時間に関する5つの問題

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概要

 時間についての論説はこんにちなお相次いで出版されており〔1〕、現象面のみを観察すると、時間論は科学哲学の主要テーマとしての地位を保っているように見受けられる。しかし、その内容を検討すると、こうした著作は、すでに理論として確立された相対性理論や統計力学の観点から解説を試みたり、あるいは科学史的な叙述や直観に基づく観照に終始するものが大多数であり、現在まさに進展しつつある同時代分化としての科学の現状を正しく反映していない恨みがある。確かに、ミンコウスキ時空における継起的な時間概念の構築やエントロピー増大則の妥当性の検討は、今世紀前半から中葉にかけてグリュンバルトやライヘンバッハら当時の代表的な科学哲学者に格好の論題を提供したが〔2〕、これらの理論が成立して数十年を閲し新たに膨大な知識を蓄積してきた現代科学からすれば、もはや古色蒼然とした過去の業績でしかない。にもかかわらず、現代科学の発展に追随することなくこうした先人の議論を新しい用語法によって敷衍するにとどまっている科学哲学の現状は、科学と哲学の間の懸隔をますます助長するものと言わざるを得ない。本章は、このような状況を打開する一つの契機たるべく、可能な限り現代物理学の知見に基づいて、哲学者が抱いていると思われる時間に関する問題意識が科学的に見てどのように取り扱われるかを検討するものである。
 はじめに明確にしておかなければならないことは、物理学者の議論に現れる時間が、有効な科学的概念としてあらかじめ概念規定されているという点である。すなわち、現代物理学のコンテクストでの時空とは、その上で(正または負定値ではない)計量テンソル(2回の共変テンソル)が定義されたC級(一般にはr=∞)の連結ハウスドルフ多様体を意味し〔3〕、時間と空間の区別は、適当な基底を用いて計量テンソルを対角化したときの固有値の符号の差によって行うものとされる。
 この定義は、時間についてのいくつかの重要な哲学的性格付けを含意している。
 第一に、時間と空間は、その上で事象が生じる枠組みとしての性格を付与されており、アインシュタインの理論が、ニュートン力学に見られた時空点と座標表現の近藤を訂正する形で、絶対時空の概念を基礎づけていることが判明する。こうした時空概念の下では、すべての時空点が数学的に同等に取り扱われ、「今、ここで」という特権的な時空点の存在が否定される一方、空間および時間座標は、絶対時空上の特定の点を指定するパラメータとしての役割を果たしている。この結果、流れとしての実体を有する時間を想定しての言説は、前提とされている時間概念の相違を理由に、物理学的な議論から排除されることになる。例えば、時間が断続的に流れ淀んだ場合にどうなるか、あるいは場所によって時間の流れが一様でないことがありうるかという問題提起は、歪んだ時空を伝播する光の振動数の変化や強い重力場が質量に及ぼす影響といったような物質の相互作用に関する記述を書き改めない限り、科学の領域外の議論として無視されてしまうだろう。
 現代物理における時空概念が含意する第二の哲学的な性格として、数学的な解析性があげられる。このことは、現在行われている物理的現象の取り扱いが、微積分法を中心とする解析数学に基づいているという事実に端的に現れているが、哲学的に意味するところは、より深遠である。なぜなら、局所的にミンコウスキ空間と同型である多様体に議論を限定することによって、時空の数学的な位置づけから曖昧な点が払拭されるため、これを解析する過程で論理的な根拠の明らかでない性質が派生する余地がなくなるからである。こうした特徴は、議論の論理的関係を明解にする上できわめて有効である。しかしまた、この明解さが、前提とする概念の範囲をあらかじめ規定しておくという科学の自己限定的な方法論の帰結であることも、否定するわけにはいかない。実際、科学者が議論する時空概念からは、例えば分岐していいく時間のような局所的に次数と位相同型でない構造が原理的に排除され〔4〕、論点となるのはせいぜい素粒子やブラックホールのような多様体上の特異点のみとなっている。
