい う、実際の心理過程に直接に由来するものと考えられる。確かに、「音が鳴り止 む」瞬間に、音が鳴っていた状態に気づかないまま、音の変化という事象を優先 的に認知する場合もある。しかし、この事例は、聴知覚においてたまたま時間に ついての微分分析器が存在するという一次入力段階での特徴を反映するものであ って、連合野の方法論として一般に対象化が事象化に従属していることを証する ものではない。
 こうして人間は、事象に関しては、遷移の有無についての2値論理的な態度を とるようになる。換言すれば、「何かが起こった」と主張するときの何かとは、 分析的に解明できる具体的過程を内包するものではなく、その前後の状態を結び つける架橋としての従属概念に過ぎない。例えば、外傷のような動力因によらな い老衰死について考えてみよう。この過程は、単純化して言えば、動的安定性を 保っていた「生」の状態から静的な安定状態である「死」ヘの遷移であり、その 原因は、肉体的状態を表すポテンシャル(と類比的に考えられる)関数の構造変 化に求められる。しかし、日常的概念としての「死(ぬこと)」を分析しても、 その間の具体的・連続的過程は明らかにならない。たとえ、医学的に心電図や脳 波の変化を解析することによって死に到るパターンが判明したとしても、人間が これを日常的な死の概念に取り込むことは困難だろう。人間にとっての「死(ぬ こと)」とは、あくまで生と死の中間にある過程で、独立した概念規定を受ける ものではない。
 断わっておくが、こうした状況は、因果関係が錯綜して複雑なネットワークを 構成する場合にも、同様に成立している。このとき、上の(死の)事例との相違 は、事象と連関する状態の数が有限多数に拡張され、遷移過程が(ネットワーク 理論で謂う所の)リンクに配されるようになるだけである。

 以上のような認知の方略を採用している人間にとって、日常的用語法に基づく 「決定論」とは、次のような意味を持つことになると予想される。すなわち、決 定的か否かをを判定すべき事象は、有限な個数の準安定状態を結ぶ遷移過程に限 定され、その有無がいくつかの対象化された個物の状態から一意的に導かれる場 合に、これを決定論的な世界と見なすのである。逆に言えば、全体的状況を離散 的な対象の集合に再構成する過程で、事象を規定する要素が捨象されてしまうな らば、たとえ現実には初期条件によってその後の時間発展が完全に決定されてい ても、認知された世界は決定系とは言えないのである。このことは、日常的思考 で因果律がどのように利用されているかを反省すれば明らかになろう。人間が原 因と結果という概念を適用するのは、対象化された個物の状態と遷移過程として の事象を関係づける作業においてであり、「現在、世界がかくあるのは、10分前 に世界がかのようにあったからだ」という形式ではあり得ない。
 以上のような解釈によれば、上の意味での「決定系」における予測は、(対象 の状態に関する)有限個の変数に依存する(事象が生起するか否かについての} 2値関数を与えることで可能になるはずである。もし、こうした予測が実行され るならば、その作業は時間発展のシミュレーションを本質的に簡約化するもので ある。従って、人間が深い反省なしに想定する「決定論」とは、このような簡約 化可能性を意味すると言い換えても良い。
 明らかに、認知方略に基づくこうした「決定論」は、物理学者が定義する一意 的時間発展という物理系の実態とは対応していない。特に、予測不能な決定系の 概念は、日常的な思考様式とは本質的に異質なものである。物理学者が決定論を 主張するときに哲学者が感じるであろう違和感は、ここに起因する。

(iii)予測不能な決定系の例


 物理学者が想定する決定論が、認知の方略を基盤とする素朴な「決定論」とい かに異なっているかを説明するために、決定系の例として非線型な発展方程式の 組で記述される力学系を考えよう。このとき、人間が対象化する(準)安定状態 に相当するのは、アトラクターと呼ばれる位相空間の部分集合である。ただし、 アトラクターとは、大雑把に言って、ある開近傍を通る軌道が全て、時間発展の 極限でそこに到達することになる不変な閉集合を指す。ここで重要なのは、多少 なりとも複雑な系においては、多数のアトラクターが競合し、力学系が構造安定 ではなくなって、軌道の漸近的な振舞いも、始点のそばにあるアトラクターを指 定しただけでは決定できないという性質である。このような系は、たとえ完全決 定系であっても、初期条件の微小な変化が長時間を経た振舞いに大きな影響を及 ぼすため、有限な状態変数をもとにした予測可能性を要求する素朴な「決定論」 には適合しない。
 このような力学系の(素朴な意味での)非決定性は、世界を指定するパラメー ターの多数性に起因するものではない。例えば、流体系で乱流が発生する理由と して、きわめて多くの基準振動が励起されて複雑に結合することによるという見 解があったが、現在は少数の基準振動の間のカォティックな遷移が本質的である と見なされている。従って、系の時間的発展の予測が不可能になるのは、直観的 に予測されるように多数の要因が複雑に絡み合っているからというよりも、パラ メーターとなる状態変数{x}の変化に対して、漸近状態fが線型に応答しない、 すなわち、
f({x+Δx})〜f({x})+f′・Δx

