前ページへ 次ページへ 概要へ 表紙へ



人文・社会科学



 前節で述べてきたような科学的方法論、すなわち、機能モジュールとしての理論=モデルを定義ユニットによって明示的に構成し、理論間の交流は機能パケットを利用するという手法は、こんにちでは、人文・社会諸科学の領野に応用されるに到っている。本節では、その傾向が特に明瞭に読みとれる言語学を中心に、この点を議論していこう。

 よく知られているように、今世紀の文法理論は、いわゆるチョムスキー革命を契機として、それ以前の記述的な(すなわち、一次資料の分類を主眼とする)文法から、適格な文を生成する法則の解明を目指す生成変形文法へと、大きく方向転換した。チョムスキーが提唱する文法理論の形式上の特色は、次の3点にあると考えられる〔36〕:
  1. 無限の文を生成する規則の体系としての文法理論は、深層構造を解釈する意味部門、表層構造を解釈する音韻部門、および、各構造を生成する形式的操作を指定する統語部門に分割され、各部門は独立した研究の対象となる。
  2. 文の適格性は、生得的な言語習得装置によって当該言語をマスターした理想的話者によって判断されるものとする。従って、一次資料に含まれる非文(non-sentence)は、適格でない文の例として理論をより精緻化するのに利用され、その発話の原因については問わない。
  3. 文を生成する諸法則は、適用する際の形式的な操作が明示的に示される変形規則として条項化される。

 以上の特色は、現代科学における(1)概念化、(2)理想化、(3)数理化の手法と明確に対応している。しかも、この対応関係は決して表面的なものではなく、適格な文を(意味によらず)形式的に生成する装置を構築しようとする目標自体が、理論の機能モジュール化という現代科学の方法論に合致するものである。
 生成変形文法の「科学的な」側面は、個々の(範疇化あるいは文法変形の)規則に、より顕著に現れている。例えば、チョムスキーによれば、文法変形は、変形の領域を決定する構造指標と、代入・削除・付加からなる要素的変形に基づいて定義されるもので、この段階で意味を担う要素を導入することはできないと主張される。確かに、多くの人に指摘されているように、この定義はあまりにも限定的で、現実の会話においては句構造とは独立に発話に込められる微妙なニュアンスを解明することは到底困難であろう。しかし、そのような作業はそもそも生成変形文法の与るところではなく、必要に応じて表層構造と実際の発話の間に深層構造へのフィードバック経路を設定すればよいと考えるべきである〔37〕。なぜなら、生成文法の理論とは、もともと適格な文を生成する規則体系の発見を主要な課題としており、日常的な言語現象の完全な記述は当初から目標とされていなかったからである。理論が有するこのような志向性からすれば、個々の変形規則は、当該条項を修正していったときに、文の適格度が最大になるように選ぶのが妥当である。実際、生成変形文法の理論展開は、こうした修正−検討作業の集積としての性格が色濃い。例えば、英語の疑問変形は、規則
P:Y−{wh+X}−Z → {wh+X}−Y−Z
を基本とし、これが非文法的な文を生成することを防ぐために、付帯条件
Q:規則Pは1つのSには2回以上適用できない
または、一般的制限
R:埋め込み文Sをもつ名詞句があるとき、Sの要素は名詞句の外に移動できない
のいずれか(またはこれ以外の規則)を課さなければならない〔38〕。このとき、Q,Rのいずれを選択するかは、各条項を設定した上でモデルを機能させて、その有効性を検討することによって決定される。こうした具体的作業が明示するように、生成変形文法は、諸規則を定義ユニットとするモデル化された理論として、科学的方法論に則って運営されていることがわかる。

