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II−1 <創造的秩序>の有用性




 一般に,理念化された《範型》が現実の世界において有効に機能しているか どうかは,認識論的な側面と実践的な側面の2方向から考察しなければならな い。このうち認識論的な考察は,当該《範型》を適用できるような様態に認識 が収束する過程をターゲットとしている。この面からの議論が必要になるのは, 認識の収束が一般的な過程として現実に生起していなければ,実践的な概念で ある《範型》を哲学的な考察の対象として取り上げること自体が無意味になる からである。実際,「神の意志の顕現」としての<奇蹟>を価値判断の基準と して用いようとしても,これに適合する認識が現実に形成されなければ,全て の対象/事態に対して否定的な評価が下されることになる。これほど極端でな くとも,価値の判定がなされる認識の様態が個人あるいは文化によって大幅に 異なっているとすれば,価値判断を哲学的に取り扱う意義は乏しい。一方,価 値判断が実践的に何らかの効果を引き起こすことも,《範型》の有用性を判定 する上で必須の条件と考えられる。ここで,「効果」とは,「人道的だ」と判 定された行動に協賛するケースのように,倫理的な配慮に基づく行動の規制を 主として念頭に置いているが,それだけにとどまらず,《範型》の導入によっ て行動や思考が変化する状況全般を包含するものと見なす。
 以下では,こうした方針に基づいて,先に掲げた<創造的秩序>という《範 型》の有用性を,認識論と実践論の両面からそれぞれ調べていくことにしよう。

<創造的秩序>の有用性――認識論的な側面から

 認識論的な議論は,<創造的秩序>なる《範型》が(社会体制や個人の生活 史に依存しない)絶対的な価値の判定基準として通用するほどの普遍性を有し ていることを示すために必要となる。すなわち,多様な対象/事態の認識がこ の《範型》を適用できる様態に収束していくことが,全ての人間に共通する一 般的な思考法則の発現ならば,そこで遂行される価値判断自体の普遍性が保証 される――という論法である。ただし,こうした認識の時間発展は,出発点 となる与件の状態に応じてきわめて複雑な過程を辿るため,通常の認識論が利 用しているような単純な諸原理に還元して説明することは,実質的に不可能で ある。したがって,ここでは心理学の手法を使った半ば経験的な議論に頼らざ るを得ない。
 心理学的な観察の教えるところによれば,人間が客観的な事象を認識しよう とする過程において,次のような傾向が窺える:
(i)人間は,空間的/時間的に拡がりを持つ秩序バターンを選択的に認識 する。この傾向は,視覚/聴覚などの知覚情報を処理する過程で階層的な 特徴抽出が行われることに起因しており,カオス的な背景の中から幾何学 的な図形や単純な音型が浮き上がって認知されるという体験を通じて日常 的に実感される。ダーウィン流の進化論を援用すれば,捕食者や獲物のよ うな個物をいち早く認知することが自己の生存にかかわる最重要課題であ るため,“地”の部分から“図”としての個物を抜き出す能力が発達した ものと推定される。
(ii)人間は,即座に予測ができるような単調なバターンに対しては注意を 持続させられない。この点にっいては,多くの実験/観察データによって 明らかにされているので,多言を要しないだろう。日常的には,夜間の高 速道路で直線的なドライブを続けていると,しだいに意識レベルが低下し て居眠り運転に陥りやすいという事実に如実に現れている。こうした現象 は,サルなどの高等動物に関しても観察される生理的なもので,簡単に「単 調さへの嫌悪」と表現しても良いだろう。
(iii)人間は,予測が全くつかないようなカオス的なバターンに対して認識 を構成できない。例えば,コーヒーカップからゆらゆらと立ち昇る捉えど ころのない湯気を目にしたとき,われわれは,その白さや拡がり以上の特 徴を分節することができず,たまに他の物を連想させる形状になると即座 に湯気の本体から離れて既存のイメージの追求に走ってしまう。無理に湯 気そのものに意識を集中させようとすると,苛立ちと不快感を禁じ得ない だろう。こうした資質は「混沌への嫌悪」という言葉で言い表せよう。

 以上の傾向は,多様な認識素材の中から何らかの秩序を示すようなバターン を抜き出して把握する人間の特質を表すものであるが,これだけでは価値判断 と結び付くほどのものではない。重要なのは,次の性質である:
(iv)人間は,時間的に変動するバターンの中である程度の予測が可能なも のに対しては,その展開を推定するために積極的に認識を構成する傾向が ある。日常的な心理過程を考えても,全身がコヒーレントに律動する短距 離ランナーの疾駆する姿のように<動的秩序>を感じさせる動きを目にす ると,それと気づかぬうちに興味をそそられて,過去の記憶や論理的推論 に基づいてその時間的展開を予想していることが多い。より分析的な実験 データとしては,動き回る光点を表示できるディスプレイにおいて,光点 が滑らかな運動を続けている途中で短時間だけ光を消して見せたところ, 被験者は光点が何かの陰に隠れていたように感じたという報告があるが, これは,光が消えている間にもその運動状態を無意識のうちに推定してい たことの証左となる。また,進化論の観点から見ても,外敵や獲物がどの ように行動するかを積極的に予測することは(相手に先回りできるなど) 生存に有利に働くので,選択的に獲得されやすい能力だと主張できる。