と表せないことが契機になっている。

 より理解しやすい例として、離散決定系であるライフゲームについて触れてみ よう。ライフゲームとは、格子点上に有限個の値をとる状態変数が定義されてお り、その離散的な時間発展が、直前の状態によって一意的に定められるモテルで ある。特に、2次元正方格子において、各点が“生”と“死”の2つの値をとり、 ある点が次の時刻にとる状態が、近傍(4つのノイマン近傍と4つの対角線上の 近傍}で“生”の状態にあるものの個数によって定まるモデルを考えることにす る。例えば、近傍で生きているものが2つのときは中心の状態は不変、3つのと きは“生”となり、それ以外では“死”となるとすると、充分時間が経過したの ちには、一般には、生きている点がいくつかの安定図形(近傍点のみで構成され る最小の四角形など)または周期的に変化する図形を形作ることが知られている 〔36〕。
 ところが、こうした最終状態は、初期条件によって一意的に決定されているに もかかわらず、シミュレーションを経ないで予測することは困難である。実際、 周期的変化をする図形の多くは、きわめて複雑な形状を示し、たかだか数十の格 子点に跨るものでも、発見するまでには何回もシミュレーションを操り返すなど の膨大な手間が必要になる。また、この遷移規則の下で特定の安定図形が最終状 態に残ったとしても、なぜその図形が残ったかという根本的な理由は説明できな い。例えば、上の条件を変更して、生きている近傍点の数が2のときは“生”へ の遷移をもたらし、3では状態は不変であるとすると、系は不定な変化をいっま でも続けて安定な図形を形成することがない。しかし、こうした質的変化が生じ た原因(構造因)をどのように説明すれば良いか、ほとんど糸口すら掴めないの が実状である。このような諸々の困難は、いずれも、ライフゲームにおける初期 条件と最終的状態を遷移行列を使って関係づけることが不可能であるという事情 に由来する。換言すれば、原因と結果という素朴な因果連関の概念が、ここには 適合しないのである。

 一般に、非線型性をもったトリヴィアルでない系では、簡約化したモデルをも とに時間発展の経過を予測することはできない。この性質は、いわゆるラプラス のデーモンに関する論争に、最終的な断を下すものである。ただし、ラプラスの デーモンとは、宇宙に存在する全粒子の位置と運動量に関する初期条件を知って おり、これをもとに宇宙の未来を確定的に予言できる仮想的な存在である。この ようなデーモンの存在は、古典力学の信奉者に歓迎された一方、自由意志を信じ る人々からは忌避されてきた。さて、もしラプラスのデーモンが存在するとして も、未来予測のために計算を簡約化することが不可能なので、宇宙の全過程をシ ミュレートしない限り、このデーモンと言えども未来を知ることはできないだろ う。ところが、このようなシミュレーションを実行するためには、計算過程を通 じて宇宙を記述できるだけの分量の情報を駆使しなければならず、結果的に、宇 宙をもう一つ創造するのと同じ労力を強いられることになる。従って、ラプラス のデーモンに関する議論は、自然法則そのものを論じる以上の実質的な意味がな いと結論できる(たとえ、この宇宙がデーモンの脳髄に生じた現象であるとして も!)。
 こうして、未来が完全に確定している決定系でありながら、日常的な認知方略 に基づく「決定論」が内包する倫理的な不穏当さを回避することが可能になる。 確かに、我々の将来が既に定まっていると考えるのは、余り気持ちの良いもので はない。しかし、どのような手法を用いても(たとえデーモンであっても)予測 が不可能であるとすれば、人間が抱く「決定論」の概念と照らしあわせて、実質 的に非決定論と同等だと主張できるのである。

©Nobuo YOSHIDA