 興味深いことに、生成変形文法に向けられた批判の多くが、そこで用いられた科学的方法論に対する無知に由来する。
 現在、この理論で最も論議の的となっているのは、統語論と意味論の境界だが、ここで日常的な言語運用に準拠して《意味》の瀰漫性を主張すると、チョムスキー流の論法と本質的にすれ違うことになりかねない。事実、「移動」のどうしに従属する句は移動の方式に依存しており、語彙素性によって統語論の範囲で従属詞句の範疇を指定するのは無理がある。このことは、「飛ぶ」と'fly'という二つの動詞を考えればわかりやすい。英語の'fly'は、「飛びながら/飛び上がって、移動/運動する」という《意味》を持つため、
fly in the sky / fly to the moon
のような表現が使われるが、日本語の「飛ぶ」には移動の要素が希薄なため、
空を飛ぶ / 月に飛んで行く
という言い回しが採用される(もっとも、最近は飛行機文明の発達によって「パリに飛ぶ」という言い方もされるようになったが)。一般に、少数の語彙素性によって、意味論から独立に完全な選択規則を与えることは困難である。しかし、このことは、生成変形文法の試みが破綻することを意味しない。なぜなら、この理論が問題とするのは、生得的な言語習得装置が獲得した基本スキーマという理想化された対象であり、個々の語法については、辞書項目の記載をアド・ホックに拡張していくだけで対応できると見なされるからである。従って、統語論の境界も、いちいち意味を参照する必要のない自律的な機能モジュールを構築できる範囲に設定すれば充分である。具体的には、
飛ぶ 【+自動詞】【+運動】【−副詞句【+場所】】
という統語論的な語彙素性を与えておき、「空に飛ぶ」なる分が生成された時点で、辞書項目に、「ただし、【−{移動場所+を}】となる」という「但し書」を意味論からの命題パケットとして付記すれば良い。生成変形文法の理論が、このように方法論的な要請によって意味論を統語論から切り離す「理想化」の手法に依拠している以上、現実の「反例」によってこれを批判することは当を得ていない。
 さらに、個々の規則に対する批判も、科学の場合と同様に、代替規則を提出することによって行う必要がある。しばしば論争の種となる範疇化規則:
S → NP^Aux^VP
も、生成変形文法の前提となる基本法則ではなく、生成変形を論じる理論クラスターの中の下位クラスターを特徴づける1規則であり、これを
 S → Aux^VP
VP → NP’s^VP
のような(フィルモア流の)規則と交換すれば、新しい生成変形文法の理論が構成される。諸規則の是非は、このような理論間で有効性の比較をして初めて明らかになるものであり、ある規則に対する反例だけでは判定を下すことができない。

 科学理論としての生成変形文法の特質は、理論の展開という側面に如実に現れる。すなわち、この理論が明確に機能を画定されたモデルであるため、ちょうど古典熱力学が統計力学に発展的に吸収されたように、当該機能を応用部門に含むより基本的な学問に組み込まれていくことが期待される。実際、理論言語学の内部では、70年代以降、生成変形文法は停滞の様相を呈しているが〔39〕、人工知能理論との境界領域にある認知言語学においては、変形規則を認知過程での具体的な操作として読み直すことにより、いっそう機能的な理論を構築する可能性が生まれた〔40〕。この点について、瞥見しよう。
 認知言語学の基本概念は、具体的な《知識》となる情報を蓄積する知識ベースと、これを文の生成のために利用する処理装置である。その具体的な構成については合意が成立していないが、ここでは、各語の《意味》に関する辞書的記載は既知のものと仮定し、知識ベースとしては、語彙項目(項目エントリーおよび語彙素性)をノードに、事実的ないし可能的関係をリンクに配した意味ネットワークを想定する。この立場では、深層構造は、特定のノードおよびリンクを意味ネットから切り出して、これにいくつかの基底部標識(態の指定、強調語の指示など)を付加したものと見なされる。現実の発話(または表層構造)は、このようにして得られた深層構造にいくつかの操作を加えて1次元表現に変換することによって導き出される〔41〕。
 認知言語学が、実際に生成変形文法の基礎理論となることを、実例をもとに説明しよう。任意の格助詞を副助詞「も」に置換して得られる文は、元の文と共通の意味ネットを用い深層構造が同型であるにもかかわらず、意味が異なっている。従って、「も」への置換:
N+が/を/に → N+も
は、統語論的なレベルでの《意味》の付与をもたらすと考えられる〔42〕。しかも、こうして付け加えられた《意味》によって、「も」を同一文中で2回以上繰り返すことは禁じられている(「太郎が(も)本を(も)買った」を考えよ)。このため、生成変形文法の枠内で「も」への置換を議論するためには、多くのアド・ホックな仮定を設けなければならなかった。しかし、認知言語学を援用すれば、次のように解釈することによってこの問題を解決できる。すなわち、まず文が発話される際には、その意味を理解するのに必要な意味ネットの部分集合を呼び出しておく実働メモリー(短期記憶レジスタ)が機能すると仮定する。その上で、副助詞「も」は、これを従えている語をレジスタ内に呼び出されている特定の(同一カテゴリーの)語と置き換えれば知識ベースに適合する文が得られることを指示するものと考えればよい(「太郎(/花子)が本(/鉛筆)を買った」のように)。このとき、「も」の重なりの禁止は、「も」を従える語を二重に置き換えた文(「花子が鉛筆を買った」)が一般に知識ベースに適合しないことによる。
 上の例が示しているように、認知言語学は、生成変形文法を応用部門に含む基礎理論と見なすことができる。このような「鉛直方向」の理論発展は、科学的方法論の一つの成果と考えられる。