 このような性質があるため,どの文化圏に属しているかを問わず,全ての人 間は,認識される素材の中に規則性をもって時間的に変化するバターンを見い だすと,思考を活性化させてその特徴を抽出し,積極的に未来の状態を推測し ようとする。こうした過程を通じて(最終的あるいは暫定的に)実現される認 識の様態は,一般的な思考能力を持った人間に共通するという意味で,きわめ て普遍性が高い。したがって,この様態――学習記憶や推論能力を動員して 未来予測を図ろうとする活性化された認識の状況――が実現されているかど うかを判定する基準たる《範型》も,高度の普遍性を担っていると想定される。 わたしが提唱している<創造的秩序>とは,このような種類の《範型》なので ある。
 <創造的秩序>の性質をもう少し整理してみよう。この《範型》が適用され るための前提として,上の議論から直ちに導かれるように,
(i)認識される対象や事態は時間的に変化している。
(ii)変化はカオティックでもトリヴィアルでもない<秩序>を内在させて いる。
(iii)通常の思考能力の範囲内で(ある程度の)未来予測が可能である。

という条件が要請される。(iii)の条件を加えたのは,与えられた素材の規則性が, 極端に微小ないし巨大な時間的/空間的スケールを持っていたり,境界条件に きわめて敏感に依存するために原因と結果という類型的な因果関係の枠組みに 納められなかったりすると,人間の知的能力を逸脱して未来予測が本質的に困 難になってしまうからである。上の条件に対する適合性をもとにして判定する と,一般的に言って,無生物よりも生物を,植物よりも動物を認識する場合の 方が,<創造的秩序>の基準に合致しやすいだろう。さらに,自己の体験に基 づいて類比的に未来予測が可能であるため,人間の行動に対する評価が抜きん 出て高くなることは想像にかたくない。このように,生命や人間を他のものか ら峻別し,言うなれば「生命の神秘」や「人間の尊厳」の担い手として価値を 認める判断の根源にある基準が<創造的秩序>なのである。
 おそらく,これまで<創造的秩序>などという奇態な概念に馴染めなかった 人も,この段階で多少は納得されたのではないだろうか。実際,「生命の神秘」 に対して価値を認める態度は,啓蒙によって自然に対する畏怖が減殺された社 会であろうと呪術的なアニミズムを信奉する社会であろうと大差がなく,その 背後に(生物に関する概念的な知識体系とは別個に)何らかの理念的な基準を 想定しなければ,価値判断の普遍性を理解するのは困難になるだろう。

<創造的秩序>の有用性――実践論的な側面から

 ある価値判断の実践面における効能は,当該判断が主体の思考や行動に及ぼ す影響の程度によって測られる。<創造的秩序>の場合,われわれは,基準に 適合する素材の維持ないし発展を期待する方向へ意識が高揚する契機として 《範型》が機能していることを実感できるだろう。発生論的な観点からみると, こうした内面的活動は,新生児期に早くもバターン形成に対して感じる受動的 な喜びとして萌芽的に現れ,その後の心身の発育につれて,秩序を示す素材へ の能動的な働きかけへと進化していくことがわかる。この働きかけを「秩序へ の協賛」と呼ぶのは当を得ているだろう。高次の精神機能が営まれている主体 においては,与件に基づく十全な認識が遂行されなくとも,論理的/経験的な 根拠に基づいて価値があると推定される素材には,この「秩序への協賛」が実 施されることになる。少し話を飛躍させると,かくして,われわれは,ポスター で曲目と演奏者の名前を見ただけで,いそいそとコンサートへ足を運ぶのであ る。
 価値判断の基準としての<創造的秩序>の特徴の1つは,価値を認められた 素材への実践的な働きかけを通じて価値が増殖していく点にある。常識的な意 味で価値が高いと見なされるものは,―般にきわめて複雑な時間発展の法則に 従う総合的システムの形態をとっているため,これらに何らかの働きかけをし た結果として惹起される応答は,ランダムではないが直ちに予想できるほど単 調でもない。したがって,主体の操作と客体の応答が作る事態全体が,価値を 担った素材として登場することになる。さらに言えぼこうした「価値の増殖」 が生じるのは,秩序の背後にある“創造の神秘”が神秘のままにとどまるよう な対象/事態に限られるので,これをもって価値の高低を判定するのも一案だ ろう。

 以上に述べたように,<創造的秩序>という《範型》は,外在的秩序の認知 を端緒として認識が活性化された様態にあるかどうかを判定するのに役立つの みならず,これに適合する秩序の維持/発展を期待するように思考や行動を規 制する規範として機能している。それでは,こうした価値基準は科学の活動に 対してどのような意義を持つのだろうか。この点について,節を改めて論じた い。

©Nobuo YOSHIDA