 以上のように、現代物理学で用いられている時間(および空間)の概念には、日常的な用語法から大きく隔たった、独自の、しかし明確な定義が与えられており、哲学的な観点から見て、その意味するところは多岐にわたっている。定義を明確にするという方法論は、科学的な研究を遂行するに当たっては、専門の数理科学者を含む学者間での無用な概念上の混乱を防ぎ、前提と結論との論理関係を明らかにできるという利点があろう。しかし、時間そのものを対象として哲学的に考察を進めようとする場合には、科学的議論を展開するための前提である(あるいは、前提にすぎない)このような概念規定を、哲学のコンテクストの中にいかに位置づけするかについて、自覚的な注意が必要である。実際問題としては、「多様体としての」時空概念を把持するか否かが論点となる。もし、これを把持しつつ時間に関する科学哲学的議論を実践しようとするならば、その内容は、必然的に、既存の科学理論の大部分を追認したものとならざるを得ない。もちろん、既存の理論を認めたとしても、そこで用いられている基礎概念の使用法を検討したり、あらわに述べられていない哲学的含意を明らかにするなど、それ自体興味深い議論は充分に可能である。しかし、その場合は、日常的感覚によって曖昧に把握されている「時間」概念の多面性を無視し、現代科学が陥っているかもしれない概念上の誤謬を黙認しているという批判を免れないだろう。一方、多様体としての時間概念を放棄すると、数学的な技法が援用できず、論理的に確固たる論説を行うことが困難になると予想される。
 この点についての筆者の立場を明らかにする前に、現行の時間概念が孕んでいると思われる諸問題を検討することから始めよう。こうした作業は、ある科学哲学的立場を採用することが、どのような問題意識に立脚しているか、また、いかなる論点を切り捨てているかを示すために必要である。以下では、まず純科学的な観点から省察できる問題を思いつくまま列挙し、次いでより哲学的な議論に踏み込んでみる。
 時間を数学的な多様体上に定義された座標軸の一つと見なすことにどのような問題があるかを科学的に考察するには、あくまで科学的方法論に則っていなければならない。例えば、「このような時間は流れを表現できないので誤っている」という主張は、時間の流れを明確に定義した対抗理論を提出しない限り、科学の領域では無効である。
 現代物理学における時間概念に対して科学的な批判を試みるならば、第一に問題とすべきは、実数体を採用することの妥当性だろう。数学的な取り扱いやすさに関しては実数体は際だって優れており、運動を「実数体としての時間」から同じく「実数体としての空間」への連続写像と定義すれば、アキレウスと亀についてのゼノンのパラドクスは完全に解消されることになる。しかし、実数体は、固有の計量はもちろん系のスケールを定める次元量も有しておらず、日常的に体験される時空とはきわめて異質である。このことは、コーシー/ワイエルシュトラウス流の、「どのような(大きさの)εに対してもあるδが存在する」というε−δ論法において、大きさの程度を規定する叙述がないという事実に端的に現れている。実数体のこのような性質を考慮すれば、極微の領域での時空を実数体で表現することは果たして妥当か、疑問が生じる。なぜなら、物理的な事象が生じる2点の間隔を近づける極限では、計量場の量子論的な揺らぎが大きくなるため、2点間の距離に応じて相互作用の形式が変化していくことになり、スケールを変えても同じ世界になる実数とは根本的に異なる性質を示すからである。
 多様体としての時空概念に対する第二の科学的な批判は、非決定論の見地から投げかけることができる。もし、この世界が非決定論的であり、ある瞬間に得られる全物理的データ(座標および運動量の瞬間値のような)がその後の時間発展を定めるのに不充分ならば、未来は無限の異なった状態が重畳したものとしてあらわされることになる。特に、時空の大域的構造(空間の連結性など)も物理的に変動し得る場合は、未来の空間構造そのものがさまざまの可能な状態に分岐していくことになって、全時空を一つの多様体で表現することはできない。こうした世界観がどのような時空概念を要請するかは援用する学説(例えばフォン・ノイマン流の量子力学の解釈〔5〕)によって異なるが、場合によっては、多様体としての時空間を破棄せざるを得ないだろう。