 方法論的な科学化の傾向は、心理学や文化人類学など、人文・社会科学の他の分野でも指摘することができる。現在、心理学では、認知過程をモデル化して取り扱い、基本的なスキーマとその複合体を区別しながら、人間が対象や事象を把握する過程を跡づけようとする認知心理学の手法が隆盛をきわめている〔43〕。これは、当初、幼児の認知発達を議論する際にピアジェによって用いられたもので〔44〕、その後、人工知能研究の勃興とともに人間の認知/認識を論じる場合に基本的方法論として採用されるに到っている〔45〕。また、文化人類学でもレヴィ=ストロースが、親族の基本単位として心理的な要素を排した機能的なクランの概念を用いるのが有効なことを示して以来〔46〕、神話や風習の研究をも含めて機能的な概念を分節してその変換操作を解明するという論法が広まっている。こうした方法論の採用は、人文・社会科学全般にわたって主流になりつつあると見て良いだろう〔47〕。

 こうした人文・社会科学の方法論的な「科学化」は、しかしながら、学問の本質にかかわる問題を提起する。自然科学において、対象となる自然の複雑さは、人間がこれを応用する際に越えねばならないハードルであり、現象の多様性に対応するように理論体系を整備していくことは、科学研究において必須の作業である。ところが、人文・社会科学の場合は、研究者であると否とを問わず、ある個人が人間や社会に対峙するとき、これを解釈する手段として各学説を利用するケースが多い。具体的には、政策立案者や企業家、あるいは教師・ジャーナリストが、自己の行動方針を策定する際に、学問的結果を参照している。従って、人文・社会科学においてなされる学問的主張は、人間の認識能力によって理解可能な形式で表現されることが要求される。こうした理解可能性の要請は、学問の有効性を最重要課題とする科学的方法論とは、必ずしも相容れるものではない。自然科学では、人間的な理性が容喙する余地のないまま、方程式を解いた結果として理論的命題が主張されることは、稀ではないからである。
 この問題を、より具体的に議論しよう。ここでは、数理経済学を方法論的に科学化する極限を考えることにする。
 もし、理論が人間の認識能力を逸脱するほど巨大になることを恐れなくても良いならば、経済モデルは、実体経済を充分に反映できるように階層化すべきである。最も単純な方法は、個々の企業・店舗のような経済的アトムを考え、その集合を適当に分類して得られる経済活動のブロック(業種や地域など)を定義するものである。このとき、アトム(ないし下位のブロック)は上位ブロックに完全に所属するとは限らないので、属性として所属度を導入しなければならない。さらに、各ブロックの活動状態およびブロック間の相互依存性を表す経済指標(平均売上高、流通指数など)を定義しておく。経済理論とは、このような経済指標間の関係を与えるモデルと解することができる。もし、経済指標の変動が境界条件に敏感でないと仮定すれば、科学的にみて妥当な経済理論を求めるには、さまざまなモデルをシミュレートして最も有効性の高いものを探し出せば良い。この際、必要に応じて、最適戦略に則ったパラメータの決定も行われる。理想的な場合には、こうして得られる経済指標間の関係は、波及効果が「繰り込まれた」ものになることに注意されたい。例えば、ある製造業の生産額とGNPの関係は、単純に加算的ではなく、当該業種の生産額の変動が他業種に及ぼす影響を全て含んだものとなる。
 このようにして得られる経済理論は、(もし経済が境界条件に敏感でないならば)確かに有効である。実際、理想的な理論では、「対米貿易黒字を5%削減するにはどうすれば良いか」という設問に対して、適当なシミュレーションを行うことにより、「公定歩合をX%引き下げ、公共投資をXX%増加し…」という「御託宣」が提示されるだろう。だが、このモデルが経済学理論として有意味か否かとなると、また別問題である。人間にとっては、やはり、その中間過程が理解できないブラックボックス的なモデルより、学問的厳密さは欠けても、「不況」や「インフレ」のような理解可能な概念を提出してくれるモデルの方が利用価値が大きいだろう。もちろん、上の「理想的モデル」でも、下位ブロックの経済指標の変動に対して上位ブロックのそれが停留値をとる領域として、経済の大局的状況を表す概念を抽出することも可能である。しかし、このようにして抽出される概念が、人間にとっての理解しやすさを優先している保証はない。
 以上の議論は、人文・社会科学における過度の科学化が、果たして学問本来の目標を達成する上で常に有益かという点で疑問を提起するものである。もちろん、現実にはそこまで方法論的な科学化が進行している例は見あたらないため、さしあたって論争を起こす必要はないだろう。しかし、学問の本質にかかわる問題として、将来にわたって考えておかねばならない課題であることは間違いない。

©Nobuo YOSHIDA