 このように、現代物理学における時間概念に対して、多方面から科学的批判を行うことは可能である。しかし、より根本的な批判は、果たして人間の認識能力をもって時間を把握できるのかという哲学的懐疑からなされるものである。人間の認識は、特定の方略に基づいて外界からの知覚情報を処理する過程で成立している。ところが、人間が採用している方略は、一般に、生物進化を通じて生存を有利にするように規制されており、この規制が認識そのものにとっての足かせともなり得るのである。例を挙げて説明しよう。人間が映画のような見かけの運動を近くする際には、まず大雑把な特徴を抽出することによって対象を検出し、たとえ途中で対象が知覚できない期間があっても、その間に対象は滑らかな運動を続けると仮定して対象の照合を行うことが知られている〔6〕。ところで、高次脳過程を必要としないこのような情報処理は、まさに、淀みなく流れていく時間という高等概念に照応するものである。とするならば、時間という概念が、逆に、その起源においてこうした認知の方略によって規定されたと考えることも可能だろう。いや、さらに進んで、アメ細工のように引き延ばしても引き延ばしても本質的には当初と変わりない構造が姿を見せる実数体としての時間のイメージも、その根底にあるのは、対象点を照合するために滑らかな変化を前提とする素朴な方略だと言えないだろうか。この見解に従えば、時間の本質が現代科学で想定されているより遙かに複雑なものであったとすると、それを人間の蕪雑な認識能力で把握することは絶望的となる。
 これまで述べてきたことは、現代物理が採用している時間概念に対して各方面からなされると想定される批判内容であり、いずれも決して容易にかわせる類のものではない。にもかかわらず、筆者は、以下においては多様体としての時空を前提として議論を進めていきたいと思う。このため、上の数々の批判は、人間の認識能力を問う哲学的論説を含めて、すべて議論の範囲外として無視することにする。その理由は、次のようなものである。すなわち、科学が近代においてきわめて高度な有効性を享受できたのは、明確な問題画定によって理論を機能モジュール化し、特定の前提条件の下での帰結を求めることに目標を限定したためであると考えられる。従って、このような科学的方法論を逸脱すると、有効な学問として成立している科学の本質的な特徴が失われることになり、本論説のように、科学の業績内部に認められる哲学的側面を議論するに当たっては、許される態度ではない。ところが、問題設定を明確にするという科学的方法論の条件の下で、特定の科学的概念に対して批判を行うためには、当該概念の成立基盤を遡った上で同程度に確固たる基盤を有する対抗概念を提出しなければならず、個人の科学哲学者にとって現実的ではない作業が要求されることになる(有り体に言えば、筆者の才能を越えるのである)。これが、以下の論述で現代物理で採用されている時間概念を前提とする理由である。
 論者の中には、このように現行の科学的方法論に則って議論を進めることに対して、批判的な人もあろう。しかし、こうして議論の範囲を限定しても、現代科学の膨大な業績は、科学哲学の観点から見ても興味深い数多くの事例を提供してくれる。のみならず、議論の前提が明確であるだけに、将来、新たな科学革命によって時間概念が変革されようとも、それによってどの理論が影響されどれが不変なまま保たれるか見通しがつけやすい。さらに、数論の持つ融通性から、離散化した時間に基づいてコンピュータ計算を実行しても、適当な誤差評価法を利用して実数としての時間の議論に結びつけることができる。これらが、筆者がすでに述べた立場を採用する副次的な理由である。
 以下の論述は、筆者が時間に関して最も本質的だと考える5つの問題についての考察をまとめたものである。これらは、「現在は実在するか」、「時間はなぜ1次元か」、「何が時間を流れさせるか」、「未来はすでに定まっているのか」、「瞬間に幅はあるか」である。
この論文は、論文集『空間・時間・精神 〜科学的認識論の最前線〜』に収録されたものである。アップロードするに当たって、実証部分を中心に大幅に短縮しているので、全文を知りたい人は、メールを送ってほしい。


©Nobuo YOSHIDA